表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝3・隗囂と公孫述伝;隴をとられ蜀をのぞまれる

01) 檄文で王莽の悪政を詳述

『後漢書』列伝3・隗囂、公孫述伝をやります。
渡邉義浩『全訳後漢書』をつかい、『資治通鑑』の抄訳をおぎないます。

季父の隗崔におされ、隗囂が起兵する

隗囂字季孟,天水成紀人也。少仕州郡。王莽國師劉歆引囂為士。歆死,囂歸鄉里。

隗囂は、あざなを季孟。天水の成紀(県)の人だ。わかくて州郡につかえる。王莽の國師・劉歆は、隗囂をひいいて、士とした。

渡邉注はいう。劉歆は、前漢末期の学者・官僚(前32-後23)。劉向の子。『詩経』『書経』につうず。父とともに、宮中の蔵書を、校勘・整理した。目録の『七略』をつくり、『漢書』芸文志のもととなる。『左氏伝』の学官を立てろと主張したが、反対されて太守に転じた。王莽に抜擢されて、中央にもどり、国師となる。王莽の殺害をはかり、失敗して自殺した。『漢書』巻36・楚元王伝にあり。
李賢はいう。王莽は国師をおき、三公の上とした。隗囂がついた「士」とは、国師の属官だ。王莽は九卿をおき、わけて三公に属させた。1卿ごとに、大夫3人をおき、1大夫ごとに元士3人をおいた。
ぼくは思う。漢室では、九卿は、三公の属官ではないよね。

劉歆が死ぬと(023)、隗囂は郷里にかえる。

季父崔,素豪俠,能得眾。聞更始立而莽兵連敗,於是乃與兄義及上BD6A人楊廣、冀人周宗謀起兵應漢。囂止之曰:「夫兵,凶事也。宗族何辜!」崔不聽,遂聚眾數千人,攻平襄,殺莽鎮戎大尹,崔、廣等以為舉事宜立主以一眾心,鹹謂囂素有名,好經書,遂共推為上將軍。囂辭讓不得已,曰:「諸父眾賢不量小子。必能用囂言者,乃敢從命。」眾皆曰「諾」。

隗囂の季父・隗崔は、もとより豪俠で、兵士をあつめた。

渡邉注はいう。隗崔は、天水の成紀の人。隗囂のすえの叔父。隗囂にしたがって、白虎将軍となる。この列伝にあり。

更始帝が王莽軍をやぶったと聞き、隗囂の兄・隗義と、上邽の楊廣と、冀県の周宗とともに、起兵して、更始帝におうじたい。

渡邉注はいう。隗義は、隗囂にしたがい左将軍となる。楊広は、隗囂にしたがい右将軍となる。呉漢にせめられ、戦死した。周宗は、隗囂の大将軍。たびたび光武帝の軍とたたかう。隗囂の死後は、隗囂の子・隗純をたてた。034隗純とともに降伏した。
ぼくは思う。楊広が呉漢にやぶれ、周宗が隗純とともにくだる。ネタバレ!

隗囂は、起兵をとめた。「兵は凶事だ。宗族に、どんな辜(つみ)があるから、起兵しなければならんか」と。隗崔はゆるさず、平襄(天水)をせめた。王莽の鎮戎大尹(天水太守)をころした。隗崔らは、隗囂が経書をこのむので、隗囂を上將軍におした。隗囂は、ことわれない。隗囂は云った。「叔父や兵士たちが、私の言葉にしたがうなら、私は上将軍になろう」と。みな「隗囂にしたがう」と云った。

囂既立,遣使聘請平陵人方望,以為軍師。望至,說囂曰:「足下欲承天順民,輔漢而起,今立者乃在南陽,王莽尚據長安,雖欲以漢為名,其實無所受命,將何以見信於眾乎?宜急立高廟,稱臣奉祠,所謂'神道設教',求助人神者也。且禮有損益,質文無常。削地開兆,茅茨土階,以致其肅敬。雖未備物,神明其舍諸。」
囂從其言,遂立廟邑東,祀高祖、太宗、世宗。

すでに隗囂がたち、平陵(扶風)の方望をまねき、軍師とした。

渡邉注はいう。軍師とは、群雄が鄭重にまねき、陣営に参加してもらうという態度で、就官してもらう官職。「師」と認識された。のちに隗囂が更始帝の召還におうじると、方望は隗囂に見きりをつけて、辞去してしまう。軍師とは、君臣関係でなく、進退去就を自由にした、賓客である。石井仁「軍師考」参照。
ぼくは思う。石井先生の「軍師考」は、読みました。

方望は、隗囂に説いた。「隗囂は、漢室をたすけるため、起兵した。更始帝は南陽にいて、王莽は長安にいる。漢室をたすけると言っても、(地理的に)王莽がブロックして、更始帝の命令をうけられない。漢室をたすける意図が、あやしまれる。隗囂は、いそぎ高廟をたてよ。臣を称して、まつれ」

渡邉注はいう。高廟は、高帝・劉邦の廟。高廟は、前漢が長安にたて、のちに光武帝が026洛陽にたてた。『後漢書』祭祀下より。ここでは、どちらでもない。隗囂がオリジナルに、高廟をたてる。

隗囂は、方望にしたがい、高廟を邑東にたてた。高祖、太宗(文帝)、世宗(武帝)をまつった。

ぼくは思う。まつりについて、渡邉注がおおいが、はぶく。


囂等皆稱臣執事,史奉璧而告。祝畢,有司穿坎於庭,牽馬操刀,奉盤錯鍉,遂割牲而盟。曰:「凡我同盟三十一將,十有六姓,允承天道,興輔劉宗。如懷奸慮,明神殛之。高祖、文皇、武皇,俾墜厥命,厥宗受兵,族類滅亡。」有司奉血鍉進,護軍舉手揖諸將軍曰:「鍉不濡血,ECA6不入口,是欺神明也,厥罰如盟。」既而C3EA血加書,一如古禮。

まつりおわり、諸将はちかった。「われら31将、16姓は、漢室をたすける。もしそむけば、前漢の皇帝は、われらを族滅してくれ」と。護軍は、もれなく諸将に血をのませた。古礼にしたがった。

隗囂が王莽をせめる檄文;『後漢書』王莽伝

事畢,移檄告郡國曰:
漢複元年七月已酉朔。已巳,上將軍隗囂、白虎將軍隗崔、左將軍隗義、右將軍楊廣、明威將軍王遵、雲旗將軍周宗等,告州牧、部監、郡卒正、連率、大尹、尹、尉隊大夫、屬正、屬令:故新都侯王莽,慢侮天地,悖道逆理。鴆殺孝平皇帝,篡奪其位。矯托天命,偽作符書,欺惑眾庶,震怒上帝。反戾飾文,以為祥瑞。戲弄神祇,歌頌禍殃。楚、越之竹,不足以書其惡。天下昭然,所共聞見。今略舉大端,以喻使民。

隗囂は、郡国に檄をうつして、つげた。「漢複という年号を、七月已酉をついたちとして、たてる。上將軍の隗囂、白虎將軍の隗崔、左將軍の隗義、右將軍の楊廣、明威將軍の王遵、雲旗將軍の周宗らは、

渡邉注はいう。白虎将軍、明威将軍、雲旗将軍は、ともに雑号将軍。『漢書』『後漢紀』、八家後漢書には、ほかに就いた人がいない。
左右将軍は、比公将軍。大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍につぐ。前後左右将軍である。『後漢書』百官志より。
王遵は、覇陵の人。隗囂の将軍となり、光武帝に帰した。太中大夫、向義侯となる。楽浪太守として、王調をうった王遵は、別人。『後漢書』循吏伝・王景伝にある。

州牧、部監、郡の卒正、連率、大尹、尹、尉隊の大夫、屬正、屬令につげる。

李賢はいう。王莽は、『周礼』周官、『礼記』王制にしたがい、卒正、連率、大尹をおく。大尹は、太守とおなじ。屬正、屬令は、都尉とおなじ。州牧・部監25人をおき、三公のように礼された。監は、上大夫に位する。それぞれ5郡をつかさどる。公爵がつくと牧となり、侯爵がつくと卒正となり、伯爵がつくと連率となり、子爵がつくと属令となり、男爵がつくと属長となる。官位を世襲した。爵位がない人がつくと、尹となった。6尉郡と6隊郡をおき、そこに行政官として大夫をおいた。職務は、太守とおなじ。
東晋次『王莽』を参照。ぼくも、よみました。王莽の官位は、『漢書』王莽伝中。

もと新都侯の王莽は、平帝を鴆殺して、簒奪した。符書をいつわり、天命がくだったと云い、上帝をおこらせた。楚越の竹にすら、王莽の悪事を書ききれない。王莽の悪事を、吏民におしえよう。

李賢はいう。楚越には、竹がたくさん生えている。『漢書』公孫賀伝。
王莽の神秘は、『後漢書』方術伝にひく『列仙伝』など。


蓋天為父,地為母,禍福之應,各以事降。莽明知之,而冥昧觸冒,不顧大忌,詭亂天術,援引史傳。昔秦始皇毀壞諡法,以一二數欲至萬世,而莽下三萬六千歲之曆,言身當盡此度。循亡秦之軌,推無窮之數。是其逆天之大罪也。
分裂郡國,斷截地絡。田為王田,賣買不得。規錮山澤,奪民本業。造起九廟,窮極土作。發塚河東,攻劫丘壟。此其逆地之大罪也。

王莽は、禍福之應を知らないふりをして、史書を曲解した。むかし秦の始皇は、諡法をやめて、代数でかぞえ、秦の皇帝を萬世につづけようとした。王莽は、36,000年の暦をつくって、新室をつづけようとする。天にさからう大罪だ。

李賢はいう。『漢書』王莽伝下にある。王莽は『周礼』と『左氏伝』を曲解して、国に大災があれば、天にむけて哭けばいいと言った。郡臣をひきいて南郊にゆき、胸をたたいて哭いた。王莽は、太史に暦を計算させ、6年ごとに改元した。
ぼくは思う。王莽は、王朝の永続を演出するために、36,000年の計算をしたのか。ちがうと思う。学術的な関心で、はるか未来でも、くるわない暦をつくっただけでは?もちろん、王朝が永続すれば、うれしかろうが。


分裂郡國,斷截地絡。田為王田,賣買不得。規錮山澤,奪民本業。造起九廟,窮極土作。發塚河東,攻劫丘壟。此其逆地之大罪也。

王莽は、郡国をきりわけた。田地を王田として、売買を禁じた。

渡邉注はいう。王土思想にもとづく政策。男子8人以下の家では、1井(4.1ha)を限度として、こえたら親族や郷村に、分けさせた。周代の井田制をねらったもの。
山田勝芳『中国のユートピアと「均の思想」』汲古書院2011

山沢をかこみ、民の本業をうばった。9廟をつくった。河東の墳墓をほった。

李賢は、9廟をいく。黄帝、虞帝、媯満、田完、王安、王遂、王賀、王禁、王曼。渡邉注は、くわしく人物を注釈する。神話時代から、節目にある王莽の祖先を、まつったもの。田完は、斉の桓公から、田姓をもらった。
『後漢書』では、『漢書』王莽伝と重複する内容を、こうして隗囂伝に、まぎれこませている。光武帝紀は、ただの爽やかな若者の、天下とりの物語。王莽の弊害は、ほとんど書かれない。つぎも、王莽の「悪政」がくわしい。


尊任殘賊,信用奸佞,誅戮忠正,複按口語,赤車賓士,法冠晨夜,冤系無辜,妄族眾庶。行砲格之刑,除順時之法,灌以醇醯,襲以五毒。政令日變,官名月易,貨幣歲改,吏民昏亂,不知所從,商旅窮窘,號泣市道。設為六管,增重賦斂,刻剝百姓,厚自奉養,苞苴流行,財入公輔,上下貪賄,莫相檢考,民坐挾銅炭,沒入鐘官,徒隸殷積,數十萬人,工匠饑死,長安皆臭。既亂諸夏,狂心益悖,北攻強胡,南擾勁越,西侵羌戎,東摘濊貊。使四境之外,併入為害,緣邊之郡,江海之瀕,滌地無類。故攻戰之所敗,苛法之所陷,饑饉之所夭,疾疫之所及,以萬萬計。其死者則露屍不掩,生者則奔亡流散,幼孤婦女,流離系虜。此其逆人之大罪也。

王莽の人事と法刑は、公正でない。政令と貨幣は、かわりやすい。税金がおもく、産業がおとろえた。異民族がつよまり、飢饉がおこり、人民は流散した。

李賢も渡邉注も、大孟について、くわしく記す。はぶく。


是故上帝哀矜,降罰于莽,妻子顛殞,還自誅刈。大臣反據,亡形已成。大司馬董忠、國師劉歆、衛將軍王涉,皆結謀內潰,司命孔仁、納言嚴尤、秩宗陳茂,舉眾外降。今山東之兵二百余萬,已平齊、楚,下蜀、漢,定宛、洛,據敖倉,守函穀,威命四布,宣風中嶽。興滅繼絕,封定萬國,遵高祖之舊制,修孝文之遺德。有不從命,武軍平之。馳命四夷,複其爵號。然後還師振旅,橐弓臥鼓。申命百姓,各安其所,庶無負子之責。

ゆえに上帝は王莽を、罰した。王莽は、みずから妻子をころした。

李賢はいう。王莽は、子の、王宇と王臨をころした。王莽の妻は、王莽が子をころすので、失明して病死した。大司馬の董忠、國師の劉歆、衛將軍の王涉(王莽の従兄弟)は、結謀してつぶれた。司命の孔仁、納言の嚴尤、秩宗の陳茂は、くだった。
李賢はいう。王莽は、五威司命をおく。孔仁は、やぶれて更始帝にくだる。渡邉注はいう。孔仁は、司命大将軍として、豫州を部した。

山東の兵は、2百余萬。山東の兵は、齊・楚をたいらげ、蜀・漢をくだし、宛・洛をさだめ、敖倉により、函穀をまもる。更始帝は、中嶽(=嵩山=洛陽)にきた。四夷の爵號をもどした。山東の兵は、天下を平定しそうだ」と。

ぼくは補う。ここまで、隗囂による檄文です。范曄は、王莽伝をもうける代わりに、隗囂に代弁させて、王莽の治政を描写した。


つぎ、更始帝のところにゆきます。つづく。