表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』列伝四より、舂陵侯の家柄(光武の族兄)光武と更始のあいだ

02) 光武帝の幼馴染・劉終

『後漢書』列伝第四より、光武帝の族兄をやります。
城陽恭王祉 泗水王歙 安成孝侯賜 成武孝侯順 順陽懷侯嘉
吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想をつけます。

光武帝を知ることが目的。

更始帝も光武帝も、ともに舂陵侯の傍流です。
もちろん、舂陵侯の宗族は、この2人だけじゃない。近しい親戚たちが、どのように新末後漢初を過ごしたか。更始帝と光武帝との関係性に注意して、見ていきます。

宗室のリーダーを明示する、劉歙と劉終の父子

泗水王歙字經孫,光武族父也。歙子終,與光武少相親愛。漢兵起,始及唐子,終誘殺湖陽尉。更始立,歙從入關,封為元氏王,終為侍中。更始敗,歙、終東奔洛陽。

泗水王の劉歙は、あざなを經孫という。光武の族父だ。
劉歙の子は、劉終だ。劉終は光武帝の族兄で、幼いころから、たがいに親愛した。光武帝たちが挙兵すると、劉歙と劉終は唐子にきて、湖陽尉を誘い殺した。

地皇三年十一月の戦いです。

更始帝が立つと、劉歙は関中に入り、元氏王となった。劉終は、侍中となった。
更始帝が敗れると、劉歙と劉終は、東へ洛陽ににげた。

宗室のリーダーが、劉祉-劉玄(更始帝)-劉秀(光武帝)と遷ったことが分かる。劉歙ら宗室たちが、この動きをしているから。・・・これを確認できただけでも、もう充分だ!


建武二年,立歙為泗水王,終為淄川王。十年,歙薨,封小子燀為堂B32F侯,奉歙後。終居喪思慕,哭泣二十八日,亦薨。封長子柱為B43E侯,以奉終祀,又封終子鳳曲陽侯。

建武二年(26年)劉歙は、泗水王になった。劉終は、淄川王になった。建武十年、劉歙は死んだ。幼子の劉燀が、劉歙をついだ。
劉終は、父・劉歙の死を28日も哭泣して、死んだ。子の劉柱がついだ。また劉主の子・劉鳳は、曲陽侯になった。

史料不足が悲しい、潁川と汝南を治めた劉茂

歙從父弟茂,年十八,漢兵之起,茂自號劉失職,亦聚眾亦、密間,稱厭新將軍。攻下潁川、汝南,眾十余萬人。光武既至河內,茂率眾降,封為中山王。十三年,宗室為王者皆降為侯,更封茂為穰侯。

劉歙の從父弟・劉茂は、18歳のとき、光武帝たちが挙兵した。劉茂は、みずから劉失職と号した。

ハローワークに行くべきだと思う。
『続漢書』では、劉先職らしい。こっちが正しそう。

河南郡で兵をあつめ、厭新將軍を名のった。新室の潁川、汝南を攻めおとして、10余万人をあつめた。光武帝が河内にくると、劉茂は光武帝にくだった。

すごくサラッと書いてあるけど、大勢力である。更始帝に従ったでもない。荊州から離れて、独自勢力をたたき上げたっぽい。

光武帝は劉茂を、中山王にした。建武十三年、光武帝は宗室の王を、侯爵におとした。劉茂は、穰侯になった。

潁川や汝南という土地柄に、興味は尽きないが、史料がなさすぎる。


つぎは、更始帝の従兄・劉賜。
更始帝に勧めて、光武帝を河北に送った人です。
今回の列伝のうち、もっとも面白くなるはず。