11) 漢中王の七光、朝飯前の賈復
『後漢書』列伝7・馮異伝、延岑伝、賈復伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
賈復:漢中王の劉嘉の校尉、光武をたすける
賈複は、あざなを君文。南陽の冠軍の人。わかくして『尚書』をならう。舞陰の李生につかえ、「賈復は、將相之器だ」と言った。
王莽末、冠軍の縣掾。盗賊にあっても、河東から塩をはこんだ。信用された。
下江や新市で、兵がたつ。賈復は、羽山(禹山)で、将軍をとなえた。更始の漢中王・劉嘉の校尉となる。更始がみだれた。賈復は、劉嘉に言った。「ベストは堯舜。つぎは殷湯や周武。つぎに桓公と文公。つぎに戦国6国。つぎに秦。時代がくだると、ランクがおちますが、劉嘉はどうするか」と。劉嘉は「賈復の話はおおきいが、河北で大司馬する劉秀がいい。劉秀に文書をとどけよ」といった。
『後漢書』劉嘉伝:鄧禹に降伏した、漢中王・劉嘉
賈復は、柏人で光武においつく。鄧禹をつうじ、光武とあう。(光武の故官である)破虜将軍、督盜賊とした。賈復の馬がやせるので、光武は、左のソエウマをあげた。
官属が賈復をねたみ、鄗県の尉にとばそうとした。光武は、とばさず。
ぼくは思う。大司馬の督のほうが、格上なんだ。段孝は、イチャモンでもいいから、賈復をやっつけたかった。ともあれ1人で2府を開けるとは、知らなかった。
賈復:無敗の中央軍、12の傷をうけて引退
光武は信都にきた。賈復は偏將軍。邯鄲をぬき、都護將軍。
青犢を射犬でうつ。光武は「青犢がかたいので、朝飯にしよう」といった。賈復は「青犢をやぶってから、朝飯にする」といった。青犢をやぶった。勇気をほめられた。
ともに北して、五校を真定でやぶる。賈復は重傷した。光武はおどろき「賈復は敵をかろんじるから、別働させなかった。賈復の家族は、まかせろ」といった。賈復はなおり、薊県でおいつく。鄴県の賊をやぶる。
建武二年,益封穰、朝陽二縣。更始郾王尹尊及諸大將在南方未降者尚多,帝召諸將議兵事,未有言,沉吟久之,乃以檄叩地曰:「郾最強,宛為次,誰當擊之?」複率然對曰:「臣請擊郾。」帝笑曰:「執金吾擊郾,吾複何憂!大司馬當擊B233」。遂遣複與騎都尉陰識、驍騎將軍劉植南度五社津擊郾,連破之。月余,尹尊降,盡定其地。
引東擊更始淮陽太守暴汜,汜降,屬縣悉定。其秋,南擊召陵、新息,平定之。明年春,遷左將軍,別擊赤眉於新城、澠池間,連破之。與帝會宜陽,降赤眉。
光武が即位すると、執金吾、冠軍侯。さきに黄河をわたり、朱鮪を洛陽にせめる。更始の白虎公の陳僑をくだす。
建武二年、穰県と、朝陽の2県がふえる。更始の郾王の尹尊と、おおくの大将は南にいる。光武は地をたたいて「郾王の尹尊が、最強だ。宛県が、つぎに強い。だれがうつか」といった。賈復が「私が郾王の尹尊をうつ」といった。光武は、わらって賈復にまかせた。光武は「宛城は、大司馬の呉漢がうて」といった。
賈復は、騎都尉の陰識、驍騎將軍の劉植とともに、五社津を南にわたり、尹尊をくだした。
東して、更始の淮陽太守の暴汜をくだした。属県をたいらげた。その秋、召陵、新息(汝南)をたいらげた。明年春、左將軍。赤眉を、新城、澠池の間でやぶる。光武と、宜陽で赤眉をくだす。
賈復は、無敗。包囲をつぶして、味方の危機をすくう。身体に12の傷。つっこむので、方面司令官はやらない。光武は「賈復の功績は、私がしる」といった。
建武十三年(037)、膠東侯。6県をはむ。光武は軍事をこのまない。功臣に洛陽で、兵をもたせたくない。賈復は、鄧禹とともに武装解除し、儒学をした。左右將軍をやめた。列侯となり、就第(帰宅)した。特進がくわわる。朱祐は「賈復を三公に」といったが、光武は三公を実務能力でえらぶ。功臣をもちいない。
鄧禹、李通、賈復だけが、朝廷にでた。建武三十一年(055)、賈復はしんだ。剛侯。子の賈忠がついだ。
范曄による論と賛
贊曰:陽夏師克,實在和德。膠東鹽吏,征南宛賊。奇鋒震敵,遠圖謀國。
范曄の論はいう。光武の将軍のうち、岑彭と馮異だけが、方面司令官として、征南、征西の軍号をもらった。馮異と賈復は、功績をほこらず。岑彭は、人(洛陽をまもる朱鮪)をなつかす。岑彭は高帝とちがい、わるい場所から逃げそこねた。
范曄の賛はいう。馮異は、和徳があった。賈復は、塩吏だった。岑彭は、宛県の賊だった。それぞれ、国のために、はかりごとした。110724