04) 隗囂への使者、刺殺された来歙伝
『後漢書』列伝5・李通、王常、鄧晨、来歙伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
來歙伝:來歙の母は、光武帝のおおおば
來歙字君叔,南陽新野人也。六世祖漢,有才力,武帝世,以光祿大夫副樓船將軍楊僕,擊破南越、朝鮮。父仲,哀帝時為諫大夫,娶光武祖姑,生歙。光武甚親敬之,數共往來長安。
來歙は、あざなを君叔。南陽の新野の人。六世祖の来漢は、武帝のとき、光祿大夫となり、樓船將軍の楊僕の副官となった。南越、朝鮮をうった。
渡邉注はいう。樓船は、雑号。武帝が南越をうつため、甲板に楼がある大船をつくった。大船の艦長をつとめるから、楼船将軍とされた。『漢書』武帝紀にある。
渡邉注はいう。楊僕は、宜陽県の人。武帝のときの酷吏。南蛮がそむいたので、平定した。『漢書』酷吏・楊僕伝がある。
父の来仲は、哀帝のとき諫大夫となり、光武帝の祖姑(おおおば)をめとり、來歙をうむ。光武帝は、來歙を親敬した。來歙とともに、長安に往来した。
ぼくは思う。來歙の母が、光武帝のおおおばで、いいのか?世代が1つ上だから、はなはだ「親敬」となるのだ。お世話係だったのかも知れない。
漢兵起,王莽以歙劉氏外屬,乃收系之,賓客共篡奪,得免。更始即位,以歙為吏,從入關。數言事不用,以病去。歙女弟為漢中王劉嘉妻,嘉遣人迎歙,因南之漢中。更始敗,歙勸嘉歸光武,遂與嘉俱東詣洛陽。
漢兵がたつと王莽は、來歙が劉氏の外属(姻戚)だから、つないだ。にげた。更始帝が即位すると、來歙を属吏として、関中にはいった。更始帝にもちいられないので、病をいって去った。
ぼくは思う。更始帝の朝廷は、官位がバブる。しかし來歙は、属吏にすぎない。來歙は、光武帝のおおおばの子で、つぎにあるように、漢中王の劉嘉の義兄なのに。おかしいなあ。なぜ來歙の官位がひくかったのか、理由がほしい。更始帝は、長江流域の兵集団のトップであり、南陽豪族のまとめ役では、なかったってことか。
來歙の妹は、漢中王の劉嘉の妻だ。劉嘉は、來歙を漢中にまねいた。更始帝がやぶれると、來歙は劉嘉を、光武帝につかせた。劉嘉とともに、洛陽へいった。
帝見歙,大歡,即解衣為衣之,拜為太中大夫。是時方以隴、蜀為憂,獨謂歙曰:「今西州未附,子陽稱帝,道裏阻遠,諸將方務關東,思西州方略,未知所任,其謀若何?」歙因自請曰:「臣嘗與隗囂相遇長安。其入始起,以漢為名。今陛下聖德隆興,臣願得奉威命,開以丹青之信,囂必束手自歸,則述自亡之勢,不足圖也。」
帝然之。建武三年,歙始使隗囂。
光武帝は洛陽で、來歙にころもをかけ、太中大夫とした。このとき隴蜀に、うれいがある。光武帝は、來歙だけに相談した。「隗囂と公孫述はとおい。私は、関東だけで手いっぱいだ。どうしよう」と。來歙がいった。「私は長安で、隗囂と知りあった。隗囂は、漢室に心をよせる。私が隗囂をくだせば、公孫述はおとろえる」と。
ぼくは思う。隗囂や來歙は、光武帝から見ると、上の世代なのだ。べつのところで光武帝が、公孫述に「いい歳こいて、さからうな」とあった。光武帝の強み&弱みは、若さなんだ。だから光武帝は、気のあう仲間たちでなく、世代が上の來歙に、交渉をさせた。
光武帝は、建武三年(027)、來歙を隗囂にゆかせた。
ぼくは思う。『三国志』を読むとき、世代がカギになる。後漢の治世を知っている袁紹や曹操と、知らない諸葛亮や魯粛で、動きかたがちがう。
後漢初の場合、光武帝のほかの群雄は、前漢を知っており、上の世代だ。群雄たちは、王莽の期間で、歳くってしまった。光武帝に打撃をうけると、わりにモロいのは、世代交代がうまくいかないからだ。もし光武帝と同世代の、わかい群雄があったら、天下統一は、長びいたかも知れない。ザツな議論で、すみません。
來歙伝:隗囂への使者、略陽をおとす
五年,複持節送馬援,因奉璽書於囂。既還,複往說囂。囂遂遣子恂隨歙入質,拜歙為中郎將。時山東略定,帝謀西收囂兵,與俱伐蜀,複使歙喻旨囂將王元說囂,多設疑,故久B37D豫不決。歙素剛毅,遂發憤質責囂曰:「國家以君知臧否,曉廢興,故以手書暢意。足下推忠誠,遣伯春委質,是臣主之交信也。今反欲用佞惑之言,為族滅之計,叛主負子,違背忠信乎?吉凶之決,在於今日。」欲前刺囂,囂起入,部勒兵,將殺歙,歙徐杖節就車而去。囂愈怒,王元勸囂殺歙,使牛邯將兵圍守之。
建武五年、來歙は持節して、隗囂の使者・馬援をみおくる。いちど洛陽にもどり、また隗囂をとく。隗囂は來歙に、子の隗恂をあずけ、人質とした。來歙は、中郎将となる。
光武帝は山東がさだまったので、來歙をつうじて隗囂に「隗囂の兵をあわせ、公孫述をうちたい」といった。隗囂の部将・王元が反対したので、隗囂はきまらない。來歙は隗囂にいかった。「人質をだしといて、光武帝にさからうな」と。
隗囂は、來歙をころそうとした。隗囂は、牛邯にかこまれた
ぼくは思う。『資治通鑑』とおなじ。李賢も渡邉注も、それほど新しい情報がない。司馬光は、來歙伝をおもんじて、そのまま書き写したらしい。
囂將王遵諫曰:「愚聞為國者慎器與名,為家者畏怨重禍。俱慎名器,則下服其命;輕用怨禍,則家受其殃。今將軍遣子質漢,內懷它志,名器逆矣;外人有議欲謀漢使,輕怨禍矣。古者列國兵交,使在其間,所以重兵貴和而不任戰也,何況承王命籍重質而犯之哉?君叔雖單車遠使,而陛下之外兄也。害之無損於漢,而隨以族滅。昔宋執楚使,遂有析骸易子之禍。小國猶不可辱,況于萬乘之主,重以伯春之命哉!」歙為人有信義,言行不違,及往來遊說,皆可案複,西州士大夫皆信重之,多為其言,故得免而東歸。
隗囂の部将・王遵が、隗囂をいさめた。「光武帝の外兄・來歙をころして、うらみを買うな」と。來歙は、西州の士大夫に信重されていたので、東にかえれた。
李賢はいう。來歙は、光武帝のおばの子なので「外兄」と言われた。ぼくは思う。さっき李賢は、來歙の父が、光武帝の「祖姑(おおおば)」をめとったと言った。おおおばって、祖父の姉妹だよね。だからぼくは、來歙の世代が1つ上だと思った。ちがうのか。
八年春,歙與征虜將軍祭遵襲略陽,遵道病還,分遣精兵隨歙,合二千餘人,伐山開道,從番須、回中徑至略陽,斬囂守將金梁,因保其城。囂大驚曰:「何其神也!」乃悉兵數萬人圍略陽,斬山築堤,激水灌城。歙與將士固死堅守,矢盡,乃髮屋斷木以為兵。囂盡銳攻之,自春至秋,其士卒疲弊,帝乃大發關東兵,自將上隴,囂眾潰走,圍解。於是置酒高會,勞賜歙,班坐絕席,在諸將之右,賜歙妻縑千匹。詔使留屯長安,悉監護諸將。
建武八年(032)春、征虜將軍の祭遵とともに、略陽をおそう。祭遵が道中で病いになり、かえった。來歙は、山道をひらき、番須と回中より、略陽にゆく。隗囂の守將・金梁を斬って、略陽をたもつ。春から夏まで、隗囂の反撃から、略陽をまもりきった。
『資治通鑑』とおなじ。
032年、略陽の陥落、隗囂をかこむ李賢はいう。『東観漢記』はいう。光武帝は、來歙が略陽をとったと聞き、よろこんだ。左右は「光武帝は、たびたび大敵をやぶった。どうして、ちいさい略陽をとって、よろこぶのか」と、わからない。光武帝は「略陽は、隗囂がたのむ場所だ。心臓と腹がすでにこわれれば、手足を制することは、カンタンだ」と考えたのだ。
來歙伝:公孫述の部将に、刺殺される
歙因上書曰:「公孫述以隴西、天水為籓蔽,故得延命假息。今二郡平蕩,則述智計窮矣。宜益選兵馬,儲積資糧。昔趙之將帥多賈人,高帝懸之以重賞。今西州新破,兵人疲饉,若招以財穀,則其眾可集。臣知國家所給非一,用度不足,然有不得已也。」帝然之。於是大轉糧運,詔歙率征西大將軍馮異、建威大將軍耿弇、虎牙大將軍蓋延、揚武將軍馬成、武威將軍劉尚入天水,擊破公孫述將田弇、趙匡。明年,攻拔落門,隗囂支党周宗、趙恢及天水屬縣皆降。
來歙は上書した。「公孫述は、隴西と天水の2郡を藩屏として、ながらえた。2郡がたいらげば、公孫述は、きわまる。後漢は財政難ですが、2郡に財産と穀物をバラまきなさい」と。光武帝は、みとめた。
李賢はいう。高帝は、前197年、陳キが趙国や代国でそむいたとき、部将を買収して、平定した。來歙は、おなじことをやりたい。
『東観漢記』はいう。ケン県に、穀物6万石をつみ、驢馬4百頭にせおわせた。ぼくは補う。バラまきは、ついに実行されたのだ。
光武帝は來歙に、以下をひきいさせた。征西大將軍の馮異、建威大將軍の耿弇、虎牙大將軍の蓋延、揚武將軍の馬成、武威將軍の劉尚。天水にはいり、公孫述の部將・田弇、趙匡をうった。
渡邉注はいう。武威将軍は、雑号。ほかに、ついた人がない。
渡邉注はいう。趙匡は、公孫述の部将。冀県にこもる隗純をたすけるため、派遣された。後漢軍にたいして1年余、もちこたえた。馮異にやぶれ、きられた。光武帝の配下にいる趙匡は、べつの人。『後漢書』馮異伝。
明年、來歙は落門をぬいた。來歙は、隗囂の支党・周宗と趙恢、天水の属県を、みなくだした。
初王莽世,羌虜多背叛,而隗囂招懷其酋豪,遂得為用。及囂亡後,五B32F、先零諸種數為寇掠,皆營塹自守,州郡不能討。歙乃大修攻具,率蓋延、劉尚及太中大夫馬援等進擊羌于金城,大破之,斬首虜數千人,獲牛羊萬余頭,穀數十萬斛。又擊破襄武賊傅栗卿等。隴西雖平,而人饑,流者相望。歙乃傾倉廩,轉運諸縣,以賑贍之,於是隴右遂安,而涼州流通焉。
はじめ王莽のとき、おおく羌族がそむいた。隗囂は、酋豪をなつけた。隗囂の死後に、來歙は、蓋延、劉尚、太中大夫の馬援らと、金城で羌族をうった。襄武の賊・傅栗卿らをやぶった。隴西はたいらいだが、人民はうえて、食糧をもとめて、ながれる。來歙は、米倉をつくった。隴右はやすらぎ、涼州とつながった。
十一年,歙與蓋延、馬成進攻公孫述將王元、環安於河池、下辨,陷之,乘勝遂進。蜀人大懼,使刺客刺歙,未殊,馳召蓋延。延見歙,因伏悲哀,不能仰視。歙叱延曰:「虎牙何敢然!今使者中刺客,無以報國,故呼巨卿,欲相屬以軍事,而反效兒女子涕泣乎!刃雖在身,不能勒兵斬公耶!」延收淚強起,受所誡。歙自書表曰:「臣夜人定後,為何人所賊傷,中臣要害。臣不敢自惜,誠恨奉職不稱,以為朝廷羞。夫理國以得賢為本,太中大夫段襄,骨鯁可任,願陛下裁察。又臣兄弟不肖,終恐被罪,陛下哀憐,數賜教督。」投筆抽刃而絕。
建武十一年(035)、來歙と蓋延と馬成は、公孫述の部将・王元、環安を、河池、下辨にせめた。蜀人は、來歙をさした。來歙は、蓋延に遺言した。
帝聞大驚,省書攬涕,乃賜策曰:「中郎將來歙,攻戰連年,平定羌、隴,憂國忘家,忠孝彰著。遭命遇害,嗚呼哀哉!」使太中大夫贈歙中郎將、征羌侯印綬,諡曰節侯,謁者護喪事。喪還洛陽,乘輿縞素臨吊送葬。以歙有平羌、隴之功,故改汝南之當鄉縣為征羌國焉。
子褒嗣。十三年,帝嘉歙忠節,複封歙弟由為宜西侯。褒子B179,尚顯宗女武安公主。B179早歿,褒卒,以B179子曆為嗣。
光武帝は、來歙の暗殺を知り、文書をみて、涙をながした。來歙に、中郎将、征羌侯の印綬をおくった。節侯。謁者に曹魏させた。汝南の当郷県を、征羌県とした。子の來褒がついだ。
ぼくは補う。來歙の孫・来歴の列伝は、はぶく。霊帝のとき、子孫が三公になる。来氏は、さかえるのだなあ。
論曰:「世稱來君叔天下信士。夫專使乎二國之間,豈厭詐謀哉?而能獨以信稱者,良其誠心在乎使兩義俱安,而己不私其功也。
贊曰:「李、鄧豪贍,舍家從讖。少公雖孚,宗卿未驗。王常知命,功惟帝念。款款君叔,斯言無玷。方獻三捷,永墜一劍。
范曄は論にいう。來歙は、光武帝と隴西のあいだを、とりもった。外交には、陰謀がつきものだ。しかし來歙がしたわれたのは、誠心があったからだ。功績を、わたくししなかったからだ。
ぼくは思う。來歙の人望は、故郷でなく、とおい関中で発揮された。長安への遊学と、そこでの人望や名声は、のちのち、きいてくる。そういう事例でした。『資治通鑑』を読んだときは、これを知らなかったから、関中の人かと思った。
范曄による列伝5の賛
范曄は賛にいう。李通と鄧晨は、家産をすて、図讖にはしった。劉秀が天子になるという予言は、けっきょく的中したが、はじめは明らかでなかった。だから李通の父・李守は、ころされた。王常と來歙は、よくがんばった。110722
ぼくは思う。「家産をすて、図讖にはしる」というのが、豪族として、めずらしい行動だとわかる。こういうモノズキがいないと、あたらしい皇帝は誕生しない。結果オーライだが、ぼくはマネたくない。史書にのらない、幾多の失敗者がいるから。1件の重大災害のもとには、100件の赤チン災害があり、1000件のヒヤリがあるのだ。