諫言するが、宦官や皇帝に阻まれた人々
吉川版でやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
劉陶が、桓帝の後宮に文句をつける
時,大將軍梁冀專朝,而桓帝無子,連歲荒饑,災異數見。陶時遊太學,乃上疏陳事曰 (中略) 書奏不省。
劉陶は、あざなを子奇という。一名を偉。潁川の潁陰の人だ。濟北貞王の劉勃(高帝の孫、『漢書』44)の後裔だ。志向がちがえば、富貴でも交際しない。志向があえば、貧賤でも交際した。同宗の劉愷(列伝29)は、劉陶をふかく評価した。
大将軍の梁冀が、朝政をもっぱらにする。桓帝に子がない。災異がある。劉陶は、太学にゆく。上疏した。
「梁冀はダメ。桓帝は後宮を増すが、子がない。もと冀州刺史した南陽の朱穆、さきの烏桓校尉した、私と同郡の李膺は、いい人物だ」と。桓帝は、かえりみず。
貨幣が軽くて薄いから、貧困が起こるという人がいた。四府は、群僚や、太学にいる能言の士に、議論させた。劉陶は、改鋳せよと言った。桓帝は、改鋳せず。
のちに孝廉にあがり、順陽長となる。県には、奸猾な人がおおい。命知らずの少年を集め、奸猾な人を取り調べた。病気で去官するとき、「また順陽長になってくれ」と言われた。
劉陶は、黄巾の防止より、訓詁が仕事
聖王以天下耳目為視聽,故能無不聞見。今張角支党不可勝計。前司徒楊賜奏下詔書,切敕州郡,護送流民,會賜去位,不復捕錄。雖會赦令,而謀不解散。四方私言,雲角等竊入京師,覘視朝政,鳥聲獸心,私共鳴呼。州郡忌諱,不欲聞之,但更相告語,莫肯公文。宜下明詔,重募角等,賞以國土。有敢回避,與之同罪。
劉陶は『尚書』『春秋』に明るい。訓詁した。侍御史となる。霊帝は、劉陶の名声をきき、研究スタッフにむかえる。ときに鉅鹿の張角が、民をまどわす。劉陶と、奉車都尉の樂松、議郎の袁貢は、連名で上疏した。
「張角の支党は、数えきれない。さきに司徒した楊賜は、州郡に命じ、流民を護送せよと言った。楊賜が司徒を去ったので、流民はそのままだ。赦令を出しても、流民は解散しない。州郡は、張角の脅威に目をむけない。張角に賞金をかけよ」と。
是時,天下日危,寇賊方熾,陶憂致崩亂,複上疏曰:
霊帝は黄巾の脅威をさとらず、劉陶に『春秋』の検討を命じた。翌年、張角が反乱した。劉陶は、中陵郷侯に封ぜらる。3たび遷り、尚書令。かつて挙将(劉陶を孝廉にあげた人)も尚書だ。同列を避け、閑職をねがい、侍中となる。きつく諌めるので、權臣に憚られ、京兆尹となる。買官を恥じ、就かず。
霊帝は、買官をこばんだ罪をゆるし、諫議大夫とする。劉陶は、後漢の崩乱をうれい、また上疏した。
其八事,大較言天下大亂,皆由宦官。宦官事急,共讒陶曰:「前張解事發,詔書示以威恩,自此以來,各各改悔。今者四方安靜,而陶疾害聖政,專言妖孽。州郡不上,陶何緣知?疑陶與賊通情。」於是收陶,下黃門北寺獄,掠按日急。陶自知必死,對使者曰:「朝廷前封臣雲何?今反受邪譖,恨不與伊、呂同疇,而以三仁為輩。」遂閉氣而死,天下莫不痛之。
陶著書數十萬言,又作《七曜論》、《匡老子》、《反韓非》、《複孟軻》,及上書言當世便事、條教、賦、奏、書、記、辯疑,凡百餘篇。
「張角のつぎは、辺章が叛く。西羌の逆賊は、将軍をみずから称す。もとは段熲の吏だから、地理と戦闘に詳しい。もし逆賊が、河東、馮翊に出て、函谷と通じれば、洛陽が危ない。将軍の張温には、後軍がいない。張温が敗れたら、救えない」と。
劉陶は、洛陽の危機を、宦官が原因だとした。宦官は、「劉陶は、黄巾と通じた」と言った。劉陶を黄門北寺獄にくだす。劉陶は死んだ。劉陶の著書はおおい。
ときに司徒する東海の陳耽も、罪がないのに、劉陶とともに宦官に殺された。
陳耽は忠正だから、三公を歴任した。光和五年(182)、公卿に詔し、刺史と太守で、民をくるしめる者をあげた。太尉の許戫、司空の張濟は、宦官に迎合し、賄賂をもらう。宦官の子弟や賓客は、貪汚で穢濁だが、張濟と張済はあげず。邊遠の小郡で、清修する太守26人をあげた。陳耽は、議郎の曹操とともに上言した「公卿があげた人物は、かたよっている」と。陳耽は忠切に言った。霊帝は、許戫と張濟を三公からはずす。太守26人は、議郎となる。宦官は陳耽をうらみ、獄死させたのだ。
黄徳の陳、項、虞、田、許氏を遠ざく、李雲
桓帝延熹二年,誅大將軍梁冀,而中常侍單超等五人皆以誅冀功並封列侯,專權選舉。又立掖庭民女D9F1氏為皇后,數月間,後家封者四人,賞賜巨萬。是時,地數震裂,眾災頻降。雲素剛,憂國將危,心不能忍,乃露布上書,移副三府,曰:
李雲は、あざなを行祖。甘陵の人だ。陰陽にくわしい。孝廉にあがり、白馬令。
桓帝の延熹二年(159)、大将軍の梁冀が誅され、中常侍の単超らが五侯となる。選舉を專權した。掖庭に、ハク氏をたてて皇后としたい。皇后は4人。地震あり。劉陶は憂國し、露布にて上書した。複写を、三公府にうつす。
「皇后は、天下の母だ。皇后が不適なら、天地がみだれる。高帝が受命してから、364年だ。王統の周期は、1まわりした。黄精に代わられる。姓が、陳、項、虞、田、許氏は、黄徳だから、太尉や太傅にするな。兵を持たせるな。西北の列将(皇甫規、段熲)が離反したら、後漢はダメだ」と。小人たる宦官が、高位にあり賄賂する。桓帝は、皇帝の地位を「諦」するつもりか」
桓帝はいかり、李雲を司隷にくだす。尚書、都護に詔して、黃門北寺獄にくだす。中常侍の管霸は、禦史、廷尉とともに、李雲を取り調べた。弘農五官掾(弘農の属官、総務)の杜眾は、「李雲と同日に死にたい」と言った。桓帝は、いよいよ怒る。杜衆も下獄した。廷尉にいたす。
大鴻臚の陳蕃は、上疏して李雲を弁護した。太常の楊秉、洛陽市長の沐茂、郎中の上官資も、李雲を助けたい。桓帝はい、いよいよ怒った。陳蕃らを罷免した。
ときに桓帝は、濯龍池にきた。桓帝は、李雲と杜衆を獄死させた。冀州刺史の賈琮(列伝21)は、李雲の功績を、石に刻む。
竇武とともに宦官に敗北、前漢の皇族・劉瑜
劉瑜は、あざなを季節。廣陵の人だ。高祖父は、廣陵靖王の劉守(武帝の曾孫)だ。父の劉辯は、清河太守。劉瑜は、図讖、天文、曆算がうまい。州郡が禮請したが、就かず。延熹八年(165)、太尉の楊秉が、劉瑜を賢良方正にあげる。京師にゆく。上書した。
災異による天のとがめを、劉瑜にきく。宦官は、答えをあいまいにしたい。8千余言で、さらにきびしく言う。桓帝は、もちいず。議郎となる。
桓帝が崩じた。大将軍の竇武は、宦官を殺すため、劉瑜を侍中とした。侍中の尹勲を、尚書令とした。竇武が敗れると、劉瑜と尹勲も殺された。竇武伝にある。
竇武の作戦に、前漢の皇族がまじっていた。それを確認できれば、満足。
尹勲は、あざなを伯元。河南の人。從祖父の尹睦は、太尉となる。尹睦の孫・尹頌は、司徒となる。忠臣や義士の本を読み、いつも本を投げて、嘆いた。州郡や公府の禮命に応じず。桓帝のとき、有道の科目でめされた。4たび遷り、尚書令となる。延熹中(158-167)、大将軍の梁冀を誅してから、桓帝は尹勲におおくを任せる。尹勲は、方略(アイディア)がおおい。宜陽郷侯に封ぜらる。
僕射の霍諝,尚書の張敬、歐陽參、李偉、虞放、周永らは、亭侯となる。病気で免ず。侍中となる。延熹八年(165)、中常侍の具瑗、左ワンらは、罪があり封邑を奪われた。尹勲も、爵位をやめる。
劉瑜の死後、宦官はすべて劉瑜の上書を焼く。ウソで上塗る。子の劉琬は、劉瑜の学問をつたえる。災異をよみとく。方正にあがるが、ゆかず。
霊帝の青蛇をうらなった、謝弼
謝弼は、あざなを輔宣。東郡の武陽の人だ。建寧二年(169)、有道之士をあげる。謝弼、東海の陳敦、玄菟の公孫度が試験に応じ、みな郎中となる。169年4月、前殿に青蛇がでる。謝弼は、上封した。
謝弼は言った。「蛇は陰気、鱗は甲兵のしるし。竇武の失敗に連座し、竇太后を罰したのが、よくない」と。
「宦官が、よくない。もと太傅の陳蕃は宦官に殺された。陳蕃の門生故吏は、党錮された。いま四公のうち、司空の劉寵のみ、断固として善をまもる。もと司空の王暢、長楽太守の李膺をめせ」と。
宦官は、謝弼をにくむ。廣陵府丞とする。去官し、歸家する。
中常侍の曹節は、從子の曹紹が東郡太守となる。曹紹は、謝弼を獄死させた。初平二年(191)司隸校尉の趙廉は、謝弼の忠節にむくいるため、曹紹を斬った。
以上、『後漢書』列伝47、諌める人たちの列伝でした。110426