表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝5・李通、王常、鄧晨、来歙伝;更始からの合流

02) もっぱら下江兵の司令官・王常伝

『後漢書』列伝5・李通、王常、鄧晨、来歙伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

王常伝:下江兵の司令官、更始帝につく

王常字顏卿,潁川舞陽人也。王莽未,為弟報仇,亡命江夏。久之,與王鳳、王匡等起兵雲杜綠林中,聚眾數萬人,以常為偏裨,攻傍縣。後與成丹、張B421別入南郡藍口,號下江兵。王莽遣嚴尤、陳茂擊破之。常與丹、B421收散卒入蔞B32F,劫略鐘、龍間,眾複振。引軍與刑州牧戰于上唐,大破之,遂北至宜秋。

王常は、あざなを顏卿。潁川の舞陽の人だ。王莽未、王常は、弟を報仇して、江夏に亡命した。

李賢はいう。『東観記』にいう。王常の祖先は、コ県の人。王常の父は、王博。王博は、成帝と哀帝の間に、潁川の舞陽に、客した。ここに家をおいた。
李賢はいう。「命」とは、名のこと。名籍にそむいて、逃亡することを、亡命という。

王鳳、王匡らと、江夏や南郡で下江兵をあつめた。嚴尤と陳茂をやぶった。荊州牧をやぶった。宜秋(南陽)にゆく。

いろいろ、兵集団の名前を、はぶきました。つぎも、はぶく。


是時,漢兵與新市、平林眾俱敗于小長安,各欲解去。伯升聞下江軍在宜秋,即與光武及李通俱造常壁,曰:「願見下江一賢將,議大事。」成丹、張B421共推遣常。伯升見常,說以合從之利。常大悟,曰:「王莽篡弑,殘虐天下,百姓思漢,故豪傑並起。今劉氏復興,即真主也。誠思出身為用,輔成大功。」伯升曰:「如事成,豈敢獨饗之哉!」遂與常深相結而去。常還,具為丹、B421言之。丹、B421負其從,皆曰:「大丈夫既起,當各自為主,何故受人制乎?」常心獨歸漢,乃稍曉說其將帥曰:「往者成、哀衰微無嗣,故王莽得承間篡位。既有天下,而政令苛酷,積失百姓之心。民之謳吟思漢,非一日也,故使吾屬因此得起。夫民所怨者,天所去也;民所思者,天所與也。舉大事,必當下順民心,上合天意,功乃可成。若負強恃勇,觸情恣欲,雖得天下,必複失之。以秦、項之勢,尚至夷覆,況今布衣相聚草澤?以此行之,滅亡之道也。今南陽諸劉舉宗起兵,觀其來議事者,皆有深計大慮,王公之才,與之併合,必成大功,此天所以祐吾屬也。」下江諸將雖屈強少識,然素敬常,乃皆謝曰:「無王將軍,吾屬幾陷於不義。願敬受教。」即引兵與漢軍及新市、平林合。於是諸部齊心同力,銳氣益壯,遂俱進,破殺甄阜、梁丘賜。

このとき、新市兵と平林兵は、小長安でやぶれて、くずれそう。劉縯は、光武帝と李通をやり、下江兵の王常とむすんだ。王常は、仲間の下江兵に「南陽の劉氏とむすぶ」と説いた。下江兵は、王常を信じた。王常は、新市兵と平林兵をあわせて、甄阜と梁丘賜をやぶった。

ぼくは思う。新市兵も平林兵も、王常がいる下江兵も、政治の派閥がない。ただ現状に不満があり、起兵しているだけ。光武帝は、王常をつうじて、荊州の兵を手にいれた。
ぼくは思う。本文の字数のわりに、抄訳の字数がすくない。内容がうすいからだ。李賢も渡邉注も、ほとんど、ついていない。「方向性のない集団を、光武帝の天下とりに参加させる」という、劇的な場面なんだけど、どうせ内容が後づけである。


及諸將議立宗室,唯常與南陽士大夫同意欲立伯升,而朱鮪、張B421等不聽。及更始立,以常為廷尉、大將軍,封知命侯。別徇汝南、沛郡,還入昆陽,與光武共擊破王尋、王邑。更始西都長安,以常行南陽太守事,令專命誅賞,封為鄧王,食八縣,賜姓劉氏。常性恭儉,遵法度,南方稱之。

皇帝をたてるとき、ただ王常だけ、劉玄(更始帝)でなく、劉縯をおした。朱鮪と張卬は、劉玄をたてた。更始帝がたつと、王常は廷尉、大將軍、知命侯となる。わかれて汝南と沛郡をとなえた。

劉ハンはいう。沛郡は、山東にある。まだ王常が、山東までゆけない。おそらく、南郡の沛、というような記述から、南の字がうしなわれたのだろう。ともあれ、沛郡でない。ぼくは思う。更始帝の版図を、せまく見つもるなんて、こわくてできない。笑

もどって昆陽で、光武帝とともに、王尋、王邑をやぶった。

ぼくは思う。更始帝の、将軍づかいがわかる。南陽から、領土を拡大していった。しかし、王莽の大軍がきたから、昆陽に集めなおした。

更始帝が長安にゆくと、王常に南陽太守を行ねさせた。王常は南陽で、命令と賞罰を、もっぱらにした。

李賢はいう。『東観記』はいう。汝南と沛郡では、命令にしたがわない者をころし、功績がある者をふうじた。ぼくは思う。なにを、当然のことを、書いてあるんだ。南陽というのは、光武帝の故郷だけど、豪族がつよくて、厄介な土地。王常の仕事は、けっこうむずかしい。

王常は、鄧王となり、8県をはみ、劉氏の姓をもらう。つつしみ、法度をまもった。南方の荊州で、たたえられた。

更始敗,建武二年夏,常將妻子詣洛陽,肉袒自歸。光武見常甚歡,勞之曰:「王廷尉良苦。每念往時共更艱厄,何日忘之。莫往莫來,豈違平生之言乎?」常頓首謝曰:「臣蒙大命,得以鞭策托身陛下。始遇宜秋,後會昆陽,幸賴靈武,輒成斷金。更始不量愚臣,任以南州。赤眉之難,喪心失望,以為天下複失綱紀。聞陛下即位河北,心開目明,今得見闕庭,死於遺恨。」帝笑曰:「吾與廷尉戲耳。吾見廷尉,不憂南方矣。」乃召公卿將軍以下大會,具為群臣言:「常以匹夫興義兵,明於知天命,故更始封為知命侯。與吾相遇兵中,尤相厚善。」特加賞賜,拜為左曹,封山桑侯。

更始帝がやぶれた。建武二年の夏、王常は妻子をつれ、肌ぬぎになり、洛陽で光武帝についた。光武帝はねぎらった。「小長安で共闘したのに、更始帝についた。ひどいなあ」と。王常が恐縮すると、光武帝は「冗談だ。王常がきたので、南方の荊州をうれわない」と言った。

ぼくは思う。更始帝から光武帝にうつるとき、肌ぬぎという降伏のポーズが必要だった。光武帝は、冗談だと言っているが、王常を言葉ぜめにした。更始帝と光武帝は、かなあり、仲がわるいよね。更始帝の滅亡は、諸将の運命をかえたなあ。

光武帝は、公卿や将軍をあつめ、言った。「王常と私は、戦場でしたしい」と。王常は、左曹、山桑侯。

李賢はいう。『漢書』百官公卿表の顔師古注に、左右の曹は、尚書のことを平すとある。渡邉注はいう。曹丕は、散騎常侍と中常侍をあわせ、散騎常侍とした。


王常伝:郡臣のなかで、席次がダントツ

後帝于大會中指常謂群臣曰:「此家率下江諸將輔翼漢室,心如金石,真忠臣也。」是日遷常為漢忠將軍,遣南擊鄧奉、董,令諸將皆屬焉。又詔常北擊河間、漁陽,平諸屯聚。五年秋,攻拔湖陵,又與帝會任城,因從破蘇茂、龐萌。進攻下邳,常部當城門戰,一日數合,賊反走入城,常追迫之,城上射矢雨下,帝從百餘騎自城南高處望,常戰力甚,馳遣中黃門詔使引還,賊遂降。又別率騎都尉王霸共平沛郡賊。

のちに光武帝は、郡臣のなかで指さして「王常がひきいる下江兵は、金のように心がかたく、忠臣だ」と言った。王常を、漢忠将軍とした。

渡邉注はいう。漢忠将軍は雑号で、ほかに就任した人がない。

王常は南して、鄧奉、董キンをうつ。

渡邉注はいう。鄧奉は、『後漢書』岑彭伝。もと光武帝の破虜将軍。呉漢が秦豊をうつとき、鄧奉の郷里でぬすんだため、光武帝にそむいた。027年、光武帝の親征にやぶれ、鄧奉は、きられた。
渡邉注はいう。董キンは、堵郷にいる反乱勢力。027光武帝にきられた。

北して、河間国、漁陽郡をうった。建武五年秋、湖陵県をぬく。光武帝と、任城郡であわさり、蘇茂と龐萌をやぶる。下邳にすすみ、城門から矢がふっても、たたかった。光武帝は、中黃門をやって、王常をひかせた。賊がくだった。

渡邉注はいう。中黄門は、少府にぞくす。秩禄は比1百石。のちにふえて、比3百石。宦官がにんじられ、宮中の雑務をした。『後漢書』百官志3。
ぼくは思う。王常は、下江兵の指揮官として、戦場をころがる。典型的な武官。この矢のエピソードが、全体の様子を代表しているのだろう。

わかれて騎都尉の王霸をひきい、沛郡の賊・苗虚をたいらげた。

渡邉注はいう。苗虚は、ほかに史料がない。


六年春,征還洛陽,令夫人迎常于舞陽,歸家上塚。西屯長安,拒隗囂。七年,使使者持璽書,即拜常為橫野大將軍,位次與諸將絕席。常別擊破隗囂將高峻於朝那。囂遣將過烏氏,常要擊破之。轉降保塞羌諸營壁,皆平之。九年,擊內黃賊,破降之。後北屯故安,拒盧芳。十二年,薨於屯所,諡曰節侯。
子廣嗣。三十年,徙封石城侯。永平十四年,坐與楚事相連,國除。

建武六年の春、洛陽にもどる。夫人をやり、王常を舞陽にむかえた。家で塚にまいる。西して、隗囂をふせぐ。建武七年(031)、使者に璽書をもたせ、王常を橫野大將軍とした。席次は、諸将からはなれて、ダントツ。

渡邉注はいう。横野大将軍は、ほかにつく人がない。
李賢はいう。座席をわけることは、とうとび、顕彰することをいう。『漢官儀』はいう。御史大夫、尚書令、司隷校尉は、座席を専有する。「三独座」といわれたと。

隗囂の部将・高峻を、朝那(安定)でやぶる。

渡邉注はいう。高峻は、隗囂の将軍。安定の人。馬援にすすめられ、光武帝にくだる。通路将軍、関内侯となる。だが光武帝がやぶれたので、ふたたび隗囂につく。耿弇をかこみ、光武帝の親征もこばんだ。建武十年(034)、寇恂にしかられて、くだった。『後漢書』寇恂伝にある。

隗囂は、部将を烏氏にとおすが、王常がやぶった。羌族をたいらげた。
建武九年、內黃の賊をくだす。のちに北して、故安(涿郡)で盧芳をふせぐ。建安十二年(036)、屯所で死んだ。節侯。子の王広がつぐ。

つぎ、図讖をわらなない鄧晨伝です。シャレですね。つづく。