表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝3・隗囂と公孫述伝;隴をとられ蜀をのぞまれる

02) 更始をすて、光武に人質する

『後漢書』列伝3・隗囂、公孫述伝をやります。
渡邉義浩『全訳後漢書』をつかい、『資治通鑑』の抄訳をおぎないます。

024年、方望をすて、隗崔と隗囂をきり、更始帝につく

囂乃勒兵十萬,擊殺雍州牧陳慶。將攻安定。安定大尹王向,莽從弟平阿侯譚之子也,威風獨能行其邦內,屬縣皆無叛者。囂乃移書于向,喻以天命,反復誨示,終不從。於是進兵虜之,以徇百姓,然後行戮,安定悉降。而長安中亦起兵誅王莽。囂遂分遣諸將徇隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌,皆下之。

隗囂は10万をひきい、雍州牧の陳慶をころした。

渡邉注はいう。陳慶は、ほかに史料なし。詳細はわからない。ぼくは思う。「ほかに史料なし」と断言してもらうと、あきらめられる。渡邉注の価値です。

隗囂は、安定を攻めたい。安定大尹の王向は、王莽の從弟で、平阿侯の王譚の子である。王向の威令がとどき、安定の属県はそむかず。

渡邉注はいう。王向は、王莽の伯父・平阿侯の王譚の子。中華書局の訓点にしたがうと、意味がおかしい。王譚は、王莽の祖父・王禁の子。
ぼくは思う。王莽は、長安のそば・安定太守に、従弟をおいたのかあ!

隗囂は、王向に「王莽に天命がない」と説得したが、したがわず。隗囂は、王向をころした。安定は、隗囂にくだった。
そのころ長安で、王莽がころされた。隗囂は、諸将をわけて、隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌をくだした。

ぼくは思う。狩野直禎氏が、見てきたように、支配領域を羅列しているのは、この記述にもとづくから。イヤに、キレイに整理されている。



更始二年,遣使征囂及崔、義等。囂將行,方望以為更始未可知,固止之,囂不聽。望以書辭謝而去,曰:
足下將建伊、呂之業,弘不世之功,而大事草創,英雄未集。以望異域之人,疵瑕未露,欲先崇郭隗,想望樂毅,故欽承大旨,順風不讓。將軍以至德尊賢,廣其謀慮,動有功,發中權,基業已定,大勳方緝。今俊乂並會,羽翮並肩,望無耆考之德,而猥托賓客之上,誠自愧也。雖懷介然之節,欲CB62去就之分,誠終不背其本,貳其志也。何則?範蠡收責句踐,乘偏舟於五湖;舅犯謝罪文公,亦逡巡於河上。夫以二子之賢,勒銘兩國,猶削跡歸愆,請命乞身,望之無勞,蓋其宜也。望聞烏氏有龍池之山,微徑南通,與漢相屬,其傍時有奇人,聊及閒暇,廣求其真。願將軍勉之。

更始二年(24)、更始帝は、隗囂、隗崔、隗義らを、徴した。隗囂が更始帝におうじるので、方望がさった。方望は曰った。
「隗囂は、燕の郭隗の故事のように、私・方望をまねいてくれた。私につづいて、もう人材があつまったので、私はさりたい。烏氏県(安定郡)に、龍池の山がある。南への道が、漢水につながる。漢水のほとりに、奇人がいるらしい。私は奇人に、真実を聞きにいく。いとまをくれ」と。

ぼくは補う。方望は、隗囂が更始帝につくことに、反対した。更始帝につくくらいなら、方望は「軍師」をつとめたくない。


囂等遂至長安,更始以為右將軍,崔、義皆即舊號。其冬,崔、義謀欲叛歸,囂懼並禍,即以事告之,崔、義誅死。更始感囂忠,以為御史大夫。

隗囂らは、長安にゆく。更始帝は、隗囂を右将軍とした。隗崔は白虎將軍を、隗義は左將軍を、追認された。
その冬、隗崔と隗義は、更始帝にそむきたい。隗囂は、更始帝にチクった、隗囂と隗義は、誅された。更始帝は、隗囂の忠に感じて、御史大夫とした。

更始帝にそむき、西州大将軍をとなえる

明年夏,赤眉入關,三輔擾亂。流聞光武即位河北,囂即說更始歸政于光武叔父國三老良,更始不聽。諸將欲劫更始東歸,囂亦與通謀。事發覺,更始使使者召囂,囂稱疾不入,因會客王遵、周宗等勒兵自守。

明年(025)夏、赤眉が三輔をみだした。光武帝が河北で即位したと、ながれ聞いた。隗囂は、更始帝にといた。「光武帝の伯父・國三老の劉良に、政権をわたせ」と。更始帝は、きかず。諸将は、更始帝を東に送りかえしたい。隗囂も、送りかえしたい。モレたので、隗囂は病気といい、更始帝に入朝せず。
隗囂は、賓客の王遵、周宗らと、兵をととのえて自守した。

更始使執金吾鄧曄將兵圍囂,囂閉門拒守;至昏時,遂潰圍,與數十騎夜斬平城門關,亡歸天水。複招聚其眾,據故地,自稱西州上將軍。
及更始敗,三輔耆老士大夫皆奔歸囂。

更始帝は、執金吾の鄧曄に、隗囂をかこませた。

渡邉注はいう。執金吾は、九卿の1つ。首都の警備長官。月に3たび、首都をめぐる。その壮麗ぶりを見て、光武帝は「執金吾になりたい」と言った。『後漢書』百官志4より。
李賢はいう。謝承『後漢書』はいう。鄧曄は、南陽の南郷の人。つよく、まっすぐ。
渡邉注はいう。鄧曄は、もと更始帝の復漢将軍。光武帝に帰したのちも、復漢将軍をつづけた。鄧曄は、于匡とともに、延岑を討伐した。列伝7・馮異伝。

隗囂は、かこみをやぶり、平城門關(長安の南面、西頭の門)をきって、天水ににげた。隗囂は故地により、みずから西州上將軍をとなえた。
更始帝がやぶれると、三輔の耆老や士大夫は、みな隗囂にはしった。

囂素謙恭愛士,傾身引接為布衣交。以前王莽平河大尹長安穀恭為掌野大夫,平陵范逡為師友,趙秉、蘇衡、鄭興為祭酒,申屠剛、杜林為持書,楊廣、王遵、周宗及平襄人行巡、阿陽人王捷、長陵人王元為大將軍,杜陵、金丹之屬為賓客。由此名震西州,聞于山東。

隗囂は、身分にとらわれず、士人とまじわる。さきの王莽の平河大尹(清河太守)した長安の谷恭を、掌野大夫した。平陵の范逡を、師友とした。

渡邉注はいう。谷恭は、京兆の長安の人。ほかに史料なし。掌野大夫も、ほかに史料なし。ぼくは思う。いっそ、いさぎよい。
渡邉注はいう。范逡は、扶風の平陵の人。はじめ杜林と行動して、のちに隗囂の師友となった。『後漢書』列伝17・杜林伝にある。
渡邉注はいう。師友は、官名の1つ。前漢の平帝のとき、平帝がおさないので、師として孔光、友として金欽が任命された。『漢書』金日磾伝にある。王莽も、太子師友をおいた。平帝の官位を、ついだ。

趙秉、蘇衡、鄭興を、祭酒とした。

李賢はいう。『前書音義』すなわち『漢書』伍被伝にある顔師古注はいう。酒を飲むとき、かならず祭って、先人がいたことを示す。ゆえに祭酒という。祭祀のとき、長者だけが酒を地にそそぐ。この長者が、祭酒である。
渡邉注はいう。祭酒は、官名。前漢より、講学祭酒、太子師友祭酒、郡掾祭酒など、祭酒がつく官名がおおい。その影響をうけて、隗囂が任じたのであろう。
渡邉注はいう。趙秉は、扶風の平陵の人。はじめ杜林と行動して、のちに隗囂の祭酒となった。『後漢書』列伝17・杜林伝にある。
渡邉注はいう。蘇衡は、ここにしか史料がない。わからない。
渡邉注はいう。鄭興は、河南の開封の人。『公羊伝』『左氏伝』をまなび、劉歆について、『三統暦』をつくった。更始帝につかえ、諌議大夫、涼州刺史をした。隗囂の祭酒となった(いま)。建武六年、光武帝の大中大夫となった。讖緯をまなばないので、重んじられず。おもに古文学として『左氏伝』をこのむ。賈逵とともに、ならび称された。『後漢書』列伝26・鄭興伝。ぼくは思う。列伝、あるんかい。

申屠剛、杜林を、持書とした。

李賢はいう。持書とは、持書侍御史だ。6百石。渡邉注はいう。侍御史は、御史中丞の属官。違法行為の弾劾を、おもな職掌とする。『後漢書』百官志3。
渡邉注はいう。申屠剛は、『後漢書』列伝19。賢良方正にあげられたが、王莽を批判した。隗囂の侍御史となった。光武帝の尚書令となる。きつく諫めたので、平陰令となる。大中大夫にもどるが、病死した。
渡邉注はいう。杜林は、『後漢書』列伝17。隗囂の侍御史となり、弟の喪で、隗囂をさる。古文尚書がすきで、後漢の郊祀制度をさだめた。肉刑の復活をしりぞけた。

隗囂は、楊廣、王遵、周宗および、平襄の行巡、阿陽の王捷、長陵(李賢いわく、長陵でなく、天水の杜陵)の王元を、大將軍とした。

渡邉注はいう。行巡は、漢陽の平襄の人。しばしば後漢とたたかい、建武十年、隗純とともに、くだった。王捷は、後漢にやぶれて自殺した。
渡邉注はいう。王元は、たびたび光武帝とたたかった。隗囂の死後、隗純をかつぐ。やぶれて蜀ににげ、公孫述の将軍となる。建武十一年、くだった。東平相となるが、失政して獄死した。

杜陵、金丹らを、賓客とした。

渡邉注はいう。杜陵、金丹は、ほかに史料がない。
ぼくは思う。隗囂伝のここのように、よく知らない固有名詞をラレツしたところに、渡邉注がつくと、とても助かる。今後『後漢書』を読むときに、参考になる。どこを掘ればいいか、どこを掘っても仕方ないか。

これにより隗囂の名は、西州にひびく。山東におよぶ。

承制した鄧禹から、涼州と朔方の専制をゆるされる

建武二年,大司徒鄧禹西擊赤眉,屯雲陽,禹裨將馮C924引兵叛禹,西向天水,囂逆擊,破之于高平,盡獲輜重。於是禹承制遣使持節命囂為西州大將軍,得專制涼州、朔方事。及赤眉去長安。欲西上隴,囂遣將軍楊廣迎擊,破之,又追敗之于烏氏、涇陽間。

建武二年(026)、大司徒の鄧禹は、西に赤眉をうち、雲陽にきた。鄧禹の裨將軍・馮インは、鄧禹にそむき、西して天水にゆく。隗囂は、馮インを高平でやぶる。輜重をうばった。

渡邉注はいう。裨将軍は、軍の部隊長。偏将軍とおなじ。大庭脩「後漢の将軍と将軍仮節」(『秦漢法制史の研究』1982)を参照。
馮インは、『後漢書』列伝6・鄧禹伝にある。

鄧禹は承制して、持節して隗囂を、西州大將軍とし、涼州、朔方事を專制させた。赤眉が長安をさる。赤眉は、西して隴水をのぼりたい。隗囂は、楊廣に迎撃させた。追撃して、烏氏、涇陽(安定)の間で、赤眉をやぶった。

囂既有功於漢,又受鄧禹爵,署其腹心,議者多勸通使京師。三年,囂乃上書詣闕。光武素聞其風聲,報以殊禮,言稱字,用敵國之儀,所以慰藉之良厚。時,陳倉人呂鮪擁眾數萬,與公孫述通,寇三輔。囂複遣兵佐征西大將軍馮異擊之,走鮪,遣使上狀。帝報以手書曰:

隗囂は、漢室に功績があり、鄧禹から爵位をもらった。
建武三年、隗囂は上書して、詣闕した(宮殿にきた)。光武帝は、隗囂をあざなでよんだ。対等の国の儀礼をもちいた。
ときに陳倉の呂鮪は、公孫述とつうじ、三輔をせめた。

渡邉注はいう。呂鮪は、のちに公孫述の部将となる。馮異にたいらげられた。『後漢書』列伝7・馮異伝。渡邉注はいう。公孫述は、王莽の導江卒正(蜀郡太守)となる。建武十一年(035)、後漢に攻められて、死んだ。

隗囂は、征西大将軍の馮異をたすけ、呂鮪をやぶった。隗囂は、光武帝に報告した。光武帝は、手ずから文書した。

慕樂德義,思相結納。昔文王三分,猶服事殷。但弩馬鉛刀,不可強扶。數蒙伯樂一顧之價,而蒼蠅之飛,不過數步,即托驥尾,得以絕群。隔于盜賊,聲問不數。將軍操執款款,扶傾救危,南距公孫之兵,北禦羌胡之亂,是以馮異西征,得以數千百人躑躅三輔。微將軍之助,則咸陽已為他人禽矣。今關東寇賊,往往屯聚,志務廣遠,多所不暇,未能觀兵成都,與子陽角力。如令子陽到漢中、三輔,願因將軍兵馬,鼓旗相當。儻肯如言,蒙天之福,即智士計功割地之秋也。管仲曰;「生我者父母,成我者鮑子。」自今以後,手書相聞,勿用傍人解構之言。
自是恩禮愈篤。

光武帝は、隗囂にいう。「私は、よわい。隗囂のおかげで、咸陽を公孫述からまもれた。公孫述とたたかうとき、隗囂をたよりたい」と。
光武帝は、いよいよ隗囂を、あつく礼した。

ぼくは思う。光武帝は、レトリックを駆使して、自分の弱さをいう。レトリックのフリをしているが、弱さは事実だと思う。隗囂が味方してくれなければ、光武帝は、公孫述と張りあうことができない。なぜか。河北も河南も、まだ平定していないから。関中や巴蜀に、不安があるだけでなく、全土に不安がある。


其後公孫述數出兵漢中,遣使以大司空扶安王印綬授囂。囂自以與述敵國,恥為所臣,乃斬其使,出兵擊之,連破述軍,以故蜀兵不復北出。
時,關中將帥數上書,言蜀可擊之狀,帝以示器,因使討蜀,以效其信。器乃遣長史上書,盛言三輔單弱,劉文伯在邊,未宜謀蜀。帝知囂欲持兩端,不願天下統一,於是稍黜其禮,正君臣之儀。

のちに公孫述は、しばしば漢中に出兵した。公孫述は、大司空、扶安王の印綬を、隗囂にさずけた。隗囂は、おなじレベルの公孫述に、臣下として扱われたので、公孫述の軍をやぶった。公孫述は、ふたたび北伐せず。
関中の諸将は、しばしば上書して「公孫述をうて」と言った。隗囂は「文伯(盧芳)がいるから、公孫述をうてない」と言った。

李賢はいう。文伯は、盧芳のあざなだ。渡邉注は王先謙『後漢書集解』をひく。盧芳は、武帝の曾孫・文伯を自称した。盧芳のあざなは、盧芳伝にあるように、君期だ。

光武帝は、隗囂がどっちつかずで、天下統一を願わないことを知った。対等の礼をやめて、君臣の儀をただした。

ぼくは思う。文意はわかるが、解釈がむずかしい。
隗囂は、公孫述から臣下あつかいされて、そむいた。これまで光武帝は、隗囂を対等にあつかっていたが、臣下あつかいに、切りかえた。もし光武帝が、隗囂を味方にしたいならば、下手くそである。隗囂は、公孫述にそむいたのと同じ理由で、光武帝にそむく
ちがうのだ。光武帝は、隗囂が公孫述とむすぶことを怖れて、隗囂を大切にした。いま隗囂は、公孫述と決裂した。隗囂と公孫述がむすぶリスクは、ない。光武帝は、怖れることなく、隗囂を臣下にくりこめる。隗囂がさからえば、斬ればよい。


王元が隗囂に、戦国秦とおなじ戦略をとく

初,囂與來歙、馬援相善,故帝數使歙、援奉使往來,勸令入朝,許以重爵。囂不欲東,連遣使深持謙辭,言無功德,須四方平方,退伏閭裏。五年,複遣來歙說囂遣子入侍,囂聞劉永、鼓寵皆已破滅,乃遣長子恂隨歙詣闕。以為胡騎校尉,封鐫羌侯。而囂將王元、王捷常以為天下成敗未可知,不願專心內事。元遂說囂曰:

はじめ隗囂は、来歙、馬援と、仲がよい。隗囂に、入朝をうながした。

渡邉注はいう。来歙は、『後漢書』来歙伝。光武帝と縁戚した。更始帝にもちいられず、劉嘉に身をよせた。隗囂の親交から、隗囂への政策をまかされた。建武十年、隗純をくだした。先零羌をやぶった。建武十一年、公孫述の刺客に、ころされた。節侯。
渡邉注はいう。馬援は、『後漢書』馬援伝。隗囂におもんじられ、綏徳将軍となる。光武帝の大中大夫となり、隗囂をせめた。隴西太守となり、羌族をおさえた。徴側、徴貳の乱など、異民族をたいらげた。伏波将軍、新息侯。

隗囂は「四方が平定されるのを待ち、閭裏にひっこむ」と言った。建武五年、来歙は隗囂に、子の隗純をおくらせた。隗純は、胡騎校尉、鐫羌侯となる。

李賢はいう。胡騎校尉は、武帝がおく。2千石。鐫とは、鐫(キリ)でうがつこと。

だが、王元、王捷は、天下の勝敗がきまらないので、光武帝にだけ、つきたくない。王元は、隗囂に言った。

「昔更始西都,四方回應,天下喁喁,謂之太平。一旦敗壞,大王幾所厝。今南有子陽,北有文伯,江湖海岱,王公十數,而欲牽儒生之說,棄千乘之基,羈旅危國,以求萬全,此循覆車之軌,計之不可者也。今天水完富,士馬最強,北收西河、上郡,東收三輔之地,案秦舊跡,表裏河山。元請以一丸泥為大王東封函谷關,此萬世一時也。若計不及此,且畜養士馬,據隘自守,曠日持久,以待四方之變,圖王不成,其弊猶足以霸。要之,魚不可脫於淵,神龍失勢,即還與蚯蚓同。」

王元はいう。「長安の更始帝がやぶれ、公孫述と盧芳が、南北をたもつ。江湖海岱に、王公は10をかぞえる。

李賢はいう。張歩は斉郡にいる。董憲は東海にいる。李賢は舒県にいる。劉紆は垂恵にいる。佼強、周建、秦豊らは、それぞれ郡による。
渡邉注はいう。秦豊は、『後漢書』朱祐伝。南郡の人。楚黎王を名のる。延岑、田戎をむかえた。朱祐に降伏して、洛陽で刑死した。

だが隗囂が、儒生(馬援)に説かれて、光武帝についてはいけない。天水は、戦乱のキズがない。天水の士馬は、もっともつよい。北は、西河と上郡をおさめよ。東は、三輔をおさめよ。戦国秦の旧領をおさえよ。そとに山、うちに河があれば(左氏伝)、害をなくせる。私は、1つかみのドロで、函谷関をふせごう。持久すれば、王者になれなくとも、覇者になれる」と。

囂心然元計,雖遣子入質,猶負其險厄,欲專方面,於是游士長者,稍稍去之。

隗囂は、隗純を人質にしたが、隴西で専制したい。杜林などの游士や長者は、すこしずつ隗囂をさった。

李賢はいう。『東観漢記』は、杜林から、去りはじめた。
ぼくは補う。上の渡邉注にあるように、『後漢書』杜林伝がある。


つぎ、光武帝と決裂して、独立をねらいます。つづく。