07) 馬援・上
『後漢書』列伝14・馬援伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
破壊者・梁冀の血の成分_01後漢の建国を輔けた
馬援:兄が王莽の太守だが、辺境で牧畜
馬援は、あざなを文淵。扶風の茂陵の人。祖先の趙奢は、趙將となり、馬服君という。これを姓とする。
武帝のとき、吏二千石だから、邯鄲から扶風にうつさる。曾祖父の馬通が、重合(勃海)侯。兄の馬何羅が誅されたので、再世不顯。
李賢はいう。馬何羅は、江充と仲がよい。江充が、武帝の衛太子を反乱においこみ、誅された。
渡邉注はいう。再世不顯とは、祖父と父が、高官につけなかったことをいう。『東観漢記』はいう。馬通は、馬賓をうむ。宣帝のとき、郎官となり、持節して、使君という。使君は、馬仲をうむ。馬仲は、玄武司馬。馬仲は、馬援をうんだ。
馬援の兄は、況、余、員。みな才能があり、王莽のとき2千石となる。
馬氏は、前漢の禁固を、王莽にといてもらって、高官をいっぱいだした。馬氏は、王莽に恩がある。王莽の派閥だと思われても、自然なながれ。
馬援は、12歳で父をなくす。『齊詩』をまなぶが、一言一句をやる章句の学習方法をやれない。兄の馬況にことわり、邊郡で田牧した。馬況はいう。「馬援に大才がある。晚成する。良工は、加工する前の玉を、他人に見せない。好きにやれ」と。
渡邉注はいう。『斉詩』は今文学。『漢書』儒林伝にある。前漢のとき、斉の人が『詩経』を解釈した。後漢になると、『毛詩』がさかえたので、『斉詩』はおとろう。西晋にほろんだ。
『東観漢記』はいう。馬況が河南太守となり、2人の兄が官吏となる。家計がくるしいので、馬援は、辺境で牧畜した。ぼくは思う。どうして河南太守がでているのに、家がまずしいのか。太守の収入は、後漢後半とはちがって、すくない?
馬況が死ぬと、馬援は1年、墓所をはなれず。馬況の嫁につかえた。郡の督郵となり、司命府に囚人をおくる。囚人をにがし、北地に亡命した。
恩赦にあい、辺境で牧畜をつづける。賓客の數百家がつく。隴漢の間を、轉游する。つねに賓客に「困難なら、堅実に。老いて壮んにならねば」という。
ぼくは思う。王莽の朝廷の外部に、産業をもったのだ。王莽のよしあしでなく、豪族の一般的なうごきなのか。それとも、王莽のダメさを、見ぬいたのか。今日はやりませんが。馬援は老いて壮んで、「矍鑠」の語源となった。
馬援は、牧畜して、穀物をたくわえる。嘆息して「賑恤できなければ、ただの守銭奴だ」と。昆弟・故舊に、財産をくわばり、馬援は、羊裘・皮褲をきた。
馬援:王莽の漢中太守だが、涼州にゆく
王莽の末、王莽の従弟・衛將軍の王林は、雄俊をまねく。
王林は、馬援と、同県の原涉を辟して、掾とする。王莽にすすめる。王莽は、原渉を鎮戎大尹(天水太守)とし、馬援を新成大尹(漢中太守)とした。王莽がやぶれたとき、馬援の兄・馬員は、增山連率(上郡太守)だ。馬援とともに、上郡をさり、涼州ににげる。
光武が即位すると、馬員は洛陽にゆく。光武は馬員を上郡太守にもどす。馬員は、在官で死んだ。
馬援は西州にとどまる。隗囂に敬重され、綏德將軍とする。戦略をきめた。
馬援:隗囂のため、公孫述と光武をくらべる
隗囂は、馬援を公孫述にやる。馬援と公孫述は、同郷である。公孫述は歓迎してくれず、衛兵をならべて馬援をむかえる。公孫述は馬援に、單衣・交讓をあたえ、百官と宗廟であわせる。舊交の位置にたたせた。公孫述は、封侯・大將軍にする。賓客は公孫述にとどまりたい。馬援は「公孫述は、周公のように人材をあつめない。国家の体裁は、木偶の人形のようだ」といった。
馬援は隗囂に「公孫述は井蛙です。光武にむけ」と報告した。
建武四年(028)冬、隗囂は馬援に、洛陽へ文書をもたす。光武は、宣德殿であう。光武はわらって「馬援は、2帝のあいだを、ゆうゆう見物する。公孫述とくらべられ、恥ずかしい」といった。馬援は頓首して「臣下も君主をえらぶ。公孫述は、戟兵をならべて私とあった。どうして光武は、私が刺客でないとわかるか」と。
光武は「馬援は、刺客でなく説客だ」という。馬援は光武の度量にふれて、黎丘に同行した。光武は、馬援を待詔(徴召をうけ就官せず)とした。太中大夫の來歙に持節して隴西へおくらす。
隗囂は、馬援と寝起きして、東方をきいた。馬援は「光武は高帝とおなじ。経学にひろく、闊達なだけで、高帝にすぐれる。実務をやり、飲酒しないのが、高帝におとる」と。隗囂は「おとる点も、高帝に勝つ」という。
馬援は、隗恂をつれて、洛陽へゆく。数ヶ月、職務なし。馬援は、三輔が肥沃なので、上林苑中で屯田させてもらう。
次回、馬援伝の下へ。つづく。