03) 陳俊伝、臧宮伝
『後漢書』列伝8・吳漢、蓋延、陳俊、臧宮伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
陳俊:漢中王の七光、短刀のつかいて
陳俊は、あざなを子昭。西陽の西鄂の人。
わかくして郡吏となる。更始がたち、宗室の劉嘉が太常將軍となると、長史となる。光武が河北をとなえると、劉嘉は文書で、陳俊をすすめる。安集掾。
ぼくは思う。光武は、漢中王の劉嘉の人脈を、大切にする。劉嘉からの援助がほしいから。光武は更始にそむくが、劉嘉をおもんじる。陳俊への配慮は、劉嘉の顔色をうかがったもの。賈復とおなじ。列伝7。昨日やった。リンク、整備中。
光武にしたがい、銅馬を清陽でうつ。蒲陽にすすむ。強弩將軍。
渡邉注はいう。彊弩将軍は、雑号。武帝が匈奴を征伐するとき、おかれた。西羌をうつとき、任命された。『史記』『漢書』にある。『漢書』芸文志には、匈奴将軍の王囲がしるした、射法のマニュアルがある。南斉では、正規の官号となる。
五校と安次でたたかう。下馬して、短兵(短刀)でたたかう。敵なし。20餘裏おい、渠帥をきった。光武は「みな戰將が陳俊のようなら、憂いがないのに」といった。
五校は、漁陽にひき、虜掠する。陳俊は光武に「輕騎で先まわりし、百姓に防壁をかためさせる。五校の食糧調達をたてば、たたかえなくなる」と。五校は、まいった。光武が即位し、陳俊は列侯。
陳俊:泰山太守、瑯邪太守として、たいらぐ
四年,轉徇汝陽及項,又拔南武陽。是時,太山豪傑多擁眾與張步連兵,吳漢言於帝曰:「非陳俊莫能定此郡。」於是拜俊太山太守,行大將軍事。張步聞之,遣其將擊俊,戰於嬴下,俊大破之,追至濟南,收得印綬九十餘,稍攻下諸縣,遂定太山。五年,與建威大將軍耿弇共破張步。事在《弇傳》。
建武二年(026)春、匡県の賊をせめ、4縣をくだす。新處(中山)侯。
頓丘(東郡)をうち、3城をくだす。その秋、大司馬の吳漢は承制して、陳俊を強弩大將軍とする。わかれて金門、白馬の賊を、河內でやぶる。
四年、汝陽と項県をとなえ、南武陽県(泰山)をぬく。このとき泰山の豪傑は、張歩につらなる。呉漢は光武に「陳俊でないと、泰山がさだまらぬ」といった。泰山太守、行大將軍事。
張歩は、将軍を嬴県(泰山)でぶつける。陳俊はやぶり、濟南にゆく。印綬90餘をおさめ、諸県をくだす。泰山をさだむ。五年、建威大將軍の耿弇ともに、張歩をやぶる。耿弇伝にくわしい。
八年,張步畔,還琅邪,俊追討,斬之。帝美其功,詔俊得專征青、徐。俊撫貧弱,表有義,檢制軍吏,不得與郡縣相干,百姓歌之。數上書自請,願奮擊隴、蜀。詔報曰:「東州新平,大將軍之功也。負海猾夏,盜賊之處,國家以為重憂,且勉鎮撫之。」
まだ瑯邪が、たいらがず。陳俊を、琅邪太守とし、将軍はもとのまま。齊地は、陳俊の名声をしる。境界にはいると、盜賊はちった。董憲を贛榆(東海)でうち、朐賊の孫陽をたいらぐ。
八年(032)、張歩がそむき、瑯邪にもどる。陳俊は、張歩をきる。光武は陳俊に、青州と徐州を專征させる。陳俊は、貧弱をなでるが、郡縣にふみこまず。しばしば上書して「隴蜀をうちたい」といった。光武は「山東は、平定したばかり。陳俊は、山東の盗賊をおさえよ」といった。
建武十三年、増邑された。祝阿侯。翌年、朝請にめさる。二十三年(043)、陳俊は卒んだ。子の陳浮がつぎ、薪春侯にうつさる。
臧宮:下江兵の校尉から、光武にしたがう
臧宮は、あざなを君翁。潁川の郟県の人。わかくして県の亭長、遊徼となる。
のちに賓客をひきい、下江兵の校尉となる。光武にしたがい、勇敢をほめらる。光武は、臧宮が勤力・少言なので、そばにおく。
光武と河北へゆく。偏將軍。臧宮は、しばしば陣をおとす。
光武が即位すると、侍中、騎都尉。建武二年、成安(頴川)侯。明年、突騎をひきい、征虜將軍の祭遵と、更始の部将・左防と韋顏を、涅陽、酈県でやぶる。左防と韋顏を、くだす。
五年、江夏をとなえ、代鄉、鐘武、竹裏をくだす。光武は、太中大夫の張明に持節させ、臧宮を輔威將軍とする。
七年、期思(汝南)侯。梁国、濟陰を、たいらぐ。
臧宮:越人と光武をあざむき、公孫述をほろぼす
十一年(035)、中盧(南郡)にゆき、駱越にいる。このとき、公孫述の部将・田戎、任滿と、光武の征南大將軍の岑彭は、荊門をせめぐ。岑彭がやぶれ、越人が公孫述につきたい。岑彭は兵がすくなく、越人をとめられない。臧宮は、属県からの補給車をおおく見せかけ、越人をだました。
越人は、臧宮に牛酒をとどけた。越人を、なつけた。
臧宮と岑彭は、公孫述の荊門をやぶり、垂鵲山にいたり、秭歸や江州につうじる。岑彭は巴郡をくだし、臧宮は涪水から平曲にゆく。公孫述の部将・延岑は、沈水にいる。臧宮は兵がおおいが、補給がつづかず。
臧宮は命令をいつわり、光武から岑彭にあたえた馬7百匹をぬすみ、延岑を急襲した。歩兵を川の右に、騎兵を川の左におき、船をさかのぼらせた。延岑を、成都においかえした。
臧宮は平陽郷にゆき、蜀將の王元をくだした。綿竹、涪城をぬく。公孫述の弟・恢をきる。繁県と郫県(蜀郡)をぬく。呉漢もすすみ、成都であわさる。呉漢は臧宮と酒をのみ、いった。「臧宮の威靈は、風行で電照だ。おそれた敵が、何をしかけるか、わからない。臧宮は、ちがう道でかえれ」といった。臧宮は、おなじ道をかえった。だが公孫述は、手をだせず。
成都の咸門(北面の東側)にすすみ、呉漢とともに公孫述をほろぼした。
蜀をさだめたので、廣漢太守。十三年、增邑されてサン侯。十五年、京師にめされ、列侯として朝請にでる。朗陵(汝南)侯。十八年、太中大夫。
臧宮:妖巫と匈奴に、統一戦争の論理をもちこむ
十九年(043)、妖巫・維汜の弟子である單臣、傅鎮らが、武城にこもる。臧宮は、くだせず。東海王(のちの明帝)が「包囲がきつすぎる」といった。臧宮が包囲をゆるめると、くだった。
城門校尉、左中郎將。武溪の賊をうち、江陵でくだす
ぼくは思う。臧宮は、統一戦争のきびしさを、忘れられず、内乱にも本気をだした。この本気さが、つぎの匈奴への対応にも、あらわれる。謀略と力戦で、ムリにでも敵をやぶる。そういうタイプの人です。臧宮は。統一後は、ウザいな。
匈奴が飢えて、分裂した。臧宮は「私が5千騎で、匈奴をたおす」という。光武は「統一戦争で常勝した臧宮と、対等の国(匈奴)の話はできない」とことわった。光武は「この問題は、私があずかる」といった。
建武二十七年(051)、臧宮と、楊虛侯の馬武は、上書した。「高句驪、烏恒、鮮卑に、匈奴の東をせめさせる。河西の四郡と、天水、隴西の羌胡に、匈奴の西を攻めさせる。匈奴をほろぼせる」と。
光武はいう。「『黄石公記』はいう。柔は剛をおさえる。弱は強をおさえる。国内がおさまったから、国外で戦争をやらない。私は、匈奴を攻めない」と。
諸将は、もう軍事をいわない。
臧宮は、永平元年(058)、しんだ。湣侯。子の臧信がつぐ。
范曄の論はいう。光武には、始皇帝や項羽よのような強敵がいない。ライバルは、小粒だ。臧宮や馬武は、西域をせめたい。だが光武は『黄石』をみて、玉門関をとじて、西域をせめず。光武は、高帝のようにミスしない。高帝は、匈奴にかこまれ、鯨布に傷つけられた。
范曄による論と賛
呉漢はつよく、巴梁で公孫述をやぶる。蓋延はつよく、睢陽で劉永をやぶる。臧宮と陳俊も、つよかった。110725