07) 寇恂が、上谷太守の耿況に説く
『後漢書』列伝6・鄧禹伝、寇恂伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
寇恂伝:上谷太守の寇恂を、ときおとす
王莽敗,更始立。使使者徇郡國,曰「先降者複爵位」。恂從耿況迎使者于界上,況上印綬,使者納之,一宿無還意。恂勒兵入見使者,就請之。使者不與,曰:「天王使者,功曹欲脅之邪?」恂曰:「非敢脅使君,竊傷計之不詳也。今天下初定,國信未宣,使君建節銜命,以臨四方,郡國莫不延頸傾耳,望風歸命。今始至上穀而先墮大信,沮向化之心,生離畔之隙,將複何以號令它郡乎?且耿府君在上穀,久為使人所親,今易之,得賢則造次未安,不緊則只更生亂。為使君計,莫若複之以安百姓。」使者不應,恂左右以使者命召況。況至,恂進取印綬帶況。使者不得已,乃承制詔之,況受而歸。
寇恂は、あざなを子翼。上谷の昌平の人だ。世よ著姓だ。寇恂は、上谷郡の功曹となる。太守の耿況におもんじられた。
王莽がやぶれ、更始の使者が「さきにくだれば、爵位を保証する」と言った。
後漢末を見るときも、支配機構をうばうだけで(ほとんど戦わずに) 支配者がかわる場合と、泥仕合をやる場合の2種類があるだろう。切りわけて、それぞれ特徴を論じたい。
更始の使者が、耿況の上谷太守の印綬をうばったので、寇恂がうばいかえした。更始の使者は、耿況の上谷太守を、保証した。
そういう意味では、前漢から王莽へは、きれいにスライドした。何がちがうのか。太守の担当領域(郡名)や、太守の名称をかえたことは、事実上、天下統一戦である。
以後、李賢も渡邉注も、めぼしいものがないと、抄訳もとばします。
王郎が、上谷をとなえにきた。寇恂は、門下掾の閔業ともに、上谷太守の耿況にいった。「邯鄲の王郎は、にわかに起兵しただけ。王莽がおそれたのは、劉縯だけ。光武につけ」と。寇恂は、さらにいう。
「ここ上谷郡の資源と、東の漁陽郡(太守は彭寵)とむすべば、王郎に対抗できる」と。
王郎は、寇恂を昌平でせめた。耿況の子・耿延と、広阿県にゆき、光武にあう。寇恂を、偏将軍、承義侯とする。鄧禹と謀議して、鄧禹は寇恂とまじわった。
寇恂伝:河内を更始からまもり、軍糧をはこぶ
光武は河内をたいらげたが、更始帝の大司馬・朱鮪が、洛陽にいる。并州もたいらがず。鄧禹は「河内を寇恂にまかせよ。寇恂は、高帝の蕭何とおなじだ。河内は、北は上党、南は洛陽につうじる」と言った。
光武は寇恂に、河内の軍糧をまかせ、燕代にゆく。寇恂は、河内の属県に、文書をうつし、竹の矢、馬や租をあつめた。
朱鮪は、寇恂が河内にのこるときき、討難將軍の蘇茂、副將の賈彊に、温県をかこませた。寇恂は、温県をすくった。光武の偏将軍の馮異がきたので、「光武の大軍がきた」とさわぎ、更始軍をおいかえした。ぎゃくに朱鮪が、洛陽でびびった。
光武は「更始の蘇茂が、河内をやぶった」ときいたが、誤報だとさとった。光武の思ったとおりだった。光武は、皇帝に即位した。
ときに寇恂は、ぞくぞく光武に軍糧をおくった。寇恂の同門する茂陵の董崇が、寇恂にいう。「寇恂は、ねたまれる。寇恂は蕭何にならい、子弟を光武に従軍させるべきだ」と。
寇恂は、兄子の寇張、姊子の谷崇を、先陣においてもらった。ともに偏将軍となる。
頴川太守となり、賈復とあらそい、盗賊を平定
建武二年(026)、寇恂は、上書した人を拷問して、免じられた。このとき、頴川の嚴終、趙敦は、密県の賈期とつらなり、頴川をせめた。寇恂は、免じられて数ヶ月で潁川太守となり、破奸將軍の侯進とともに、頴川をたいらげた。雍奴侯。
執金吾の賈復は、汝南にいた。賈復の部将が、頴川で人をころした。
寇恂は、賈復の部将を、市場でころした。賈復と寇恂が、にくみあい、殺害をねらった。光武が、仲裁した。「天下が定まらないのに、2虎が私闘するなよ」と。賈復と寇恂は、仲なおりした。
七年,代朱浮為執金吾。明年,從車駕擊隗囂,而潁川盜賊群起,帝乃引軍還,謂恂曰:「潁川迫近京師,當以時定。惟念獨卿能平之耳,從九卿複出,以憂國可也。」恂對曰:「潁川剽輕,聞陛下遠逾阻險,有事隴、蜀,故狂狡乘間相詿誤耳。如聞乘輿南向,賊必惶怖歸死。臣願執銳前驅。」即日車駕南征,恂從至潁川,盜賊悉降,而竟不拜郡。百姓遮道曰:「願從陛下複借寇君一年。」乃留恂長社,鎮撫使人,受納餘降。
建武三年(027)、汝南太守となる。驃騎將軍の杜茂に寇恂をたすけさせ、盗賊をきよめた。郡中は、事件なし。寇恂は学問をこのみ、郷校をなおした。『左氏春秋』の講師をまねき、寇恂もまなんだ。
建武七年(031)、寇恂は、朱浮にかわり執金吾となる。明年(032)、光武にしたがい、隗囂をうつ。頴川がそむいた。光武は寇恂に言った。「頴川は、洛陽にちかい。頴川は、寇恂しか、おさめられない。九卿の執金吾(中2千石)から、太守(2千石)にもどすのは、ランクがおちるが、たのむ」と。
寇恂がもどると、頴川の盗賊はくだった。寇恂は、頴川太守とならず。百姓は「寇恂を、あと1年でも頴川太守に」とねがった。寇恂は、長社県にとどまり、のこりの盗賊をしずめた。
『資治通鑑』にもあった。光武が頴川にそむかれることは、曹操が馬超をうちにゆき、河間にそむかれることにおなじ。032年、略陽の陥落、隗囂をかこむ
寇恂伝:隗囂の将軍・安定の高峻の、軍師をきる
はじめ隗囂の将軍・安定の高峻は、高平県の第一城にいた。待詔の馬援が、高峻を説きくだした。河西に通路がひらく。中郎将の来歙が承制して、高峻を通路将軍、関内侯とした。
のちに高峻は、光武にそむく。隗囂が死ぬと、高平県をまもった。建威大将軍の耿延は、太中大夫の竇士、武威太守の梁統をひきいたが、1年たっても、高峻がおちない。
建武十年(034)、光武は、高平に親征したい。寇恂がいさめた。「長安にいろ。長安は、洛陽と高平のあいだにある。あまり西にゆくと、頴川の二の舞がおこる」と。光武はきかず、汧県にゆくが、高峻はくだらず。光武は寇恂に「耿弇の5営をつかって、高峻をおとせ」と言った。
寇恂は、高峻の軍師・皇甫文をきって、高峻をくだした。寇恂は言った。「皇甫文は、光武にくだる気がなかった。だから皇甫文をもてなしても、意味がない。皇甫文をころして、高峻をおどした」と。諸将は、感心した。
鄧禹の孫と、寇恂の孫が、結婚する
初所與謀閔業者,恂數為帝言其忠,賜爵關內侯,官至遼西太守。
十三年,複封損庶兄壽為洨侯。後徙封損扶柳侯。損卒,子B341嗣,徙封商鄉侯。B341卒,子襲嗣。
恂女孫為大將軍鄧騭夫人,由是寇氏得志于永初間。
寇恂は経典にくわしく、秩奉は朋友にあたえた。宰相の器量といわれた。建武十二年(036)、寇恂は死んだ。威侯。寇恂のまごは、大将軍の鄧隲(鄧禹の孫)にとつぐ。寇恂の曾孫が、寇栄だ。
贊曰:元侯淵謨,乃作司徒。明啟帝略,肇定秦都。勳成智隱,靜其如愚。子翼守溫,蕭公是埒。系兵轉食,以集鴻烈。誅文屈賈,有剛有折。
范曄の論にいう。『左氏伝』はいう。喜怒をそのまま表現しないと。喜んでも、おもねらない。怒っても、怒りの原因を考えられる。これが君子だ。孔子は「伯夷と叔斉は、むかしの悪事をうらまず」と言った。寇恂も、おなじだ。
范曄の賛にいう。鄧禹は、長安をとったあとは、愚者のように知恵をかくした。寇恂は、皇甫文をころす強さがあるが、賈復に屈する強さもあった。
范曄のいうように、プラスとマイナスを、あわせもつ鄧禹と寇恂。意図した結果か、じつはマイナスのエピソードは、不本意な結果なのか、それはわからない。ともあれ、2人の孫が結婚し、義兄弟になったところで、『後漢書』列伝6は、おひらき。どうも、ありがとうございました。110722