表紙 > 漢文和訳 > 三国志「袁術伝」を『三国志集解』でおぎなう

02) 揚州刺史の前任は?

袁術のことを、よく知るために、
目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きします。

袁紹に攻められる

南陽戶口數百萬,而術奢淫肆欲,徵斂無度,百姓苦之.
既與紹有隙,又與劉表不平而北連公孫瓚;紹與瓚不和而南連劉表.
其兄弟攜貳,舍近交遠如此.
范曄の袁術伝がいう。袁術は上表して、孫堅に豫州刺史を領させた。袁術は孫堅に命じ、董卓軍を、陽人で攻撃させた。
袁紹は、袁術のもとに孫堅が戻る前に、部将の周昕に命じて、豫州を奪わせた。袁術は怒り、周昕を撃った。周昕は敗走した。

よく連合軍は、「強い董卓と戦って、兵を失うのを恐れた」という。違う。酸棗に集まって、自領を留守にしている間に、同盟軍の誰かに、自領を攻め取られることを恐れたんだ。
「酒盛りばかりやって」というと、遊んでいるように見える。違う。互いが互いを監視しているんだ。誰かが席を立てば、そいつは董卓を攻めず、後方の関東で、領土を拡大し始めるに違いない。
いま、思いつきました。
曹操が軍事行動を黙認され、董卓と戦えたのは、曹操が諸侯の脅威ではなかったからだ。「曹操ならば、放置しておいても、私が留守にしてきた領土を侵せないだろう」と思われた。とかね。


袁紹が、劉虞を皇帝にしようと言った。袁術は、何でも思いどおりにしたい性格だったから、年長の皇帝に政治を任せることを、疎ましく思った。だから劉虞に、賛成しなかった。

袁術が劉虞に反対した理由は、范曄曰く「好放縦」です。

袁紹と袁術の仲たがいは、劉虞のことで決定的となった。袁術は、公孫サンと結んだ。袁術は公孫サンに手紙を書いた。
「袁紹は、袁氏の子ではない」
袁紹はこれを聞いて、大怒した。

引軍入陳留.太祖與紹合擊,大破術軍.
周寿昌がいう。袁術は不善なやつだが、袁紹の弟である。それなのに袁紹は、袁術を攻撃した。どういうつもりだろうか。
のちに袁譚と袁尚が、兄弟なのに争うことになる。どちらも袁紹の謀略のせいである。

こういう、無責任なコメントが『集解』に載ってる。テキトーなコメントで、名が後世に残るのだから、モウケものだと思う。
袁術と袁紹、袁譚と袁尚という、兄弟で争うという構図が同じだとは、ぼくは気づいてなかった。だから敬って、抄訳しました。

淮南にいく

術以餘衆奔九江,殺揚州刺史陳溫,領其州.
范曄の袁術伝がいう。初平4年、袁術は軍をつれて、陳留郡に入り、封丘にとどまった。

袁術は、はじめから揚州を狙っていない。袁術サマの足取りを、地図を見ながら、確かめたい。袁術のセンリャクを探りたい。笑

黒山の余賊や、匈奴の於夫羅らは、袁術を助けて、匡亭で曹操と戦った。袁術は、曹操に大敗した。袁術は退き、雍丘を保った。
袁術は、のこった軍をつれて、九江郡に逃げ込んだ。袁術は、九江郡にいた、揚州刺史の陳温を殺した。袁術は揚州刺史になり、あわせて徐州伯を称した。

徐州の第一人者という意味です。いや、爵位の「伯」なのか?
揚州な南方に広いが、キモは長江周辺です。徐州と近接し、2つで1つ。のちに孫権が建国したときも、臣下には、徐州の人が多かった。


臣松之案英雄記:「陳溫字元悌,汝南人。先為揚州刺史,自病死。袁紹遣袁遺領州。敗散,奔沛國,為兵所殺。
袁遺のことは、武帝紀の初平元年にある。

『集解』が物臭なので、ぼくが引く。
裴注。袁遺、あざなは伯業。袁紹の従兄。長安令。張超は、太尉の朱儁に、袁遺を推薦して曰く。「書籍を網羅し、百家を総合できるのは袁遺だけです」と。『英雄記』がいう。袁紹は、袁遺を揚州刺史とした。袁術に敗れた。曹操曰く。「大人になっても学問をするのは、オレと袁遺だけだ」と。言葉は曹丕『典論』にある。
(張邈の弟・張超と、朱儁とのつながりに注意!)

揚州刺史の前任は、誰か

袁術更用陳瑀為揚州。瑀字公瑋,下邳人。
范曄の陳球伝より。陳球、あざなは伯真。下邳淮浦の人。歴世、名を著わす。陳球の子は、陳瑀。呉郡太守。陳瑀の弟は、陳琮。汝陰太守。弟の子は、陳珪。沛相。陳珪の子は、陳登。広陵太守。

徐州の呂布を、曹操に近づけようとした陳氏。
袁術が陳瑀を退けたから、恨みに思ったに違いない。

謝承『後漢書』いわく。陳珪、あざなは漢瑜。孝廉にあげられ、劇県令。退職。茂才にあげられ、済北相。陳珪の子は、陳登。あざなは元龍。古今の学問に通じる。広陵太守。

瑀既領州,而術敗于封丘, 封丘は、武帝の初平4年に記事がある。

手元ですぐに出てこないので、あとでやります。


南向壽春,瑀拒術不納。術退保陰陵,
揚州は順帝のとき、歴陽が州治。後漢後期、寿春に移った。袁術は陳瑀を揚州刺史にした。陳瑀は袁術を拒み、退いて陰陵を保った。(陰陵との位置関係から見ると)刺史の陳瑀は、寿春にいたんだろう。 陰陵は、漢の九江郡の郡治だ。
『呉志』孫賁伝がいう。孫賁は袁術を頼った。袁紹は、会稽の周昂を、九江太守にした。袁術は、孫賁を遣わし、周昂を陰陵で攻め破った。この記事からも、九江郡の郡治が、陰陵であることが分かる。

揚州は寿春、九江郡は陰陵。これを知ればOK。


更合軍攻瑀,瑀懼走歸下邳。」如此,則溫不為術所殺,與本傳不同。
范曄の献帝紀の初平4年3月、袁術は、揚州刺史の陳温を殺して、淮南に拠った。袁術伝にもまた、揚州刺史の陳温を殺し、袁術が自領としたとある。
范曄の陳球伝より、子の陳瑀について。陳瑀は呉郡太守になった。
謝承の『後漢書』がいう。陳瑀は孝廉にあげられ、三公府に招かれた。洛陽市長になり、のちに太尉府に招かれた。太尉府に行くまえ、永漢元年、議郎になり、呉郡太守になった。だが呉郡太守に就かなかった。

以下、揚州刺史について話がこじれる。
ぼくの翻訳がマズいのはあるが、もともと分かりにくいのだ。


趙一清が、孫策伝がひく『江表伝』の建安2年の記事をみるに。孫策と呂布と、行呉郡太守で安東将軍の陳瑀は、ともに協力して、袁術を討とうとした。
だが陳瑀はひそかに、孫策を襲おうとした。孫策は陳瑀を、海西で攻め、陳瑀を大いに破った。だから陳瑀は、呉郡太守に就けなかった。

梁章鉅がいう。范曄の献帝紀と袁術伝を読むと、どちらも袁術が陳温を殺したことで一致する。裴注『英雄記』は違うのだろう。

盧弼が『通鑑考異』にひく『九州春秋』をみる。初平3年、揚州刺史の陳禕が死んだ。袁術は、陳瑀を揚州刺史にした。おそらく陳禕とは、陳温の間違いで、陳温はたしかに初平3年に死んだのだ。
盧弼が范曄の鄭太伝をみる。鄭太と、何顒と荀攸は、董卓暗殺がバレて、武関から東に逃げた。袁術は上表して、鄭太を揚州刺史にした。鄭太が着任する前に死んだ。袁宏『後漢紀』は、鄭太の死を初平3年とする。陳瑀が揚州刺史となったのは、袁術が鄭太を推したのよりも、先であるのだ。

ぼくなりの結論は、保留で。とにかく先へ。笑

李傕の朝廷との対立

以張勳、橋蕤等為大將軍。 「大将」とする本もある。「大将軍」は誤植だ。

夏侯惇伝にも、うっかり「大将軍」と書いてある。
官名でなく「大ひに軍を将ゐる」という一般名詞か?


遣太傅馬日磾因循行拜授。
范曄の献帝紀の初平3年7月。太尉の馬日磾は、太傅となった。8月、馬日磾と太僕の趙岐に節を持たせ、天下を慰撫させた。

李傕の朝廷が、やっていることです。


術奪日磾節,拘留不遣。
節は竹でできている。長さ8尺。牛の尾のふさ。

三輔決錄注曰:日磾字翁叔,馬融之族子。
范曄の馬融伝。馬融の族孫は、馬日磾。献帝のとき、太傅になった。

從術求去,而術留之不遣;既以失節屈辱,憂恚而死。
范曄の献帝紀。興平元年12月、馬日磾が寿春で死んだ。
范曄の孔融伝。馬日磾は山東を周り、淮南にいく。袁術は馬日磾を軽侮して、節を奪った。馬日磾は、血を吐いて死んだ。孔融は、袁術の専逆を責める文を書いた。

孔融伝を、読まねばいけません。

盧弼がみる。群雄は、前時代の漢室の高官を、屈服させたがった。曹丕は、鍾繇、華歆、王朗を三公にむかえた。劉備は、許靖を太傅にした。袁術が馬日磾を屈させようとしたのは、曹丕や劉備と同じである。
ほかにも袁術は、兗州刺史の金尚を、袁術の王朝の太尉にした。金尚は屈さず、逃げた。袁術は金尚を殺した。呂布伝がひく『典略』にみえるエピソードだ。

金尚って、誰だっけ。これも調査だ。


次回、最終回。袁術が皇帝となります。