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06) 竇融・下

『後漢書』列伝13・竇融伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

関連する梁統伝は、こちら。2年前、知識もレイアウトもザツだが。
破壊者・梁冀の血の成分_01後漢の建国を輔けた


竇融:光武から『史記』外戚世家、竇嬰伝をもらう

先是,帝聞河西完富,地接隴、蜀,常欲招之以逼囂、述,亦發使遺融書,遇鈞於道,即與俱還。帝見鈞歡甚,禮饗畢,乃遣令還,賜融璽書曰:「制詔行河西五郡大將軍事、屬國都尉:勞鎮守邊五郡,兵馬精強,倉庫有蓄,民庶殷富,外則折挫羌胡,內則百姓蒙福。威德流聞,虛心相望,道路隔塞,邑邑何已!長史所奉書獻馬悉至,深知厚意。今益州有公孫子陽、天水有隗將軍,方蜀、漢相攻,權在將軍,舉足左右,便有輕重。以此言之,欲相厚豈有量哉!諸事具長史所見,將軍所知。王者迭興,千載一會。欲遂立桓、文,輔微國,當勉卒功業;欲三分鼎足,連衡合從,亦宜以時定。天下未並,吾與爾絕域,非相吞之國。今之議者,必有任囂效尉佗制七郡之計。王者有分土,無分民,自適己事而已。今以黃金二百斤賜將軍,便宜輒言。」因授融為涼州牧。

これより先、光武は、竇融をつかい、隗囂と公孫述にせまりたい。光武の使者は、竇融からの使者・劉鈞とあった。光武は、劉鈞にいう。「竇融のそばで、斉王の韓信のように鼎立せよとか、南海の尉佗が7郡を支配したように、独立せよとかいう人がいるだろう。だが王者は、封建しても、独立をみとめない。独立でなく、光武にしたがえ」と。竇融を、涼州牧とした。

璽書既至,河西鹹驚,以為天子明見萬里之外,網羅張立之情。融即複遣鈞上書曰:「臣融竊伏自惟,幸得托先後末屬,蒙恩為外戚,累世二千石。至臣之身,複備列位,假曆將帥,守持一隅。以委質則易為辭,以納忠則易為力。書不足以深達至誠,故遣劉鈞口陳肝膽。自以底裏上露,長無纖介。而璽書盛稱蜀、漢二主,三分鼎足之權,任囂、尉佗之謀,竊自痛傷。臣融雖無識,猶知利害之際,順逆之分。豈可背真舊之主,事奸偽之人;廢忠貞之節,為傾覆之事;棄已成之基,求無冀之利。此三者雖問狂夫,猶知去就,而臣獨何以用心!謹遣同產弟友詣闕,口陳區區。」友至高平,會囂反叛,道絕,馳還,遣司馬席封間行通書。帝複遣席封賜融、友書,所以慰藉之甚備。

光武の璽書がきた。河西は「光武に、張玄の発言がバレている」とおどろいた。竇融は劉鈞に上書させた。「光武は私に、公孫述と光武のあいだで自立すれば、韓信や尉佗になれるという。残念だ。私は光武にしたがう。同產弟の竇融に、くわしく説明させる」と。
竇融が高平にゆき、たまたま隗囂がそむいた。道がとだえ、もどる。司馬の席封に、間道から光武へゆかせる。光武は、席封をかえし、竇融と竇友をねぎらう。

渡邉注はいう。李賢によれば、『東観漢記』『後漢紀』で、席封は、虞封だ。


融既深知帝意,乃與隗囂書責讓之曰:
伏惟將軍國富政修,士兵懷附。親遇厄會之際,國家不利之時,守節不回,承事本朝,後遣伯春委身于國,無疑之誠,於斯有效。融等所以欣服高義,願從役于將軍者,良為此也。而忿BE7B之間,改節易圖,君臣分爭,上下接兵。委成功,造難就,去從義,為橫謀,百年累之,一朝毀之,豈不惜乎!殆執事者貪功建謀,以至於此,融竊痛之!當今西周地勢局迫,人兵離散,易以輔人,難以自建。計若失路不反,聞道猶迷,不南合子陽,則北入文伯耳。夫負虛交而易強禦,恃遠救而輕近敵,未見其利也。融聞智者不危眾以舉事,仁者不違義以要功。今以小敵大,於眾何如?棄子徼功,於義何如?且初事本朝,稽首北面,忠臣節也。及遣伯春,垂涕相送,慈父恩也。俄而背之,謂吏士何?忍而棄之,謂留子何?自兵起以來,轉相攻擊,城郭皆為丘墟,生人轉於溝壑。今其存者,非鋒刃之餘,則流亡之孤。迄今傷痍之體未愈,哭泣之聲尚聞。幸賴天運少還,而將軍複重于難,是使積屙不得遂瘳,幼孤將複流離,其為悲痛,尤足湣傷,言之可為酸鼻!庸人且猶不忍,況仁者乎?融聞為忠甚易,得宜實難。憂人大過,以德取怨,知且以言獲罪也。區區所獻,惟將軍省焉。
囂不納。融乃與五郡太守共砥厲兵馬,上疏請師期。

竇融は光武の意図をしり、文書で、隗囂をせめた。
「隗囂は、王莽のとき、守節して漢室につかえた。子の隗恂を、光武におくった。もし光武にそむけば、北の盧芳か、南の公孫述に、にげこむだけだ。子の隗恂をすてて、光武にそむくな」と。隗囂は、竇融をいれず。
竇融は、5郡太守ともに、隗囂をうつ時期を、光武にきいた。

帝深嘉美之,乃賜融以外屬圖及太史公《五宗》、《外戚世家》、《魏其侯列傳》。詔報曰:「每追念外屬,孝景皇帝出自竇氏,定王,景帝之子,朕之所祖。昔魏其一言,繼統以正,長君、少君尊奉師傅,修成淑德,施及子孫,此皇太后神靈,上天祐漢也。從天水來者寫將軍所讓隗囂書,痛入骨髓。畔臣見之,當股栗慚愧,忠臣則酸鼻流涕,義士則曠若發目蒙,非忠孝愨誠,孰能如此?豈其德薄者所能克堪!囂自知失河西之助,族禍將及,欲設間離之說,亂惑真心,轉相解構,以成其奸。又京師百僚,不曉國家及將軍本意,多能採取虛偽,誇誕妄談,令忠孝失望,傳言乖實。毀譽之來,皆不徒然,不可不思。今關東盜賊已定,大兵今當悉西,將軍其抗厲威武,以應期會。」融被詔,即與諸郡守將兵入金城。

光武は「竇融が隗囂をうちたいのは、いいことだ」という。竇融に、外戚の系図と、『史記』五宗世家、外戚世家、魏其侯列傳をあたえる。光武はいう。「前漢の景帝は、竇皇后からうまれた。長沙定王の劉発は、景帝の子で、私の祖先だ。むかし竇氏の祖先には、世話になった。子孫の竇融が、私にしたがうのは、祖先の淑徳のおかげだ。竇融は、隗囂をうて」

渡邉注は、前漢について解説する。司馬遷と『史記』、魏其侯の竇嬰、竇皇后、長沙定王の劉発、竇長君、竇広国について、注釈がある。

竇融は、光武の詔をうけ、太守とともに金城へはいる。

竇融:光武が違約して、姑臧にこない

初,更始時,先零羌封何諸種殺金城太守,居其郡,隗囂使使賂遺封何,與共結盟,欲發其眾。融等因軍出,進擊封何,大破之,斬首千餘級,得牛、馬、羊萬頭,谷數萬斛,因並河揚威武,伺候車駕。時,大兵未進,融乃引還。

はじめ更始のとき、先零羌の封何の諸種は、金城太守をころして、金城郡にいすわる。隗囂が、封何に金品をあたえて、結盟する。竇融は封何をうち、光武をまつ。光武がこないので、竇融はひく。

帝以融信效著明,益嘉之。詔右扶風修理融父墳塋,祠乙太牢。數馳輕使,致遺四方珍羞,梁統乃使人刺殺張玄,絕與囂絕,皆解所假將軍印綬。七年夏,酒泉太守竺曾以弟報怨殺人而去郡,融承制拜曾為武鋒將軍,更以辛肜代之。

光武は、封何をうった竇融をほめた。右扶風に、竇融の父墳をなおさせ、大牢(牛豚羊)をそなえた。梁統は、隗囂の使者・張玄を刺殺した。隗囂とわかれ、印綬をかえした。

ぼくは思う。張玄は、史料がすくないが、キャラになる。

七年(031)夏、酒泉太守の竺曾は、弟が報仇したので、酒泉をさる。竇融は制拜(天子に代行)して、竺曾を武鋒將軍とし、辛肜を酒泉太守とした。

『東観漢記』はいう。竺曾の弟・竺嬰は、うらみにむくい、属国侯の王胤らをころした。竺曾は、はじて、酒泉郡をさった。


秋,隗囂發兵寇安定,帝將自西征之,先戒融期。會遇雨,道斷,且囂兵已退,乃止。融至姑臧,被詔罷歸。融恐大兵遂久不出,乃上書曰:「隗囂聞車駕當西,臣融東下,士眾騷動,計且不戰。囂將高峻之屬皆欲逢迎大軍,後聞兵罷,峻等複疑。囂揚言東方有變,西州豪傑遂複附從。囂又引公孫述將,令守突門。臣融孤弱,介在其間,雖承威靈,宜速救助。國家當其前,臣融促其後,緩急迭用,首尾相資,囂勢排迮,不得進退,此必破也。若兵不早進,久生持疑,則外長寇仇,內示困弱,複令讒邪得有因緣,臣竊憂之。惟陛下哀憐!」帝深美之。

031年秋、隗囂が安定をおかす。光武は西する。光武は竇融と合流を約したが、大雨で道がとぎれ、隗囂がひいたので、約束をはたさず。竇融は姑臧(武威)にいたが、かえる。
竇融は上書した。「光武がくるから、隗囂はおそれた。隗囂の将・高峻は、光武につくつもりだ。だが光武がこないから、高峻は光武にそむいた。隗囂は、公孫述の部将に突門をまもらす。私はよわいので、光武はきてくれ」と。光武は、よしとした。

李賢はいう。突門は、守城の門。『墨子』はいう。城の100歩ごとに、1つ突門をつくる。


竇融:隗囂を、光武とうち、安豊侯

八年夏,車駕西征隗囂,融率五郡太守及羌虜小月氏等步騎數萬,輜重五千餘兩,與大軍會高平第一。融先遣從事問會見儀適。是時,軍旅代興,諸將與三公交錯道中,或背使者交私語。帝聞融先問禮儀,甚善之,以宣告百僚。乃置酒高會,引見融等,待以殊禮。拜弟友為奉車都尉,從弟士太中大夫。遂共進軍,囂眾大潰,城邑皆降。帝高融功,下詔以安豐、陽泉、蓼、安風四縣封融為安豐侯,弟友為顯親侯。遂以次封諸將帥:武鋒將軍竺曾為助義侯,武威太守梁統為成義侯,張掖太守史苞為褒義侯,金城太守B239鈞為輔義侯,酒泉太守辛肜為扶義侯。封爵既畢,乘輿東歸,悉遣融等西還所鎮。

八年(032)夏、光武は西して、隗囂をうつ。竇融は5郡太守と、羌虜の小月氏らをひきい、高平の第一城で、光武とあわさる。

渡邉注はいう。小月氏は『漢書』西域伝。

竇融は従事をやり、儀礼を確認した。このころ遠征がおおく、諸将は三公と道中でまじり、背を向けて私語する人もいた。光武は、あらかじめ竇融が儀礼を確認したときき、百僚につたえた。

ぼくは思う。よい事例は、ひろく共有する。会社が大好きである。

光武は、置酒・高會して、竇融をむかえた。弟の竇友が奉車都尉、從弟の竇士が太中大夫。

渡邉注はいう。奉車都尉は、皇帝の車駕を管理し、護衛する。光禄勲にぞくす。比2千石。『後漢書』百官志2。宗族、外戚の有力者がつく。霍光や劉歆がついた。
渡邉注はいう。竇士は、耿弇にひきいられ、高峻とたたかう。『後漢書』寇恂伝。

隗囂はついえ、みな城邑がくだる。光武は、安豐、陽泉、蓼県、安風の4県にふうじて、竇融を安豐侯とする。弟の竇友は、顯親侯。武鋒將軍の竺曾を助義侯。武威太守の梁統を成義侯。張掖太守の史苞を褒義侯。金城太守の庫鈞を輔義侯。酒泉太守の辛肜を扶義侯。封爵がおわると、光武は東にかえる。竇融らに、西させ鎮所にかえらす。

融以兄弟並受爵位,久專方面,懼不自安,數上書求代。詔報曰:「吾與將軍如左右手耳,數執謙退,何不曉人意?勉循士民,無擅離部曲。」

竇融は、兄弟が爵位をうけ、ながく河西にいるので、配置をかえてほしい。光武は「私と竇融は、左右の手だ。うたがいはない。河西をまもれ」といった。

李賢はいう。韓信がもちいられず、高帝の軍から、はなれた。蕭何は、韓信を評価するので、高帝につげずに去った。ある人が「丞相の蕭何がにげた」というと、高帝は、左右の手をうしなったようだった。『漢書』韓信伝。


竇融:冀州牧となり、寵愛をとおざける

及隴、蜀平,詔融與五郡太守奏事京師,官屬賓客相隨,駕乘千余兩,馬、牛、羊被野。融到,詣洛陽城門,上涼州牧、張掖屬國都尉、安豐侯印綬,詔遣使者還侯印綬。引見,就諸侯位,賞賜恩寵,傾動京師。數月,拜為冀州牧,十餘日,又遷大司空。融自以非舊臣,一旦入朝,在功臣之右,每召會進見,容貌辭氣卑恭已甚,帝以此愈親厚之。融小心,久不自安,數辭讓爵位,因侍中金遷口達至誠。

隴蜀がたいらぐ。竇融と5郡太守に、事情を京師に報告させた。官屬や賓客がつらなり、馬牛羊が野をおおう。洛陽の城門で、涼州牧、張掖屬國の都尉、安豐侯の印綬をかえした。使者は、竇融に印綬をもどす。光武は、隗囂を諸侯の座席につかせる。
数ヶ月して、隗囂は冀州牧となり、10余日で大司空。竇融は、旧臣でないから、功臣の上にいづらい。へりくだった。竇融は、侍中の金遷をつうじて、辞退をいった。

李賢はいう。金遷は、金安上の曾孫。金安上は、金日磾のおい。金倫の子。哀帝の尚書令となる。『漢書』金日磾伝にある。


又上疏曰:「臣融年五十三。有子年十五,質性頑鈍。臣融朝夕教導以經藝,不得令觀天文,見讖記。誠欲令恭肅畏事,恂恂循道,不願其有才能,何況乃當傳以連城廣土,享故諸侯王國哉?」因複請間求見,帝不許。後朝罷,逡巡席後,帝知欲有讓,遂使左右傳出。它日會見,迎詔融曰:「日者知公欲讓職還土,故命公暑熱且自便。今相見,宜論它事,勿得複言。」融不敢重陳請。

竇融は上疏した。「私は53歳。子は15歳。子は、凡人です。諸侯の王国をつげません」と。竇融は、ウロウロした。光武は「諸侯を返上するな」といった。竇融は、もう何もいわず。

二十年,大司徒戴涉坐所舉人盜金下獄,帝以三公參職,不得已乃策免融。明年,加位特進。二十三年,代陰興行衛尉事,特進如故,又兼領將作大匠。弟友為城門校尉,兄弟並典禁兵。融複乞骸骨,輒賜錢、帛,太官致珍奇。及友卒,帝湣融年衰,遣中常侍、中謁者即其臥內強進酒食。
融長子穆,尚內黃公主,代友為城門校尉。

二十年(044)、大司徒の戴涉は、金をぬすんで下獄された。光武は、三公が3人で職務をするので、やむをえず竇融をめんじた。

渡邉注はいう。戴涉は、清河県の人。建武十五年(039)、大司徒となる。

翌年(045)、特進をくわえる。二十三年(047)、陰興にかわり、行衛尉事、特進のまま。また、將作大匠をかねる。

渡邉注はいう。陰興は、南陽の新野の人。陰皇后の同母弟。死後、翼侯。外戚だから、大司馬を辞退した。光武に信任された。『後漢書』陰識伝につく。

弟の竇友は城門校尉となり、兄弟で禁兵をつかさどる。竇融は引退をねがうが、錢帛をもらう。太官が珍奇をとどける。竇友が卒ぬと、光武は竇融の老年をあわれみ、中常侍、中謁者をやり、(喪中だから禁じられているが)酒食を食べさせた。

渡邉注はいう。中常侍は、宦官。定員なし。皇帝の周囲で、諸事をとりしきる。後漢初期は、少府にぞくす。1千石。のちに、江京が順帝をたて、中常侍と大長秋をかねた。地位があがり、後漢末には比2千石。『後漢書』百官志3。
中謁者は、宮廷の文書・詔勅をつかさどる。皇帝の側近。前漢の武帝のころ、中書謁者令といい、宦官が任じられた。成帝のとき、中謁者令とあらため、士人をもちいる。『漢書』成帝紀、『漢書』百官公卿表上。

竇融の長子・竇穆は、內黃公主をめとる。竇融にかわり、城門校尉となる。

以下、はぶきます。皇族と、いっぱい結婚して、竇穆が、外戚の専権をはじめてゆく。062年、竇融は、失意で死ぬ。『全訳後漢書』144頁。


范曄による論と賛

論曰:竇融始以豪俠為名,拔起風塵之中,以投天隙。遂蟬蛻王侯之尊,終膺卿相之位,此則徼功趣勢之士也。及其爵位崇滿,至乃放遠權寵,恂恂似若不能已者,又何智也!嘗獨詳味此子之風度,雖經國之術無足多談,而進退之禮良可言矣。

范曄の論にいる。竇融は、王侯、公相にのぼる。しかし、権力や寵愛をとおざけたのは、かしこい。竇融が、国を経営する手腕に、語るべきことはない。だが、進退の礼は、すばらしい。

ぼくは思う。竇融の経営について、とくに記されてない。5郡太守をひきいて、軍事支配をやっただけだ。治政そのものは、太守がやったのだろう。後漢末の州牧とくらべたとき、いろいろ経営について、論じることが、でてくるのではないかな。


贊曰:悃悃安豐,亦稱才雄。提B23A河石,奉圖歸忠。孟孫明邊,伐北開西。憲實空漠,遠兵金山。聽笳龍庭,鏤石燕然。雖則折鼎,王靈以宣。

范曄の賛はいう。竇融は、純粋で誠実だった。外戚となり、竇憲がけがした。だが辺境にたいする功績は、おおきい。110728

つぎ、馬援伝につづきます。複数の列伝を、まとめてやってしまう。