表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝3・隗囂と公孫述伝;隴をとられ蜀をのぞまれる

03) 公孫述の朔甯王となり、滅亡

『後漢書』列伝3・隗囂、公孫述伝をやります。
渡邉義浩『全訳後漢書』をつかい、『資治通鑑』の抄訳をおぎないます。

光武帝と決裂、隗囂は自分を虞舜にたとえる

六年,關東悉平。帝積苦兵間,以囂子內侍,公孫述遠據邊陲,乃謂諸將曰:「且當置此兩子於度外耳。」因數騰書隴、蜀,告示禍福。囂賓客、掾史多文學生,每所上事,當世士大夫皆諷誦之,故帝有所辭答,尤加意焉,囂複遣使周遊詣闕,先到馮異營,游為仇家所殺。帝遣衛尉銚期持珍寶繒帛賜囂,期至鄭被盜,亡失財物。帝常稱囂長者,務欲招之,聞而歎曰:「吾與隗囂事欲不諧,使來見殺,得賜道亡。」

建武六年、関東がたいらいだ。光武帝は戦闘がつづいたので、諸将に「隗囂と公孫述は、度外におく」と言った。しばしば文書で、隗囂と公孫述に禍福をといた。
隗囂の賓客、掾史には、文學生がおおい。隗囂からの文書を、士大夫は口ずさんだ。光武帝は、文書の品質をはりあった。
また隗囂は、使者の周遊を洛陽の宮殿にゆかせる。周遊は、さきに馮異の軍営にきて、ころされた。 光武帝は、衛尉の銚期を隗囂にとどける。銚期は、鄭で財物をぬすまれた。

渡邉注はいう。周遊は、ほかに史料がない。渡邉注はいう。銚期は、『後漢書』銚期伝。頴川の人。雲台28将の1人。劉秀に頴川で辟され、赤眉とたたかった。衛尉、安成侯。

光武帝はなげいた。「私は隗囂と協調したいが、むずかしい。隗囂の使者はころされ、私の賜物はぬすまれた」と。

ぼくは思う。2つが読みとれる。まず洛陽と隴西のあいだは、治安がわるく、危険がいっぱいだということ。つぎに、光武帝が隗囂をしたがえられなくても、それは光武帝の失敗ではないよ、という歴史家による言い訳。光武帝は、天下の人心をあつめるはずだが、隗囂にかんしては、天命が2者の関係をさいたのだと。


會公孫述遣兵寇南郡,乃詔囂當從天水伐蜀,因此欲以潰其心腹。囂複上言:「白水險阻,棧閣絕敗。」又多設支閡。帝知其終不為用,叵欲討之。遂西幸長安,遣建威大將軍耿弇等七將軍從隴道伐蜀,先使來歙奉璽書喻旨。囂疑懼,即勒兵,使王元據隴坻,伐木塞道,謀欲殺歙。歙得亡歸。

公孫述が南郡(荊州)にくる。光武帝は隗囂に「天水から蜀をうて」と言った。隗囂は「白水関がけわしく、桟道がたたれた」とことわった。光武帝は、ついに隗囂がしたがわないので、隗囂をうちたくなった。
長安にゆき、建威大將軍の耿弇ら7将軍に、隴道から蜀をうたせた。さきに来歙に璽署をもたせ、隗囂につげた。隗囂はおそれ、王元を隴坻(坻=坂)において、ふせぐ。来歙は、隗囂による謀殺からにげた。

諸將與囂戰,大敗,各引退。囂因使王元、行巡侵三輔,征西大將軍馮異、征虜將軍祭遵等擊破之。囂乃上疏謝曰:「吏人聞大兵卒至,驚恐自救,臣囂不能禁止。兵有大利,不敢廢臣子之節,親自追還。昔虞舜事父,大杖則走,小杖則受。臣雖不敏,敢忘斯義。今臣之事,在於本朝,賜死則死,加刑則刑。如遂蒙恩,更得洗心,死骨不朽。」

光武帝の諸将は、隗囂にやぶれた。隗囂は、王元と行巡に、三輔をおかさせた。征西大將軍の馮異、征虜將軍の祭遵らが、やぶった。隗囂は上疏して、あやまった。「吏人は、光武帝軍がくるときいて、暴発しました。私は戦闘にかちましたが、私は臣子の節義をまもり、兵をひきました。むかし虞舜は、おろかな父につかえた。父が大杖をあげると、自分が死んでは不孝になるので、大杖からにげた。父が小杖をあげると、父の気をすませたいので、小杖でたたかれた。私は光武帝が大杖をあげたら、たたかれて死ぬつもりだ。だが小杖で気をすますなら、光武帝のためにはたらく」と。

渡邉注に、だいぶ補ってもらい、理解しました。
ぼくは思う。隗囂は光武帝を、虞舜のおろかな父親にたとえた。隗囂は自分を、かしこい虞舜にたとえた。不遜!「光武帝が大杖をつかい、隗囂の軍事力を活用せず、後先かんがえずに隗囂を殺すつもりなら、隗囂はにげる。光武帝が小杖をつかい、隗囂のこれまでの不忠をゆるすなら、隗囂は光武帝に軍事力を貸してやってもいい」ということ。
虞舜のおろかな父は、こちら。 『史記』より、尭舜禹の禅譲劇


有司以囂言慢,請誅其子恂,帝不忍,複使來歙至B651,賜囂書曰:「昔柴將軍與韓信書雲:'陛下寬仁,諸侯雖有亡叛而後歸,輒復位號,不誅也。'以囂文吏,曉義理,故複賜書。深言則似不遜,略言則事不決。今若束手,複遣恂弟歸闕庭者,則爵祿獲全,有浩大之福矣。吾年垂四十,在兵中十歲,厭浮語虛辭。即不欲,勿報。」囂知帝審其詐,遂遣使稱臣于公孫述。

有司は、隗囂が傲慢なので、子の隗恂をころしたい。光武帝はしのびず。ふたたび来歙を、汧県(扶風)にゆかせた。光武帝は隗囂に、文書した。「むかし紫武は、韓王信に言った。高帝・劉邦は、亡命や叛乱した諸侯をゆるすと。

李賢はいう。韓王信は、高帝にそむいて、匈奴にのがれた。高帝とたたかった。だから紫武は、韓王信に文書したのだ。

いま隗囂は文吏で、義理にあかるいだろうから、ふたたび文書してチャンスをあたえる。もし2人目の子供を人質にするなら、いまの隗囂の爵祿を、保証する。私は40歳になる。戦場にあきた。ウソはいわない。人質をだすか、私にそむくか、ハッキリせよ」と。

ぼくは思う。光武帝が隗囂に「お前も、前漢の高帝の故事を知っているだろう」と、共通の知識を前提にしゃべっているのが、おもしろい。共通の前提があるはずなのに、わざわざ「前提があるだろう」と、もちだして明言するあたりが、さらにおもしろい。ぼくらが会社で、仕事のできない人に「あなたも社会人なんだから」と言うにひとしい。

隗囂は、光武帝にレトリックを看破されたので、公孫述に稱臣した。

公孫述の朔甯王となり、王遵が光武帝にはしる

明年,述以囂為朔甯王,遣兵往來,為之援勢。秋,囂將步騎三萬侵安定,至陰槃,馮異率諸將拒之。囂又令別將下隴,攻祭遵於B651,兵並無利,乃引還。

翌年、公孫述は、隗囂を朔甯王とした。

李賢はいう。公孫述の勢力から見て、北辺を安静にしたいから、朔甯王という。

公孫述は兵をだして、隗囂をたすける。秋、隗囂は安定をおかし、陰槃(安定)にゆく。馮異がふせいだ。隗囂は、別將に隴道をくだらせ、汧県にいる祭遵を攻めた。隗囂は、どちらもまけた。

帝因令來歙以書招王遵,遵乃與家屬東詣京師,拜為太中大夫,封向義侯。遵字子春,霸陵人也。父為上郡太守。遵少豪俠,有才辯,雖與囂舉兵,而常有歸漢意。曾于天水私於來歙曰:「吾所以戮力不避矢石者,豈要爵位哉!徒以人思舊主,先君蒙漢厚恩,思效萬分耳。」又數勸囂遣子入侍,前後辭諫切甚,囂不從,故去焉。

来歙は文書で、隗囂の部将・王遵をくだした。王遵は、家属とともに京師にきた。太中大夫、向義侯。

渡邉注はいう。太中大夫は、光禄勲にぞくし、顧問や応対をつかさどる。秩禄は1千石。定員はない。『後漢書』百官志2。

王遵は、覇陵の人。父は上郡太守。隗囂とともに起兵したが、漢室に帰順したかった。来歙をつうじて、光武帝にくだった。王遵が「光武帝にくだろう」と言ったが、隗囂がきかないので、決裂した。

来歙が略陽をえて、王遵が牛邯を文書でくだす

八年春,來歙從山道襲得略陽城。囂出不意,懼更有大兵,乃使王元拒隴坻,行巡守番須口,王孟塞雞頭道,牛邯軍瓦亭,囂自悉其大眾圍來歙。公孫述亦遣其將李育、田弇助器攻略陽,連月不下。親乃率諸將西征之,數道上隴,使王遵持節監大司馬吳漢留屯于長安。
遵知囂必敗滅,而與牛邯舊故,知其有歸義意,以書喻之曰:

建武八年(032)春、來歙は、略陽をえた。隗囂は光武帝軍をふせぐため、王元を隴坻に、行巡を番須口(汧県)に、王孟を雞頭道に、牛邯を瓦亭(安定の烏支)におく。

渡邉注はいう。王孟は、ほかに史料がない。
渡邉注はいう。牛邯は、隴西の人。王遵にすすめられ、光武帝に帰属する。太中大夫、護羌校尉。この『後漢書』隗囂伝にでてくるだけ。

みずから隗囂は、略陽の来歙をかこむ。公孫述は、李育と田弇をつかわし、略陽をかこむ。月をつらね、略陽はおちず。

渡邉注はいう。田弇は、ここに出てくるのみ。

光武帝は、みずから征西した。王遵に節をもたせ、大司馬の呉漢に監させ、光武帝は長安にいる。 王遵は、隗囂がかならず敗滅すると知る。牛邯とは旧知だから、王遵は、牛邯に文書した。

遵與隗王ECA6盟為漢,自經歷虎口,踐履死地,已十數矣。于時周洛以西無所統壹,故為王策,欲東收關中,北取上郡,進以奉天人之用,退以懲外夷之亂。數年之間,冀聖漢複存,當挈河隴奉舊都以歸本朝。生民以來,臣人之勢,未有便於此時者也。而王之將吏,群居穴處之徒,人人抵掌,欲為不善之計。遵與孺卿日夜所爭,害幾及身者,豈一事哉!前計抑絕,後策不從,所以吟嘯扼腕,垂涕登車。幸蒙封拜,得延論論,每及西州之事,未嘗敢忘孺卿之言。今車駕大眾,已在道路,吳、耿驍將,雲集四境,而孺卿以奔離之卒,距要厄,當軍沖,視其形勢何如哉?夫智者睹危思變,賢者泥而不滓,是以功名終申,策畫複得。故夷吾束縛而相齊,黥布杖斂以歸漢,去愚就義,功名並著。今孺卿當成敗之際,遇嚴兵之鋒,可為怖栗。宜斷之心胸,參之有識。
邯得書,沉吟十餘日,乃謝士眾,歸命洛陽,拜為太中大夫。於是囂大將十三人,屬縣十六,眾十眾萬,皆降。

王遵はいう。「私は隗囂と、血盟した。そのときは、洛陽より西を統一する人がいなかった。だが光武帝がでてきた。驍将の呉漢や耿弇をつれてきた。牛邯も、管仲や鯨布のように、光武帝にしたがえ」と。
牛邯は、10余日まよい、士衆にあやまり、洛陽にいった。太中大夫となる。隗囂の大将13人、属県16、兵卒10万余は、光武帝にくだった。

李賢と渡邉注は、文書にこまかく注釈するが、はぶく。ネタバレすると、隗囂は逆転して、もういちどだけ、もりかえす。


蜀兵が西城の隗囂をすくい、隴西がそむく

王元入蜀求救,囂將妻子奔西域,從楊廣,而田弇、李育保上BD6A。詔告囂曰:「若束手自詣,父子相見,保無他也。高皇帝雲:'橫來,大者王,小者侯。'若遂欲為黥布者,亦自任也。」囂終不降。於是誅其子恂,使吳漢與征南大將軍岑彭圍西城,耿弇與虎牙大將軍蓋延圍上BD6A。車駕東歸。月余,楊廣死,囂窮困。

王元は、蜀へ援軍をもとめた。隗囂は、妻子をつれて西城(漢陽)にゆき、楊廣にしたがう。田弇、李育は、上邽をまもる。光武帝は隗囂にいった。「田横のようにくだれば、隗囂を王とする。鯨布のように皇帝をとなえるなら、どうぞ」と。

渡邉注はいう。田横は、『史記』田タン伝。
ぼくは思う。光武帝の隗囂にたいする「外交」は、どうも投げやり。自主性にまかせる。

隗囂は、ついにくだらず。光武帝は、人質の隗恂をころした。大司馬の吳漢と、征南大將軍の岑彭に、西城をかこませた。

渡邉注はいう。前漢以来の方面司令官「征南将軍」に「大」をつけたもの。「大」がつくと、3品の征南将軍が、2品にあがる。小尾孟夫『六朝都督制研究』2001。
渡邉注はいう。岑彭は、『後漢書』岑彭伝。王莽と更始帝につかえた。劉秀の河北討伐から、くわわる。公孫述をうつとき、暗殺された。征南大将軍、舞陽侯。

耿弇と、虎牙大將軍の蓋延は、上邽をかこむ。光武帝は、(頴川で盗賊がおこり)東にかえった。月余、楊廣が死んで、隗囂は窮困した。

其大將王捷別在戎丘,登城呼漢軍曰:「為隗王城守者,皆必死無二心!願諸軍亟罷,請自殺以明之。」遂自刎頸死。數月,王元、行巡、周宗將蜀救兵五千餘人,乘高卒至,鼓噪大呼曰:「百萬之眾方至!」漢軍大驚,未及成陳,元等決圍,殊死戰,遂得入城,迎囂歸冀。會吳漢等食盡退去,於是安定、北地、天水、隴西複反為囂。

隗囂の大將・王捷は、隗囂とはべつに、戎丘にいた。城壁にのぼり、光武帝軍に言った。「隗王のために、城を守る者は、二心がない。あきらめよ」と言って、自殺した。

ぼくは思う。『資治通鑑』で読みました。このエピソード。

数ヶ月して、王元、行巡、周宗は、蜀から5千余人をひきいて、光武帝軍の包囲をやぶった。王元は、隗囂を冀県にうつした。呉漢は、食糧がつきたので、しりぞく。安定、北地、天水、隴西は、ふたたび隗囂につく。

隗囂は食糧にケチがついて死に、隗純もきられる

九年春,囂病且餓,出城餐糗E05F,恚憤而死。王元、周宗立囂少子純為王。明年,來歙、耿弇、蓋延等攻破落門,周宗、行巡、苛宇、趙恢等將純降。宗、恢及諸隗分徙京師以東,純與巡、宇徙弘農。唯王元留為蜀將。及輔威將軍臧宮破延岑,元舉眾詣宮降。

建武九年春(033)、隗囂は、大豆と米を煎ったものと、ほしいいを食べ、いきどおって死んだ。

渡邉注はいう。食べ物の説明は、鄭玄が『周礼』にもとづき注釈し、それを李賢がつけた。ぼくは思う。どうやら食物に不満をもち、いきどおって死ぬというのが、定型文らしい。袁術は、ミツを飲みそこねた。
李賢はいう。『続漢書』五行1に、足のなえた隗囂が、天子になれない予言がある。

王元、周宗は、少子の隗純を王とした。明年、來歙、耿弇、蓋延らは、落門聚をやぶった。周宗、行巡、苛宇、趙恢らは、隗純をつれてくだった。周宗、趙恢と、隗氏は、洛陽の東にうつされた。

渡邉注はいう。苟宇は、隗囂の別将。『後漢書』独行・温序伝にある。

隗純、行巡、苟宇は、弘農にうつされた。王元だけは、公孫述につく。輔威將軍の臧宮が延岑をやぶると、王元はくだった。

渡邉注はいう。輔威将軍は、雑号将軍。臧宮のほかに、耿植がつく。『後漢書』耿純伝。渡邉注はいう。臧宮は、『後漢書』臧宮伝。頴川の人。光武帝の侍中、騎都尉となる。更始帝、公孫述をやぶる。城門校尉、朗陵侯。


元字惠孟,初拜上蔡令,遷東平相,坐墾田不實,下獄死。
牛邯字孺卿,狄道人。有勇力才氣,雄于邊垂。及降,大司徒司直杜林、太中大夫馬援並薦之,以為護羌校尉,與來歙平隴右。
十八年,純與賓客數十騎亡入胡,至武威,捕得,誅之。

王元は、あざなを惠孟。上蔡令、東平相。墾田の申告がただしくないので、獄死した。

李賢はいう。『三輔決録』はいう。平陵の王元は、激昂して、光武帝に抵抗した。隗囂と公孫述は、東平相となった王元にあおられて、抵抗をつづけた。光武帝は、くるしめられた。
渡邉注はいう。『三輔決録』は、後漢末に趙岐がつくった。

牛邯は、あざなを孺卿。狄道の人。牛邯がくだると、大司徒の司直する杜林、太中大夫の馬援は、牛邯をすすめた。

劉フン『東漢書刊誤』はいう。司空の属官に、司直はない。司徒ならば、司直がある。杜林伝もおなじ。
渡邉注はいう。 大司徒の司直とは、丞相の司直におなじ。
劉玄伝の渡邉注にいう。丞相司直は、大司徒の属官。武帝がおいた。大司徒が、諸州を監録することをたすける。比2千石。『後漢書』百官志4。前漢の哀帝が、丞相を大司徒とあらためたのちも、丞相司直の官名は、もとのままだった。『後漢書』光武帝本紀の下に、李賢がひく『漢官儀』より。

牛邯は、護羌校尉となる。来歙とともに、隴右をたいらげた。

渡邉注はいう。護羌校尉は、節をあたえられる。西羌にかんする、諸事をつかさどる。秩禄は、比2千石。『後漢書』百官志5。

建武十八年(042)、耿純は、賓客と胡地にゆく。武威でつかまり、ころした。

論曰:隗囂援旗糾族,假制明神,跡夫創圖首事,有以識其風矣。終於孤立一隅,介於大國,隴坻雖隘,非有百二之勢,區區兩郡,以禦堂堂之鋒,至使窮廟策,竭征徭,身歿眾解,然後定之。則知其道有足懷者,所以棲有四方之桀,士至投死絕亢而不悔者矣。夫功全則譽顯,業謝則釁生,回成喪而為其議者,或未聞焉。若囂命會符運,敵非天力,雖坐論西伯,豈多嗤乎?

范曄の論にいう。隗囂は一族をまとめ、高帝や文帝をまつったから、風格がある。しかし、戦国秦のように、2万で100万をふせげない。光武帝がくると、軍隊がバラけたので、隗囂への支持がもつ限界がわかる。もしライバルが光武帝でなければ、隗囂は、周文王に匹敵したかもしれない。

ぼくは思う。隗囂をほめることで、それをやぶった光武帝を、もっと、もちあげる論法。史書は、こういうことを、よくやるようです。『三国志』を読むときも、ライバルの記されかたに、気をくばりたい。諸葛亮と司馬懿とか。


つぎは、隗囂のさいごの主君・公孫述伝です。つづきます。