04) 神がかりな能吏、天子となる
『後漢書』列伝3・隗囂、公孫述伝をやります。
渡邉義浩『全訳後漢書』をつかい、『資治通鑑』の抄訳をおぎないます。
公孫述は、前漢の郡太守した家柄
公孫述は、あざなを子陽という。扶風の茂陵の人。
哀帝のとき、父の公孫仁が、任によって郎となる。
渡邉注はいう。太子舎人は、秩禄2百石。太子の東宮で、宿直をおこなう。『後漢書』百官志4。
のちに父の公孫仁は、河南都尉となる。公孫述は、清水(天水)長に補任された。公孫仁は、公孫述がわかいので、門下掾を公孫述にしたがわせた。
李賢はいう。州郡には、掾がいる。みな、みずから辟して、任命した。つねに掾は、門下にいるから、掾のことを門下掾といった。
月餘、門下掾は、もどって公孫仁に言った。「公孫述には、教育がいらない」と。
のちに天水太守は、公孫述が有能なので、5県の行政をかねさせた。政事は修理し、奸盜は不發し、郡中では「公孫述は鬼神だ」といった。
王莽の天鳳(014-019)、導江卒正(蜀郡太守)となり、臨邛にいる。有能として知られた。
益州で真主をまち、南陽の宗成をころす
更始帝がたつと、豪傑は県により、漢室におうじた。南陽の宗成は、みずから虎牙將軍をとなえ、漢中をせめた。商県の王岑は、雒縣(広漢)で起兵して、みずから定漢將軍をとなえた。王莽の庸部(益州)牧する宋遵をころした。
渡邉注はいう。定漢将軍は、雑号。『後漢書』『後漢紀』七家後漢書で、ほかにない。渡邉注はいう。輔漢将軍は、雑号。光武帝にくだった于匡も、輔漢将軍についた。
公孫述は、宗成を成都にむかえた。宗成は、成都であばれた。公孫述は、県中の豪桀に言った。「新室にくるしみ、漢の将軍・宗成をむかえた。だが宗成は、寇賊だった。郡をたもち、真主をまとう」と。豪傑は、みな叩頭して、公孫述についた。
公孫述はいつわり、漢室の使者がきて、輔漢將軍、蜀郡太守、益州牧の印綬をうけたとした。西して宗成をやぶった。宗成の部将・垣副が、宗成をころし、くだった。
功曹従事の李熊がすすめ、蜀王、皇帝となる
更始二年(024)秋、更始帝は、柱功侯の李寶、益州刺史の張忠に、蜀漢をとなえさせた。
公孫述は、弟の公孫恢を緜竹(広漢)にやり、更始帝軍をやぶった。公孫述の威名は、益州にとどろく。功曹の李熊は、公孫述にといた。
李熊がいう。「公孫述は1000里に割拠するので、殷湯王や周武王の10倍だ。天のときに、間隙がある。覇王の業がなる。名号をあらためよ」と。
渡邉注はいう。枚乗は、『漢書』枚乗伝がある。淮陰の人。呉王の郎中として、叛乱をとめたい。呉楚七国については、稲葉一郎「呉楚七国の乱について」がある。
公孫述は蜀王となり、成都に都した。
述曰:「帝王有命,吾何足以當之?」熊曰:「天命無常,百姓與能。能者當之,王何疑焉!」
蜀地は、肥沃で士卒がおおく、西南夷の邛国や笮国が、みつぎした。李熊は公孫述に言った。
「蜀地は、女工が織物して、魚鹽や銅銀もある。皇帝につけ」と。
李賢は、西晋の左思『蜀都賦』で、蜀地の産業をうらづける。
公孫述がいった。「私に天命があるか」と。李熊がいった。「天命は、うつろう。有能ならば、天命がくだる。公孫述は、うたがうな」と。
公孫述は夢をみた。「八厶子系(公孫)は、12年の天命がある」と言われた。公孫述は妻に「12年はみじかい」と言った。妻は言った。「朝に道をきけば、夕に死んでもいいという。12年もありゃ、充分だ」と。よるに、龍がかがやき、手のひらに「公孫帝」ときざんだ。
建武元年(025)4月、公孫述は天子となり、成家とごうした。五行のうち白色をとうとび、龍興元年とした。李熊を大司徒とし、弟の公孫光を大司馬とし、公孫恢を大司空とした。益州を司隸校尉とあらため、蜀郡を成都尹とあらためた。
渡邉注はいう。司隷校尉は、もと監察官。前漢の武帝が、前089に、大逆事件をあげるため、臨時においた。のちに三輔(京兆、馮翊、扶風)、三河(河内、河東、河南)、弘農において、行政、監察をつかさどる要職となった。これらの地域が、司隷校尉部とよばれ、首都圏となる。『後漢書』百官志4。
越巂の任貴は、王莽も越巂大尹をころし、越巂をあげてくだる。
公孫述は、将軍の侯丹に白水關(漢陽の西)をひらかせ、北して南鄭をまもる。將軍の任滿は、閬中県(巴郡)から江州県(巴郡)にくだり、東してカン關をまもる。公孫述は、すべて益州をたもった。
ぼくは思う。隗囂伝をよんでも、公孫述伝をよんでも、『資治通鑑』をはみだして、おおきな発見があるわけじゃない。抄訳が、おおざっぱになる。おそらく『資治通鑑』は、隗囂伝と公孫述伝に、かなり依拠して、記述をたくさんぬいたのだ。
つぎ、光武帝軍とぶつかります。つづきます。