光武帝は、長江の南を攻めていない
『後漢書』列伝十二、馬成伝。吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想。
光武帝を知ることが目的。
馬成は、廬江で天子を名のる李憲を、兵糧攻めでくだした武将。
曹操の合肥の戦いで、手本になったような気がする。
光武帝と同郷の馬成は、更始帝の官位を捨てる
馬成字君遷,南陽棘陽人也。少為縣吏。世祖徇潁川,以成為安集掾,調守郟令。
馬成は、あざなを君遷という。南陽郡の棘陽県の人だ。
馬成は、わかくして縣吏となった。
光武帝が潁川をしたがえたとき、馬成を安集掾とした。うつして、馬成を郟令とした。
まだ光武帝が、更始帝にしたがっている段階だ。
及世祖討河北,成即棄官步負,追及于蒲陽,以成為期門,從征伐。世祖即位,再遷護軍都尉。
光武帝が河北を討ったとき、馬成は官位をすてて、歩兵になって光武帝を追いかけた。馬成は、蒲陽で光武帝に追いついた。光武帝は、馬成を期門とした。
光武帝が、更始帝から信頼&優遇をもらい、河北におもむいたのではないと分かる。ぼくは、追放や逃亡にちかいと思ってる。
吉川注はいう。期門とは警固兵である。ぼくは思う。原義は、門番だろね。この時点で光武帝は、自前の城なんかもってない。門なんかない。笑
光武帝が即位すると、ふたたび異動し、馬成は護軍都尉になった。
会稽からも兵をあつめ、陸の籠城城をたたかう
建武四年,拜揚武將軍,督誅虜將軍劉隆、振威將軍宋登、射聲校尉王賞,發會稽、丹陽、九江、六安四郡兵擊李憲,時帝幸壽春,設壇場,祖禮遣之。
建武四年(28年)馬成は揚武將軍となった。馬成は、李賢を撃った。
『後漢書』李憲伝を抄訳、揚州で天子となった、新末の群雄
馬成が督したのは、誅虜將軍の劉隆、振威將軍の宋登、射聲校尉の王賞である。馬成は、会稽、丹楊、九江、六安の4郡から兵を集めた。
長江の南である、会稽郡まで、いつのまにか光武帝にしたがっている。郡のすべてが、帰順しているわけでは、なかろうが。
新末後漢初に、独立勢力となったのは、廬江が南端だとわかる。
ときに光武帝は、寿春にきた。壇場をもうけ、祖礼した。
光武帝が出先で、どれだけ頻繁に「祖礼」するのか、調べたい。全国平定のための重要な拠点で、祖礼してくれていると、おもしろい。洛陽からみて、揚州を見渡す拠点は、寿春である。
光武帝が祖礼した祭壇は、すくなくとも後漢代は、むやみに大事に保存するだろう。「忘れられて、いつのまにか風化し、もはや盛り土が残っていない。石碑があるのみ」なんてことはない。袁術が、この祭壇をつかって儀式をしたとしたら、おもしろい。
進圍憲于舒,令諸軍各深溝高壘。憲數挑戰,成堅壁不出,守之歲餘。
光武帝は、李賢を出陣させた。
馬成は、舒県で李憲をかこんだ。諸軍をつかい、溝を深くほらせ、塁を高くさせた。李憲は、しばしば舒城から出て、馬成に戦いをいどんだ。だが馬成は、防壁をかたくして、出ない。
李憲は、長江流域の勢力なのに、水軍をつかわない。馬成は、長江のあたりを平定するのに、水軍を使わなかった。なぜ使わないかといえば、敵が陸の県城にこもったからだ。
水軍の発想がないのは、光武帝でなく、敵の李憲である。
孫呉のとき、やたら水軍が登場する。後漢初(いま)と後漢末(赤壁とか)のちがいは、大きいなあ。
このちがいは、なぜ生まれたか。揚州の独立勢力が、長江の北に本拠をおくか、長江の南に本拠をおくかだ。李憲の舒城は、長江よりいくらか北。孫権の建業は、長江に面した南。 建業は、長江にスレスレで南だから、中原からの距離は、たいして変わらない。しかし長江を渡ったことが、水軍の使用をうながした。攻め側にも、守り側にも。つづく。
1年以上、馬成は舒県をかこんだ。
孫権だって、長江より南に国をつくるというプランは、なかったっぽい。成り行きで保身しているうち、長江の南で皇帝を名のった。孫権の態度が分かりにくいのは、長江の南での立ち回りに、前例がなかったからか。
春秋戦国時代に、呉越は長江の南にある。しかし、異民族っぽい。中原の人と、対等には扱ってもらえなさそう。
至六年春,城中食盡,乃攻之,遂屠舒,斬李憲,追及其黨與,盡平江淮地。
建武六年(30年)春になり、舒城の食糧がつきた。馬成は、舒城を攻めた。ついに舒城をほふった。李憲を斬った。李憲の与党を追撃した。長江と淮水のあいだは、すべて平定された。
むずかしいなあ。
もういちど云います。孫権の新しさは、長江の南を本拠にして、漢人政権をつくったこと。水軍の必要性は、この「新しさ」により高まった。いま馬成を読んだおかげで、ハッキリした。
思うに孫策は、孫権ほどは、水軍を重視しないふうである。長江の北・寿春にいる袁術の部将として、走り回ったからだ。長江の南を、本拠におく部将ではなかった。会稽太守も、あくまで出先の官位である。
江淮がおわったら、関中で隗囂をせめる
七年夏,封平舒侯。八年,從征破隗囂,以成為天水太守,將軍如故。冬,征還京師。
建武七年(31年)夏、馬成は平舒侯に封じられた。
と思いきや。吉川注は、代郡に「平舒」県があるから、そちらに封じられたとする。どちらが正しいのだろう? 代郡は、ぎゃくに北の果てだ。南方を平定したのに、北方に封じられても、あまり嬉しくない。ご褒美では、なにを褒めるのか、明らかにすべきだ。もし代郡に封じたのならば、賞罰の手法として、ヘタである。
建武八年(32年)馬成は、隗囂をやぶった。馬成は、天水太守となった。將軍職は、もとのままだった。
長江をくだり、赤壁で敗退した曹操。しかし長江の北・合肥では、曹操が勝った。光武帝の故事にのっとれば、長江の北から孫権を追い出せば、軍事行動は成功と呼べるのかも。『魏武故事』は、曹操が天下を統一したという。この声明は、ウソの強弁ではない。
「曹魏は揚州を放棄しても、へっちゃらだった」
なんて、あり得ない。だが、もともと漢代で長江の北にあった、揚州と荊州は、曹魏が抑えている。孫権は、漢の外側にいるという認識だ。ぼくはこれを、あながち詭弁だと思いません。
ちなみにぼくは、魏ファンではありません。笑
32年冬、洛陽にもどった。
九年,代來歙守中郎將,率武威將軍劉尚等破河池,遂平武都。明年,大司空李通罷,以成行大司空事,居府如真,數月複拜揚武將軍。
33年、來歙に代わって、中郎將となった。武威將軍の劉尚らをひきいて、河池県をやぶり、武都郡を平定した。
34年、大司空の李通をやめた。馬成は、大司空をかねた。だが元のまま、将軍府にいた。数ヶ月して、ふたたび揚武將軍となった。
匈奴の南単于をくだし、荊州の南蛮をうつ
十四年,屯常山、中山以備北邊,並領建義大將軍朱祐營。又代驃騎大將軍杜茂繕治障塞,自西河至渭橋,河上至安邑,太原至井陘,中山至鄴,皆築保壁,起烽燧,十裏一候。在事五六年,帝以成勤勞,征還京師。邊人多上書求請者,複遣成還屯。及南單于保塞,北方無事,拜為中山太守,上將軍印綬,領屯兵如故。
二十四年,南擊武B32F蠻賊,無功,上太守印綬。二十七年,定封全椒侯。就國。三十二年卒。
建武十四年(38年)常山や中山にいて、北方の異民族にそなえた。中山から鄴城まで、のろしを整備した。
南単于を後漢の味方につけたので、馬成は中山太守になった。
建武二十四年(48年)荊州の南蛮を討ったが、失敗した。
光武帝は、匈奴と南蛮に興味があったみたいだが、呉越を攻めない。優先順位が高くなかったか。水軍がいないことがネックになったか。
建武三十二年(56年)馬成は死んだ。
子衛嗣。衛卒,子香嗣,徙封棘陵侯。香卒,子豐嗣。豐卒,子玄嗣。玄卒,子邑嗣。邑卒,子醜嗣,桓帝時以罪失國。延熹二年,帝複封成玄孫昌為益陽亭侯。
馬成は、子の馬衛がついだ。子孫は、桓帝のときに罪をおかし、国を除かれた。だが桓帝は、馬成の玄孫・馬昌を
益陽亭侯とした。
おわりに
光武帝が平定した「国内」に、長江の南が含まれていないことが、確認できました。孫権の新しさが、長江の南に漢人の国を建てたことだと、確認できました。
長江の南にある、漢人の国。自分でやったくせに、孫権は試行錯誤だった。これに付き合わされた、曹操も曹丕も、試行錯誤だった。曹操は光武帝とおなじく、長江の北にいる、不服従の勢力を一掃した。だが、この未完成っぽい違和感はナニ?と。曹丕は、もし孫権が長江の北にいたら、絶対に許せない。だが長江の南にいるから、名目的にも、軍事的にも、どうしてくれよう?と。南方の異民族として扱い、朝貢させたら充分か? いや、それも違うなあ、と。
もし光武帝が、馬成に命じて、長江より南を平定させていたら、孫呉の独立はなかったかも。曹操が、孫権への対処を見つけただろうから。
舒城をくだした直後じゃなくても、いい。晩年の馬成は、荊州の南蛮を攻めるより、長江の南を攻めてみてほしかった。100816