04) 劉隆、傅俊、堅鐔、馬武
『後漢書』列伝12・朱祐、景丹、王梁、杜茂、馬成、劉隆、傅俊、堅鐔、馬武
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
『後漢書』馬成伝を抄訳、江淮の間を、水軍をつかわず平定
劉隆:南陽の皇族のため、戸籍と地簿をゆがめる
劉隆は、あざなを元伯。南陽の安眾侯の宗室。王莽の居攝のとき、劉隆の父・劉禮と、安眾侯の劉崇は起兵して、王莽を誅したい。もれた。劉隆は7歳なので、免ぜらる。
成人して、長安でまなび、更始の騎都尉。帰郷し、妻を洛陽にすまわす。光武が河内にいるとき、射犬でおいつく。騎都尉。馮異とともに、朱鮪、李軼をこばむ。李軼は、劉隆の妻子をころす。!!
建武二年、亢父侯。四年、誅虜將軍。李憲をたいらげ、武當で屯田。
十一年(035)、南郡太守。歲余、將軍の印綬をかえす。十三年、增邑、竟陵侯。墾田の報告が、実態とちがう。戶口、年紀がズレる。十五年(039)、詔して、刺史や太守に直させるが、直らず。豪右にやさしく、羸弱にきびしい。百姓は嗟怨した。陳留の軍吏が「頴川や弘農はしらべていいが、河南や南陽はしらべるな」とチクった。光武が理由を問うと、東海公(のち明帝)は「河南は光武がいて、南陽は皇族がいる」という。虎賁中郎将がしらべた。翌年、劉隆は下獄された。疇輩は10余人がころされた。劉隆は功臣だから、庶人におとさる。
洛陽で妻子を殺されることと、南陽の皇族や豪族にベンギをはかること。この2つが、劉隆のキャラをたたせる。
隆奉法自守,視事八歲,上將軍印綬,罷,賜養牛,上樽酒十斛,以列侯奉朝請。三十年,定封慎侯。中元二年,卒,諡曰靖侯。子安嗣。
翌年(041)、劉隆は中郎将となり、伏波將軍の馬援に副官としてつき、交趾をうつ。劉隆は、法をよく、まもった。子の劉安がつぐ。
傅俊:頴川で家属を殺され、頴川兵をつかう
傅俊は、あざなを子衛。潁川の襄城の人。光武が襄城をとなえ、傅俊は縣亭長として、光武をむかえる。校尉。
襄城の県令は、傅俊の母弟・宗族を、ころした。光武にしたがい、王尋をやぶり、偏將軍。
ぼくは思う。なんてリヤルな描写。こまかいなあ。
光武とわかれ、京県、密県をやぶる。光武は傅俊を、頴川にかえし、傅俊に家屬を葬らせた。
子昌嗣,徙封蕪湖侯。建初中,遭母憂,因上書,以國貧不願之封,乞錢五十萬,為關內侯。肅宗怒,貶為關內侯,竟不賜錢。永初七年,鄧太后複封昌子鐵為高置亭侯。
河北にしたがう。賓客10余人と、光武をおう。邯鄲でおいつく。光武は、頴川の兵をつかわす。光武が即位すると、侍中。三年(027)、積弩將軍。征南大將軍の岑彭と、秦豊をやぶる。江東へゆき、揚州をさだむ。七年(031)、卒して威侯。
堅鐔:洛陽と南陽をおとし、南陽で籠城する
子鴻嗣。鴻卒,子浮嗣。浮卒,子雅嗣。
堅鐔は、諸将と洛陽をせめる。朱鮪の別將で、東城を守る者が、堅鐔に内通し「あさ、上東門(東側、いちばん北より)をひらく」といった。堅鐔は、建義大將軍の朱祐と洛陽にはいり、武庫のもとで戦う。昼前、やめる。これにより、朱鮪がくだる。
わかれて內黃をたいらぐ。建武二年(025)、右將軍の萬脩と、南陽の諸縣をとなう。堵鄉の董訢が宛城でそむき、南陽太守の劉驎(ほかに史料なし)をとらえる。堅鐔は宛城にゆき、死士をえらび、よるに城壁をのぼる。董訢は、堵鄉ににげた。
鄧奉が、新野でそむき、吳漢をせめる。ときに萬脩が病卒したので、堅鐔は孤絕した。南に鄧奉をこばみ、北に董訢にあたる。1年間、道路が隔塞し、糧饋いたらず。堅鐔は蔬菜をたべ、士卒と勞苦をともにす。まっさきに矢石にあたり、三創をうけたが、部隊をまもる。
光武が南陽にゆき、董訢と鄧奉をやぶる。堅鐔は左曹となり、つねに光武にしたがう。六年(030)、合肥候。二十六(050)年、卒す。
馬武:更始の部将、尤來と隗囂に殿軍する
馬武は、あざなを子張。南陽の湖陽の人。仇敵をさけ、江夏に客居する。王莽末、竟陵と西陽の三老が、郡界で起兵する。馬武はしたがい、綠林兵に、はいる。漢軍とあわさる。更始がたち、侍郎。
光武と、王尋をやぶる。振威將軍。尚書令の謝躬とともに、王郎をせめる。
光武は邯鄲をぬく。謝躬と馬武と、置酒・高會した。更始につく謝躬をころしたいが、ミス。解散して、ひとり光武は叢台(趙王のウテナ)にのぼり、馬武にいう。「漁陽と上穀の突騎をえたら、馬武にひきいさせたい。どうか」と。馬武は「駑(のろま)怯で、方略がない」という。光武は「馬武は、すごい。私の掾史とおなじでない」という。馬武は、光武に心をよせた。
光武が、おべんちゃらを言うのは、更始に対抗するときと、漢中王に助けてもらいたいときと、隗囂を手なずけるとき。わかりやすく、利害に敏感だ。
謝躬を誅死させ、馬武は射犬でくだる。光武は馬武をそばにおき、馬武が光武に、酒をついだ。光武は、馬武に部曲をひきい、鄴県へゆかせたい。馬武は、叩頭してこばむ。光武は、馬武を気にいる。
光武が尤來、五幡らをうち、慎水でやぶれる。馬武は殿軍で、追撃をふせぐ。安次、小廣陽で、つねに先鋒。諸将は、みな馬武につづく。平谷、浚靡まで賊をおい、かえる。
光武が即位すると、侍中、騎都尉、山都侯。建武四年(031)、虎牙將軍の蓋延らと、劉永をうつ。馬武は、わかれて濟陰をせめ、成武、楚丘をくだす。捕虜將軍。
明年(032)、龐萌がそむき、桃城をせめる。馬武が、龐萌をやぶる。光武がきて、龐萌はにげた。六年(030)夏、建威大將軍の耿弇と、西して隗囂をうつ。かてず。下隴にひく。隗囂に追われた。馬武は、精騎をえらび、後ろをまもる。みずから武装して、数千人をころす。隗囂がひき、光武の諸軍は、長安にかえれた。
馬武:あやうく盗賊、せいぜい亭長
十三年,增邑され、ユ(平原)侯。北して、下曲陽で、匈奴にそなえる。軍吏を殺したので、妻子をひきいて、就國する。馬武は洛陽をとおり、將軍の印綬をかえす。戶五百をけずられ、楊虛侯。洛陽にのこり、朝請にでる。
のちに光武は、功臣や諸侯と、宴語した。光武は「諸卿は、際會にあわねば、爵祿はどこまで登ったか」ときいた。高密侯の鄧禹は、さきにこたえた。「臣は學問した。郡の文學博士になった」と。光武は「へりくだるな。きみは鄧氏の子だ。郡の属吏のうち、高位である掾や功曹になった」という。馬武は「武勇で、太守や都尉、督盜賊になった」という。光武は「あやうく盗賊だ。馬武は、せいぜい亭長だ」といった。
馬武は嗜酒して、闊達で敢言した。よって、光武の前で、同列を面折して、ずけずけ短所をいう。光武は、笑って楽しんだ。
光武は功臣を制禦したが、法をまげて、小さな過失をゆるした。遠方から珍甘がくると、さきに列侯にまわし、太官(光武のコック)は入手できない。功績があれば、增邑してほめた。事務を失敗すると罰せられるので、功臣を吏職につけない。みな功臣は福祿をたもち、誅された人がいない。
子檀嗣,坐兄伯濟與楚王英党顏忠謀反,國除。永初七年,鄧太后紹封武孫震為D54F亭侯。震卒,子側嗣。
建武二十五年(049)、中郎将として、武陵蛮をうつ。明帝のとき、羌族をうつ。061年、馬武は卒した。
范曄の論:雲台の28将
范曄の論にいる。28将は、天界の28宿に対応するらしいが、南朝宋の范曄にはわからない。議者は光武を批判するとき、功臣や英雄に、職務をまかせないことをいう。だが秦漢よりのち、武人が宰相となれば、反乱がおきた。蕭何や樊噲がつながれ、韓信や彭越はころされた。武帝まで、身分は世襲され、賢能はもちいられず。
光武は、前代の誤りをただした。寇恂、鄧禹、耿弇、賈復にすら、4県と特進、朝請だけ。もし『論語』為政どおり、法律を適用すれば、功臣が傷つく。功臣と賢者は、おなじでない。功臣は優遇して、賢者にきびしく為政させる。つかいわけがいる。郭伋は、南陽の人が顕官にあるといい、鄭興も功臣の任用をいましめた。光武が、功臣に権限をあたえなかったので、功臣は子孫まで封地をつなげた。
太傅高密侯鄧禹中山太守全椒侯馬成、大司馬廣平侯吳漢河南尹阜成侯王梁
左將軍膠東侯賈複琅邪太守祝阿侯陳俊、建威大將軍好ジ侯耿弇驃騎大將軍參蘧侯杜茂
執金吾雍奴侯寇恂積弩將軍昆陽侯傅俊、征南大將軍舞陽侯岑彭左曹合肥侯堅鐔
征西大將軍陽夏侯馮異上谷太守淮陵侯王霸、建義大將軍鬲侯朱祐信都太守阿陵侯任光
征虜將軍潁陽侯祭遵豫章太守中水侯李忠、驃騎大將軍櫟陽侯景丹右將軍槐裏侯萬脩
虎牙大將軍安平侯蓋延太常靈壽侯邳彤、衛尉安成侯銚期驍騎將軍昌成侯劉植
東郡太守東光侯耿純橫野大將軍山桑侯王常、城門校尉朗陵侯臧宮大司空固始侯李通
捕虜將軍楊虛侯馬武大司空安豐侯竇融、驃騎將軍慎侯劉隆太傅宣德侯卓茂
贊曰:帝績思B06C,庸功是存。有來群後,捷我戎軒。婉孌龍姿,儷景同翻。
明帝は、雲台に28将をえがかせた。王常、李通、竇融、卓茂をあわせると、32人だ。順序にあわせて、引用する。(名簿はぶく)
范曄の賛はいう。功臣のおかげで、光武は治績をさだめた。功臣は、光武にもちいられて、はばたいた。110728