表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』列伝四より、舂陵侯の家柄(光武の族兄)光武と更始のあいだ

04) 劉順と、江東で挙兵する劉梁

『後漢書』列伝第四より、光武帝の族兄をやります。
城陽恭王祉 泗水王歙 安成孝侯賜 成武孝侯順 順陽懷侯嘉
吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想をつけます。

光武帝を知ることが目的。

更始帝も光武帝も、ともに舂陵侯の傍流です。
もちろん、舂陵侯の宗族は、この2人だけじゃない。近しい親戚たちが、どのように新末後漢初を過ごしたか。更始帝と光武帝との関係性に注意して、見ていきます。

光武帝の言葉すら要らない幼馴染・劉順

成武孝侯順字平仲,光武族兄也。父慶,舂陵侯敞同產弟。順與光武同裏閈,少相厚。

成武孝侯の劉順は、あざなを平仲という。光武の族兄である。
劉順の父は、劉慶である。劉慶は、舂陵侯・劉敞の、同母弟である。

このあたりの皇族は、何代前に、舂陵侯から分家したかで、血筋のとうとさが決まるようだ。光武帝を読む、キー概念だと思う。

劉順と光武帝は、おなじ町内に住んだ。幼馴染だ。

更始即位,以慶為燕王,順為虎牙將軍。會更始降赤眉,慶為亂兵所殺,順乃間行詣光武,拜為南陽太守。

更始帝が即位した。劉慶は燕王になった。劉順は、虎牙將軍となった。
更始帝が赤眉にくだったとき、劉慶は殺された。
劉順はウラ道をとおり、光武帝に詣でた。劉順は、南陽太守となった。

せっかく再会したのに、光武帝のコメントがない。なぜか。史家が説明する必要がなかったからだと思う。
旧敵やライバルが降ってきたら、「受けいれるの?殺すの?」と、読者がヤキモキする。だから史家は、聞いたわけでもないセリフを創作し、光武帝の人柄を表すため、腕をふるう。いま劉順は、いちどは更始帝に従ったとはいえ、光武帝の幼馴染だ。機知にとんだ会話は要らん。
べつにぼくは、史家の創作を、攻撃したいわけじゃない。むしろ、史料を残してくれて、感謝してます。ただ、録音機材もない時代に、どれだけの人が、セリフを正しく残せるだろうか。昨日のことでも忘れるのに、史家は数百年前のことですら、見てきたように書く。創作が多くなるはず。
さて。
「光武帝と建武二十八宿伝」というサイトがあります。これから、参考にしたいと思っています。なかで、光武帝の13の面白さが指摘されている。13のうち、どこまでが光武帝その人の美点で、どこまでが史家の腕前がつくりだした美点か。
光武帝をたたえるため、『後漢書』が書かれた。そのなかで、光武帝がカッコいいのは、当たり前だ。カッコよくなければ、史家がヘタクソなだけ。ヘタな文章は、淘汰される。范曄は採録しない。そういうわけで、必然的に『後漢書』の光武帝は、魅力たっぷりだ。『後漢書』以外の史料は、ほぼ残っていないから、光武帝は例外なく、魅力たっぷりなのだ。


建武二年,封成武侯,邑戶最大,租入倍宗室諸家。八年,使擊破六安賊,因拜為六安太守。數年,帝欲征之,吏人上書請留。十一年卒,帝使使者迎喪,親自臨吊。子遵嗣,坐與諸王交通,降為端氏侯。

建武二年、劉順は成武侯になった。邑戸は最大。税収は、宗室の家々にくらべて、2倍だった。
建武八年、六安の賊をやぶり、六安太守になった。

三国では、魏と呉のあいだくらい? 光武帝は、揚州にあまり熱心ではない。親しい宗室に、任せていたのだろうか。

中央に呼ばれたが、断った。建安十一年、死んだ。

光武帝の母の従妹をめとる劉弘、江東で挙兵した劉梁

初,順叔父弘娶于樊氏,皇妣之從妹也。生二子:敏,國。與母隨更始在長安。建武二年,詣洛陽,光武封敏為甘裏侯,國為弋陽侯。敏通經有行,永平初,官至越騎校尉。
弘弟梁,以俠氣聞,更始元年,起兵豫章,欲徇江東,自號「就漢大將軍」,暴病卒。

はじめ、劉順の叔父・劉弘は、樊氏をめとった。樊氏とは、光武帝の母の従妹である。2子を産んだ。劉敏と、劉國である。母と2子は、更始帝にしたがって、長安にいた。

更始帝が王莽を倒したとき、とりあえず、唯一のリーダーとして、認知されていたことが分かる。宗族の妻子が、長安にいるから。
『後漢書』で更始帝は、過小評価された。だから、いちいち確認してる。

建武二年、洛陽にきた。光武帝は、2子を封じた。

劉 弘弟梁,以俠氣聞,更始元年,起兵豫章,欲徇江東,自號「就漢大將軍」,暴病卒。

劉 弘の弟は、劉梁である。俠氣によって、名を知られた。
更始元年、豫章へ兵を起こした。江東を、従えようとした。みずから劉梁は、就漢大將軍と名のった。にわかに病没した。

暗殺ですよ! 暗殺!
江東で割拠するなんて、孫呉ファン必見。ぼくは、後漢初の揚州が気になっています。劉梁の挙兵ミスは、魔物の存在を感じる!


つぎ、最終回は劉嘉。更始帝のため、漢中の賊・延岑をふせぎます。