07) 祭遵伝、祭肜伝
『後漢書』列伝10・銚期、王霸、祭遵、祭肜伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
祭遵:儒家の清流、郡吏と光武の一門をころす
祭遵は、あざなを弟孫。潁川の潁陽の人。經書をこのむ。家は富むが、祭遵は質素。土をせおい、母の墳をたてた。郡吏にあなどられ、郡吏をころした。県中で、はじめ温柔だとおもわれたが、はばかられた。
光武が王尋をやぶり、かえりに潁陽をとおる。祭遵は県吏として、光武にあい、門下史(書記)となる。河北へしたがい、軍市令。
舍中(光武の一門)の児童が、法をおかした。祭遵は、児童をなぐりころした。光武がいかるが、主簿の陳副が、光武をいさめた。
陳副はいう。「光武は、軍勢を整齊させたい。祭遵のふるまいから、軍勢が整斉だとわかります」と。光武は、祭遵を貰(ゆる)し、刺奸將軍とする。光武は「祭遵に気をつけろ。私の一門ですら、ころされた。みんなも、あぶない」と。
祭遵は、偏將軍。河北にしたがい、列侯。
祭遵:王の張満、天子の張豊をきる
時,新城蠻中山賊張滿,屯結險隘為人害,詔遵攻之。遵絕其糧道,滿數挑戰,遵堅壁不出。而厭新、柏華餘賊複與滿合,遂攻得霍陽聚,遵乃分兵擊破降之。明年春,張滿饑困,城拔,生獲之。初,滿蔡祀天地,自雲當王,既執,歎曰:「讖文誤我!」乃斬之,夷其妻子。遵引兵南擊鄧奉弟終於杜衍,破之。
建武二年春、征虜將軍、潁陽侯。驃騎大將軍の景丹、建義大將軍の朱祐、漢忠將軍の王常、騎都尉の王梁、臧宮らとともに、箕關(鄧禹伝にあり)にはいる。南して弘農、厭新、柏華、蠻中の賊をうつ。祭遵の口を、弩がつらぬいたが、兵をしかった。士気があがった。
ときに新城の蠻中山にいる賊・張滿が、そむいた。厭新、柏華の余党とあわさり、霍陽聚をとる。明年、張満がうえて、生けどった。張満は天地を祭祀し、みずから王なる。張満はとらわれ「讖文が私を誤らせた」という。妻子ごと、きられた。祭遵は南して、鄧奉の弟・鄧終を、杜衍でやぶった。
ときに涿郡太守の張豐は、光武の使者をとらえて、無上大將軍をとなえる。彭寵とつらなる。四年(028)、祭遵と朱祐と、建威大將軍の耿弇、驍騎將軍の劉喜は、張豊をうつ。張豊は、方術にあざむかれ、天子をなった。きる。
「
祭遵は、良鄉にのこり、彭寵をこばむ。護軍の傅玄をつかわし、彭寵の將・李豪をやぶる。彭寵がしぬと、祭遵がたいらげた。
祭遵:隗囂との戦いに、ひとり残される
隗囂使其將王元拒隴坻,遵進擊,破之,追至新關。及諸將到,與囂戰,並敗,引退下隴。乃詔遵軍B651、耿BB32軍漆,征西大將軍馮異軍栒邑,大司馬吳漢等還屯長安。自是後,遵數挫隗囂。事已見《馮異傳》。
六年(030)春、祭遵と、建威大將軍の耿弇、虎牙大將軍の蓋延、漢忠將軍の王常、捕虜將軍の馬武、驍騎將軍の劉歆、武威將軍の劉尚らは、天水からでて、公孫述をうつ。
光武が長安にきた。隗囂は、漢兵を上隴にとおしたくない。諸将は「時間をかけて、隗囂を懐柔しよう」という。祭遵は「時間をかけても、隗囂と公孫述は、守りをかためるだけ」といった。光武は祭遵をいれ、祭遵を先行させた。
隗囂は王元に隴坻をふせがせる。祭遵は王元をやぶり、新關にいたる。隗囂にやぶれ、下隴にさがる。祭遵をケン県におく。耿弇を漆県におく。征西大將軍の馮異を栒邑におく。大司馬の吳漢らを、長安にもどす。しばしば祭遵は、隗囂をくじく。馮異伝。
八年秋、光武にしたがい、上隴にゆく。隗囂をやぶり、光武はケン県で祭遵をねぎらう。黃門に武樂をやらせた。
渡邉注はいう。ここの楽団は、黄門鼓吹だ。黄門鼓吹は、『周礼』の鼓人に由来する。ロボにしたがって、楽箏することが職掌。少府にぞくす。『後漢書』安帝紀。
深夜におわった。ときに祭遵は、病気だ。光武は、布団をわたす。天子の天蓋でおおう。
ふたたび隴下にすすむ。公孫述が隗囂をすくう。呉漢と耿弇は、すべてかえる。祭遵だけ、のこる。九年(033)春、軍中で祭遵は卒した。
ぼくは思う。気休めだ!呉漢と耿弇という主力は、なぜひいたのか。なぜ、あんまり戦闘が得意でない、しかも病気の祭遵だけ、のこったのか。おそらく光武は、隗囂と決戦せず、外交で解決してほしかった。祭遵の本領は、儒家である。呉漢や耿弇をおいたら、全面戦争になる。祭遵、死んじゃったけど。
祭遵:ほかの臣下が、ドンびきする儒教の葬儀
祭遵は、公平無私だ。光武は、祭遵の遺骸を、河南県までおくる。霍光の故事で、ほうむる。大長秋、謁者、河南尹に、遺骸をまもらせた。大司農が、費用をだした。
帝乃下升章以示公卿。至葬,車駕複臨,贈以將軍、侯印綬,朱輪容車,介士軍陳送葬,諡曰成侯。既葬,車駕複臨其墳,存見夫人室家。其後會朝,帝每歎曰:「安得憂國奉公之臣如祭征虜者乎!」遵之見思若此。 無子,國除。兄午,官至酒泉太守。從弟肜。
無子,國除。兄午,官至酒泉太守。從弟肜。
博士の范升が上疏して、祭遵をたたえた。「光武は祭遵を、生前にまして、たたえる。祭遵は、漁陽をたいらげ、隴蜀をこばんだ。略陽をうばい、1人でのこった。祭遵は、五経大夫をおけといった。祭遵の葬儀を、儒教にのっとらせ、後世の規範としましょう」と。
渡邉注はいう。五経大夫のことは、ここだけ。祭遵伝の地文とか、ほかの史料にない。のちに、曹魏の張郃が「祭遵が五経大夫をおいたように、儒教をおもんじろ」といった。『三国志』張郃伝。
光武は、祭遵をあつくほうむった。「どうしたら、祭遵のような臣下を、ふたたび得られるか」と、なげいた。
祭遵の子はない。国は除かる。兄の祭午は、酒泉太守までなる。従弟が祭肜。
祭肜:烏桓、匈奴、鮮卑を分裂させた遼東太守
光武初以遵故,拜肜為黃門侍郎,常在左右。及遵卒無子,帝追傷之,以肜為偃師長,令近遵墳墓,四時奉祠之。肜有權略,視事五歲,縣無盜賊,課為第一,遷襄賁令。時,天下郡國尚未悉平,襄賁盜賊白日公行。肜至,誅破奸猾,殄其支黨,數年,襄賁政清。璽書勉勵,增秩一等,賜縑百匹。
祭肜は、あざなを次孫。はやくに父がしぬ。賊がきても、墓にすむ。
光武初、祭遵の縁故で、黃門侍郎となる。祭遵に子がないので、偃師長となり、祭遵をまつらせる。政治を5年して、成績がいいので、襄賁令(東海)。襄賁の盗賊が、白昼をうろつくので、祭肜がほろぼす。秩1等をふやし、縑1百匹をたまう。
二十一年秋,鮮卑萬餘騎寇遼東,肜率數千人迎擊之,自披甲陷陳,虜大奔,投水死者過半,遂窮追出塞,虜急,皆棄兵裸身散走,斬首三千餘級,獲馬數千匹。自是後鮮卑震怖,畏肜不敢複窺塞。
このとき、匈奴と鮮卑は、赤山の烏桓とむすぶ。城塞をこえて、吏人をころす。光武は、建武十七年(041)、祭肜を遼東太守とする。異民族を、やぶる。
二十一年(045)秋、鮮卑が遼東に入るので、しずめる。鮮卑は、もう入らず。
祭肜は、匈奴、鮮卑、烏桓をむすばせたくない。建武二十五年(049)、鮮卑を財利でつって、匈奴と対立させた。匈奴はよわる。鮮卑と烏桓は、後漢に朝貢した。
祭肜の人となりは、質厚で重毅。上谷で、赤山烏桓をうった。塞外をしずめ、辺境の兵がなくなった。
范曄の論にいう。祭肜の用兵は、周亞夫や司馬ショウジョよりすぐれる。遼東太守となり、一世(30年)を平和にした。死にざまは、残念だった。
范曄による賛にならない賛
賛にいう。銚期は、薊県で光武の退路をつくった。王覇は、河を凍らせて、光武をにがした。祭遵は、行軍しても『詩経』をした。祭肜は、遼東をなつかせた。110726