表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』列伝四より、舂陵侯の家柄(光武の族兄)光武と更始のあいだ

05) 鄧禹に降伏した、漢中王・劉嘉

『後漢書』列伝第四より、光武帝の族兄をやります。
城陽恭王祉 泗水王歙 安成孝侯賜 成武孝侯順 順陽懷侯嘉
吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想をつけます。

光武帝を知ることが目的。

更始帝も光武帝も、ともに舂陵侯の傍流です。
もちろん、舂陵侯の宗族は、この2人だけじゃない。近しい親戚たちが、どのように新末後漢初を過ごしたか。更始帝と光武帝との関係性に注意して、見ていきます。

更始帝の挙兵にしたがった劉嘉、漢中王に

順陽懷侯嘉字孫,光武族兄也。父憲,舂陵侯敞同產弟。嘉少孤,性仁厚,南頓君養視如子,後與伯升俱學長安,習《尚書》、《春秋》。

順陽懷侯の劉嘉は、あざなを孝孫という。光武の族兄だ。
父の劉憲は、舂陵侯・劉敞の同母弟だ。

すぐ前ページの劉慶とも、同母だ。

劉嘉は、幼くして父を失った。

舂陵侯の皇族は、父を早くに失う。新室の役人に、キツく締められて、死んでしまうのだろう。新室は、酷吏がいっぱい!
光武帝の父の世代が、王莽の被害にあっている。

劉嘉は、性質が仁厚だ。南頓君に、わが子のように養ってもらった。のちに劉縯とともに、長安で学んだ。『尚書』『春秋』を習った。

劉縯も、遊学していたのですね。
舂陵侯の嫡流が、新軍に殺されるまでは、みんな仲がいい。団結して、新室から自衛せねばならん。更始帝が立つころから、ギスギスする。
劉嘉は、知識人であることが示された。活躍に期待!


及義兵起,嘉隨更始征伐。漢軍之敗小長安也。嘉妻子遇害。更始即位,以為偏將軍。及攻破宛,封興德侯,遷大將軍。擊延岑于冠軍,降之。更始既都長安,以嘉為漢中王、扶威大將軍,持節就國,都于南鄭,眾數十萬。

義兵が起きた。劉嘉は、更始帝にしたがった。漢軍が、小長安で敗れると、劉嘉の妻子は殺された。
更始帝が即位した。劉嘉は、偏将軍になった。宛城を攻め破った。大将軍になった。
冠軍で、漢中の延岑を降した。
更始帝が長安に遷都した。劉順は、漢中王となり、扶威大將軍。節をもって漢中にゆき、南鄭に都した。数十万をひきいた。

長安政権が、漢中に重臣をおいた。更始帝のマップをつくるなら、漢中を自領に塗りつぶすべきだ。


漢中の延岑、成都の公孫述と、三つ巴でうばいあう

建武二年,延岑複反,攻漢中,圍南鄭,嘉兵敗走。岑遂定漢中,進兵武都,為更始柱功侯李寶所破。岑走天水,公孫述遣將侯丹取南鄭。嘉收散卒,得數萬人,以寶為相,從武都南擊侯丹,不利,還軍河池、下辨。複與延岑連戰,岑引北入散關,至陳倉,嘉追擊破之。更始鄧王廖湛將赤眉十八萬攻嘉,嘉與戰于穀口,大破之。嘉手殺湛,遂到雲C924陽就穀。

建武二年、延岑がそむき、劉嘉は南鄭から敗走。
更始帝の柱功侯・李宝は、延岑を破った。延岑は天水へ逃げた。
公孫述の部将・侯丹は、南鄭をとった。
劉嘉は数万に集めなおし、李宝を副将として、侯丹を討つ。失敗。
劉嘉は、延岑と連戦し、延岑は陳倉にゆく。劉嘉が追撃。

更始帝、延岑、公孫述の三つ巴。漢中をめぐってる。

廖湛が更始帝を裏切り、赤眉をひきいて劉嘉を攻めた。
劉嘉は、手ずから廖湛を殺した。

李寶等聞鄧禹西征,擁兵自守,馬嘉且觀成敗。光武聞之,告禹曰:「孝孫素謹善,少且親愛,當是長安輕薄兒誤之耳。」禹即宣帝旨,嘉乃因來歙詣禹于雲陽。

劉嘉の副将・李宝は、光武帝が鄧禹を送ったと聞いた。
劉嘉は、停戦して、様子をみた。
光武帝から、劉嘉への伝言。鄧禹が届けた。
「劉嘉さんは、つつしみがあり善良だ。むかしから、親愛している。長安の軽薄なガキ(更始帝)の過ちだ。劉嘉さんは、悪くない」
劉嘉は、雲陽にある、鄧禹の陣をおとずれた。

光武帝への降伏である。更始帝の右腕なのに!
劉嘉は、三つ巴の漢中に、飽きていたのだろう。しかも、赤眉と光武帝が加われば、5つの勢力が戦うことになる。避けたい。


三年,到洛陽,從征伐,拜為千乘太守。六年,病,上書乞骸骨,征詣京師。十三年,封為順陽侯。秋,複封嘉子DE6C為黃李侯。十五年,嘉卒。子參嗣,有罪,削為南鄉侯。永平中,參為城門校尉。參卒,子循嗣。循卒,子章嗣。

建武三年に劉嘉は、光武帝のいる洛陽にきた。千乘太守となる。建武六年、病気で引退。建武十五年、劉順は死んだ。

おわりに

舂陵の皇族のリーダーは、移り変わった。
嫡流の劉祉、仇討ちの家の劉玄(更始帝)、そして劉秀(光武帝)

リーダーの資格には、2つの要件がありそうだ。
 1.血筋の貴さ:味方となる人材や、兵力に影響
 2.王莽との闘争:新室と対決してきた歴史が、支持を得る

光武帝は、前2人の劉祉と劉玄に比べて、要件が2つとも劣る。
血筋が遠いのは、修正できない。家には、新室と対決した歴史がなく、兄の劉縯のホラくらいしか、王莽に対抗した実績がない。
光武帝は、河北でゼロから出発した。更始帝が即位したとき、いかに光武帝がジリ貧だったか、宗族の動きを見て、分かりました。100807