08) 馬援・下
『後漢書』列伝14・馬援伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
破壊者・梁冀の血の成分_01後漢の建国を輔けた
馬援:隗囂の独立をいさめ、隗囂を解体する
帝乃召援計事,援具言謀畫。因使援將突騎五千,往來遊說囂將高峻、任禹之屬,下及羌豪,為陳禍福,以離囂支黨。
隗囂は、王元の計略をもちい、独立したいが、まよう。馬援は隗囂に、独立をいさめた。隗囂はいかり、光武をこばむ。馬援は、光武に上疏した。「私は隗囂の友人だ。隗囂は、私を洛陽におくるとき、光武のために働くといった。だが隗囂は、光武にそむいた。隗囂をほろぼす方法を、提案させろ。提案できれば、下野して死のう」と。
光武は馬援の計略をきく。馬援に突騎5千をつける。隗囂の将軍・高峻や任禹から、羌族の豪遊までに説き、隗囂から、はなした。
春卿無恙,前別冀南,寂無音驛。援間還長安。因留上林。竊見四海已定,兆民同情,而季孟閉拒背畔,為天下表的。常懼海內切齒,思相屠裂,故遺書戀戀,以致惻隱之計。乃聞季孟歸罪於援,而納王游翁諂邪之說,自謂函穀以西,舉足可定,以今而觀,竟何如邪?援間至河內,過存伯春,見其奴吉從西方還,說伯春小弟仲舒望見吉,欲問伯春無它否,竟不能言,曉夕號泣,婉轉塵中。又說其家悲愁之狀,不可言也。夫怨仇可刺不可毀,援聞之,不自知泣下也。援素知季孟孝愛,曾、閔不過。夫孝於其親,豈不慈於其子?可有子抱三木,而跳樑妄作,自同分羹之事乎?季孟平生自言所以擁兵眾者,欲以保全父母之國而完墳墓也,又言苟厚士大夫而已。而今所欲全者將破亡之,所欲完者,將毀傷之,所欲厚者將反薄之。季孟嘗折愧子陽而不受其爵,今更共陸陸,欲往附之,將難為顏乎?若複責以重質,當安從得子主給是哉!往時子陽獨欲以王相待,而春卿拒之;今者歸老,更欲低頭與小兒曹共槽櫪而食,並肩側身於怨家之朝乎?男兒溺死何傷而拘遊哉!今國家待春卿意深,宜使牛孺卿與諸耆老大人共說季孟,若計畫不從,真可引領去矣。前披輿地圖,見天下郡國百有六所,奈何欲以區區二邦以當諸夏百有四乎?春卿事季孟,外有君臣之義,內有朋友之道。言君臣邪,固當諫爭;語朋友邪,應有切磋。豈有知其無成,而但萎腇咋舌,叉手從族乎?及今成計,殊尚善也;過是,欲少味矣。且來君叔天下信士,朝廷重之,其意依依,常獨為西州言。援商朝廷,尤欲立信於此,必不負約。援不得久留,願急賜報。 廣竟不答。
馬援は、隗囂の将・楊広(あざなは春卿)に文書した。
「楊広と私は、冀県でわかれてから、会ってない。私は光武に、上林苑で屯田させてもらった。隗囂は王元にそそのかされた。隗囂は、隗恂を洛陽におくったが、光武にそむく。公孫述の朔甯王となる。楊広は、牛邯たちと、隗囂を光武にしたがわせよ。来歙は、信じられる」と。楊広は、こたえず。
馬援:羌族と戦い、ひじを矢がつらぬく
八年(032)、光武が隗囂をせめる。漆県(扶風)にきた。諸将は、光武が險阻に入るなという。計略がきまらず。夜に馬援がきて「隗囂をくずせる」と説いた。馬援は、コメで山谷を再現し、攻略をおしえた。光武は「隗囂は、目のなかにいる」と言った。
明旦、第一城にゆく。隗囂は大潰した。
十一年夏,璽書拜援隴西太守。援乃發步騎三千人,擊破先零羌於臨氵兆,斬首數百級,獲馬、牛、羊萬餘頭。守塞諸羌八千餘人詣援降,詣種有數萬,屯聚寇抄,拒浩B238隘。援與揚武將軍馬成擊之。羌因將其妻子輜重移阻于允吾穀,援乃潛行間道,掩赴其營。羌大驚壞,複遠徙唐翼穀中,援複追討之。羌引精兵聚北山上,援陳軍向山,而分遣數百騎繞襲其後,乘夜放火,擊鼓叫噪,虜遂大潰,凡斬首千餘級。援以兵少,不得窮追,收其穀糧畜產而還。援中矢貫脛,帝以璽書勞之,賜牛、羊數千頭,援盡班諸賓客。
九年(033)、馬援は太中大夫。来歙の副将となり、涼州をたいらぐ。王莽末から、西羌におかされ、金城の屬縣は西羌につく。来歙は「馬援でないと、さだまらぬ」という。
十一年(035)夏、璽書にて、隴西太守となる。先零羌を、臨トウでうつ。
諸羌8八千餘人がくだる。ほかの諸羌が、浩モンの隘路で、馬援をふさぐ。馬援は、揚武將軍の馬成と、諸羌をうつ。羌族は妻子をひきい、允吾穀でこばむ。馬援は、間道から羌族をおそう。羌族は、唐翼谷にゆく。夜に火をつけたが、馬援は兵がすくないので、羌族を追いつめられず。馬援は、ひじを矢につらぬかれた。光武は、牛羊でねぎらう。馬援は、賓客にわける。
このとき金城の破羌県より西は、羌族にさらされ、すてたい。馬援は「肥沃で灌漑があるから、すてるな。湟中に羌族をおけば、せめられる」といった。
武威太守(の梁統)に詔して、金城の民をかえらせた。長吏をおき、城郭をつくろい、塢候(砦と見張り台)をつくる。水田をひらき、耕牧させた。羌豪の楊封に、塞外の羌族をとかせ、和親した。武都の氐人のうち、公孫述にそむけば、侯王・君長の印綬をあげた。馬成の軍をやめた。
馬援:五銖銭をもどし、前漢にくわしい語り部
建武十三年(037)、武都の參狼羌と、塞外の諸種が、長吏をころした。馬援は、氐道(隴西)縣にくる。
李賢はいう。氐道県は、隴西。県が蛮夷を管理すれば「道」という。へえ!『続漢書』百官志5にいう。郡が辺境をまもれば、丞を長史とする。また、諸曹の掾史をおく。
山上に羌族がいる。馬援は、羌族の水草をうばい、たたかわずに、羌族をくだした。隴右は清靜となった。
馬援は、官吏に委任した。諸曹が、政事を話題にすると「それは丞や掾の任務だ。もし大姓が小民をおかし、羌族がそむけば、私の任務だが」という。報仇があると、羌族がそむいたというデマがながれた。馬援はデマを見ぬき、酒をのみ、狄道の県長をさとした。6年して、中央にめされ、虎賁中郎将。
馬援は隴西にいて「むかしの五銖銭をつくれ」と上書した。三公は、ねかせた。馬援が洛陽にきて、10余条で、五銖銭をつくれといった。光武がゆるし、天下は、便利に五銖銭をつかえた。
鬚髮があきらかで、眉はスミで画いたよう。下問されると、前漢のことを、くわしく答えた。三輔の長者から、閭裏の少年のことまで、馬援はくわしいく話した。皇太子や諸王も、馬援のそばで話をきき、あきない。兵法にうまい。光武は「伏波将軍・馬援が兵法を論じると、すべて採用できる(私と同意見だ)」といった。
明帝の永平初(058)、馬援の娘が皇后となる。雲台に名臣をえがくが、外戚なので、馬援をえがかず。明帝は、えがかない理由を、わらって言わず。
范曄による論と賛
范曄の論にいう。馬援は、三輔で名声をあげ、公孫述と光武のあいだを、ゆうゆうと往来する。自分を、公孫述と光武にうりこむのは、伊尹が湯王についたように鼎をせおい、チャンスをつかんだ。馬援は、他人(竇固、梁松、王盤、呂种)の禍いがわかったが、自分の禍いがわからなかった。客観視できたら、いいのになあ。
范曄の賛はいう。馬援は、功績をこのむ。冀隴におこり、南して駱越をしずめ、西して焼当羌をほふった。馬皇后がたつと、家はさかえた。馬援の子孫は、外戚となって、おごった。110728
つぎは、巻数がとぶが、梁統伝をやります。つづく。