05) 呉漢を川におとし、成都が焼失
『後漢書』列伝3・隗囂、公孫述伝をやります。
渡邉義浩『全訳後漢書』をつかい、『資治通鑑』の抄訳をおぎないます。
巴蜀から、関中と荊州に進出する
更始帝がやぶれ、光武帝が山東にいるので、西しない。關中の豪傑・呂鮪らは、数万をつれて、ゆきばがなく、公孫述についた。みな將軍となる。
公孫述軍は、数十万人。食糧を漢中につみ、南鄭に築宮する。また赤樓帛でかざった10の蘭船をつくる。牧守の印章をきざみ、公卿・百官をおいた。將軍の李育、程烏は、数万で陳倉にでて、呂鮪とともに三輔をとなえた。
建武三年(027)、征西將軍の馮異は、呂鮪と李育を、陳倉でやぶった。呂鮪と李育は、漢中ににげかえる。
建武五年(029)、延岑、田戎は、漢兵にやぶれて、蜀ににげた。
六年,述遣戎與將軍任滿出江關,下監沮、夷陵間,招其故眾,因欲取荊州諸郡,竟不能克。
延岑は、南陽の筑陽県の人。漢中にたち、関中で兵をかかえるた、やぶれて南陽ににげた。数県をたもつ。
田戎は、汝南の人。夷陵で起兵した。延岑と田戎は、秦豊とあわさる。ともに秦豊の娘をめとった。秦豊がやぶれると、公孫述にくだる。公孫述は、延岑を大司馬、汝甯王に。田戎を翼江王とした。建武六年(030)、田戎と将軍の任満を、江關からだし、臨沮と夷陵の間にゆく。
荊州の諸郡をとれず。
銅銭、讖緯、統一の戦略、政権の性質
公孫述は、鉄官をもうけ、鉄銭を鋳造した。百姓がもつ、漢代の貨幣がつかえない。民衆は「また漢代の貨幣をつかいたい。漢代にもどるといい」と言った。公孫述は「漢にかわるのは、当塗高。当塗高は私だ」と言った。光武帝は「当塗高とは、前漢の宣帝だ。公孫述は、私にくだれ」と言った。
公孫述は漢代を、呂后をふくめた12代ととらえた。漢室の赤、新室の黄、成家の白と、五行をすすめた。白色がとうとばれるのは、魏晋革命まで、もちこされる。ずいぶん、公孫述は気がはやい人に、なってしまった。
兵者,帝王之大器,古今所不能廢也。昔秦失其守,豪桀並起,漢祖無前人之跡,立錐之地,起於行陣之中,躬自奮擊,兵破身困者數矣。然軍敗複合,創愈複戰。何則?前死而成功,逾于卻就於滅亡也。隗囂遭遇運會,割有雍州,兵強士附,威加山東。遇更始政亂,複失天下,眾庶引領,四方瓦解。囂不及此時推危乘勝,以爭天命,而退欲為西伯之事,尊師章句,賓友處士,偃武自戈,卑辭事漢,喟然自以文王複出也。令漢帝釋關隴之憂,專精東伐,四分天下而有其三;使西州豪傑咸居心于山東,發間使,招攜貳,則五分而有其四;若舉兵天水,必至沮潰,天水既定,則九分而有其八。陛下以梁州之地,內奉萬乘,外給三軍,百姓愁困,不堪上命,將有王氏自潰之變。臣之愚計,以為宜及天下之望未絕,豪傑尚可招誘,急以此時發國內精兵,令田戎據江陵,臨江南之會,倚巫山之固,築壘堅守,傳檄吳、楚,長沙以南必隨風而靡。令延岑出漢中,定三輔,天水、隴西拱手自服。如此,海內震搖,冀有大利。
隗囂は、公孫述に称臣した。騎都尉する平陵の荊邯が、いまにも光武帝が西にくると思い、公孫述に領土拡大をといた。
公孫述は、郡臣にきいた。博士の呉柱は反対した。
ぼくは思う。呉柱もふくめて、『資治通鑑』で読んだままだ。セリフが、やたら長いのは、なぜか。光武帝をほめているからだ。荊邯も呉柱も、公孫述の臣下として、光武帝の脅威のおおきさにビビり、議論をしている。
公孫述は、荊邯をきいた。延岑と田戎をだして、漢中にあわせたい。弟の公孫光が、延岑と田戎を警戒したので、漢中にだすのを、やめた。
公孫述は、性質が苛細で、小さいことに気がついた。あえて誅殺をすすめるが、全体がみえない。このんで郡県や官名をかえた。
わかくして前漢の郎となり、漢家の制度にくわしい。天子がのる法駕には、ルールどおりの装飾をした。
渡邉注はいう。奉車都尉とは、皇帝の車駕の管理、護衛をする。光禄勲にぞくし、秩禄は比2千石。『後漢書』百官志2。おもに宗族、外戚の有力者が、任ぜられた。霍光や劉歆がついた。
2子を王とし、公孫氏をおもんじたので、大臣にうらまれた。
隗囂の部将・王元がくだり、来歙と岑彭を刺殺する
建武八年(032)、隗囂が光武帝に攻められ、李育らが、たすける。隗囂がやぶれたので、蜀地はおそれる。公孫述は、衆心をしずめたい。成都の郭外に、秦代の倉庫がある。公孫述は「白帝倉」と、名づけた。「王莽のときから、カラだった白帝倉から、穀物があふれた」と、うわさをながした。
公孫述は郡臣の前で、うわさがウソだと確かめた。公孫述は言った。「隗囂の苦戦は、白帝倉の穀物とおなじく、ウソである。おそれるな」と。
にわかに、隗囂の将軍・王元がくだった。公孫述の将軍とした。
翌年、王元と、領軍の環安に、河池をふせがせる。田戎と、大司徒の任滿、南郡太守の程汎に江關をくだらせた。威虜將軍の馮駿らをやぶり、巫および夷陵、夷道(南郡)をぬく。荊門による。
建武十一年(035)、征南大將軍の岑彭は、荊門の任満をやぶった。任満は、部将の王政に、きられた。田戎は、江州ににげた。城邑は、みなくだる。岑彭は、武陽までかける。光武帝は、公孫述に文書して、禍福をといた。
公孫述は、太常の常少、光祿勳の張隆に、光武帝の文書を見せた。降伏をすすめられた。公孫述は言った。「廢興は、天命だ。降伏する天子などない」と。
中郎將の來歙は、王元、環安を、きつく攻めた。環安は、来歙を刺殺した。公孫述は、岑彭を刺殺した。
公孫述がしんで、延岑がくだり、天下統一される
九月,吳漢又破斬其大司徒謝豐、執金吾袁吉,漢兵遂守成都。述謂延岑曰:「事當奈何!」岑曰:「男兒當死中求生,可坐窮乎!財物易聚耳,不宜有愛。」述乃悉散金帛,募敢死士五千餘人,以配岑於市橋,偽建旗幟,鳴鼓挑戰,而潛遣奇兵出吳漢軍後,襲擊破漢。漢墮水,緣馬尾得出。
建武十二年(036)、弟の公孫恢と、娘婿の史興は、大司馬の後漢と、輔威将軍の臧宮にやぶれて、戦死した。日夜さわぐので、公孫述は家ごと誅したが、さわぎは、しずまらない。公孫述は、降伏のさそいにのらず。
9月、大司徒の謝豐、執金吾の袁吉がきられ、呉漢が成都にせまった。公孫述が決死の5千余人で、呉漢を河におとした。
11月、公孫述が死に、延岑がくだった。呉漢が、公孫述を族滅し、成都をやいた。光武帝は、呉漢と、副将の劉尚をせめた。
はじめ常少と張隆は、公孫述に降伏をすすめたが、きいてもらえず、憂死した。光武帝は追贈して、常少を太常、張隆を光祿勳として、公孫述の朝廷とおなじ官位をあたえた。改葬した。忠節で志義の士を、ほめた。
程烏と李育は、もちいられた。西土は、みな光武帝に心をよせた。
贊曰:「公孫習吏,隗王得士。漢命已還,二隅方D266。天數有違,江山難恃。
范曄の論にいう。漢初に南越にいた趙佗や、蜀漢の公孫述は、功績がないのに、皇帝となった。ほろびた理由は、王化のゆきとどかない辺境にいたからだ。おなじ辺境でも、降伏をした孫皓のほうがマシだ。
范曄の賛にいう。公孫述は、みずから能吏だった。隗囂は、人士をあつめた。だが天命は、すでに光武帝にあった。隴蜀のけわしさも、天命をさまたげられなかった。
これで『後漢書』列伝3おわりです。『三国志』の「蜀志」「呉志」のようなものでした。『資治通鑑』で、おおくがカバーされておりました。110722