01) 張讓に放火した、輝く功績
袁術のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きします。
『集解』の全訳でないことは、ご容赦ください。学術研究者ではなく、ファンにとって興味深い事実は、漏らさずに書くつもりです。どうしても主観で取捨選択してしまいますが。
陳寿や裴松之は漢文のまま、『集解』はぼくの日本文です。
洛陽ですごした青年時代
袁術字公路,
胡三省によれば、「術」の発音は「遂」と同じである。
司空逢子,紹之從弟也.以俠氣聞.
北堂書鈔の魏志では、袁術は長水校尉となったとき、豪奢を好んだ。車馬を綺麗に飾り立て、意気が高かった。人々は袁術を、「路中悍鬼の袁長水」と呼んだ。
いまググッたら『悍鬼』というホラー?小説がヒットしました。
舉孝廉,除郎中,歷職內外,後為折衝校尉﹑
夏侯惇も折衝校尉になったと、陳寿にある。のちに袁術は上表し、孫策を折衝校尉にした。
袁術は「孫策みたいな子がいたら安心だなあ」と言った。その孫策を、自分がかつて経験した官位に就けた。まさに子供のように可愛がっていた証拠だ。例えば司馬懿の官位を、子供たちは忠実になぞった。
甘寧も、折衝校尉になった。
書鈔の魏志では、このとき袁術は、長水校尉になったとする。
虎賁中郎將.
虎賁中郎將は、『集解』の甄皇后の列伝で解説した。
比二千石で、おもに虎賁に宿営した。前漢の武帝が「期門」というポストを設置し、平帝のときに、この名称になった。武帝がこっそり外出するとき、虎賁氏という頼もしい戦士を選出し、門で待たせた(まつ=期)から、はじめ「期門」と呼んだ。
定員はなく、多いときは1000人もいた。
はじめは「虎奔」と言った。だが王莽が、孟賁という古代の勇士にちなんで、いまの名称に改めた。
范書の袁術伝がいう。
袁術は諸公子と、鷹を飛ばし、狗を走らせた。のちに生活態度を改め、孝廉にあげられた。河南尹と虎賁中郎将にまで昇った。
霊帝紀がいう。張讓が何進を殺したとき、袁術は東西宮を焼き、宦官を攻めた。
何進伝にいう。何進が殺され、宮門は閉じられた。袁術と呉匡が宮殿を攻めた。袁術らは南宮の九龍門を焼いて、東西宮に到った。袁術と呉匡は、張讓に脅しをかけて、表に出てこさせようとした。
呉匡を追えば、袁術がわかりますね。後漢の職場で立場が近い、袁術の同僚に違いない。
杭世駿と九州春秋は、どちらもいう。袁術は、虎賁中郎将となった。張讓が何進を殺したとき、宮門を攻めて、火を放った。
陳寿がなぜ省略したか。袁術の勇敢な場面だからだ。もしこれを書いたら、失敗して曹操に敗れたという袁術のイメージが、一貫しなくなる。
孫堅を使いこなし、南陽を得る
董卓之將廢帝,以術為後將軍;術亦畏卓之禍,出奔南陽.
會長沙太守孫堅殺南陽太守張咨,術得據其郡.
張咨については、孫堅伝とその裴註を参照のこと。
通鑑考異と范曄の袁術伝がいう。劉表は上表して、袁術を南陽太守に任命した。
范曄の劉表伝にいう。袁術は、魯陽に兵をあつめ、劉表が荊州に入るのを拒んだ。劉表は、荊州に着任できなかった。
劉表の視点で見る。劉表は、自分が荊州刺史になる準備として、新しい任地に、与党を作りたかった。「先に行って、席を温めておけ」です。袁術は、劉表の入国をお膳立てすることを期待された。だが袁術サマは、劉表の思いどおりに動かなかった。
魏志の袁術伝はいう。孫堅が張咨を殺したおかげで、袁術は南陽郡を、拠点とすることができた。
魏志の武帝紀、初平元年2月巳の条がいう。袁術は南陽にとどまったと。
おそらく袁術は、董卓から逃れて、はじめ魯陽にいた。この年の春、孫堅が南陽郡を取ったので、袁術は南陽郡を手に入れたのだろう。袁術は魯陽を、治所(首都)のように使ったのだろう。
私(盧弼)は考える。
董卓を討つため、諸軍が酸棗に集まったとき、曹操は言った。「袁術将軍には、南陽の軍を率いてもらって…」と。武関から突入した軍が、董卓のいる首都圏を震わせたという。突入したのは、袁術が率いる、南陽の軍のことを指すのだろう。
その盧弼の発言に、さらに訳者であるぼくがコメントしているから、さらに構造が複雑だ。蛇足でごめんなさい。
つぎは、袁術が袁紹と仲たがいします。