01) 檄文で王莽の悪政を詳述
『後漢書』列伝3・隗囂、公孫述伝をやります。
渡邉義浩『全訳後漢書』をつかい、『資治通鑑』の抄訳をおぎないます。
季父の隗崔におされ、隗囂が起兵する
隗囂は、あざなを季孟。天水の成紀(県)の人だ。わかくて州郡につかえる。王莽の國師・劉歆は、隗囂をひいいて、士とした。
李賢はいう。王莽は国師をおき、三公の上とした。隗囂がついた「士」とは、国師の属官だ。王莽は九卿をおき、わけて三公に属させた。1卿ごとに、大夫3人をおき、1大夫ごとに元士3人をおいた。
ぼくは思う。漢室では、九卿は、三公の属官ではないよね。
劉歆が死ぬと(023)、隗囂は郷里にかえる。
隗囂の季父・隗崔は、もとより豪俠で、兵士をあつめた。
更始帝が王莽軍をやぶったと聞き、隗囂の兄・隗義と、上邽の楊廣と、冀県の周宗とともに、起兵して、更始帝におうじたい。
ぼくは思う。楊広が呉漢にやぶれ、周宗が隗純とともにくだる。ネタバレ!
隗囂は、起兵をとめた。「兵は凶事だ。宗族に、どんな辜(つみ)があるから、起兵しなければならんか」と。隗崔はゆるさず、平襄(天水)をせめた。王莽の鎮戎大尹(天水太守)をころした。隗崔らは、隗囂が経書をこのむので、隗囂を上將軍におした。隗囂は、ことわれない。隗囂は云った。「叔父や兵士たちが、私の言葉にしたがうなら、私は上将軍になろう」と。みな「隗囂にしたがう」と云った。
囂從其言,遂立廟邑東,祀高祖、太宗、世宗。
すでに隗囂がたち、平陵(扶風)の方望をまねき、軍師とした。
ぼくは思う。石井先生の「軍師考」は、読みました。
方望は、隗囂に説いた。「隗囂は、漢室をたすけるため、起兵した。更始帝は南陽にいて、王莽は長安にいる。漢室をたすけると言っても、(地理的に)王莽がブロックして、更始帝の命令をうけられない。漢室をたすける意図が、あやしまれる。隗囂は、いそぎ高廟をたてよ。臣を称して、まつれ」
隗囂は、方望にしたがい、高廟を邑東にたてた。高祖、太宗(文帝)、世宗(武帝)をまつった。
まつりおわり、諸将はちかった。「われら31将、16姓は、漢室をたすける。もしそむけば、前漢の皇帝は、われらを族滅してくれ」と。護軍は、もれなく諸将に血をのませた。古礼にしたがった。
隗囂が王莽をせめる檄文;『後漢書』王莽伝
漢複元年七月已酉朔。已巳,上將軍隗囂、白虎將軍隗崔、左將軍隗義、右將軍楊廣、明威將軍王遵、雲旗將軍周宗等,告州牧、部監、郡卒正、連率、大尹、尹、尉隊大夫、屬正、屬令:故新都侯王莽,慢侮天地,悖道逆理。鴆殺孝平皇帝,篡奪其位。矯托天命,偽作符書,欺惑眾庶,震怒上帝。反戾飾文,以為祥瑞。戲弄神祇,歌頌禍殃。楚、越之竹,不足以書其惡。天下昭然,所共聞見。今略舉大端,以喻使民。
隗囂は、郡国に檄をうつして、つげた。「漢複という年号を、七月已酉をついたちとして、たてる。上將軍の隗囂、白虎將軍の隗崔、左將軍の隗義、右將軍の楊廣、明威將軍の王遵、雲旗將軍の周宗らは、
左右将軍は、比公将軍。大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍につぐ。前後左右将軍である。『後漢書』百官志より。
王遵は、覇陵の人。隗囂の将軍となり、光武帝に帰した。太中大夫、向義侯となる。楽浪太守として、王調をうった王遵は、別人。『後漢書』循吏伝・王景伝にある。
州牧、部監、郡の卒正、連率、大尹、尹、尉隊の大夫、屬正、屬令につげる。
東晋次『王莽』を参照。ぼくも、よみました。王莽の官位は、『漢書』王莽伝中。
もと新都侯の王莽は、平帝を鴆殺して、簒奪した。符書をいつわり、天命がくだったと云い、上帝をおこらせた。楚越の竹にすら、王莽の悪事を書ききれない。王莽の悪事を、吏民におしえよう。
王莽の神秘は、『後漢書』方術伝にひく『列仙伝』など。
分裂郡國,斷截地絡。田為王田,賣買不得。規錮山澤,奪民本業。造起九廟,窮極土作。發塚河東,攻劫丘壟。此其逆地之大罪也。
王莽は、禍福之應を知らないふりをして、史書を曲解した。むかし秦の始皇は、諡法をやめて、代数でかぞえ、秦の皇帝を萬世につづけようとした。王莽は、36,000年の暦をつくって、新室をつづけようとする。天にさからう大罪だ。
ぼくは思う。王莽は、王朝の永続を演出するために、36,000年の計算をしたのか。ちがうと思う。学術的な関心で、はるか未来でも、くるわない暦をつくっただけでは?もちろん、王朝が永続すれば、うれしかろうが。
王莽は、郡国をきりわけた。田地を王田として、売買を禁じた。
山田勝芳『中国のユートピアと「均の思想」』汲古書院2011
山沢をかこみ、民の本業をうばった。9廟をつくった。河東の墳墓をほった。
『後漢書』では、『漢書』王莽伝と重複する内容を、こうして隗囂伝に、まぎれこませている。光武帝紀は、ただの爽やかな若者の、天下とりの物語。王莽の弊害は、ほとんど書かれない。つぎも、王莽の「悪政」がくわしい。
王莽の人事と法刑は、公正でない。政令と貨幣は、かわりやすい。税金がおもく、産業がおとろえた。異民族がつよまり、飢饉がおこり、人民は流散した。
ゆえに上帝は王莽を、罰した。王莽は、みずから妻子をころした。
李賢はいう。王莽は、五威司命をおく。孔仁は、やぶれて更始帝にくだる。渡邉注はいう。孔仁は、司命大将軍として、豫州を部した。
山東の兵は、2百余萬。山東の兵は、齊・楚をたいらげ、蜀・漢をくだし、宛・洛をさだめ、敖倉により、函穀をまもる。更始帝は、中嶽(=嵩山=洛陽)にきた。四夷の爵號をもどした。山東の兵は、天下を平定しそうだ」と。
つぎ、更始帝のところにゆきます。つづく。