表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝3・隗囂と公孫述伝;隴をとられ蜀をのぞまれる

05) 呉漢を川におとし、成都が焼失

『後漢書』列伝3・隗囂、公孫述伝をやります。
渡邉義浩『全訳後漢書』をつかい、『資治通鑑』の抄訳をおぎないます。

巴蜀から、関中と荊州に進出する

自更始敗後,光武方事山東,未遑西伐。關中豪傑呂鮪等往往擁眾以萬數,莫知所屬,多往歸述,皆拜為將軍。遂大作營壘,陳車騎,肄習戰射,會聚兵甲數十萬人,積糧漢中,築宮南鄭。又造十層赤樓帛蘭船。多刻天下牧守印章,備置公卿百官。使將軍李育、程烏將數萬眾出陳倉,與呂鮪徇三輔。三年,征西將軍馮異擊鮪、育于陳倉,大敗之,鮪、育奔漢中。五年,延岑、田戎為漢兵所敗,皆亡入蜀。

更始帝がやぶれ、光武帝が山東にいるので、西しない。關中の豪傑・呂鮪らは、数万をつれて、ゆきばがなく、公孫述についた。みな將軍となる。

李賢はいう。延岑は藍田にいる。王歆は下邽にいる。おのおの将軍をとなえる。馮異伝にある。渡邉注はいう。王歆は自立勢力で、馮異にやぶれた。

公孫述軍は、数十万人。食糧を漢中につみ、南鄭に築宮する。また赤樓帛でかざった10の蘭船をつくる。牧守の印章をきざみ、公卿・百官をおいた。將軍の李育、程烏は、数万で陳倉にでて、呂鮪とともに三輔をとなえた。

渡邉注はいう。程烏は、馮異と趙匡らにやぶれた。『後漢書』馮異伝にある。光武帝紀と馮異伝は「程焉」とする。『華陽国志』は、程烏とする。

建武三年(027)、征西將軍の馮異は、呂鮪と李育を、陳倉でやぶった。呂鮪と李育は、漢中ににげかえる。
建武五年(029)、延岑、田戎は、漢兵にやぶれて、蜀ににげた。

渡邉注はいう。田戎は、汝南の人。同郡の陳義とともに、盗賊となる。023に蜂起して、夷陵で自立した。公孫述にのがれ、光武帝とたたかった。『後漢書』岑彭伝にひく『東観漢記』より。


岑字叔牙,南陽人。始起據漢中,又擁兵關西,所在破散,走至南陽,略有數縣。戎,汝南人。初起兵夷陵,轉寇郡縣,眾數萬人。岑、戎並與秦豐合,豐俱以女妻之。及豐敗,故二人皆降於述。述以岑為大司馬,封汝甯王,戎翼江王。
六年,述遣戎與將軍任滿出江關,下監沮、夷陵間,招其故眾,因欲取荊州諸郡,竟不能克。

延岑は、南陽の筑陽県の人。漢中にたち、関中で兵をかかえるた、やぶれて南陽ににげた。数県をたもつ。

延岑の県は、李賢のひく『東観記』より。

田戎は、汝南の人。夷陵で起兵した。延岑と田戎は、秦豊とあわさる。ともに秦豊の娘をめとった。秦豊がやぶれると、公孫述にくだる。公孫述は、延岑を大司馬、汝甯王に。田戎を翼江王とした。建武六年(030)、田戎と将軍の任満を、江關からだし、臨沮と夷陵の間にゆく。

李賢はいう。『華陽国志』はいう。巴と楚がせめあい、江関をおく。臨沮は県名で、南郡にぞくす。夷陵は県名で、南郡にぞくす。

荊州の諸郡をとれず。

銅銭、讖緯、統一の戦略、政権の性質

是時,述廢銅錢,置鐵官錢,百姓貨幣不行。蜀中童謠言曰:「黃牛白腹,五銖當複。」好事者竊言王莽稱「黃,述自號「白」,五銖錢,漢貨也,言天下並還劉氏。述亦好為符命鬼神瑞應之事,妄引讖記。以為孔子作《春秋》,為赤制而斷十二公,明漢至平帝十二代,歷數盡也,一姓不得再受命。又引《錄運法》曰:「廢昌帝,立公孫。」《括地象》曰:「帝軒轅受命,公孫氏握。」《援神契》曰:「西太守,乙卯金。」謂西方太守而乙絕卯金也。五德之運,黃承赤而白繼黃,金據西方為白德,而代王氏,得其正序。又自言手文有奇,及得龍興之瑞。數移書中國,冀以感動眾心。帝患之,乃與述書曰:「圖讖言'公孫',即宣帝也。代漢者當塗高,君豈高之身邪?乃複以掌文為瑞,王莽何足效乎!君非吾賊臣亂子,倉卒時人皆欲為君事耳,何足數也。君日月已逝,妻子弱小,當早為定計,可以無憂。天下神器,不可力爭,宜留三思。」署曰「公孫皇帝」。述不答。

公孫述は、鉄官をもうけ、鉄銭を鋳造した。百姓がもつ、漢代の貨幣がつかえない。民衆は「また漢代の貨幣をつかいたい。漢代にもどるといい」と言った。公孫述は「漢にかわるのは、当塗高。当塗高は私だ」と言った。光武帝は「当塗高とは、前漢の宣帝だ。公孫述は、私にくだれ」と言った。

ぼくは思う。公孫述の讖緯思想がくわしいが、はぶく。安居香山『讖緯思想の総合的研究』にある。みれば、わかる。
公孫述は漢代を、呂后をふくめた12代ととらえた。漢室の赤、新室の黄、成家の白と、五行をすすめた。白色がとうとばれるのは、魏晋革命まで、もちこされる。ずいぶん、公孫述は気がはやい人に、なってしまった。


明年,隗囂稱臣於述。述騎都尉平陵人荊邯見東方將平,兵且西向,說述曰:
兵者,帝王之大器,古今所不能廢也。昔秦失其守,豪桀並起,漢祖無前人之跡,立錐之地,起於行陣之中,躬自奮擊,兵破身困者數矣。然軍敗複合,創愈複戰。何則?前死而成功,逾于卻就於滅亡也。隗囂遭遇運會,割有雍州,兵強士附,威加山東。遇更始政亂,複失天下,眾庶引領,四方瓦解。囂不及此時推危乘勝,以爭天命,而退欲為西伯之事,尊師章句,賓友處士,偃武自戈,卑辭事漢,喟然自以文王複出也。令漢帝釋關隴之憂,專精東伐,四分天下而有其三;使西州豪傑咸居心于山東,發間使,招攜貳,則五分而有其四;若舉兵天水,必至沮潰,天水既定,則九分而有其八。陛下以梁州之地,內奉萬乘,外給三軍,百姓愁困,不堪上命,將有王氏自潰之變。臣之愚計,以為宜及天下之望未絕,豪傑尚可招誘,急以此時發國內精兵,令田戎據江陵,臨江南之會,倚巫山之固,築壘堅守,傳檄吳、楚,長沙以南必隨風而靡。令延岑出漢中,定三輔,天水、隴西拱手自服。如此,海內震搖,冀有大利。

隗囂は、公孫述に称臣した。騎都尉する平陵の荊邯が、いまにも光武帝が西にくると思い、公孫述に領土拡大をといた。

このセリフは、『資治通鑑』で読んだまま。抄訳は、だいたいあってた。くわしく知りたければ、渡邉訳を見ればいいですね。;030年春夏、公孫述と隗囂が硬化する


述以問群臣。博士吳柱曰:「昔武王伐殷,先觀兵孟津,八百諸侯不期同辭,然猶還師以待天命。未聞無左右之助,而欲出師千里之外,以廣封疆者也。邯曰:「今東帝無尺土之柄,驅烏合之眾,跨馬陷敵,所向輒平。不亟乘時與之分功,而坐談武王之說,是效隗囂欲為西伯也。」述然邯言,欲悉發北軍屯士及山東客兵,使延岑、田戎分出兩道,與漢中諸將合兵並勢。蜀人及其弟光以為不宜空國千里之外,決成敗於一舉,固爭之,述乃上。延岑、田戎亦數請兵立功,終疑不聽。

公孫述は、郡臣にきいた。博士の呉柱は反対した。

渡邉注はいう。博士は、太常にぞくする。『後漢書』百官志2には、後漢にたてられた、博士の専門分野がのっている。
ぼくは思う。呉柱もふくめて、『資治通鑑』で読んだままだ。セリフが、やたら長いのは、なぜか。光武帝をほめているからだ。荊邯も呉柱も、公孫述の臣下として、光武帝の脅威のおおきさにビビり、議論をしている。

公孫述は、荊邯をきいた。延岑と田戎をだして、漢中にあわせたい。弟の公孫光が、延岑と田戎を警戒したので、漢中にだすのを、やめた。

述性苛細,察於小事。敢誅殺而不見大體,好改易郡縣官名。然少為郎,習漢家制度,出入法駕,鸞旗旄騎,陳置陛戟,然後輦出房闥。又立其兩子為王,食犍為、廣漢各數縣。群臣多諫,以為成敗未可知,戎士暴露,而遽王皇子,示無大志,傷戰士心。述不聽。唯公孫氏得任事,由此大臣皆怨。

公孫述は、性質が苛細で、小さいことに気がついた。あえて誅殺をすすめるが、全体がみえない。このんで郡県や官名をかえた。

ぼくは思う。小さいことに気づくのは、神がかった能吏だったから。郡県や官名を「ただしく」するのは、能吏がやりそうなカイゼン活動。タイプとしては、王莽とおなじか。きびしく誅殺するのも、王莽とおなじ理想家だからかも知れない。

わかくして前漢の郎となり、漢家の制度にくわしい。天子がのる法駕には、ルールどおりの装飾をした。

李賢はいう。法駕は、属車が36。公卿は、行列であるロボのなかには、いない。侍中がそえのりし、奉車都尉があやつる。
渡邉注はいう。奉車都尉とは、皇帝の車駕の管理、護衛をする。光禄勲にぞくし、秩禄は比2千石。『後漢書』百官志2。おもに宗族、外戚の有力者が、任ぜられた。霍光や劉歆がついた。

2子を王とし、公孫氏をおもんじたので、大臣にうらまれた。

隗囂の部将・王元がくだり、来歙と岑彭を刺殺する

八年,帝使諸將攻隗囂,述遣李育將萬餘人救囂。囂敗,並沒其軍,蜀地聞之恐動。述懼,欲安眾心。成都郭外有秦時舊倉,述改名白帝倉,自王莽以來常空。述即詐使人言白帝倉出谷如山陵,百姓空市里往觀之。述乃大會群臣,問曰:「白帝倉竟出穀乎?」皆對言「無」。述曰:「訛言不可信,道隗王破者複如此矣。」俄而囂將王元降,述以為將軍。明年,使元與領軍環安拒河池,又遣田戎及大司徒任滿、南郡太守程B02A將兵下江關,破威虜將軍馮駿等,拔巫及夷陵、夷道,因據荊門。

建武八年(032)、隗囂が光武帝に攻められ、李育らが、たすける。隗囂がやぶれたので、蜀地はおそれる。公孫述は、衆心をしずめたい。成都の郭外に、秦代の倉庫がある。公孫述は「白帝倉」と、名づけた。「王莽のときから、カラだった白帝倉から、穀物があふれた」と、うわさをながした。
公孫述は郡臣の前で、うわさがウソだと確かめた。公孫述は言った。「隗囂の苦戦は、白帝倉の穀物とおなじく、ウソである。おそれるな」と。
にわかに、隗囂の将軍・王元がくだった。公孫述の将軍とした。

ぼくは思う。『資治通鑑』がはぶいた話なので、楽しく抄訳しました。すぐに王元がくだってきて、公孫述の手のこんだ作戦が、ムダになるところが、よい。

翌年、王元と、領軍の環安に、河池をふせがせる。田戎と、大司徒の任滿、南郡太守の程汎に江關をくだらせた。威虜將軍の馮駿らをやぶり、巫および夷陵、夷道(南郡)をぬく。荊門による。

渡邉注はいう。程汎は、のちに光武帝の征南大将軍・岑彭に生けどられた。『後漢書』岑彭伝にある。渡邉注はいう。威虜将軍は、雑号。ほかに、ついた人がいない。馮駿は、『後漢書』岑彭伝に名がある。


十一年,征南大將軍岑彭攻之,滿等大敗,述將王政斬滿首降于彭。田戎走保江州。城邑皆開門降。彭遂長驅至武陽。帝及與述書,陳言禍福,以明丹青之信。述省書歎息,以示所親太常常少、光祿勳張隆。降、少皆勸降。述曰:「廢興命也。豈有降天子哉!」左右莫敢複言。中郎將來歙急攻王元、環安,安使刺客殺歙;述複令刺殺岑彭。

建武十一年(035)、征南大將軍の岑彭は、荊門の任満をやぶった。任満は、部将の王政に、きられた。田戎は、江州ににげた。城邑は、みなくだる。岑彭は、武陽までかける。光武帝は、公孫述に文書して、禍福をといた。
公孫述は、太常の常少、光祿勳の張隆に、光武帝の文書を見せた。降伏をすすめられた。公孫述は言った。「廢興は、天命だ。降伏する天子などない」と。
中郎將の來歙は、王元、環安を、きつく攻めた。環安は、来歙を刺殺した。公孫述は、岑彭を刺殺した。

ぼくは思う。あっさり、光武帝の司令官が2人も死んだ。いいのかなあ。


公孫述がしんで、延岑がくだり、天下統一される

十二年,述弟恢及子婿史興並為大司馬吳漢、輔威將軍臧宮所破,戰死。自是將帥恐懼,日夜離叛,述雖誅滅其家,猶不能禁。帝必欲降之,乃下詔喻述曰:「往年詔書比下,開示恩信,勿以來歙、岑彭受害自疑。今以時自詣,則家族完全;若迷惑不喻,委肉虎口,痛哉奈何!將帥疲倦,吏士思歸,不樂久相屯守,詔書手記,不可數得,朕不食言。」述終無降意。
九月,吳漢又破斬其大司徒謝豐、執金吾袁吉,漢兵遂守成都。述謂延岑曰:「事當奈何!」岑曰:「男兒當死中求生,可坐窮乎!財物易聚耳,不宜有愛。」述乃悉散金帛,募敢死士五千餘人,以配岑於市橋,偽建旗幟,鳴鼓挑戰,而潛遣奇兵出吳漢軍後,襲擊破漢。漢墮水,緣馬尾得出。

建武十二年(036)、弟の公孫恢と、娘婿の史興は、大司馬の後漢と、輔威将軍の臧宮にやぶれて、戦死した。日夜さわぐので、公孫述は家ごと誅したが、さわぎは、しずまらない。公孫述は、降伏のさそいにのらず。

李賢も渡邉注も、めぼしいもの、なし。

9月、大司徒の謝豐、執金吾の袁吉がきられ、呉漢が成都にせまった。公孫述が決死の5千余人で、呉漢を河におとした。
 

十一月,臧宮軍至鹹門。述視占書,雲「虜死城下」,大喜,謂漢等當之。乃自將數萬人攻漢,使延岑拒宮。大戰,岑三合三勝。自旦及日中,軍士不得食,並疲,漢因令壯士突之,述兵大亂,被刺洞胸,墮馬。左右輿入城。述以兵屬延岑,其夜死。明旦,岑降吳漢。乃夷述妻子,盡滅公孫氏,並族延岑。遂放兵大掠,焚述宮室。帝聞之怒,以譴漢。又讓漢副將劉尚曰:「城降三日,吏人從服,孩兒老母,口以萬數,一旦放兵縱火,聞之可為酸鼻!尚宗室子孫,嘗更吏職,何忍行此?仰視天,俯視地,觀放ED47啜羹,二者孰仁?良失斬將吊人之義也!」

11月、公孫述が死に、延岑がくだった。呉漢が、公孫述を族滅し、成都をやいた。光武帝は、呉漢と、副将の劉尚をせめた。

ほぼ『資治通鑑』とおなじ。はぶく。036年、公孫述が死に、竇融が入朝する
『後漢書』呉漢伝、劉尚伝。劉尚は、西南夷をたいらげる。


初,常少、張隆勸述降,不從,並以憂死。帝下詔追贈少為太常,隆為光祿勳,以禮改葬之。其忠節志義之士,並蒙旌顯。程烏、李育以有才幹,皆擢用之。於是西土鹹悅,莫不歸心焉。

はじめ常少と張隆は、公孫述に降伏をすすめたが、きいてもらえず、憂死した。光武帝は追贈して、常少を太常、張隆を光祿勳として、公孫述の朝廷とおなじ官位をあたえた。改葬した。忠節で志義の士を、ほめた。

李賢はいう。忠節で志義とは、李業、譙玄のこと。『後漢書』独行伝。どちらも、王莽と公孫述からめされたが、つかず。

程烏と李育は、もちいられた。西土は、みな光武帝に心をよせた。

論曰:昔趙佗自王番禺,公孫亦竊帝蜀漢,推其無他功能,而至於後亡者,將以地邊處遠,非王化之所先乎?述雖為漢吏,無所馮資,徒以文俗自憙,逐能集其志計。道未足而意有餘,不能因隙立功,以會時變,方乃坐飾邊幅,以高深自安,昔吳起所以慚魏侯也。及其謝臣屬,審廢興之命,與夫泥首銜玉者異日談也。
贊曰:「公孫習吏,隗王得士。漢命已還,二隅方D266。天數有違,江山難恃。

范曄の論にいう。漢初に南越にいた趙佗や、蜀漢の公孫述は、功績がないのに、皇帝となった。ほろびた理由は、王化のゆきとどかない辺境にいたからだ。おなじ辺境でも、降伏をした孫皓のほうがマシだ。

ぼくは思う。辺境だから、自立できた。范曄も、ムリなことを言うなあ。

范曄の賛にいう。公孫述は、みずから能吏だった。隗囂は、人士をあつめた。だが天命は、すでに光武帝にあった。隴蜀のけわしさも、天命をさまたげられなかった。

これで『後漢書』列伝3おわりです。『三国志』の「蜀志」「呉志」のようなものでした。『資治通鑑』で、おおくがカバーされておりました。110722