表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝5・李通、王常、鄧晨、来歙伝;更始からの合流

03) 図讖をわらわない鄧晨伝

『後漢書』列伝5・李通、王常、鄧晨、来歙伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

鄧晨伝:劉秀が天子となる図讖をよろこぶ

鄧晨字偉卿,南陽新野人也。世吏二千石。父宏,預章都尉。晨初聚光武姊元。王莽末,光武嘗與兄伯升及晨俱之宛,與穰人蔡少公等宴語。少公頗學圖讖,言劉秀當為天子。或曰:「是國師公劉秀乎?」光武戲曰:「何用知非僕耶?」坐者皆大笑,晨心獨喜。及光武與家屬避吏新野,舍晨廬,甚相親愛。晨因謂光武曰:「王莽悖暴,盛夏斬人,此天亡之時也。往時會宛,獨當應耶?」光武笑不答。

鄧晨は、あざなを偉卿という。南陽の新野の人。世よ吏二千石。

李賢はいう。『東観記』はいう。鄧晨の曽祖父は、揚州刺史の鄧隆。祖父は、交趾刺史の鄧勲。

父の鄧宏は、預章都尉。はじめ鄧晨は光武帝の姉・劉元をめとる。王莽末、劉縯と光武帝は、鄧晨とともに、宛城にゆく。穰県の蔡少公らと、宴語した。蔡少公は図讖をまなび「劉秀が天子となる」と言った。ある人が「國師公の劉秀(劉歆)か」と言った。光武帝はたわむれて「私かも知れない」と言った。みな笑ったが、鄧晨だけは、よろこんだ。

渡邉注はいう。劉歆は、隗囂伝に注釈した。ぼくは思う。『漢書』も読みたい。
李賢はいう。『東観記』にいう。鄧晨は、劉秀と同乗して、外出した。皇帝の使者にあったが、光武帝らは下車せず。使者はいかり、光武帝らをはずかしめた。光武帝は江夏の卒史、鄧晨は侯家の丞だといつわり、使者に張りあった。ウソがバレて亭で罪されたが、新野の潘叔にたすけられたと。
ぼくは思う。いま『東観記』は、まったく新しいエピソードをくれた。

光武帝と家属が、新野に郡吏をさけ、鄧晨にかくまわえた。鄧晨は光武帝にいった。「王莽は、真夏に人をきった。劉秀こそ、天子にふさわしい」と。光武帝は、わらって答えず。

李賢はいう。王莽は020年「軍隊をうごかすとき、さわいで違法したら、秋冬をまたず、春夏でも人をきれ」と下書した。みな、ふるえあがった。


及漢兵起,晨將賓客會棘陽。漢兵敗小長安,諸將多亡家屬,光武單馬遁走。遇女弟伯BCA7,與共騎而奔。前行複見元,超令上馬。元以手捴曰:「行矣,不能相救,無為兩沒也。」會追兵至,元及三女皆遇害。漢兵退保棘陽,而新野宰乃汙晨宅,焚其塚墓。宗族皆恚怒,曰:「家自富足,何故隨婦家人入湯鑊中?」最終無恨色。

漢兵がたつと、鄧晨は賓客をひきい、棘陽であわさる。小長安でやぶれると、おおくの諸将は家属をうしなう。光武帝は、単騎でにげ、妹の劉伯姫(李通の妻)をひろった。光武帝は、姉の劉元(鄧晨の妻)にあった。劉元は「馬に3人は乗れない」といって、にげなかった。劉元は、3人の娘とともに、王莽軍にころされた。
新野の宰は、鄧氏の塚墓をやいた。宗族は、鄧晨にいかった。「鄧氏はゆたかなのに、なぜ嫁(光武帝の姉)のせいで、釜ゆでにされるのか」と。だが鄧晨は、光武帝をうらまず。

ぼくは思う。豪族の自立性をあらわす史料として、ひかれます。豪族は、自立してゆたかなら、わざわざ光武帝に殉じる必要はない。でも今回は、豪族として繁栄するために、光武帝の姉と婚姻したんだから、自業自得だ。まさか光武帝が、王莽にはむかって挙兵するなんて、予想できない。ぼくは思う。鄧晨は「うらみの色なし」とあるが、そりゃ、そうだろう。後漢が天下をとり、あとから証言したんだろうから。


更始立,以晨為偏將軍。與光武略地潁川,俱夜出昆陽城,擊破王尋、王邑。又別徇陽翟以東,至京、密,皆下之。更始北都洛陽,以晨為常山太守。會王郎反,光武自薊走信都,晨亦間行會于巨鹿下,自請從擊邯鄲。光武曰:「偉卿以一身從我,不如以一郡為我北道主人。」乃遣晨歸郡。光武追銅馬、高胡群賊于冀州,晨發積射士千人,又遣委輸給軍不絕。光武即位,封晨房子侯。帝又感悼姊沒于亂兵,追封諡元為新野節義長公主,立廟於縣西。封晨長子汎為吳房侯,以奉公主之祀。

鄧晨は、更始帝の偏将軍となる。光武帝とともに、潁川をとなえ、昆陽をかこむ王尋と王邑をやぶる。べつに陽翟より東をとなえ、京県と密県(ともに河南)をくだす。更始帝が洛陽にゆくと、鄧晨は常山太守となる。

ぼくは思う。河北にいけと、無茶ぶりされた点で、更始帝政権のもとでは、光武帝と鄧晨は、おなじ役まわりである。河北に、なんの勢力もおよばないのに、河北をしたがわせなければ、ならない。自殺行為だな。

たまたま王郎がそむいた。光武帝は、薊県から信都ににげた。鄧晨は、鉅鹿のもとで、光武帝にあわさる。鄧晨が「邯鄲(王郎の根拠地)をうつ」と言うと、光武帝は「身ひとつでなく、常山の兵を連れてこい」と言った。鄧晨は、常山にゆく。

ぼくは思う。鄧晨は、光武帝から常山太守に任じられたが、常山とはゆかりがない。光武帝を翻訳すると「王郎は手ごわい。すぐには勝てない。鄧晨は、いちおう任じられた常山を切りとり、そのあと王郎と、たたかおう」となるか。

光武帝が銅馬や高胡らを冀州でうつと、鄧晨は、射士や物資を、供給した。光武帝が即位すると、鄧晨は、房子侯となる。光武帝は、姉の劉元をいたみ、新野節義長公主をおくる。鄧晨の長子・鄧汎を吳房侯として、劉元をまつらせた。

ぼくは思う。鄧晨のキャラは、「天子になるのは劉秀」という予言と、光武帝の姉にして鄧晨の妻だった劉元。この2つだけで、鄧晨のことは、充分である。


建武三年,征晨還京師,數宴見,說故舊平生為歡。晨從容謂帝曰:「僕竟辦之。」帝大笑。從幸章陵,拜光祿大夫,使持節監執金吾賈複等擊平邵陵、新息賊。四年,從幸壽春,留鎮九江。

建武三年(027)、鄧晨を洛陽にめして、むかしの話をした。鄧晨は「図讖が実現した」と言うと、光武帝は大笑した。光武帝にしたがい章陵(舂陵)へゆき、光祿大夫となる。持節して、執金吾の賈複らを監し、邵陵、新息の賊をたいらげた。
四年(028)、光武帝にしたが寿春にゆき、九江にとどまる。

晨好樂郡職,由是複拜為中山太守,吏民稱之,常為冀州高第。十三年,更封南B171侯。入奉朝請,複為汝南太守。十八年,行幸章陵,征晨行廷尉事。從至新野,置酒酣宴,賞賜數百千萬,複遣歸郡。晨興鴻郤陂數千頃田,汝土以殷,魚稻之饒,流衍它郡。明年,定封西華侯,複征奉朝請。二十五年卒,詔遣中謁者備公主官屬禮儀,招迎新野主魂,與晨合葬於北芒。乘輿與中宮親臨喪送葬。諡曰惠侯。
小子棠嗣,後徙封武當。棠卒,子固嗣。固卒,子國嗣。國卒,子福嗣,永建元年卒,無子,國除。

鄧晨は、郡太守をこのんだので、中山太守となる。治績は、つねに冀州の太守のうち、高第(考課がトップ)。汝南太守となる。
建武十八年、章陵にしたがい、廷尉を代行させた。新野で酒宴した。汝南にかえる。鴻郤陂をひらいて、汝南の漁獲と穀物をゆたかにした。ほかの郡まで、収穫がながれた。建武二五(049)、鄧晨はしんだ。恵侯。鄧棠がつぐ。

つぎ、最終回。おもしろい来歙伝です。つづきます。