01) 呉漢伝・上
『後漢書』列伝8・吳漢、蓋延、陳俊、臧宮伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
呉漢:漁陽太守の彭寵を、王郎戦にかりだす
吳漢は、あざなを子顏。南陽の宛県の。家はまずしく、県に給事(出仕)して、亭長となる。王莽末、賓客が犯法したので、漁陽に亡命する。
ぼくは思う。呉漢は南陽出身だが、王莽の官吏として、漢兵をふせがない。
資産はとぼしく、馬の販売をした。燕薊をうろつき、豪傑と交結した。更始がたつと、使者の韓鴻が、河北をとなえる。ある人が韓鴻に「吳子顏は、奇士だ。ともに、はかれ」といった。韓鴻は承制し、呉漢を安樂令とする。
ぼくは思う。韓鴻と光武の、仕事の分担は、どのようか。韓鴻のほうが先にゆき、あとで光武がおぎなったのか。韓鴻は、官位がたかくない。韓鴻でしずまらないから、光武も河北にいったか。こんなときこそ、渡邉注で、韓鴻について教えてほしいのに、ない。
王郎がたつ。呉漢は、光武が長者ときき、光武につきたい。漁陽太守の彭寵にいった。「漁陽と上谷は、突騎でしられる。光武につき、突騎で王郎をうとう」と。彭寵は光武につきたいが、彭寵の官属は、王郎についた。
呉漢は、道ばたで儒生にあった。呉漢が儒生に食わせると、儒生は「王郎は、成帝の子・劉子輿を名のるが、ニセモノだ」といった。
呉漢は、彭寵と光武に、しらせた。彭寵の兵をつかい、王郎の将帥をきった。
ぼくは思う。幽州の突騎をつれてきたのが、呉漢の功績ですね。太守の彭寵をうごかすほどの人望を、呉漢は幽州で、どうやって、かせいだのか。馬を販売、豪傑と交際、だけで、充分な説明になっているのだろうか。劉備との類似も、気になる。
廣阿で光武においついた。偏将軍。邯鄲の王郎をぬき、建策侯。
呉漢:更始の幽州牧・苗曾から兵をうばう
光武將發幽州兵,夜召鄧禹,問可使行者。禹曰:「間數與吳漢言,其人勇鷙有智謀,諸將鮮能及者。」即拜漢大將軍,持節北發十郡突騎。更始幽州牧苗曾聞之,陰勒兵,敕諸郡不肯應調。
呉漢の人となりは質厚で少文(かざらない)、とっさに自分の考えを、説明するのがヘタ。鄧禹や諸将は、呉漢を推挙した。光武のそばにいた。
光武は、夜に鄧禹に「幽州の兵をはっするのは、だれにさせるか」と問うた。鄧禹は「呉漢と話した。呉漢は、勇鷙で智謀あり。諸将は、呉漢にかなわない」といった。
呉漢は、大將軍。持節して北し、10郡の突騎を、徴発する。更始の幽州牧・苗曾は、ひそかに諸郡に「呉漢にしたがうな」と言った。
渡邉注は、苗曾について記す。しかし、この呉漢伝からのみ。残念!
呉漢は20騎で無終県(もと山戎国、右北平)にくる。苗曾は、呉漢の兵がすくないので、呉漢をむかえた。呉漢は苗曾をきり、軍をうばった。幽州の城邑は、呉漢をおそれて、なびいた。
呉漢は、幽州の兵を南させ、光武と清陽であわさる。諸将は呉漢が兵をつれるのを見て「呉漢の兵を、わけるのはムリだ」と言った。光武が、呉漢の兵を帳簿に登録すると、諸将は、呉漢の兵をほしがった。光武は「諸将は、言ってることが矛盾する」といった。諸将は、はじた。
呉漢:更始の尚書令・謝躬から、鄴県をうばう
はじめ更始は、尚書令の謝躬に6軍をつけて、王郎をせめた。くだせず。光武が謝躬にあわさり、王郎をくだした。謝躬の裨將(配下の6将)は、邯鄲を虜掠した。光武は謝躬をいんで、わかれて居城した。謝躬は光武に「謝尚書は、真吏です」とほめられたので、光武をうたがわず。
謝躬は、数万をつれて鄴県にいる。ときに光武は、南して青犢をうつ。光武は「私が青犢を射犬でやぶれば、山陽にいる尤來は、にげる。謝躬は、尤來をとらえろ」といった。謝躬は、鄴県を大將軍の劉慶、魏郡太守の陳康にまかせ、尤來をうつ。謝躬は、大敗した。
主要な論文を抜粋し、光武帝・劉秀の天下統一をまとめる
光武は、謝躬が城外でたので、呉漢と岑彭に、鄴県をおそわす。呉漢は、魏郡太守の陳康に「更始はダメだ。光武がいい」と説いて、鄴県をおとした。呉漢は、謝躬を手ずから殺した。
ぼくは思う。光武から見ると謝躬は、イヤな上司だ。王郎をぬいた手柄を、横どりした。だから、呉漢が作戦をたてて、つぶした。光武の覇業は、更始の領域をのっとることに、おなじ。ぼくは思う。呉漢、見せ場がおおいなあ。いいなあ。
謝躬は、あざなを子張。南陽の人。謝躬の妻は「光武は、謝躬にオベンチャラするだけ。光武にやられる」と言った。謝躬はきかず、妻の言うとおりになった。
光武は北して、群賊をうつ。呉漢は、突騎5千をひきい、陣をおとす。光武が即位すると、大司馬、舞陽侯。
次回、呉漢伝の後半。山東を平定します。つづく。