01) 図讖で劉秀が天子になる、李通伝
『後漢書』列伝5・李通、王常、鄧晨、来歙伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
李通伝:父の李守、南陽の宗族が、ころされる
李通は、あざなを次元。南陽の宛県の人。世よ貸殖した著姓だ。父の李守は家庭でも、家族にきびしく、宮廷のように接した。はじめ劉歆から、星曆や讖記をまなぶ。王莽の宗卿師となる。
李守の子・李通は、五威將軍の從事となる。
李通は、巫県の丞となる。王莽の末、李通は、父の讖緯に「劉氏が復興する。李氏は輔となる」とあるのを知る。李氏は富貴で、閭裏の雄である。新室の郡吏でいたくないので、郡吏をやめた。
時守在長安,光武乃微觀通曰:「即如此,當如宗卿師何?」通曰:「已自有度矣。」因複備言其計。光武既深知通意,乃遂相約結,定謀議,期以材官都試騎士日,欲劫前隊大夫及屬正,因以號令大眾。乃使光武與軼歸舂陵,舉兵以相應。遣從兄子季之長安,以事報守。
下江、新市で兵起あり。南陽もさわぐ。李通の従弟・李軼がいう。「南陽の宗室は、劉縯の兄弟なら、大事をはかれる」と。李通も、わらって同意した。
たまたま光武帝は、吏をさけて宛城にいた。李軼は、光武帝をむかえた。
李通と光武帝は、うちとけた。光武帝は「劉氏が復興する」という図讖をきいても、みとめない。ときに、李通の父・李守が、長安にいた。「もし李通が起兵したら、長安の李守がどうなるか」と、気にかけた。李通は「考えてある」と言った。材官の騎士を都試する日をねらって、起兵する。
光武帝は、前隊大夫の甄阜と、屬正の梁丘賜をおどして、号令する。李通は、光武帝と李軼を舂陵にもどし、舂陵で呼応させる。從兄の子・李季を長安にゆかせ、父の李守に計画をつたえた。
李季が、道中で死んだ。李守は、同邑の中郎将する黃顯と、仲がよい。黃顯は、李守に言った。「長安の城門は、かたい。李守は、外見がリッパだから、ぬけられない。罪を自首せよ。死なずにすむ」と。黃顯は王莽に「李守は、王莽のために自首した。李守を南陽にやり、子を説得させよ」と言った。王莽はゆるさず、李守と黃顯をころした。南陽でも、李氏の門宗64人が、宛県でやかれた。
李氏は、ただ李通や李軼という、血気にあふれる若者がでたせいで、滅びてしまった。後漢末に魯粛が、在地の人々に残念がられる。きっと魯粛は、李通とおなじ罪をおかすと考え、残念がられたのだろう。狂児は、1人でるだけで、宗族が全滅する。
李通伝:更始から光武に転職し、大司空となる
更始立,以通為柱國大將軍、輔漢侯。從至長安,更拜為大將軍,封西平王;軼為舞陰王;通從弟松為丞相。更始使通持節還鎮荊州,通因娶光武女弟伯BCA7,是為甯平公主。
李通と光武帝、李軼は、棘陽であわさる。ともに王莽の前隊をやぶる。甄阜、梁丘賜をころした。
更始帝がたつ。李通は柱國大將軍、輔漢侯。李通は更始帝にしたがい、長安で大將軍、西平王となる。李軼は、舞陰王となる。李通の從弟・李松は、丞相となる。
ぼくは思う。李通らが、光武帝の河北征伐に、くわわっていないことに注意。長安にある、更始帝の政権で、主要な官僚となっていた。
更始帝は、持節させて、李通に荊州をしずめさせた。李通は、光武帝の妹・伯姫(甯平公主)をめとる。
ぼくは思う。想像をふくらませば。李通は、更始帝政権の中心にいたくせに、光武帝にうまく合流できた。このとき、たまたま伯姫をめとったことが、きいたか。
六年夏,領破奸將軍侯進、捕虜將軍王霸等十營擊漢中賊。公孫述遣兵赴救,通等與戰於西城,破之,還,屯田順陽。
光武帝が即位すると、めされて李通は衛尉となる。
建武二年(026)、固始侯、大司農となる。光武帝が四方にゆけば、つねに李通が京師をまもった。宮室をなおし、學宮をつくる。建武五年(029)春、王梁にかわり前將軍となる。
建武六年の夏、李通は、破奸將軍の侯進、捕虜將軍の王霸ら10營をひきい、漢中の延岑をうつ。公孫述が延岑をすくう。李通は、西城(漢中)で公孫述軍をやぶる。順陽(南陽)に屯田した。
ときに天下は、ほぼさだまる。李通は榮寵をさけて、病気といって引退したい。大司徒の侯霸らが言った。
侯霸はいう。「李通は、伊尹や呂尚、蕭何や曹参とおなじだ。李通を官位にとどめよ」と。光武帝は、医者と薬をあたえ、李通を夏に大司空とした。
子音嗣。音卒,子定嗣。定卒,子黃嗣。黃卒,子壽嗣。
李通は、布衣(庶民)の身分から、光武帝を天下にさそった。光武帝の妹をめとる。しかし李通は、つつしんだ。2年後、大司空の印綬をかえした。特進として、朝廷にでた。
光武帝の皇子を封じるとき、光武帝は、李通が天下の言いだしっぺだから、李通の少子・李雄を召陵侯とした。南陽にゆくごとに、李通の父・李守に、太牢をそなえた。建武十八年(042)、李通は卒した。恭侯。光武帝も皇后も、みずから送葬した。
李通を、李音がついだ。固始侯を、ついでゆく。
李軼後為朱鮪所殺。更始之敗,李松戰死,唯通能以功名終。永平中,顯宗幸宛,詔諸李隨安眾宗室會見,並受賞賜,恩寵篤焉。
のちに李軼は、朱鮪にころされた。更始帝がやぶれると、李松は戰死した。ただ李通だけが、功名をのこせた。明帝が、恩寵をさずけた。
范曄の論にいう。孔子は「富貴は、手にいれる方法をまちがうと、たもてない」と言った。李通は、むやみに図讖をよみ、富貴をほしがった。だから、族殺された。
つぎは、王常伝です。つづきます。