05) 鄧禹が光武に、天下統一をあおる
『後漢書』列伝6・鄧禹伝、寇恂伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
鄧禹伝:光武帝の個人的なオトモダチ
鄧禹は、あざなを仲華という。南陽の新野の人だ。13歳で『詩経』をよめた。長安でまなぶ。ときに光武帝も、長安に遊学した。鄧禹はおさないが、光武帝がしたしんだ。数年して、南陽にかえる。
更始帝がたつが、鄧禹はつかえず。光武帝が河北を安集するときき、杖して黄河をわたり、鄴で光武帝においつく。
鄧禹は、光武帝との個人的なつながりで、うごいている。世間しらずの若者が、中途半端に頭がキレると、ロクなことがない。「長いものに巻かれろ」という処世術に、反発する。ぜんぶ自分の頭で判断して、動こうとする。「長いもの」に納得できなければ、ゼロから自分で理屈をつくろうとする。しかし世間は、そこまで仕組みが単純でない。「長いもの」には、長くなる理由が(理不尽なりにも) あるのだ。
鄧禹は、個人的に光武帝としたしいが、このとき光武帝は、ジリ貧である。光武帝にしたがうことは、かなり愚かである。いくら鄧禹が「私は、こういう理由で、光武帝がすぐれていると思う」とうまく説明しても、世渡りがヘタであることは、ゆるがない。
光武帝は鄧禹にいう。「私は、官爵をもっぱらにする。鄧禹は、私から官爵をうけたいか」と。鄧禹は「いいえ」といった。光武帝は「どうしたいのか」と聞いた。鄧禹は「光武帝の威徳が全土にひろがり、私もちょっと活躍して、名前がのこったらいい」といった。光武帝は、2人で談笑した。
君主に言い返して「もっとデッカイことをやれ」という点では、裴注の魯粛ににてる。史書のスタイルとして、こういう「ホラふきの好人物」という典型があるのだろうか。
鄧禹がいった。「更始帝は関西にいるが、三輔をたいらげない。光武帝は、更始帝の藩塀でなく、第二の高帝となれ」と。光武帝はよろこび、鄧禹を「鄧将軍」とよばせた。つねに、そばにおいた。
もしくは、鄧禹はただの個人的なトモダチなのか。雑号将軍をあたえたら、周囲から不満があふれるから、鄧禹を将軍とすることができない。ともあれ、それほどの、かるい人物。つきあいが気軽だし、身分もかるいのだ。
鄧禹の戦況分析は、だいたいほかの史料をぬいただけ。発見なし。
王郎が起兵した。光武帝は、薊県から信都にゆく。鄧禹に、奔命の数千人をつけ、わけて樂陽(常山)をぬかせた。
鄧禹は、光武帝の神格化に便乗して、ともに伝説化された人物だなあ。
廣阿県にきて、光武は楼上で、地図をひろげて、ゆびさした。「天下の郡国は、こんなふうだ。私は郡国を1つえた。鄧禹は、たやすく天下をとれると言ったが、どういうことか」と。鄧禹はこたえた。「領土の大小でなく、徳の薄厚で決まります」と。光武は、よろこんだ。
ぼくは思う。鄧禹は、光武の話し相手として、置かれているだけ。マネキンでも、おなじである。鄧禹は、光武にへつらったのでない。鄧禹は、史家が考える「光武が考えたであろうこと、光武に言わせたいこと」を、可視化するためのアイコンである。
どうでもいいが「光武帝」は、ながいので、史料にしたがい、以後「光武」とする。
光武は、諸将の人選を、鄧禹にきいた。わかれて鄧禹は、蓋延とともに、銅馬を清陽にせめた。蓋延がかこまれたが、鄧禹が銅馬をやぶった。光武にしたがい、銅馬を蒲陽におった。ほぼ北州は、さだまる。
鄧禹伝:河東をたいらげ、光武の大司徒となる
赤眉が、関中にはいる。更始は、定國上公の王匡、襄邑王の成丹、抗威將軍の劉均らに、河東、弘農をふせがせる。
王匡らは、赤眉をふせげない。光武は「赤眉と更始のあらそいに乗して、関中がほしい。だが山東がいそがしい」と考えた。鄧禹は、沉深で大度あるので、関中をまかせた。前將軍、持節となり、光武の麾下をさいて、2万を鄧禹にあたえた。偏裨(副将)より以下を、鄧禹がえらんだ。
韓歆が、鄧禹の軍師となる。
李文(のち河東太守)、李春、程慮(または程憲)は祭酒となる。馮愔を積弩將軍、樊崇(赤眉と別人)を驍騎將軍、宗歆(馮愔に殺さる)を車騎將軍、鄧尋を建威將軍、馮訢(李宝の弟に殺され、著武侯)を赤眉將軍、左于を軍師將軍として、関中にゆく。
鄧禹は、まるで1つの朝廷をつくった。光武から、精鋭を半分もらっている。山東と山西は、おなじくらい、重たいから。というか、山西には、更始があり、首都があり、隗囂や公孫述がいる。山西のほうが、おもいのだ。
建武元年(025)正月、鄧禹は箕關から、河東にはいる。河東都尉は、箕関をひらかず。10日でやぶり、輜重をえた。安邑をかこみ、数ヶ月くだらず。
更始の大將軍する樊參が、大陽県(河東)をわたり、鄧禹をせめる。樊參は、解県の南で、鄧禹にきられた。更始の王匡、成丹、劉均らは、鄧禹をうつ。鄧禹はやぶれ、樊崇が戰死した。韓歆らは鄧禹に「にげろ」といったが、鄧禹はきかず。翌日は厄日の癸亥だから、王匡が出撃せず。
鄧禹は兵をととのえた。
翌朝、せめてきた王匡をやぶった。鄧禹は、王匡をおい、劉均、河東太守の楊寶、持節・中郎將の弭韁をきった。節を6つ、印綬5百、兵器をたくさん得る。河東がさだまる。鄧禹は承制して、李文を河東太守とした。屬縣の令長を、いれかえた。
この月、光武はコウで即位した。使者に持節させ、鄧禹を大司徒とした。「鄧禹は、前漢の張良のはたらきだ。司徒となり、五品(五常)をひろめよ。寛治をしろ。奉車都尉に、印綬をはこばせた。酂県(南陽)侯、食邑は1萬戶とする」と。
鄧禹は、24歳だった。
次回、鄧禹が関中にゆきます。つづく。