表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝11,12,13,14を抄訳して、光武の功臣をならべる

04) 劉隆、傅俊、堅鐔、馬武

『後漢書』列伝12・朱祐、景丹、王梁、杜茂、馬成、劉隆、傅俊、堅鐔、馬武
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

馬成伝だけ、去年やったので、今回はぶきます。
『後漢書』馬成伝を抄訳、江淮の間を、水軍をつかわず平定


劉隆:南陽の皇族のため、戸籍と地簿をゆがめる

劉隆字元伯,南陽安眾侯宗室也。王莽居攝中,隆父禮與安眾侯崇起兵誅莽,事泄,隆以年未七歲,故得免。及壯,學于長安,更始拜為騎都尉。謁歸,迎妻、子置洛陽。聞世祖在河內,即追及於射犬,以為騎都尉,與馮異共拒朱鮪、李軼等,軼遂殺隆妻、子。建武二年,封亢父侯。四年,拜誅虜將軍,討李憲。憲平,遣隆屯田武當。

劉隆は、あざなを元伯。南陽の安眾侯の宗室。王莽の居攝のとき、劉隆の父・劉禮と、安眾侯の劉崇は起兵して、王莽を誅したい。もれた。劉隆は7歳なので、免ぜらる。

渡邉注はいう。劉崇は、舂陵侯・劉敞の族兄。『後漢書』列伝4・王シ伝。
『後漢書』列伝四より、舂陵侯の家柄(光武の族兄)光武と更始のあいだ
沈欽韓は『漢書』王子侯表にもとづき、劉崇は劉敞の族子とする。

成人して、長安でまなび、更始の騎都尉。帰郷し、妻を洛陽にすまわす。光武が河内にいるとき、射犬でおいつく。騎都尉。馮異とともに、朱鮪、李軼をこばむ。李軼は、劉隆の妻子をころす。!!

あーあ!やっぱり、そうなるよなあ。更始をうらぎり、光武についたせいだ。

建武二年、亢父侯。四年、誅虜將軍。李憲をたいらげ、武當で屯田。

十一年,守南郡太守,歲余,上將軍印綬。十三年,增邑,更封竟陵侯。是時,天下墾田多不以實,又戶口年紀互有增減。十五年,詔下州郡檢核其事,而刺史、太守多不平均,或優饒豪右,侵刻羸弱,百姓嗟怨,遮道號呼。時,諸郡各遣使奏事,帝見陳留吏牘上有書,視之,雲:「潁川、弘農可問,河南、南陽不可問。」帝詰吏由趣,吏不肯服,抵言于長壽街上得之。帝怒。時,顯宗為東海公,年十二,在幄後言曰:「吏受郡敕,當欲以墾田相方耳。」帝曰:「即如此,何故言河南、南陽不可問?」對曰:「河南帝城,多近臣,南陽帝鄉,多近親,田宅逾制,不可為准。」帝令虎賁將詰問吏,吏乃實首服,如顯宗對。於是遣謁者考實,具知奸狀。明年,隆坐征下獄,其疇輩十餘人皆死。帝以隆功臣,物免為庶人。

十一年(035)、南郡太守。歲余、將軍の印綬をかえす。十三年、增邑、竟陵侯。墾田の報告が、実態とちがう。戶口、年紀がズレる。十五年(039)、詔して、刺史や太守に直させるが、直らず。豪右にやさしく、羸弱にきびしい。百姓は嗟怨した。陳留の軍吏が「頴川や弘農はしらべていいが、河南や南陽はしらべるな」とチクった。光武が理由を問うと、東海公(のち明帝)は「河南は光武がいて、南陽は皇族がいる」という。虎賁中郎将がしらべた。翌年、劉隆は下獄された。疇輩は10余人がころされた。劉隆は功臣だから、庶人におとさる。

ぼくは思う。直接、書いてないが。劉隆は、皇族に便宜をはかって、豪族をまもって、土地の帳簿や戸籍をゆがめ、刺史や太守の報告をゆがめていた。渡邉注は、この件について、とくにない。81頁の口語訳を、じっくり読むのみ。統治政策として、とても重要な事件だと思うが、あつかいがザツ。
洛陽で妻子を殺されることと、南陽の皇族や豪族にベンギをはかること。この2つが、劉隆のキャラをたたせる。


明年,複封為扶樂鄉侯,以中郎將副伏波將軍馬援擊交阯蠻夷徵側等,隆別於禁谿口破之,獲其帥徵貳,斬首千餘級,降者二萬餘人。還,更封大國,為長平侯。及大司馬吳漢薨,隆為驃騎將軍,行大司馬事。
隆奉法自守,視事八歲,上將軍印綬,罷,賜養牛,上樽酒十斛,以列侯奉朝請。三十年,定封慎侯。中元二年,卒,諡曰靖侯。子安嗣。

翌年(041)、劉隆は中郎将となり、伏波將軍の馬援に副官としてつき、交趾をうつ。劉隆は、法をよく、まもった。子の劉安がつぐ。

傅俊:頴川で家属を殺され、頴川兵をつかう

傅俊字子衛,潁川襄城人也。世祖徇襄城,俊以縣亭長迎軍,拜為校尉,襄城收其母弟宗族,皆滅之。從破王尋等,以為偏將軍。別擊京、密,破之,遣歸潁川,收葬家屬。

傅俊は、あざなを子衛。潁川の襄城の人。光武が襄城をとなえ、傅俊は縣亭長として、光武をむかえる。校尉。 襄城の県令は、傅俊の母弟・宗族を、ころした。光武にしたがい、王尋をやぶり、偏將軍。

『東観漢記』はいう。傅俊は光武にしたがい、王尋を陽館で、迎撃した。漢兵はやぶれ、汝水にもどる。光武は、手で水をのみ、ヒゲやマユを洗った。傅俊に「今日は、ひどく、つかれた。傅俊らも、つかれたか」ときいた。
ぼくは思う。なんてリヤルな描写。こまかいなあ。

光武とわかれ、京県、密県をやぶる。光武は傅俊を、頴川にかえし、傅俊に家屬を葬らせた。

及世祖討河北,俊與賓客十餘人北追,及於邯鄲,上謁,世祖使將潁川兵,常從征伐。世祖即位,以俊為侍中。建武二年,封昆陽侯。三年,拜俊積弩將軍,與征南大將軍岑彭擊破秦豐,因將兵徇江東,揚州悉定。七年,卒,諡曰威侯。
子昌嗣,徙封蕪湖侯。建初中,遭母憂,因上書,以國貧不願之封,乞錢五十萬,為關內侯。肅宗怒,貶為關內侯,竟不賜錢。永初七年,鄧太后複封昌子鐵為高置亭侯。

河北にしたがう。賓客10余人と、光武をおう。邯鄲でおいつく。光武は、頴川の兵をつかわす。光武が即位すると、侍中。三年(027)、積弩將軍。征南大將軍の岑彭と、秦豊をやぶる。江東へゆき、揚州をさだむ。七年(031)、卒して威侯。

堅鐔:洛陽と南陽をおとし、南陽で籠城する

堅鐔字子亻及,潁川襄城人也。為郡縣吏。世祖討河北,或薦鐔者,因得召見。以其吏能,署主簿。又拜偏將軍,從平河北,別擊破大槍于盧奴。世祖即位,拜鐔揚化將軍,封氵隱強侯。

ぼくは思う。マンマすぎて、抄訳の、やりようがない。渡邉注はいう。大槍は、王莽末期の集団の1つ。更始二年11月、すでに成立。尤來と、ともにうごく。


與諸將攻洛陽,而朱鮪別將守東城者為反間,私約鐔晨開上東門。鐔與建義大將軍朱祐乘朝而入,與鮪大戰武庫下,殺傷甚眾,至旦食乃罷,朱鮪由是遂降。又別擊內黃,平之。建武二年,與右將軍萬脩徇南陽諸縣,而堵鄉人董反宛城,獲南陽太守劉驎。鐔乃引軍赴宛,選敢死士夜自登城,斬關而入,遂棄城走還堵鄉。鄧奉複反新野,攻破吳漢。時,萬脩病卒,鐔獨孤絕,南拒鄧奉,北當董,一年間道路隔塞,糧饋不至,鐔食蔬菜,與士卒共勞苦。每急,輒先當矢石,身被三創,以此能全其眾。及帝征南陽,擊破、奉,以鐔為左曹,常從征伐。六年,定封合肥候。二十六年,卒。
子鴻嗣。鴻卒,子浮嗣。浮卒,子雅嗣。

堅鐔は、諸将と洛陽をせめる。朱鮪の別將で、東城を守る者が、堅鐔に内通し「あさ、上東門(東側、いちばん北より)をひらく」といった。堅鐔は、建義大將軍の朱祐と洛陽にはいり、武庫のもとで戦う。昼前、やめる。これにより、朱鮪がくだる。

ぼくは思う。頴川でしたがい、洛陽陥落の功労者。キャラは充分。

わかれて內黃をたいらぐ。建武二年(025)、右將軍の萬脩と、南陽の諸縣をとなう。堵鄉の董訢が宛城でそむき、南陽太守の劉驎(ほかに史料なし)をとらえる。堅鐔は宛城にゆき、死士をえらび、よるに城壁をのぼる。董訢は、堵鄉ににげた。

ぼくは思う。洛陽だけでなく、南陽もおとした。文句ないなあ。

鄧奉が、新野でそむき、吳漢をせめる。ときに萬脩が病卒したので、堅鐔は孤絕した。南に鄧奉をこばみ、北に董訢にあたる。1年間、道路が隔塞し、糧饋いたらず。堅鐔は蔬菜をたべ、士卒と勞苦をともにす。まっさきに矢石にあたり、三創をうけたが、部隊をまもる。
光武が南陽にゆき、董訢と鄧奉をやぶる。堅鐔は左曹となり、つねに光武にしたがう。六年(030)、合肥候。二十六(050)年、卒す。

ぼくは思う。20年、何をしてたんだ。光武は、功臣を高位につけないというが、そのとおり。おかげで、光武の人材は、前半と後半で、きれいに2つに、わかれるなあ。


馬武:更始の部将、尤來と隗囂に殿軍する

馬武字子張,南陽湖陽人也。少時避仇,客居江夏。王莽末,竟陵、西陽三老起兵於郡界,武往從之,後入綠林中,遂與漢軍合。更始立,以武為侍郎,與世祖破王尋等。拜為振威將軍,與尚書令謝躬共攻王郎。

馬武は、あざなを子張。南陽の湖陽の人。仇敵をさけ、江夏に客居する。王莽末、竟陵と西陽の三老が、郡界で起兵する。馬武はしたがい、綠林兵に、はいる。漢軍とあわさる。更始がたち、侍郎。

渡邉注はいう。侍郎は、尚書の下僚。4百石。後漢では、孝廉にあげられた人のうち、50歳未満で能力のある人を、尚書台に、ぞくさせる。任官1年を尚書郎。3年たつと侍郎。『後漢書』百官志3、『通典』職官2。侍郎の定員には、諸説ある。『後漢書』百官志3で36人。同注引『漢官儀』で35人。『晋書』職官志で34人。

光武と、王尋をやぶる。振威將軍。尚書令の謝躬とともに、王郎をせめる。

及世祖拔邯鄲,請躬及武等置酒高會,因欲以圖躬,不克。既罷,獨與武登叢台,從容謂武曰:「吾得漁陽、上穀突騎,欲令將軍將之,何如?」武曰:「駑怯無方略。」世祖曰:「將軍久將,習兵,豈與我掾史同哉!」武由是歸心。

光武は邯鄲をぬく。謝躬と馬武と、置酒・高會した。更始につく謝躬をころしたいが、ミス。解散して、ひとり光武は叢台(趙王のウテナ)にのぼり、馬武にいう。「漁陽と上穀の突騎をえたら、馬武にひきいさせたい。どうか」と。馬武は「駑(のろま)怯で、方略がない」という。光武は「馬武は、すごい。私の掾史とおなじでない」という。馬武は、光武に心をよせた。

ぼくは思う。光武は馬武を、更始から、ひきぬこうとしている。光武が王郎をやぶったのは、更始の部将と、協力した結果だ。光武の独立は、王郎をうったあと、更始の河北軍に、謀反してからだ。なんか、セコいなあ、光武。
光武が、おべんちゃらを言うのは、更始に対抗するときと、漢中王に助けてもらいたいときと、隗囂を手なずけるとき。わかりやすく、利害に敏感だ。


及謝躬誅死,武馳至射犬降,世祖見之甚悅,引置左右,每勞饗諸將,武輒起斟酌於前,世祖以為歡。複使將其部曲至鄴,武叩頭辭以不願,世祖愈美其意,因從擊群賊。世祖擊尤來、五幡等,敗于慎水,武獨殿,還陷陣,故賊不得迫及。進至安次、小廣陽,武常為軍鋒,力戰無前,諸將皆引而隨之,故遂破賊,窮追至平谷,浚靡而還。

謝躬を誅死させ、馬武は射犬でくだる。光武は馬武をそばにおき、馬武が光武に、酒をついだ。光武は、馬武に部曲をひきい、鄴県へゆかせたい。馬武は、叩頭してこばむ。光武は、馬武を気にいる。

ぼくは思う。なんで馬武は、鄴県を攻めたくないんだっけ。

光武が尤來、五幡らをうち、慎水でやぶれる。馬武は殿軍で、追撃をふせぐ。安次、小廣陽で、つねに先鋒。諸将は、みな馬武につづく。平谷、浚靡まで賊をおい、かえる。

李賢はいう。広陽亭は、広陽国とまぎらわしいので、小広陽という。ぼくは思う。南陽にある小長安も、おなじだろうか。


世祖即位,以武為侍中、騎都尉,封山都侯。建武四年,與虎牙將軍蓋延等討劉永,武別擊濟陰,下成武、楚丘,拜捕虜將軍。明年,龐萌反,攻桃城,武先與戰,破之;會車駕至,萌遂敗走。六年夏,與建威大將軍耿弇西擊隗囂,漢軍不利,引下隴,囂追急,武選精騎還為後拒,身披甲持戟奔擊,殺數千人,囂兵乃退,諸軍得還長安。

光武が即位すると、侍中、騎都尉、山都侯。建武四年(031)、虎牙將軍の蓋延らと、劉永をうつ。馬武は、わかれて濟陰をせめ、成武、楚丘をくだす。捕虜將軍。
明年(032)、龐萌がそむき、桃城をせめる。馬武が、龐萌をやぶる。光武がきて、龐萌はにげた。六年(030)夏、建威大將軍の耿弇と、西して隗囂をうつ。かてず。下隴にひく。隗囂に追われた。馬武は、精騎をえらび、後ろをまもる。みずから武装して、数千人をころす。隗囂がひき、光武の諸軍は、長安にかえれた。

ぼくは思う。さっきから、殿軍がおおい。殿軍キャラだな!


馬武:あやうく盗賊、せいぜい亭長

十三年,增邑,更封CD40侯。將兵北屯下曲陽,備匈奴。坐殺軍吏,受詔將妻子就國。武徑詣洛陽,上將軍印綬,削戶五百,定封為楊虛侯,因留奉朝請。

十三年,增邑され、ユ(平原)侯。北して、下曲陽で、匈奴にそなえる。軍吏を殺したので、妻子をひきいて、就國する。馬武は洛陽をとおり、將軍の印綬をかえす。戶五百をけずられ、楊虛侯。洛陽にのこり、朝請にでる。

ぼくは思う。光武が功臣をあつかう方法を見ると、馬武を免職したのは、ワザとに見える。馬武が功績をあげたタイミングで、理由は何でもいいから、退職させた。悠々自適させた。光武の、思いやり。


帝后與功臣諸侯宴語,從容言曰:「諸卿不遭際會,自度爵祿何所至乎?」高密侯鄧禹先對曰:「臣少嘗學問,可郡文學博士。」帝曰:「何言之謙乎」卿鄧氏子,志行修整,何為不掾功曹?」餘各以次對,至武,曰:「臣以武勇,可守尉督盜賊。」帝笑曰:「且勿為盜賊,自致亭長,斯可矣。」

のちに光武は、功臣や諸侯と、宴語した。光武は「諸卿は、際會にあわねば、爵祿はどこまで登ったか」ときいた。高密侯の鄧禹は、さきにこたえた。「臣は學問した。郡の文學博士になった」と。光武は「へりくだるな。きみは鄧氏の子だ。郡の属吏のうち、高位である掾や功曹になった」という。馬武は「武勇で、太守や都尉、督盜賊になった」という。光武は「あやうく盗賊だ。馬武は、せいぜい亭長だ」といった。

武為人嗜酒,闊達敢言,時醉在御前面折同列,言其短長,無所避忌,帝故縱之,以為笑樂。帝雖制禦功臣,而每能回容,宥其小失。遠方貢珍甘,必先遍賜列侯,而太官無餘。有功,輒增邑賞,不任以吏職,故皆保其福祿,終無誅譴者。

馬武は嗜酒して、闊達で敢言した。よって、光武の前で、同列を面折して、ずけずけ短所をいう。光武は、笑って楽しんだ。
光武は功臣を制禦したが、法をまげて、小さな過失をゆるした。遠方から珍甘がくると、さきに列侯にまわし、太官(光武のコック)は入手できない。功績があれば、增邑してほめた。事務を失敗すると罰せられるので功臣を吏職につけない。みな功臣は福祿をたもち、誅された人がいない。

ぼくは思う。なんか、まとめっぽい文章だなあ。吏職につけない理由は、渡邉訳を、そのまま写しました。


二十五年,武以中郎將將兵擊武陵蠻夷,還,上印綬,顯宗初,西羌寇隴右,覆軍殺將,朝廷患之,複拜武捕虜將軍,以中郎將王豐副,與監軍使者竇固、右輔都尉陳訁斤,將烏桓、黎陽營、三輔募士、涼州諸郡羌胡兵及弛刑,合四萬人擊之。到金城浩B238,與羌戰,斬首六百級。又戰于洛都穀,為羌所敗,死者千余人。羌乃率眾引出塞,武複追擊到東、西邯,大破之,斬首四千六百級,獲生口千六百人,餘皆降散。武振旅還京師,增邑七百戶,並前千八百戶。永平四年,卒。
子檀嗣,坐兄伯濟與楚王英党顏忠謀反,國除。永初七年,鄧太后紹封武孫震為D54F亭侯。震卒,子側嗣。

建武二十五年(049)、中郎将として、武陵蛮をうつ。明帝のとき、羌族をうつ。061年、馬武は卒した。

范曄の論:雲台の28将

論曰:中興二十八將,前世以為上應二十八宿,未之詳也。然咸能感會風雲,奮其智勇,稱為佐命,亦各志能之士也。議者多非光武不以功臣任職,至使英姿茂績,委而勿用。然原夫深圖遠算,固將有以焉爾。若乃王道既衰,降及霸德,猶能授受惟庸,勳賢皆序,如管、隰之迭升桓世,先、趙之同列文朝,可謂兼通矣。降自秦、漢,世資戰力,至於翼扶王運,皆武人屈起。亦有鬻繒屠狗輕猾之徒,或崇以連城之賞,或任以阿衡之地,故執疑則隙生,力侔則亂起。蕭、樊且猶縲絏,信、越終見菹戮,不其然乎!自茲以降,迄于孝武,宰輔五世,莫非公侯。遂使縉紳道塞,賢能蔽壅,朝有世及之私,下多抱關之怨。其懷道無聞,委身草莽者,亦何可勝言。故光武鑒前事之違,存矯枉之志,雖寇、鄧之高勳,耿、賈之鴻烈,分土不過大縣數四,所加特進、朝請而已。觀其治平臨政,課職責咎,將所謂「導之以政,齊之以刑」者乎!若格之功臣,其傷已甚。何者?直繩則虧喪恩舊,橈情則違廢禁典,選德則功不必厚,舉勞則人或未賢,參任則群心難塞,並列則其敝未遠。不得不校其勝否,即以事相權。故高秩厚禮,允答元功,峻文深憲,責成吏職。建武之世,侯者百余,若夫數公者,則與參國議,分均休咎,其餘並優以寬科,完其封祿,莫不終以功名延慶於後。昔留侯以為高祖悉用蕭、曹故人,而郭B025亦譏南陽多顯,鄭興又戒功臣專任。夫崇恩偏授,易啟私溺之失,至公均被,必廣招賢之路,意者不其然乎!

范曄の論にいる。28将は、天界の28宿に対応するらしいが、南朝宋の范曄にはわからない。議者は光武を批判するとき、功臣や英雄に、職務をまかせないことをいう。だが秦漢よりのち、武人が宰相となれば、反乱がおきた。蕭何や樊噲がつながれ、韓信や彭越はころされた。武帝まで、身分は世襲され、賢能はもちいられず。
光武は、前代の誤りをただした。寇恂、鄧禹、耿弇、賈復にすら、4県と特進、朝請だけ。もし『論語』為政どおり、法律を適用すれば、功臣が傷つく。功臣と賢者は、おなじでない。功臣は優遇して、賢者にきびしく為政させる。つかいわけがいる。郭伋は、南陽の人が顕官にあるといい、鄭興も功臣の任用をいましめた。光武が、功臣に権限をあたえなかったので、功臣は子孫まで封地をつなげた。

永平中,顯宗追感前世功臣,乃圖畫二十八將於南宮雲台,其外又有王常、李通、竇融、卓茂,合三十二人。故依其本弟系之篇末,以志功臣之次雲爾。
太傅高密侯鄧禹中山太守全椒侯馬成、大司馬廣平侯吳漢河南尹阜成侯王梁
左將軍膠東侯賈複琅邪太守祝阿侯陳俊、建威大將軍好ジ侯耿弇驃騎大將軍參蘧侯杜茂
執金吾雍奴侯寇恂積弩將軍昆陽侯傅俊、征南大將軍舞陽侯岑彭左曹合肥侯堅鐔
征西大將軍陽夏侯馮異上谷太守淮陵侯王霸、建義大將軍鬲侯朱祐信都太守阿陵侯任光
征虜將軍潁陽侯祭遵豫章太守中水侯李忠、驃騎大將軍櫟陽侯景丹右將軍槐裏侯萬脩
虎牙大將軍安平侯蓋延太常靈壽侯邳彤、衛尉安成侯銚期驍騎將軍昌成侯劉植
東郡太守東光侯耿純橫野大將軍山桑侯王常、城門校尉朗陵侯臧宮大司空固始侯李通
捕虜將軍楊虛侯馬武大司空安豐侯竇融、驃騎將軍慎侯劉隆太傅宣德侯卓茂
贊曰:帝績思B06C,庸功是存。有來群後,捷我戎軒。婉孌龍姿,儷景同翻。

明帝は、雲台に28将をえがかせた。王常、李通、竇融、卓茂をあわせると、32人だ。順序にあわせて、引用する。(名簿はぶく)
范曄の賛はいう。功臣のおかげで、光武は治績をさだめた。功臣は、光武にもちいられて、はばたいた。110728