02) 朱祐
『後漢書』列伝12・朱祐、景丹、王梁、杜茂、馬成、劉隆、傅俊、堅鐔、馬武
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
『後漢書』馬成伝を抄訳、江淮の間を、水軍をつかわず平定
朱祐:舂陵に往来して交際し、鄧奉にとらわれる
朱祐は、あざなを仲先。南陽の宛人。はやく父をなくす。母方の劉氏にひきとらる。舂陵に往来し、劉縯と光武と、親愛する。劉縯が大司徒となると、朱祜は護軍となる。
光武が大司馬になり、河北にゆくと、また護軍。おなじ宿舎で寝起き。侍宴して、朱祐は「長安の更始はみだれる。光武には、日角之相がある。天命だ」と光武は「刺奸をめし、護軍をとらえよ」という。朱祐は、もういわず。
李賢はいう。王莽は、左右の刺奸をおき、奸悪な人物をとりしまる。ぼくは思う。光武に独立をさそう発言は、事前には大逆、事後には大功。むずかしいなあ。光武は、官位を口にするとき、王莽のおいた官位もふくめる。王莽は、数十年は治めていたから、浸透したらしい。なかったことに、なんて、できない。
河北で陷陣し、偏將軍、安陽侯。光武が即位すると、建義大將軍(ほかに就官なし)。建武二年(026)、堵陽侯。冬、淯陽で諸将と、鄧奉をうつ。やぶれ、鄧奉に、とらわれる
明年、鄧奉がやぶれると、はだぬぎして、朱祐をたより、くだった、光武は、朱祐の官位をもどし、あつく慰賜した。新野、隨県にしたがい、たいらぐ。
朱祐:秦豊の降伏をうけ、光武より儒教を優先
延岑が穰県でやぶれて、秦豐の將・張成とあわさる。
秦豊は、南郡の黎丘の人。自立して、楚黎王。延岑、田戎をむかえた。朱祐にくだり、洛陽で刑死した。この朱祐伝が、いちばんくわしい。
朱祐は、征虜將軍の祭遵をひきい、延岑を東陽でやぶる。張成をきり、延岑は秦豊ににげる。印綬97、える。黃郵をくだす。
四年(029)、破奸將軍(ほかに就官なし)の侯進、輔威將軍の耿植をひきい、征南大將軍の岑彭にかわり、秦豊を黎丘でかこむ。秦豊の將・張康を、蔡陽できる。
光武は黎丘にきて、禦史中丞の李由に、璽書をもたせ、秦豊をまねく。
秦豊は悪言して、くだらず。車駕がもどり、朱祐に秦豊をゆだねる。
明年(030)夏、城中が窮困し、秦豊は、母妻と子9人をつれて、はだぬぎで、くだる。朱祐は、轞車で洛陽におくり、光武がきる。大司馬の吳漢は「朱祐は、詔にそむき、秦豊の投降をうけた」とせめた。光武は罪せず。
騎都尉の臧宮とともに、延岑の餘黨である、陰県、酂県、築陽の3県の賊をたいらげた。
十五年,朝京師,上大將軍印綬,因留奉朝請。祐奏古者人臣受封,不加王爵,可改諸王為公。帝即施行。又奏宜令三公並去「大」名,以法經典。後遂從其議。
朱祐は、質直な人で、儒學をとうとぶ。降伏をうけいれ、城邑をくだすことを、おもんず。首級之功を、おもんじず。士卒を禁制して、百姓を虜掠させず。軍人は放縱したいので、朱祐をうらんだ。
九年(033)、南行唐で匈奴をふせぐ。十三年(037)、增邑され、鬲(平原)侯。食邑7千3百戶。
十五年(037)、京師にゆく。大將軍の印綬をかえし、とどまり朝請を奉る。
朱祐は上奏した。「古代、人臣は受封しても、王爵をくわえず。諸王を公爵とすべきだ」と光武は、すぐ施行した。上奏して「三公から、大の字をとり、経典にあわせよ」と。光武は、したがう。
はじめ朱祐は長安にまなび、光武がたずねた。朱祐は光武の労苦をいわず、さきに講義の教室にいく。のちに光武は、朱祐の屋敷にゆく。光武は「皇帝をすてて、教室にいくのか」と笑う。旧恩があるから、ほめられた。
ぼくは思う。皇帝は、蜜が好きだなあ。光武も袁術も。
048年、卒した。子の朱商がつぐ。
つぎ景丹伝。列伝12は、つづきます。