表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』列伝四より、舂陵侯の家柄(光武の族兄)光武と更始のあいだ

03) 光武帝を河北に送った、劉賜

『後漢書』列伝第四より、光武帝の族兄をやります。
城陽恭王祉 泗水王歙 安成孝侯賜 成武孝侯順 順陽懷侯嘉
吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想をつけます。

光武帝を知ることが目的。

更始帝も光武帝も、ともに舂陵侯の傍流です。
もちろん、舂陵侯の宗族は、この2人だけじゃない。近しい親戚たちが、どのように新末後漢初を過ごしたか。更始帝と光武帝との関係性に注意して、見ていきます。

新室の官吏と、元皇族の劉氏が、泥沼に殺し合う

安城孝侯賜字子琴,光武族兄也。祖父利,蒼梧太守。賜少孤。兄顯報怨殺人,吏捕顯殺之。賜與顯子信賣田宅,同拋財產,結客報吏,皆亡命逃伏遭赦日。會伯升起兵,乃隨從攻擊諸縣。

安城孝侯の劉賜は、あざなを子琴という。光武の族兄である。祖父の劉利は、蒼梧太守だ。

劉賜は、更始帝・劉玄の従兄である。つまり、祖父はおなじ人だ。

劉賜は、幼くして父をなくした。
兄の劉顯は、アダ討ちした罪で、役人に殺された。劉賜は、兄の子・劉信とともに、田宅を売って食客をあつめた。兄を殺した役人を、アダ討ちするためだ。

『続漢書』はいう。王莽のとき、劉氏は役人から抑圧された。
蔡陽国の釜侯を治める亭長が、劉玄の父を罵った。劉玄の父は、亭長を殺した。十余年してから、亭長の子が、劉玄の弟を殺した。劉玄の従弟で、劉賜の兄にあたる劉顕は、亭長の子を殺した。役人は、劉顕を獄中で殺した。劉顕の弟・劉賜は、亭長の妻子4人を殺した。
辛うじてスジは通るが、なんのこっちゃ、分からん。新室の役人と、元皇族の劉氏が、在地で泥沼の叩きあいをしていたことが分かる。荊州の北部で、新室に反発するエネルギーが溜まっている。

アダを討った劉賜は、亡命した。大赦された。
劉縯が挙兵したとき、劉賜は従軍して、諸県を攻めた。

更始既立,以賜為光祿勳,封廣漢侯。及伯升被害,代為大司徒,將兵討汝南。未及平,更始又以信為奮威大將軍,代賜擊汝南,賜與更始俱到洛陽。

更始帝が立つと、劉賜は光禄勲になった。劉縯が殺されると、劉賜は大司徒になった。

原文「伯升被害」で、事故で死んだみたいなニュアンスである。これは『後漢書』のバイアスである。
更始帝は、劉縯と主導権を争った。更始帝は劉縯を殺して、代わりに、従兄の劉賜をおいたのだ。
更始帝は、さっき見たアダ討ちのために、南方に逃げていた。おなじアダ討ちの連鎖のなかにいる劉賜は、なんの疑いもなく、更始帝の派閥である。

劉賜は、汝南を討った。平定する前に、更始帝は、劉賜を洛陽に呼びもどした。劉賜の代わりに、劉賜の兄の子・劉信を奮威大将軍とした。劉信に、汝南を攻めさせた。

更始帝に説き、光武帝を大司馬とし、黄河を渡らせる

更始欲令親近大將徇河北,未知所使,賜言諸家子獨有文叔可用,大司馬朱鮪等以為不可,更始狐疑,賜深勸之,乃拜光武行大司馬,持節過河。

更始帝は、親しく近い部将に、河北を平定させたい。しかし、誰がいいか分からない。劉賜は、更始帝に云った。
「皇族のなかでは、文叔だけが適任です」と。

文叔というのは、光武帝のあざな。
劉賜は、光武帝に2つの評価を与えていたと思う。
 1.光武帝の家は、更始帝のライバルにならないと、舐めていた。
 2.光武帝の将軍としての腕前は、認めていた。
1.について。
光武帝の兄・劉縯を、劉玄は殺した。劉縯が死んだから、光武帝の系統は、一族としての求心力を失ったと、劉賜は考えたのでしょう。
その根拠は、劉縯よりもずっと兵力も名声も多くて強かった、舂陵侯の嫡流・劉祉である。劉祉は、家族の主要メンバーが新軍に殺されると、影響力を失った。前ページ参照。

大司馬の朱鮪は、光武帝はダメだと云った。更始帝もためらった。だが劉賜がつよく勧めたから、光武帝を行大司馬にした。

朱鮪が光武帝に反対したのは、大司馬の職位を、奪われるから? もしそうだとしたら、朱鮪は「光武帝の脅威を見ぬいた」ことにならない。
朱鮪は、ただの保身ニストである。


是日以賜為丞相,令先入關,修宗廟宮室。還迎更始都長安,封賜為宛王,拜前大司馬,使持節鎮撫關東。二年春,賜就國于宛,典將六部兵。後赤眉破更始,賜所領六部亦稍散畔,乃去宛保育陽。

光武帝を河北に行かせた日、劉賜は丞相になった。先に関中に入り、宗廟や宮室を修復した。もどって更始帝をむかえ、長安に遷都した。
劉賜は宛王となり、前大司馬になった。関東を鎮圧するため、節を持たされた。
更始二年春、任国の宛にいく。六部の兵をひきいた。
のちに更始帝が赤眉に敗れると、六部はバラけた。劉賜は宛城をすてて、育陽を保った。

光武帝と、プライベートに飲む

聞光武即位,乃西之武關,迎更始妻子將詣洛陽。帝嘉賜忠,建武二年,封為慎侯。十三年,更增戶邑,定封為安成侯,奉朝請。以賜有恩信,故親厚之,數蒙宴私,時幸其第,恩賜特異。賜輒賑與故舊,有無遺積。帝為營塚堂,起祠廟,置吏卒,如舂陵孝侯。二十八年卒,子閔嗣。

劉賜は、光武帝が即位したと聞いた。武関にゆき、更始帝の妻子をつれて、洛陽にいった。光武帝は、劉賜の忠ぶりを嘉した。

光武帝が、いつから不動の皇帝の地位を確立して、元ライバルの皇族に対し、寛大に接するようになるのか。ぼくはよく分からない。
「光武帝は、おのずから皇族の中心だった」とか、もしくは、
「光武帝は、ふところの深いリーダーである」とか、
光武帝の名君ぶりをアピールしたい、『後漢書』のバイアスはどれほどか。いや、より厳密にいえば、范曄が参考にした『後漢書』の元ネタは、どれほどバイアスがかかっていたか。数百年もの保存に堪えた本である。よほど、バイアスがかかっていたのだろう。笑

光武帝は、特別に親しく付き合った。私室で、プライベートに飲み会をした。建武二十八年に、劉賜は死んだ。子の劉閔がついだ。

劉賜の兄の子・劉信

初,信為更始討平汝南,因封為汝陰王。信遂將兵平定江南,據豫章。光武即位,桂陽太守張隆擊破之,信乃詣洛陽降,以為汝陰侯。永平十三年,亦坐楚事國除。

はじめ、劉賜の兄の子・劉信は、汝南を平定した。

劉信は、泥沼のアダ討ちで、田宅を売った人。劉賜が洛陽に呼ばれたとき、かわりに汝南を任された。

劉信は、兵をひきいて江南を平定した。豫章に拠った。

後漢初に、のちの三国呉の領域は、ほとんど話題にならない。光武帝も、来ていなかったはず。
劉信のこの記述を、孫呉ファンは、掘り下げて研究すべきだと思う。笑

光武帝が即位すると、桂陽太守の張隆が、劉信を破った。劉信は洛陽にゆき、光武帝に降った。永平十三年(70年)楚王の謀反に連座した。

つぎは、食邑が2倍もあった劉順。光武帝の幼馴染。
劉順の近親で、江南に割拠しようとした人も登場。