05) 竇融・上
『後漢書』列伝13・竇融伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
破壊者・梁冀の血の成分_01後漢の建国を輔けた
竇融:前漢の外戚が、王莽の姻戚となる
竇融は、あざなを周公。扶風の平陵の人だ。七世祖の竇廣國は、孝文皇后の弟で、章武(勃海)侯。
渡邉注はいう。文帝の竇皇后は、武帝が即位すると太皇太后となる。黄老をこのみ、竇嬰らが儒教をすすめると、妨害した。前135年、崩じた。『漢書』外戚・竇皇后伝にある。
ぼくは思う。竇氏は、後漢で2回、皇太后となり権力をふるう。霊帝の竇皇太后と、竇武しかり。前漢の文帝のときから、伝統があったのだ。
竇融の高祖父は、宣帝のとき、吏二千石の家だから、常山から扶風にうつさる。
竇融は、おさなくして父をなくす。王莽の居攝中(006-008)、強弩將軍の司馬となる。東して翟義をうつ。もどって槐裏をせめ、建武の男爵となる。
李賢はいう。槐裏の趙明、霍鴻は、翟義におうじた。王邑は、東からもどり、槐裏をうった。竇融は、従軍した。『漢書』にみえる。へえ!
『東観漢記』『続漢書』は、建武でなく、寧武の男爵とする。
妹が、大司空の王邑の小妻となる。
長安にすみ、貴戚が出入りし、豪傑とむすび、任俠できこゆ。
母や兄につかえ、幼弟をやしなう。王莽末、青州と徐州で賊がたつ。太師の王匡は、竇融を助軍とし、ともに東征した。
王匡は、王莽の従弟・王舜の子。更始にいる王匡とは、同姓同名。
渡邉注はいう。王舜は、王莽の従弟。王莽の簒奪をたすけた。太師、安新公となる。病没。『漢書』王莽伝中。
竇融:更始の鉅鹿太守をけり、張掖の属国都尉
漢兵がたつ。竇融は、王邑にしたがい昆陽でやぶれ、長安にかえる。
漢兵が、入關した。王邑は竇融をすすめ、波水將軍(ほかに就官なし)とする。新豐にゆく。王莽がやぶれると、更始の大司馬・趙萌にくだる。趙萌は、竇融を校尉として、おもんじる。更始の巨鹿太守となる。
渡邉注はいう。趙萌は、棘陽の人。娘が更始の夫人となり、勢力がつよまる。更始のもと、専権した。『後漢書』列伝1・趙萌伝。ぼくは思う。趙萌に専伝って、あったんだ。
竇融は、東方がさわぐので、関中をでたくない。高祖父は、かつて張掖太守だ。從祖父は、護羌校尉だ。從弟は武威太守だ。累世、河西にいる。土俗を知る。兄弟にだけ「河西は殷富。黄河は、かたい。張掖屬國には、精兵1萬がいる。黄河をふうじ、自守できる。遺種の處だ」という。
渡邉注はいう。護羌都尉は、節をもち、西羌の諸事をつかさどる。比2千石。『後漢書』百官志5。
趙萌に日々たのみ、鉅鹿太守を辞退した。趙萌が口をきき、張掖の屬國都尉となる。竇融はよろこび、家属をひきいて西した。雄傑、羌虜とむすぶ。河西の人は、みな竇融にあつまる。
竇融:自立して、行河西五郡、大將軍事
このとき、酒泉太守の梁統、金城太守庫鈞、張掖都尉の史苞、酒泉都尉の竺曾、敦煌都尉の辛肜は、州郡の英俊だ。竇融と仲がよい。
更始がやぶれると、竇融と梁統らは、はかる。「河西は、羌族のなかで孤立する。大将軍を1人たて、5郡をまとめよう」と。竇融が、行河西五郡、大將軍事となる。このとき、武威太守の馬期、張掖太守の任仲は、孤立した。竇融が移書すると、2人は印綬をといて、さる。
ここにおいて、梁統が武威太守,史苞が張掖太守,竺曾が酒泉太守,辛肜が敦煌太守,庫鈞が金城太守となる。竇融は張掖屬國にいて、都尉の職はもとのまま。竇融は從事をおき、5郡を監察した。
河西は竇融にしたしみ、羌族がくれば、ぴたりと迎撃した。匈奴、羌族、胡族は、おかさず。安定、北地、上郡から、うえた人がながれこむ。
竇融は、行河西五郡、大將軍事となり、従事に5郡を監察させた。後漢末の州牧とくらべて、権限の大小を論じたい。おそらく、おなじ。地方官と軍事職。
竇融:光武につくと決める
竇融は、光武が即位したときく。河西がとおいから、連絡できず。
ときに隗囂は、竇融よりさきに、光武の建武という年号をつかう。竇融も、建武をつかう。隗囂は竇融に、光武にかわって将軍の印綬をくばる。隗囂は、異心がある。弁士の張玄は、竇融に「更始がコケた。劉氏はダメだ。隗囂と公孫述とあわされば、戦国6国になれる。ミスっても、前漢の南越王の趙佗になれる」という。
竇融は、豪傑や太守とはかる。智者が「図讖は、劉氏がつづくという。谷永と夏賀良は、成帝と哀帝に図讖をおしえた。劉歆は、図讖にもとづき、劉秀とあらためた。洛陽の光武は、つよい」と。
渡邉注はいう。劉歆は、『漢書』楚元王伝にある。劉彊の末子。王莽の国師となるが、王莽を殺そうとした。自殺した。
太守の賓客は、意見がちがう。竇融は、慎重にかんがえ、光武につくときめた。
つぎ、竇融伝の後半へ。つづきます。