06) 鄧禹が関中で赤眉にやぶれ、飼い殺し
『後漢書』列伝6・鄧禹伝、寇恂伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
鄧禹伝:三輔にきて、長安でなく北に食糧をもとむ
遂渡
汾陰河,入夏陽。更始中郎將左輔都尉公乘歙,引其眾十萬,與左馮翊兵共拒禹于衙,禹複破走之,而赤眉遂入長安。
是時三輔連覆敗,赤眉所過殘賊,百姓不知所歸。聞禹乘勝獨克而師行有紀,皆望風相攜負以迎軍,降者日以千數,眾號百萬。禹所止輒停車住節,以勞來之,父老童稚,重發戴白,滿其車下,莫不感悅,於是名震關西。帝嘉之,數賜書褒美。
鄧禹は、汾陰河をわたり、夏陽にはいる。更始の中郎將する左輔(左馮翊)都尉の公乘歙は、左馮翊とともに、鄧禹を衙県(左馮翊)でふせぐ。鄧禹がやぶる。
李賢はいう。左輔とは、左馮翊。みな三輔には、都尉あり。
赤眉が長安にはいる。三輔が、あれる。老幼まで、鄧禹になついた。
諸將豪傑皆勸禹徑攻長安。禹曰:「不然。」今吾眾雖多,能戰者少,前無可仰之積,後無轉饋之資。赤眉新拔長安,財富充實,鋒銳未可當也。夫盜賊群居,無終日之計,財穀雖多,變故萬端,寧能堅守者也?上郡、北地、安定三郡,土廣人稀,饒穀多畜,吾且休兵北道,就糧養士,以觀其弊,乃可圖也。」於是引軍北至BF51邑。禹所到,擊破赤眉別將諸營保,郡邑皆開門歸附。西河太守宗育遣子奉檄降,禹遣詣京師。
諸將や豪傑は「すぐに長安をせめよう」という。鄧禹は「ちがう。赤眉は、長安でうるおった。私は、上郡、北地、安定の3郡で、食糧をやしなおう」と言った。ジュン邑(扶風)にゆく。赤眉の別將の營保を、くだした。西河太守の宗育は、子をさしだした。鄧禹は、宗育の子を、洛陽におくる。
ぼくは思う。李賢や渡邉注に、めぼしいものがない。
帝以關中未定,而禹久不進兵,下敕曰:「司徒,堯也;亡賊,桀也。長安吏人,遑遑無所依歸。宜以時進討,鎮慰西京,系百姓之心。」禹猶執前意,乃分遣將軍別攻上郡諸縣,更徵兵引穀,歸至大要。遣馮C924、宗歆守BF51邑。二人爭權相攻,C924遂殺歆,因反擊禹,禹遣使以聞。帝問使人:「C924所親愛為誰?」對曰:「護軍黃防。」帝度C924、防不能久和,勢必相忤,因報禹曰:「縛馮C924者,必黃防也。」乃遣尚書宗廣持節降之。後月餘,防果執C924,將其眾歸罪。
更始諸將王匡、胡殷等皆詣廣降,與共東歸。至安邑,道欲亡,廣悉斬之。C924至洛陽,赦不誅。
光武は「鄧禹は、さっさと長安をとれ」という。鄧禹は、ぎゃくに上郡にゆく。穀物を、大要(北地)にあつめる。ジュン邑を、馮愔と宗歆にまもらせた。馮愔は、宗歆をころした。尚書の宋広を、ジュン邑におくる。馮愔はしばられ、罪にきした。
渡邉注はいう。宋広は、南陽の人。尚書となり、そむいた馮愔に試写した。のち信都太守となる。『後漢書』李忠伝にある。
更始の諸将・王匡や胡殷は、みな宗廣にくだった。安邑でにげたので、宗廣は、王匡と胡殷をきった。馮愔は洛陽にきたが、ころされず。
ぼくは思う。なんで馮愔は、ゆるされたんだろう。光武は「ジュン邑をあけて、長安とは反対の北地にいった、鄧禹がわるい」と言いたかったのか。
鄧禹伝:赤眉と長安をあらそい、延岑をやぶる
二年春,遣使者更封禹為梁侯,食四縣。時,赤眉西走扶風,禹乃南至長安,軍昆明池,大饗士卒。率諸將齋戒,擇吉日,修禮謁祠高廟,收十一帝神主,遣使奉詣洛陽,因循行園陵,為置吏士奉守焉。
建武二年(026)春、鄧禹をとし、4縣をはます。赤眉が扶風に西したので、鄧禹は南して長安へ。昆明池にいて、士卒にくわせた。
渡邉注はいう。昆明池は、前漢の武帝が、前120につくった。長安の西南、周囲は40里。水戦の練習をした。
高廟にもうで、11帝の神主(位牌)をおさめ、洛陽におくった。園陵をめぐり、吏士にまもらせた。
禹引兵與延岑戰于藍田,不克,複就谷雲陽。漢中王劉嘉詣禹降。嘉相李寶倨慢無禮,禹斬之。寶弟收寶部曲擊禹,殺將軍耿。自馮C924反後,禹威稍損,又乏食,歸附者離散。而赤眉複還入長安,禹與戰,敗走,至高陵,軍士饑餓,皆食棗菜。帝乃征禹還,敕曰:「赤眉無穀,自當來東,吾折捶笞之,非諸將憂也。無得複妄進兵。」禹慚于受任而功不遂,數以饑卒徼戰,輒不利。三年春,與車騎將軍鄧弘擊赤眉,遂為所敗,眾皆死散。事在《馮異傳》。獨與二十四騎還詣宜陽,謝上大司徒、梁侯印綬。有詔歸侯印綬。數月,拜右將軍。
鄧禹は、藍田県で延岑にやぶれた。雲陽県で、穀物をあつめた。漢中王の劉嘉が、鄧禹にくだった。
漢中相・李寶を、鄧禹がきった。李宝の弟が、鄧禹の将軍・耿訢をきった。
ぼくは思う。ジリ貧の光武にとって、漢中から人材がおくりこまれるのは、うれしいこと。しかし鄧禹は、やったら、やり返す!というケンカを、漢中王の配下とやった。
ジュン邑で馮愔がそむいてから、鄧禹の威厳がへり、食糧がへり、人数がへった。赤眉が長安をうばいかえした。鄧禹は、高陵県にゆく。うえて、棗菜をたべた。
光武は、鄧禹を東にもどすため、敕した。「赤眉は、飢えたら、くずれる。赤眉と、たたかうな」と。だが鄧禹は、功績をあせり、赤眉にやぶれた。建安三年(027)春、車騎將軍の鄧弘と赤眉をうち、大敗した。馮異伝にくわしい。
ぼくは思う。鄧禹、ダメじゃん。はじめ赤眉との戦争をさけた。赤眉が長安をしりぞいたら、長安に、はいった。赤眉がもどってきて、やぶれた。最初から最後まで、赤眉には勝てないということ。長安は都会だから、消費しても、生産しない。たもつのは、むずかしいなあ。
鄧禹は24騎で、宜陽にくる。大司徒、梁侯の印綬をかえした。光武は、印綬をもどした。数ヶ月して、右將軍となる。
李賢はいう。『続漢書』はいう。前後左右の将軍は、征伐をつかさどる。征伐がおわれば、やめる。ぼくは思う。鄧禹は降格されたという理解で、いいのだろう。
延岑自敗于東陽,遂與秦豐合。四年春,複寇順陽間。遣禹護複漢將軍鄧曄、輔漢將軍于匡,擊破岑于鄧;追至武當,複破之。岑奔漢中,餘黨悉降。
延岑は、東陽でやぶれて、秦豐にあわさる。建武四年の春、延岑は、順陽の間をせめた。鄧禹は、複漢將軍の鄧曄、輔漢將軍の于匡をひきい、鄧県で延岑をやぶった。
渡邉注はいう。複漢將軍は、雑号。ほかにつかず。渡邉注はいう。于匡は、もと更始の輔漢将軍。光武にくだっても、輔漢将軍をつづける。
延岑をって、武當県でもやぶる。延岑は漢中ににげ、みな余党はくだる。
鄧禹伝:右将軍で飼い殺され、統一戦に参加せず
十三年,天下平定,諸功臣皆增戶邑,定封禹為高密侯,食高密、昌安、夷安、淳於四縣。帝以禹功高,封弟寬為明親侯。其後左右將軍官罷,以特進奉朝請。禹內文明,篤行淳備,事母至孝。天下既定,常欲遠名勢。有子十三人,各使守一藝。修整閨門,教養子孫,皆可以為後世法。資用國邑,不修產利。帝益重之。中元元年,複行司徒事。從東巡狩,封岱宗。
建武十三年(037)、天下はさだまる。功臣をふうじた。高密(国)侯。右将軍のポストがなくなり、鄧禹は特進の爵位で、朝請にならんだ。教養があり、誠実で、母につかえた。子孫に学問させ、産業せず。中元元年(056)、司徒を代ねさせた。泰山の封禅にしたがった。
顯宗即位,以禹先帝元功,拜為太傅,進見東向,甚見尊寵。居歲餘,寢疾。帝數自臨問,以子男二人為郎。永平元年,年五十七薨,諡曰元侯。帝分禹封為三國:長子震為高密侯,襲為昌安侯,珍為夷安侯。
明帝が即位すると、鄧禹は太傅となる。北向でなく、賓客のように東向にすわった。永平元年(058)、病死した。鄧禹の封地を、3分割した。
ぼくは思う。鄧禹は、光武の翌年に、なくなったのですね。027年に、赤眉に惨敗してから、実質的に、引退していたのだろう。10年以上も、右将軍だった。活躍していない。クビにするのは惜しいが、つぎの仕事を任せることは、できなかった。失敗がおおきいから。光武の親友として、優遇された。しかし、官位から見れば、飼いころされたのだろう。『資治通鑑』で天下統一する後半戦には、鄧禹はでてこない。
このブランクに、エピソードがつくられていないのが、惜しいなあ。読みたかった。勝手に、つくっちゃえば、いいのか。笑
論曰:「夫變通之世,君臣相擇,斯最作事謀始之幾也。鄧公嬴糧徒步,觸紛亂而赴光武,可謂識所從會矣。於是中分麾下之軍,以臨山西之隙,至使關河響動,懷赴如歸。功雖不遂,而道亦弘矣!及其威損BF51邑,兵散宜陽,褫龍章於終朝,就侯服以卒歲,榮悴交而下無二色,進退用而上無猜情,使君臣之美,後世莫窺其間,不亦君子之致為乎!
范曄は論にいう。鄧禹は、光武をえらんだ。すばらしい。光武は、軍勢を半分あたえた。ジュン邑と宜陽で、鄧禹はミスしたので、司徒の礼服をぬいで、梁侯の礼服ですごした。しかし、不遇でヒマでも、光武にそむかなかった。すばらしい。
ぼくは思う。鄧禹の評価は、子孫が外戚となり、わりに善政をやるから、さらに高まる。しかしそれは、いま関係ないことです。
次回、寇恂伝です。つづきます。