表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝5・李通、王常、鄧晨、来歙伝;更始からの合流

01) 図讖で劉秀が天子になる、李通伝

『後漢書』列伝5・李通、王常、鄧晨、来歙伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

李通伝:父の李守、南陽の宗族が、ころされる

李通,字次元,南陽宛人也。世以貸殖著姓。父守,身長九尺,容貌絕異,為人嚴毅,居家如官廷。初事劉歆,好星曆讖記,為王莽宗卿師。通亦為五威將軍從事,出補巫丞,有能名。莽未,百姓愁怨,通素聞守說讖雲「劉氏復興,李氏為輔」,私常懷之。且居家富逸,為閭裏雄,以此不樂為吏,乃自免歸。

李通は、あざなを次元。南陽の宛県の人。世よ貸殖した著姓だ。父の李守は家庭でも、家族にきびしく、宮廷のように接した。はじめ劉歆から、星曆や讖記をまなぶ。王莽の宗卿師となる。

李賢はいう。李守のきびしさは、『続漢書』にある。平帝五年、王莽は郡国に、宗師をおく。宗室をつかさどる。宗師をとうとび「宗卿師」といった。

李守の子・李通は、五威將軍の從事となる。

李賢はいう。王莽は、五威将軍をおく。従事とは、駆使(パシり)の小官をいう。『漢書』蕭何伝がいう。秦の御史は、郡を監した。蕭何は、御史に従事して、事務を処理したと。ぼくは補う。蕭何は、御史のために、パシったのだ。

李通は、巫県の丞となる。王莽の末、李通は、父の讖緯に「劉氏が復興する。李氏は輔となる」とあるのを知る。李氏は富貴で、閭裏の雄である。新室の郡吏でいたくないので、郡吏をやめた。

ぼくは思う。「閭裏の雄」というのがポイント。在地豪族かな。


及下江、新市兵起,南陽騷動,通從弟軼,亦素好事,乃共計議曰:「今四方擾亂,新室且亡,漢當更興。南陽宗室,獨劉伯升兄弟泛愛容眾,可與謀大事。」通笑曰:「吾意也。」會光武避吏在宛,通聞之,即遣軼往迎光武。光武初以通士君子相慕也,故往答之。及相見,共語移日,握手極歡。通因具言讖文事,光武初殊不意,未敢當之。
時守在長安,光武乃微觀通曰:「即如此,當如宗卿師何?」通曰:「已自有度矣。」因複備言其計。光武既深知通意,乃遂相約結,定謀議,期以材官都試騎士日,欲劫前隊大夫及屬正,因以號令大眾。乃使光武與軼歸舂陵,舉兵以相應。遣從兄子季之長安,以事報守。

下江、新市で兵起あり。南陽もさわぐ。李通の従弟・李軼がいう。「南陽の宗室は、劉縯の兄弟なら、大事をはかれる」と。李通も、わらって同意した。
たまたま光武帝は、吏をさけて宛城にいた。李軼は、光武帝をむかえた。

李賢はいう。『続漢書』はいう。これより先、李通の同母弟の申徒臣は、医師だ。申徒臣は、劉縯に殺された。李軼が光武帝をまねくとき、光武帝は申徒臣の仇討をされると思い、佩刀した。李通がきくと、光武帝は「万一にそなえてです」と、言い訳した。

李通と光武帝は、うちとけた。光武帝は「劉氏が復興する」という図讖をきいても、みとめない。ときに、李通の父・李守が、長安にいた。「もし李通が起兵したら、長安の李守がどうなるか」と、気にかけた。李通は「考えてある」と言った。材官の騎士を都試する日をねらって、起兵する。

渡邉注はいう。材官は、武卒の名称。騎射にうまい武卒をいう。『史記』項羽本紀の注釈にある。材官の採用試験をやるときに、起兵したのだ。

光武帝は、前隊大夫の甄阜と、屬正の梁丘賜をおどして、号令する。李通は、光武帝と李軼を舂陵にもどし、舂陵で呼応させる。從兄の子・李季を長安にゆかせ、父の李守に計画をつたえた。

ぼくは補う。李通が、父をたすける作戦とは。事前に起兵をつたえること。まったく平凡だ。


季於道病死,守密知之,欲亡歸。素與邑人黃顯相善,時顯為中郎將,聞之,謂守曰:「今關門禁嚴,君狀貌非心,將以此安之?不如詣闕自歸。事既未然,脫可免禍。」守從其計,即上書歸死,章未及報,留闕下。會事發覺,通得亡走,莽聞之,乃系守於獄。而黃顯為請曰:「守聞子無狀,不敢逃亡,守義自信,歸命宮闕。臣顯願質守俱東,曉說其子。如遂悖逆,令守北向刎首,以謝大恩。」莽然其言。會前隊複上通起兵之狀,莽怒,欲殺守,顯爭之,遂並被誅,及守家在長安者盡殺之。南陽亦誅通兄弟、門宗六十四人,皆焚屍宛市。

李季が、道中で死んだ。李守は、同邑の中郎将する黃顯と、仲がよい。黃顯は、李守に言った。「長安の城門は、かたい。李守は、外見がリッパだから、ぬけられない。罪を自首せよ。死なずにすむ」と。黃顯は王莽に「李守は、王莽のために自首した。李守を南陽にやり、子を説得させよ」と言った。王莽はゆるさず、李守と黃顯をころした。南陽でも、李氏の門宗64人が、宛県でやかれた。

ぼくは思う。南陽劉氏が起兵するとき、李氏は犠牲になった。李氏が荊州にとどまらず、故郷をすててまで、更始帝と命運をともにするのは、宗族が滅びたからだなあ。
李氏は、ただ李通や李軼という、血気にあふれる若者がでたせいで、滅びてしまった。後漢末に魯粛が、在地の人々に残念がられる。きっと魯粛は、李通とおなじ罪をおかすと考え、残念がられたのだろう。狂児は、1人でるだけで、宗族が全滅する。


李通伝:更始から光武に転職し、大司空となる

時,漢兵亦已大合。通與光武、李軼相遇棘陽,遂共破前隊,殺甄阜、梁丘賜。
更始立,以通為柱國大將軍、輔漢侯。從至長安,更拜為大將軍,封西平王;軼為舞陰王;通從弟松為丞相。更始使通持節還鎮荊州,通因娶光武女弟伯BCA7,是為甯平公主。

李通と光武帝、李軼は、棘陽であわさる。ともに王莽の前隊をやぶる。甄阜、梁丘賜をころした。
更始帝がたつ。李通は柱國大將軍、輔漢侯。李通は更始帝にしたがい、長安で大將軍、西平王となる。李軼は、舞陰王となる。李通の從弟・李松は、丞相となる。

渡邉注はいう。柱國大將軍は、雑号。ほかに史料なし。
ぼくは思う。李通らが、光武帝の河北征伐に、くわわっていないことに注意。長安にある、更始帝の政権で、主要な官僚となっていた。

更始帝は、持節させて、李通に荊州をしずめさせた。李通は、光武帝の妹・伯姫(甯平公主)をめとる。

李賢はいう。甯平県は、淮陽国にぞくす。ぼくは思う。このあと更始帝は、光武帝により、淮陽王になる。関係があるのかな。いま伯姫をめとったのは、光武帝との関係を、かためるためでない。光武帝は、更始帝政権の一員にすぎない。なんとなく、南陽劉氏との姻戚になっただけだ。たまたま光武帝と、近かった。
ぼくは思う。想像をふくらませば。李通は、更始帝政権の中心にいたくせに、光武帝にうまく合流できた。このとき、たまたま伯姫をめとったことが、きいたか。


光武即位,征通為衛尉。建武二年,封固始侯,拜大司農。帝每征討四方,常令通居守京師,鎮百姓,修宮室,起學宮。五年春,代王梁為前將軍。
六年夏,領破奸將軍侯進、捕虜將軍王霸等十營擊漢中賊。公孫述遣兵赴救,通等與戰於西城,破之,還,屯田順陽。

光武帝が即位すると、めされて李通は衛尉となる。

ぼくは思う。ぢかに書いてないが。ほかの史料と照合すると、李通は、荊州の平定を失敗したのだ。荊州の豪族は、自守する。更始帝に、協力してくれない。だから李通は、官位をおおはばに、おとしても、更始帝から光武帝に転職したのだろう。

建武二年(026)、固始侯、大司農となる。光武帝が四方にゆけば、つねに李通が京師をまもった。宮室をなおし、學宮をつくる。建武五年(029)春、王梁にかわり前將軍となる。

渡邉注はいう。前将軍は、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍につぐ。方面司令官になれる。『後漢書』百官志1。

建武六年の夏、李通は、破奸將軍の侯進、捕虜將軍の王霸ら10營をひきい、漢中の延岑をうつ。公孫述が延岑をすくう。李通は、西城(漢中)で公孫述軍をやぶる。順陽(南陽)に屯田した。

時,天下略定,通思欲避榮寵,以病上書乞身。詔下公卿群臣議。大司徒侯霸等曰:「王莽篡漢,傾亂天下。通懷伊、呂、蕭、曹之謀,建造大策,扶助神靈,輔成聖德。破家為國。忘身奉主,有扶危存亡之義。功德最高,海內所聞。通以天下平定,謙讓辭位。夫安不忘危,宜令通居職療疾。欲就諸侯,不可聽。」於是詔通勉致醫藥,以時視事。其夏,引拜為大司空。

ときに天下は、ほぼさだまる。李通は榮寵をさけて、病気といって引退したい。大司徒の侯霸らが言った。

渡邉注はいう。侯霸は、『後漢書』侯霸伝。成帝のとき、太子舎人。故事にくわしく、尚書令となる。後漢の祭事の基礎をつくった。

侯霸はいう。「李通は、伊尹や呂尚、蕭何や曹参とおなじだ。李通を官位にとどめよ」と。光武帝は、医者と薬をあたえ、李通を夏に大司空とした。

ぼくは思う。李通が、どこまで自覚的に、光武帝の天下をつくったのか、わかりにくい。これまでの史料をつなげば「ケンカっ早い劉縯に目をつけ、光武帝を窓口にして、南陽劉氏との関係をつくった。一族の滅亡をかえりみず、更始帝についた。だが荊州平定に失敗した。光武帝との婚姻関係をいかして、ほぼ自分では何もしていないのに、光武帝を天下とりに着手されたという手柄が、転がりこんだ」という感じかな。


通布衣唱義,助成大業,重以甯平公主故,特見親重。然性謙恭,常欲避權勢。素有消疾,自為宰相,謝病不視事,連年乞骸骨,帝每優寵之。令以公位歸第養疾,通複固辭。積二歲,乃聽上大司空印綬,以特進奉朝請。有司奏請封諸皇子,帝感通首創大謀,即日封通少子雄為召陵侯。每幸南陽,常遣使者乙太牢祠通父塚。十八年卒,諡曰恭侯。帝及皇后親臨吊,送葬。
子音嗣。音卒,子定嗣。定卒,子黃嗣。黃卒,子壽嗣。

李通は、布衣(庶民)の身分から、光武帝を天下にさそった。光武帝の妹をめとる。しかし李通は、つつしんだ。2年後、大司空の印綬をかえした。特進として、朝廷にでた。

渡邉注はいう。特進は、爵位の1つ。20等爵制の最高位である、列侯の亜種。封土はないが、朝政や行事に参加できる。席次は、三公につぐ。『後漢書』百官志5。へえ!

光武帝の皇子を封じるとき、光武帝は、李通が天下の言いだしっぺだから、李通の少子・李雄を召陵侯とした。南陽にゆくごとに、李通の父・李守に、太牢をそなえた。建武十八年(042)、李通は卒した。恭侯。光武帝も皇后も、みずから送葬した。 李通を、李音がついだ。固始侯を、ついでゆく。


李軼後為朱鮪所殺。更始之敗,李松戰死,唯通能以功名終。永平中,顯宗幸宛,詔諸李隨安眾宗室會見,並受賞賜,恩寵篤焉。

のちに李軼は、朱鮪にころされた。更始帝がやぶれると、李松は戰死した。ただ李通だけが、功名をのこせた。明帝が、恩寵をさずけた。

論曰:子曰:「富與貴是人之所欲,不以其道得之,不處也。」李通豈知夫所欲而未識以道者乎!夫天道性命,聖人難言之,況乃億測微隱,倡狂無妄之福,汙滅親宗,以觖一切之功哉!昔蒙穀負書,不徇楚難;即墨用齊,義雪燕恥。彼之趣舍所立,其殆與通異乎?

范曄の論にいう。孔子は「富貴は、手にいれる方法をまちがうと、たもてない」と言った。李通は、むやみに図讖をよみ、富貴をほしがった。だから、族殺された。

ぼくは思う。范曄は、李通が光武帝をエスコートしたことを、ほめていない。むしろ、宗族をほろぼしたことを、せめてる。李通は、ただの結果オーライにすぎないことを、范曄は見ぬいていた。さすが、劉宋からのクールな視線である。


つぎは、王常伝です。つづきます。