08) 馮異の上、頴川のつつましき大樹将軍
『後漢書』列伝7・馮異伝、延岑伝、賈復伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
馮異:司隷校尉の光武に、頴川から属吏をおくる
漢兵起,異以郡掾監五縣,與父城長苗萌共城守,為王莽拒漢。光武略地潁川,攻父城不下,屯兵巾車鄉。異間出行屬縣,為漢兵所執。時異從兄孝及同郡丁綝、呂晏,並從光武,因共薦異,得召見。
馮異は、あざなを公孫。潁川の父城県の人。『左氏伝』『孫子兵法』がうまい。
漢兵が起つと、馮異は、頴川の郡掾として、5県を監した。父城長の苗萌と、漢兵をふせぐ。
光武が頴川をせめるが、父城がおちない。光武は、父城県の境界・巾車郷にいた。馮異は、属県をめぐり、光武にとらわれた。ときに馮異の從兄・馮孝と、同郡の丁綝、呂晏は、光武にしたがう。馮異は馮孝にすすめられ、光武にあった。
渡邉注はいう。丁綝、呂晏は、この馮異伝にしかない。ぼくは思う。これ以上、ひろがらないなら、いっそ、いさぎよい。
光武南還宛,更始諸將攻父城者前後十餘輩,異堅守不下;及光武為司隸校尉,道經父城,異等即開門奉牛、酒迎。光武署異為主簿,苗萌為從事。異因薦邑子銚期、叔壽、段建、左隆等,光武皆以為椽史,以至洛陽。
馮異がいった。「私1人では、どうしようもない。父城5県で、光武のために功績をたてる」と。光武は、馮異をゆるした。同県の苗萌に、馮異がいった。「漢兵はあばれるが、光武だけは、ぬすまない」と。苗萌は「馮異につき、光武にしたがう」といった。
光武は南して、宛県にかえる。更始の諸将が、父城をせめたが、馮異はまもった。
光武が司隷校尉にになると、父城をとおった。馮異は開門して、牛酒でもてなした。光武は、馮異を司隷校尉の主簿にした。苗萌を從事とした。馮異は、同邑の、銚期、叔壽、段建、左隆らをすすめた。光武は、みな椽史(属吏)として、洛陽にゆく。
馮異:河北にゆき、邯鄲あたりを偵察する
しばしば更始は、光武を河北にゆかせたいが、諸将がダメという。左丞相の曹竟の子・曹詡は、尚書となる。曹氏は、父子で更始の政治をした。
渡邉注はいう。左丞相は、行政の最高官。前漢は、秦代をつぎ、丞相が、行政の最高官だ。のちに丞相を、相国とした。恵帝のとき、相国をやめて、左右の丞相とした。文帝のとき、丞相を1人とした。『漢書』百官公卿表上。こうして、左丞相の名はのこり、右丞相は空位となった。『漢書』巻66・劉屈キ伝。
馮異は光武に、「曹竟とむすべ」とすすめた。光武が河北にゆけたのは、曹竟のあとおし。
劉縯が更始に殺されたので、光武はおちこんだ。馮異は「更始は暴虐だ。光武は、官属をおくり、郡県をとなえ、冤罪をやめさせ、恩沢をひろめよ」といった。
光武は邯鄲にゆき、馮異と銚期に属県をなでさせた。囚人をしらべ、ヤモメをいたわり、自首をゆるした。太守と長吏のうち、光武の敵・味方をしらべた。
馮異:光武と野宿して、河北を平定する
王郎が起兵した。光武は、薊から東南して、野宿する。饒陽の無蔞亭にくる。さむいので、馮異が豆粥をつくった。翌日、光武は「馮異の豆粥で、飢えも寒さも、ゆるんだ」と。南宮で雨にふられた。馮異が薪をかつぎ、鄧禹が火をたいた。光武が、衣服をかわかした。麦飯と菟肩(野草)をたべた。
李賢はいう。光武帝紀では、白衣の老人に、光武はみちびかれる。老人のセリフにある地理が、ウソである。よって老人も、ウソである。ぼくは思う。李賢は、ヤボだなあ。
コ沱河をわたり、信都にゆく。馮異は、わかれて河間の兵をあつめた。もどり、偏将軍となる。王郎をやぶり、應侯(国名、襄城の成父県の西南)。
馮異は、つつしみぶかい。諸将に、道をゆずった。
ぼくは思う。道をあらそうとは、戦場で活躍をもとめて、あらそうってことか。この「不戦」の姿勢が、馮異に人気がある理由。戦わなくて、いいのか。笑
馮異は、大樹のもとで、諸将の軍功をきいた。「大樹将軍」とよばれた。諸将は、馮異のしたに、つきたい。
鐵脛の賊を、北平県(中山)をくだした。匈奴の于林トウ頓王をくだした。河北が、たいらいだ。
馮異:李軼との親交をつかい、洛陽を平定
ときに更始は、舞陰王の李軼、廩丘王の田立、大司馬の朱鮪、白虎公の陳僑に、30万をつけた。河南太守の武勃とともに、洛陽をまもる。光武は、燕趙をとなえたい。魏郡、河内は、兵乱がなく、穀物がおおい。寇恂を河内太守、馮異を孟津將軍として、魏郡と河内の2郡で兵をつくり、洛陽の朱鮪をふせぐ。
馮異は、李軼に文書した。「微子は、殷室をさった。項伯は、項羽をさった。周勃は、少帝をはいした。霍光は、昌邑王をはいした。李軼は、更始をすてろ」と。
武勃將萬余人攻諸畔者,異引軍度河,與勃戰於士鄉下,大破斬勃,獲首五千餘級,軼又閉門不救。異見其信效,具以奏聞。光武故宣露軼書,令朱鮪知之。鮪怒,遂使人刺殺軼。由是城中乖離,多有降者。鮪乃遣討難將軍蘇茂將數萬人攻溫,鮪自將數萬人攻平陰以綴異。異遣校尉護軍將兵,與寇恂合擊茂,破之。異因度河擊鮪,鮪走;異追至洛陽,環城一匝而歸。
はじめ李軼は、光武とむすんだ。だが李軼は更始につき、劉縯をころした。だから李軼は、光武にくだりにくい。馮異に、光武との仲だちを、たのんだ。もう李軼は、馮異とたたかわない。おかげで馮異は、上党2城をぬいた。河南の成皋より東で、13県をたいらげた。10余万がくだる。
更始の武勃が、馮異にやぶれたが、李軼はたたかわず。わざと光武は、李軼の文書を、洛陽の朱鮪にみせた。朱鮪は、李軼をころした。洛陽はみだれた。
更始の蘇茂は温県を、朱鮪は平陰県をせめた。馮異と寇恂は、蘇茂と朱鮪をやぶった。洛陽をひとまわりして、かえった。
光武に即位をすすめた。光武は馮異を鄗によび、情勢をきいた。馮異がいった。「更始のもとで、3王がたった。張卬が淮陽王、廖湛が穣王、胡殷が随王だ。更始帝は長安で、3王にやぶれた。更始がほろびるから、光武がたて」と。
光武がいった。「赤龍にのる夢をみた。ドキドキした」と。馮異は席をおり「ドキドキは、光武が慎重な性格だからだ」といった。諸将とともに、光武に尊号をたてまつる。
つぎ、馮異伝の後半です。つづきます。