表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝7・方面司令官たる馮異、延岑、賈復伝

10) 荊州を平定した岑彭伝

『後漢書』列伝7・馮異伝、岑彭伝、賈復伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

やるのを忘れていた、岑彭伝の冒頭

岑彭字君然,南陽棘陽人也。王莽時,守本縣長。漢兵起,攻拔棘陽,彭將家屬奔前隊大夫甄阜。阜怒彭不能固守,拘彭母妻,令效功自襯。彭將賓客戰鬥甚力。及甄阜死,彭被創,亡歸宛,與前隊貳嚴說共城守。漢兵攻之數月,城中糧盡,人相食,彭乃與說舉城降。


諸將欲誅之,大司徒伯升曰:「彭,郡之大吏,執心堅守,是其節也。今舉大事,當表義士,不如封之,以勸其後。」更始乃封彭為歸德侯,令屬伯升。及伯升遇害,彭複為大司馬朱鮪校尉,從鮪擊王莽楊州牧李聖,殺之,定淮陽城。鮪薦彭為淮陽都尉。更始遣立威王張B421與將軍徭偉鎮淮陽。偉反,擊走B421。彭引兵攻偉,破之。遷潁川太守。


會舂陵劉茂起兵,略下潁川,彭不得之官,乃與麾下數百人從河內太守邑人韓歆。會光武徇河內,歆議欲城守,彭止不聽。既而光武至懷,歆迫急迎降。光武知其謀,大怒,收歆置鼓下,將斬之。召見彭,彭因進說曰:「今赤眉入關,更始危殆,權臣放縱,矯稱詔制,道路阻塞,四方蜂起,群雄競逐,百姓無所歸命。竊聞大王平河北,開王業,此誠皇天祐漢,士人之福也。彭幸蒙司徒公所見全濟,未有報德,旋被禍難,永恨於心。今複遭遇,願出身自效。」光武深接納之。彭因言韓歆南陽大人,可以為用。乃貰歆,以為鄧禹軍師。

更始大將軍呂植將兵屯淇園,彭說降之,於是拜彭為刺奸大將軍,使督察眾營,授以常所持節,從平河北。光武即位,拜彭廷尉,歸德侯如故,行大將軍事。與大司馬吳漢,大司空王梁,建義大將軍朱祐,右將軍萬脩,執金吾賈複,驍騎將軍劉植,楊化將軍堅鐔,積射將軍侯進,偏將軍馮異、祭遵、王霸等,圍洛陽數月。朱鮪等堅守不肯下。帝以彭嘗為鮪校尉,令往說之。鮪在城上,彭在城下,相勞苦歡語如平生。彭因曰:「彭往者得執鞭侍從,蒙薦舉拔擢,常思有以報恩。今赤眉已得長安,更始為三王所反,皇帝受命,平定燕、趙,盡有幽、冀之地,百姓歸心,賢俊雲集,親率大兵,來攻洛陽。天下之事,逝其去矣。公雖嬰城固守,將何待乎?」鮪曰:「大司徒被害時,鮪與其謀,又諫更始無遣蕭王北伐,誠自知罪深。」彭還,具言於帝。帝曰:「夫建大事者,不忌小怨。鮪今若降,官爵可保,況誅罰乎?河水在此,吾不食言。」彭複往告鮪,鮪從城上下索曰:「必信,可乘此上。」彭趣索欲上。鮪見其誠,即許降。後五日,鮪將輕騎詣彭。顧敕諸部將曰:「堅守待我。我若不還,諸君徑將大兵上轘轅,歸郾王。」乃面縛,與彭俱詣河陽。帝即解其縛,召見之,複令彭夜送鮪歸城。明旦,悉其眾出降,拜鮪為平狄將軍,封扶溝侯。鮪,淮陽人,後為少府,傳封累代。


岑彭:南陽で呉漢があばれ、鄧奉がそむく

建武二年,使彭擊荊州,下ED77、葉等十餘城。是時,南方尤亂。南郡人秦豐據黎丘,自稱楚黎王,略十有二縣;董訁斤起堵鄉;許邯起杏;又,更始諸將各擁兵據南陽諸城。帝遣吳漢伐之,漢軍所過多侵暴。時,破虜將軍鄧奉謁歸新野,怒吳漢掠其鄉里,遂反,擊破漢軍,獲其輜重,屯據淯陽,與諸賊合從。秋,彭破杏,降許邯,遷征南大將軍。複遣朱祐、賈複及建威大將軍耿弇,漢忠將軍王常,武威將軍郭守,越騎將軍劉宏,偏將軍劉嘉、耿植等,與彭並力討鄧奉。先擊堵鄉,而奉將萬余人救董。、奉皆南陽精兵,彭等攻之,連月不克。

建武二年(026)、岑彭は荊州の10余城をおとす。南郡の秦豐は、黎丘12県で、で楚黎王をとなえる。董訢は堵郷、許邯は杏聚(復陽県)。更始の諸将も、南陽にこもる。

李賢はいう。『東観漢記』はいう。岑彭は、キ県の人。長安で律令をまなび、県吏となる。023年、起兵した。12県で1万。ぼくは思う。県名がならぶが、はぶく。長安でまなんだということは、光武と同タイプの人物です。へんな盗賊とは、ちがうんです。

呉漢が荊州をせめ、あばれた。破虜將軍の鄧奉は、新野で呉漢にいかり、光武にそむき、淯陽にいる。

渡邉注はいう。破虜将軍は、雑号。光武の故官なので、就任事例がおおい。董卓、孫堅も任命された。
ぼくは思う。呉漢の暴発は、有名な事件です。

同年秋、岑彭は、許邯を杏聚でくだし、征南大將軍。朱祐、賈複、建威大將軍の耿弇、漢忠將軍の王常、武威將軍郭守、越騎將軍の劉宏、偏將軍の劉嘉、耿植らをつかわし、あわせて鄧奉をうつ。さきに堵郷をうった。光武にそむいた鄧奉は、董訢をすくった。南陽の精兵だから、岑彭らは、かてない。

ぼくは思う。光武は、将軍をたっぷり動員して、鄧奉をうちにきた。鄧奉は、光武の身内なのに。きた将軍のうち、耿植だけ列伝がない。渡邉注はいう。耿植は、耿純の従兄弟。のちに輔威将軍、武邑侯。耿純伝にある。
『後漢書』耿純伝を抄訳、車1台で河北平定する光武帝を、支えた信者


三年夏,帝自將南征,至葉,董訢別將將數千人遮首,車騎不可得前。彭奔擊,大破之。帝至堵陽,鄧奉夜逃歸淯陽,董訁斤降。彭複與耿弇、賈複及積弩將軍傅俊、騎都尉臧宮等從追鄧奉于小長安,帝率諸將親戰,大破之。奉迫急,乃降。帝憐奉舊功臣,且釁起吳漢,欲全宥之。彭與耿弇諫曰:「鄧奉背恩反逆,暴師經年,致賈複傷痍,朱祐見獲。陛下既至,不知悔善,而親在行陳,兵敗乃降。若不誅奉,無以懲惡。」於是斬之。奉者,西華侯鄧晨之兄子也。

建武三年夏、光武が荊州に、親征した。光武が、堵陽にきた。鄧奉は淯陽ににげ、董訢がくだる。

李賢はいう。『続漢書』はいう。鄧奉は、斥候した。光武の車騎が、1日ずっとつづくので、鄧奉は数におそれ、にげた。

岑彭、耿弇、賈複、積弩將軍の傅俊、騎都尉の臧宮らは、小長安に鄧奉をおう。鄧奉はくだった。光武は、鄧晨をたすけたい。鄧晨が旧臣で、呉漢がわるいからだ。だが鄧奉と耿弇は「鄧奉を斬れ」といい、斬らせた。
鄧奉は、西華侯の鄧晨の兄子である。

鄧晨伝は、こちら。鄧晨は、光武の姉をめとっている。鄧晨は、光武に巻きこまれ、一族からうとまれた。鄧奉のほうが、荊州の豪族として、多数派のうごきだった。
『後漢書』列伝5・図讖をわらわない鄧晨伝


岑彭:岑彭と田戎をうち、荊州平定、交趾と開通

車駕引還,令彭率傅俊、臧宮、劉宏等三萬余人南擊秦豐,拔黃郵,豐與其大將蔡宏拒彭等於鄧,數月不得進。帝怪以讓彭,彭懼,於是夜勒兵馬,申令軍中,使明旦西擊山都。乃緩所獲虜,令得逃亡,歸以告豐,豐即采其軍西邀彭。彭乃潛兵度沔水,擊其將張楊于阿頭山,大破之。從川穀間伐木開道,直襲黎丘,擊破諸屯兵。豐聞大驚,馳歸救之。彭與諸將依東山為營,豐與蔡宏夜攻鼓,彭豫為之備,出兵逆擊之,豐敗走,追斬蔡宏。更封彭為舞陰侯。

光武は、荊州からかえる。岑彭は、傅俊、臧宮、劉宏らをひきい、秦豊をうつ。黃郵聚をぬく。秦豊の大将・蔡宏に鄧県でふせがれて、数ヶ月、岑彭はすすめない。光武が、岑彭をとがめた。岑彭は、おそれて、戦局をうごかした。秦豊をやぶり、蔡宏をきった。舞陰侯。

戦闘の経緯は、『全訳後漢書』列伝1の467頁。


秦豐相趙京舉宜城降,拜為成漢將軍,與彭共圍豐于黎丘。時田戎擁眾夷陵,聞秦豐被圍,懼大兵方至,欲降。而妻兄辛臣諫戎曰:「今四方豪傑各據郡國,洛陽地如掌耳,不如按甲以觀其變。」戎曰:「以秦王之強,猶為征南所圍,豈況吾邪?降計決矣。」

秦豐の相・趙京は、宜城をあげてくだる。趙京は成漢將軍となり、岑彭とともに、秦豊を黎丘にかこむ。田戎は夷陵にいたが、光武にくだりたい。妻兄の辛臣は、田戎をいさめた。「光武は、洛陽だけでせまい。おそれるな」と。田戎は「秦王は、せまくても勝った。光武は、こわい」といった。

李賢はいう。『東観漢記』はいう。田戎は、西平の人。同郡の陳義とともに、夷陵で盗賊する。024年、夷陵をおとした。陳義は黎丘大将軍、田戎は掃地大将軍をとなえた。『襄陽耆旧記』はいう。田戎は周成王、陳義は臨江王をとなえた。
『続漢書』はいう。辛臣は地図をつくり、彭寵、張歩、董憲、公孫述の郡国をしめした。光武の洛陽が、せまいことをしめいた。ぼくは思う。この辛臣との会話、小説にしたら、きわだつなあ!


四年春,戎乃留辛臣守夷陵,自將兵沿江溯沔止黎丘,刻期日當降,而辛臣於後盜戎珍寶,從間道先降于彭,而以書招戎。戎疑必賣己,遂不敢降,百反與秦豐合,彭出兵攻戎,數月,大破之,其大將伍公詣彭降,戎亡歸夷陵。帝幸黎丘勞軍,封彭吏士有功者百餘人。彭攻秦豐三歲,斬首九萬余級,豐餘兵裁千人,又城中食且盡。帝以豐轉弱,令朱祐代彭守之,使彭與傅俊南擊田戎,大破之,遂拔夷陵,追至秭歸。戎與數十騎亡入蜀,盡獲其妻子士眾數萬人。

建武四年(028)、田戎は辛臣にハメられ、夷陵にひいた。

おなじ話を『資治通鑑』でやった。028年春夏秋、田戎、彭寵、董憲

光武は黎丘にきて、ねぎらった。岑彭は、秦豊を3年せめ、秦豊をおいつめた。朱祐が岑彭にかわり、秦豊をかこむ。岑彭と傅俊は、田戎をうった。岑彭は、田戎の夷陵をぬき、秭歸にゆく。田戎は、蜀にゆく。

彭以將伐蜀漢,而夾川穀少,水險難漕運,留威虜將軍馮駿軍江州,都尉田鴻軍夷陵,領軍李玄軍夷道,自引兵還屯津鄉,當荊州要會,喻告諸蠻夷,降者奏封其君長。初,彭與交阯牧鄧讓厚善,與讓書陳國家威德,又遣偏將軍屈充移檄江南,班行詔命。於是讓與江夏太守侯登、武陵太守王堂、長沙相韓福、桂陽太守張隆、零陵太守田翕、蒼梧太守杜穆、交恥太守錫光等,相率遣使貢獻,悉封為列侯。或遣子將兵助彭征伐。於是江南之珍始流通焉。

岑彭は、蜀漢をうつ。穀物がすくなく、水流がけわしい。威虜將軍の馮駿を江州に、都尉の田鴻を夷陵に、領軍の李玄を夷道に、岑彭は津郷にもどる。荊州の蛮夷をくだす。

李賢はいう。『東観漢記』はいう。長沙中尉の馮駿は、兵をひきいて岑彭にあい、璽書をうけ、威虜將軍となると。渡邉注はいう。中尉は、諸侯国におかれた、軍事をつかさどる官職。郡の都尉にあたる。『漢書』百官公卿表。
李賢はいう。『東観漢記』はいう。岑彭のいた津郷は、荊州と揚州の咽喉にあたる。

はじめ彭寵と、交阯牧の鄧讓は、仲がよい。偏將軍の屈充をやり、光武の文書をおくらせた。

李賢はいう。『東観漢記』はいう。鄧譲の妻は、陰麗華の姉。

鄧譲は、江夏太守の侯登、武陵太守の王堂、長沙相の韓福、桂陽太守の張隆、零陵太守の田翕、蒼梧太守の杜穆、交趾太守の錫光らとともに、くだった。列侯。くだった列侯らは、子を岑彭につけた。はじめて江南の珍産が、流通した。

李賢はいう。『続漢書』はいう。張隆は、子の張曄を、岑彭につけた。すべての列侯が、子をだしたのでない。
ぼくは補う。いまくだった列侯は、みな更始の地方官。光武の天下統一は、更始の地方官を、自分の味方にしてゆくプロセスにちかい。


岑彭:隗囂を西城で水没させ、殿軍する

六年冬,征彭詣京師,數召宴見,厚加賞賜。複南還津鄉,有詔過家上塚,大長稱以朔望問太夫人起居。

建武六年冬、岑彭は洛陽で、ほめられる。津郷にもどる。家で塚にまいる。大長秋は、朔望(1日と15日)に、太夫人(岑彭の母)にうかがう。

李賢はいう。大長秋は、皇后の属官。漢代のルールでは、列侯の母より上を、太夫人という。へえ!


八年,彭引兵從車駕破天水,與吳漢圍隗囂於西域。時,公孫述將李育將兵救囂,守上邽,帝留蓋延、聯BB32圍之,而車駕東歸。敕彭書曰:「兩城若下,便可將兵南擊蜀虜。人若不知足,既平隴,複望蜀。每一發兵,頭須為白。」彭遂壅谷水灌西城,城未沒丈餘,囂將行巡、周宗將蜀救兵到,囂得出還冀。漢軍食盡,燒輜重,引兵下隴,延、弇亦相隨而退。囂出兵尾擊諸營,彭殿為後拒,故諸將能全師東歸。彭還津鄉。

建武八年、光武にしたがい天水をやぶる。呉漢と、西城で隗囂をかこむ。

ぼくは思う。荊州をすてて、隗囂をつぶしにきた。光武にとって、公孫述を川下からねらうよりも、隗囂をつぶすほうが、大切みたいだ。

公孫述は、李育に隗囂をすくわせ、上邽をまもる。光武は、蓋延と耿弇に、李育をかこわせ、東した。光武は岑彭に「隴をたいらげ、蜀をのぞむとは。1たび兵をうごかすと、白髪がふえる」と文書した。
岑彭は、西城を水にひたしたが、隗囂は冀県ににげた。岑彭は攻めあぐね、輜重を焼いて、ひく。蓋延と耿弇も、ひく。隗囂におわれたが、岑彭がシンガリした。岑彭は、津郷にもどる。

『東観漢記』はいう。岑彭は、布袋に土をいれて、堤防をつくった。『東観漢記』はいう。岑彭が弘農に、はいると、諸将は「岑彭のおかげで、生きてかえれた」といった。


岑彭:荊州を遡上して、公孫述にうたれる

九年,公孫述遣其將任滿、田戎、程汎,將數萬人乘枋箄下江關,擊破馮駿及田鴻、李玄等。遂拔夷道、夷陵,據荊門、虎牙。橫江水起浮橋、鬥樓,立欑柱絕水道,結營山上,以拒漢兵。彭數攻之,不利,於是裝直進樓船、冒突露橈數千艘。

建武九年(033)、公孫述は、任滿、田戎、程汎に、江關からくだらせた。光武の部将・馮駿、田鴻、李玄らをやぶった。夷道、夷陵をぬき、荊門と虎牙山による。公孫述の水塞をぬけないので、岑彭は軍艦をつくった。

ぼくは思う。軍艦もろもろ、李賢と渡邉注をはぶく。474頁。


十一年春,彭與吳漢及誅虜將軍劉隆、輔威將軍臧宮、驍騎將軍劉歆,發南陽、武陵、南郡兵,又發桂陽、零陵、長沙委輸棹卒,凡六萬餘人,騎五千匹,皆會荊門。吳漢以三郡棹卒多費糧穀,欲罷之。彭以蜀兵盛,不可遣,上書言狀。帝報彭曰:「大司馬慣用步騎,不曉水戰,荊門之事,一由征南公為重而已。」彭乃令軍中募攻浮橋,先登者上賞。於是偏將軍魯奇應募而前。時天風狂急,奇船逆流而上,直沖浮橋,而欑柱鉤不得去,奇等乘勢殊死戰,因飛炬焚之,風怒火盛,橋樓崩燒。彭複悉軍順風並進,所向無前。

建武十一年春、岑彭と呉漢と、誅虜將軍の劉隆(劉隆伝)、輔威將軍の臧宮、驍騎將軍の劉歆(劉植伝)とは、南陽、武陵、南郡の兵をあつめ、桂陽、零陵、長沙の輸送船をあつめた。荊門であわさる。呉漢は「兵糧をくうから、戦役をやめよう」といったが、光武は「水戦にくわしい岑彭にまかせる」といった。

ぼくは思う。荊州を担当した将軍が、水戦にくわしくなる。岑彭は、水軍キャラなのですね。出身でなく、経歴で身につけたのだ。

光武の偏將軍の魯奇(ほかに記述なし)が、前衛でつっこむ。公孫述の水塞をやき、延岑は、つっこむ。

『続漢書』はいう。東南の風がふいた。魯奇の船は、押しながされないように、浮橋などに、船をひっかけた。


蜀兵大亂,溺死者數千人。斬任滿,生獲程汎,而田戎亡保江州。彭上劉隆為南郡太守,自率臧宮、劉歆長驅入江關,令軍中無得虜掠。所以,百姓皆奉牛、酒迎勞。彭見諸耆老,為言大漢哀湣巴蜀久見虜役,故興師遠伐,以討有罪,為人除害。讓不受其牛、酒。百姓皆大喜悅,爭開門降。詔彭守益州牧,所下郡,輒行太守事。

蜀兵はみだれた。任満をきり、程汎をとらう。田戎はにげ、江州をたもつ。延岑は上書して、劉隆を南郡太守とする。

渡邉注はいう。劉隆は、『後漢書』劉隆伝。雲台28将。宗室である安衆侯・劉礼の子。更始をみかぎり、光武につく。039年、南陽太守として、不正がバレて庶人におちる。翌年、扶楽郷侯。徴側、徴貳をたいらげた。

延岑は、臧宮と劉歆をひきい、江関にはいる。掠奪せず、歓迎された。「漢室は、公孫述におかされた巴蜀をあわれむ」といい、牛酒をうけず。延岑は、益州牧を代行し、くだした郡の太守も代行した。

『東観漢記』はいう。延岑が境界をでると、太守の称号を、あとからきた将軍にあたえた。官属をえらんで、県長や県吏を代行させた。ぼくは補う。平定がおわったら、延岑はすぐに行政をやめた。進軍あるのみ。


彭到江州,以田戎食多,難卒拔,留馮駿守之,自引兵乘利直指墊江,攻破平曲,收其米數十萬石。公孫述使其將延岑、呂鮪、王元及其弟恢悉兵拒廣漢及資中,又遣將侯丹率二萬余人拒黃石。彭乃多張疑兵,使護軍楊翕與臧宮拒延岑等,自分兵浮江下還江州,溯都江而上,襲擊侯丹,大破之。因晨夜倍道兼行二千餘裏,徑拔武陽。使精騎馳廣都,去成都數十裏,勢若風雨,所至皆奔散。初,述聞漢兵在平曲,故遣大兵逆之。及彭至武陽,繞出延岑軍後,蜀地震駭。述大驚,以杖擊地曰:「是何神也!」

岑彭は、江州にきた。田戎の食糧がおおいので、馮駿にまかせた。延岑は、墊江へゆき、平曲をやぶる。公孫述は、延岑、呂鮪、王元と、弟の公孫恢に、廣漢と資中をふせがす。侯丹に、黃石をふせがす。延岑はすすむ。

すすむ記述、抄訳をはぶく。ねむいからだ。見ればわかる。

延岑にまわりこまれた公孫述は「なんて神業!」といった。

彭所營地名彭亡,聞而惡之,欲徙,會日暮,蜀刺客詐為亡奴降,夜刺殺彭。
彭首破荊門,長驅武陽,持軍整齊,秋豪無犯。邛穀王任貴聞彭威信,數千里遣使迎降。會彭已薨,帝盡以任貴所獻賜彭妻子,諡曰壯侯。蜀人憐之,為立廟武陽,歲時祠焉。子遵嗣,徒封細陽侯。

岑彭は、軍営した地名が「彭亡」だと知って、うつりたい。刺殺された。

ぼくは思う。死に場所の地名。前漢の高帝は「柏人」が「人に迫られる」と思い、移動した。呉漢の岑彭は「彭亡」で夜営したために、刺殺された。蜀漢の龐統は「落鳳坡」で戦死したという。地名と運命をかさねることは、よくあるらしい。

岑彭は荊門をやぶり、武陽まで駆けても、軍勢はととのった。邛穀王の任貴は、岑彭にみついだ。岑彭がしんだので、光武は妻子に、みつぎものを与えた。壯侯。蜀人はあわれみ、武陽に廟をまつった。子の岑遵がついだ。細陽侯。

『前書音義』はいう。任貴は、越巂の異民族だ。太守の枚根をころし、みずから邛穀王となる。ぼくは思う。蜀地で活躍すると、南の異民族は、ついてくるらしい。
ぼくは思う。岑彭の最期の大活躍は、すこし脚色があるだろう。ここまで、公孫述を徹底的につぶしたとは、限らない。暗殺という最期をドラマチックにかざるため、かつ、納得しやすいものにするため、電光石火の連戦連勝と、と異民族の帰順が、ハデにえがかれた。岑彭が強いほど、暗殺の必然性ができる。


次回、賈復伝です。つづきます。