表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝7・方面司令官たる馮異、延岑、賈復伝

09) 馮異の下、関中で「咸陽王」とそしらる

『後漢書』列伝7・馮異伝、延岑伝、賈復伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

馮異:赤眉と延岑を、関中からはらう

建武二年春,定封異陽夏侯。引擊陽翟賊嚴終、趙根,破之。詔異歸家上塚,使太中大夫齎牛、酒,令二百里內太守、都尉已下及宗族會焉。

建武二年(026)春、馮異は陽夏侯。陽翟の賊・嚴終、趙根をやぶる。家で塚まいりした。太中大夫に、牛酒をもたせた。2百里より以内から、太守や都尉をあつめ、宗族と宴した。

李賢はいう。太中大夫は、秩1千石。顧問と議論をやる。光禄勲にぞくする。


時,赤眉、延岑暴亂三輔,郡縣大姓各擁兵眾,大司徒鄧禹不能定,乃遣異代禹討之。車駕送至河南,賜以乘輿七尺具劍。敕異曰:「三輔遭王莽、更始之亂,重以赤眉、延岑之酷,元元塗炭,無所依訴。今之征伐,非必略地屠城,要在平定安集之耳。諸將非不健鬥,然好虜掠。卿本能禦吏士,念自修敕,無為郡縣所苦。」異頓首受命,引而西,所至皆布威信。弘農群盜稱將軍者十余輩,皆率眾降異。

ときに赤眉と延岑が、三輔をあらす。郡県の大姓は、それぞれ兵をもつ。大司徒の鄧禹にかわり、馮異が三輔をうつ。車駕が河南にきて「郡県をおさめよ」と言われた。弘農の群盗らが、馮異にくだった。

李賢はいう。『東観漢記』はいう。メン池の霍郎、陜県の王長い、湖県の濁恵、華陰の陽沈らは、将軍をとなえた。馮異にくだった。
ぼくは補う。鄧禹伝02と、つながる。鄧禹が関中で赤眉にやぶれ、飼い殺し
三輔の豪族は、王莽も更始も赤眉も、信じられないから、自守していたのです。


異與赤眉遇于華陰,相拒六十余日,戰數十合,降其將劉始、王宣等五千餘人。三年春,遣使者即拜異為征西大將軍。會鄧禹率車騎將軍鄧弘等引歸,與異相遇,禹、弘要異共攻赤眉。異曰:「異與賊相拒且數十日,雖屢獲雄將,余眾尚多,可稍以恩信傾誘,難卒用兵破也。上今使諸將屯黽池要其東,而異擊其西,一舉取之,此萬成計也。」禹、弘不從。弘遂大戰移日,赤眉陽敗,棄輜重走。車皆載土,以豆覆其上,兵士饑,爭取之。赤眉引還擊弘,弘軍潰亂。異與禹合兵救之,赤眉小卻。異以士卒饑倦,可且休,禹不聽,複戰,大為所敗,死傷者三千餘人。禹得脫歸宜陽。

鄧禹は、華陰で赤眉と60余日たたかう。劉始、王宣らをくだす。建武三年春、征西大将軍となる。たまたま鄧禹が、驃騎将軍の鄧弘とともに、赤眉とたたかう。馮異がとめるのに、鄧禹と鄧弘は大敗した。鄧禹は、宜陽ににげた。

ぼくは補う。戦闘は『資治通鑑』とおなじ。027年春、赤眉の劉盆子がくだる
鄧禹は、まったく戦争がヘタだなあ。実質的に、ここで退場する。


異棄馬步走上回谿阪,與麾下數人歸營。複堅壁,收其散卒,招集諸營保數萬人,與賊約期會戰。使壯士變服與赤眉同,伏於道側。旦日,赤眉使萬人攻異前部,異裁出兵以救之。賊見勢弱,遂悉眾攻異,異乃縱兵大戰。日昃,賊氣衰,伏兵卒起,衣服相亂,赤眉不復識別,眾遂驚潰。追擊,大破於崤底,降男女八萬人。余眾尚十余萬,東走宜陽降。璽書勞異曰:「赤眉破平,士吏勞苦,始雖垂翅回谿,終能奮翼黽池,可謂失之東隅,收之桑榆。方論功賞,以答大勳。」

馮異は回谿阪ににげた。馮異は、赤眉とおなじ服装をして、伏兵した。赤眉を、崤底でやぶった。赤眉は、宜陽ににげた。光武は、馮異をねぎらった。

時,赤眉雖降,眾寇猶盛:延岑據藍田,王歆據下邽,芳丹據新豐,蔣震據霸陵,張邯據長安,公孫守據長陵,楊周據谷口,呂鮪據陳倉,角閎據汧,駱延據E441B748,任良據鄠,汝章據槐裏,各稱將軍,擁兵多者萬餘,少者數千人,轉相攻擊。異且戰且行,屯軍上林苑中。
延岑既破赤眉,自稱武安王,拜置牧守,欲據關中,引張邯、任良共攻異。異擊破之,斬首千余級,諸營保守附岑者皆來降歸異。岑走攻析,異遣複漢將軍鄧曄、輔漢將軍于匡要擊岑,大破之,隆其將蘇臣等八千餘人。岑遂自武關走南陽。

まだ赤眉は、つよい。延岑は藍田、王歆は下邽、芳丹(027馮異にくだる)は新豐、蔣震(027公孫述にくだる)は霸陵(文帝の陵がある県)、張邯(027公孫述にくだる)は長安、公孫守(027馮異にくだる)は長陵、楊周は谷口(馮翊)、呂鮪は陳倉、角閎は汧県、駱延はチュウチツ、任良は鄠県、汝章は槐裏による。みな将軍をとなえる。おおくて1万余、すくなくて数千。
馮異は、戦いすすみ、上林苑中にくる。

ぼくは補う。関中の諸将は、渡邉注をちらして書いた。うしろのほうの人名は、みな027年に馮異にくだった。
渡邉注はいう。上林苑は、苑園。山川、池沼、森林がある。鳥獣をはなし、皇帝が狩りした。経済的な価値がたかく、上林苑令がおかれた。公田は、仮作した。山田勝芳「後漢の苑園について」(『集刊東洋学』36、1976)

延岑は赤眉をやぶり、みずから武安王をとなえる。牧守をおき、關中による。延岑は、張邯、任良らひきい、馮異をせめた。馮異がやぶる。馮異は、延岑につく関中の營保をくだした。延岑は析県(楚の白羽邑)ににげる。複漢將軍の鄧曄、輔漢將軍の于匡は、延岑をやぶった。延岑の部将・蘇臣ら8千余人をとらえた。延岑は、武關から南陽ににげる。

時,百姓饑餓,人相食,黃金一斤易豆五升。道路斷隔,委輸不至,軍士委以果實為糧。詔拜南陽趙匡為右扶風,將兵助異,並送縑穀,軍中皆稱萬歲。異兵食漸盛,乃稍誅擊豪傑不從令者,褒賞降附有功勞者,悉遣其渠帥詣京師,散其眾歸本業。威行關中,惟呂鮪、張邯、蔣震遣使降蜀,其餘悉平。

ときに百姓は飢え、穀物がたかい。南陽の趙匡を、右扶風とし、馮異をたすけた。

渡邉注はいう。右扶風は、中2千石で、九卿におなじ。郡太守よりも、格上。

馮異は、趙匡から物資をつかい、豪傑をくだした。馮異の威光は、関中にわたる。ただ呂鮪、張邯、蔣震は、公孫述にくだった。

馮異:関中で「咸陽王をとなえる」とそしられる

明年,公孫述遣將程焉,將數萬人就呂鮪出屯陳倉。異與趙匡迎擊,大破之,焉退走漢川。異追戰于箕穀,複破之,還擊破呂鮪,營保降者甚眾。其後蜀複數遣將間出,異輒摧挫之。懷來百姓,申理枉結,出入三歲,上林成都。

明年、公孫述は程焉をおくり、呂鮪にしたがい陳倉にくる。馮異と趙匡は、程焉を漢川にしりぞける。馮異は、箕穀で呂鮪をやぶった。公孫述の将軍をくじいた。冤罪をしらべ、3年で上林は都をなした。

李賢はいう。政治になついて人があつまることを、「都をなす」という。『史記』の舜帝の故事より。


異自以久在外,不自安,上書思慕闕廷,願親帷幄,帝不許。後人有章言異專制關中,斬長安令,威權至重,百姓歸心,號為「咸陽王」。帝使以章示異。異惶懼,上書謝曰:「臣本諸生,遭遇受命之會,充備行伍,過蒙恩私,位大將,爵通侯,受任方面,以立微功,皆自國家謀慮,愚臣無所能及。臣伏自思惟:以詔敕戰攻,每輒如意;時以私心斷決,未嘗不有悔。國家獨見之明,久而益遠,乃知'性與天道,不可得而聞也'。當兵革始起,擾攘之時,豪傑競逐,迷惑千數。臣以遭遇,托身聖明,在傾危混淆之中,尚不敢過差,而況天下平定,上尊下卑,而臣爵位所蒙,巍巍不測乎?誠冀以謹敕,遂自終始。見所示臣章,戰慄怖懼。伏念明主知臣愚性,固敢因緣自陳。」詔報曰:「將軍之于國家,義為君臣,恩猶父子。何嫌何疑,而有懼意?」

馮異は、帷幄(光武のそば)にもどりたい。ある人が、馮異をそしった。「馮異は関中で、長安令をきった。咸陽王をとなえている」と。馮異はおそれて、上書した。「わたしは通侯の爵位をもらった。西で、方面司令官をまかされ、謀反をうたがわれた。帷幄にもどりたい」と。

李賢はいう。通侯とは、徹侯のこと。前漢の武帝をいんで、通侯とした。皇族でないが、功績が皇室につうじる人を、侯にふうじるときの爵位。食邑は、4県がリミット。『後漢書』光武紀で、博士の丁恭がいう。

光武は「馮異なら、謀反の心配はない」といった。

六年春,異朝京師。引見,帝謂公卿曰:「是我起兵時主簿也。為吾披荊棘,定關中。」既罷,使中黃門賜以珍寶、衣服、錢、帛。詔曰:「倉卒無蔞亭豆粥,C664沱河麥飯,厚意久不報。」異稽首謝曰:「臣聞管仲謂桓公曰:'願君無忘射鉤,臣無忘檻車。'齊國賴之。臣今亦願國家無忘河北之難,小臣不敢忘巾車之恩。」後數引宴見,定議圖蜀,留十餘日,令異妻子隨異還西。

建武六年(030)、洛陽にゆく。光武は「馮異は、私が起兵したときの主簿だ。河北で、豆粥や麦飯をたべた」といった。馮異は、管仲の故事をいった。「管仲は斉桓公に、私(管仲)が桓公のバックルを射たことと、私(管仲)が魯にしばられたことを忘れるなといった」と。馮異は光武に、たがいの恩をわすれないと、いった。

李賢はいう。光武から馮異への恩は、巾車郷で、光武が馮異をとらえたが、ゆるしたこと。馮異から光武への恩は、河北の平定をてつだったこと。

10日しゃべり、馮異の妻子を、馮異につけて西にかえした。

馮異:栒邑を速攻でうばい、隗囂をよわらす

夏,遣諸將上隴,為隗囂所敗,乃詔異軍栒邑。未及至,隗囂乘勝使其將王元、行巡將二萬餘人下隴,因分遣巡取栒邑。異即馳兵,欲先據之。諸將皆曰:「虜兵盛而新乘勝,不可與爭,宜止軍便地,徐思方略。」異曰:「虜兵臨境,忸忕小利,遂欲深入。若得栒邑,三輔動搖,是吾憂也。夫'攻者不足,守者有餘'。今先據城,以逸待勞,非所以爭也。」潛往閉城,偃旗鼓。行巡不足,馳赴之。異乘其不意。卒擊鼓建旗而出。巡軍驚亂奔走,追擊數十裏,大破之。祭遵亦破王元於汧。於是北地諸豪長耿定等,悉畔隗囂降。

030年夏、光武の諸将は、上隴で隗囂にやぶれた。馮異を栒邑におきたい。隗囂は、王元、行巡に、栒邑をねらわせる。馮異は「孫子はいう。攻めるのはつらく、守るのはラクだ。ムリしてでも栒邑をとり、守りにまわる」と。馮異は、栒邑をとった。
祭遵もまた、王元を汧県でやぶった。北地の豪長・耿定らは、すべて隗囂にそむき、光武にくだった。

ぼくは思う。栒邑の争奪は、かなりの名場面。『資治通鑑』でも、くわしく、ひかれていた。渡邉注は、449頁。引用された古典の説明ばかりで、とくに、ひくものがない。


異上書言狀,不敢自伐。諸將或欲分其功,帝患之。乃下璽書曰:「制詔大司馬,虎牙、建威、漢忠、捕虜、武威將軍:虜兵猥下,三輔驚恐。栒邑危亡,在於旦夕。北地營保,按兵觀望。今偏城獲全,虜兵挫折,使耿定之屬,複念君臣之義。征西功若丘山,猶自以為不足。孟之反奔而殿,亦何異哉?今遣太中大夫賜征西吏士死傷者醫藥、棺斂,大司馬已下親吊死問疾,以崇謙讓。」於是使異進軍義渠,並領北地太守事。

馮異は、戦況を上書したが、ほこらない。光武は下書した。「大司馬の呉漢、虎牙の蓋延、建威の耿弇、漢忠の王常、捕虜の馬武、武威の劉尚にいう。征西大将軍の馮異は、無傷で栒邑を手にした。馮異の謙譲をとうとべ」と。

ぼくは補う。ここに名のある将軍は、それぞれ列伝あり。
李賢はいう。光武は、馮異のつつしみ深さを、魯の大夫・孟之反にたとえる。孟之反は、斉軍にやぶれて、しんがりした。孟之反は「私はしんがりを勤めたのでない。馬がすすまなかったのだ」といった。孟之反は、ほこらず。

馮異を義渠(北地)にすすめ、あわせて北地太守をまかせた。

馮異:匈奴の薁鞬日逐王をやぶる

青山胡率萬餘人降異。異又擊盧芳將賈覽、匈奴薁鞬日逐王,破之。上郡、安定皆降,異複領安定太守事。
九年春,祭遵卒,詔異守征虜將軍,並將其營。及隗囂死,其將王元、周宗等複立囂子純,猶總兵據冀,公孫述遣將趙匡等救之,帝複令異行天水太守事。攻匡等且一年,皆斬之。諸將共攻冀,不能拔,欲且還休兵,異固持不動,常為眾軍鋒。

青山の胡族は、馮異にくだった。

李賢はいう。青山は、北地の参レンの境界にある。『続漢書』はいう。安定属国は、胡族が安定にくだったもの。参レンの青山の山中にある。

馮異は、盧芳の部将・賈覽、匈奴の薁鞬日逐王をやぶった。上郡、安定は、みなくだる。馮異は、安定太守もかねた。
建武九年(033)、祭遵がしんだので、馮異に征虜將軍をあわせ、祭遵の軍営をひきいた。隗囂がしぬと、王元と周宗は、隗純をたて、冀県にいた。公孫述は、趙匡らに隗純を救わせた。馮異は、天水太守もかね、1年で趙匡らをきった。冀県をぬけないので、馮異はとどまった。

とくに渡邉注はない。隗囂の死後、馮異はあとしまつした。


明年夏,與諸將攻落門,未拔,病發,薨於軍,諡曰節侯。 長子彰嗣。明年,帝思異功,複封彰弟為析鄉侯。十三年,更封彰東緡侯,食三縣。永平中,徙封平鄉侯。彰卒,子普嗣,有罪,國除。

翌年夏、馮異は落門(冀県)をせめていて、病死した。節侯。長子の馮彰がつぐ。

隗純をころす前に、病死した。范曄の「論」なし。


つぎ、延岑伝。つづきます。