03) 国号は「仲」でいいですか
袁術のことを、よく知るために、
目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きします。
皇帝を名乗る
興平二年冬,天子敗於曹陽。
董卓伝にある。李傕と郭汜は献帝を追い、弘農郡の曹陽にいった。
范曄の献帝紀。興平2年11月壬申に、献帝が移動した。田中に野営した。
范曄の袁術伝。興平2年冬、天子は移動した。天子は、曹陽で敗れた。
遂僭號。
武帝紀の建安15年にひく『魏武故事』がいう。袁術は九江下で、天子を称した。2人の妻を、皇后と呼んだ。
范曄の献帝紀。建安2年春、袁術は天子を称した。9月、陳王寵を殺した。『後漢書』
陳敬王羨伝がいう。義兵が起きた。寵は兵を率いて、陽夏に駐屯した。みずから寵は「輔漢大将軍」を名乗った。袁術は刺客を送って、国相の駱俊と、寵を殺した。
承薨,子湣王寵嗣。熹平二年,國相師遷追奏前相魏愔與寵共祭天神,希幸非冀,罪至不道。有司奏遣使者案驗。是時,新誅勃海王悝,靈帝不忍複加法,詔檻車傳送愔、遷詣北寺詔獄,使中常侍王酺與尚書令、侍御史雜考。愔辭與王共祭黃老君,求長生福而已。無他冀幸。酺等奏愔職在匡正,而所為不端,遷誣靠其王,罔以不道,皆誅死。有詔赦寵不案。
寵善弩射,十發十中,中皆同處。中平中,黃巾賊起,郡縣皆棄城走,寵有強弩數千張,出軍都亭。國人素聞王善射,不敢反叛,故陳獨得完,百姓歸之者眾十余萬人。及獻帝初,義兵起,寵率眾屯陽夏,自稱輔漢大將軍。國相會稽駱俊素有感恩,時天下饑荒,鄰郡人多歸就之,俊傾賑贍,並得全活。後袁術求糧于陳而俊拒絕之,術忿恚,遣客詐殺俊及寵,陳由是破敗。
是時,諸國無複租祿,而數見虜奪,並日而食,轉死溝壑者甚眾,夫人姬妾多為丹陵兵烏桓所略雲。
典略曰:乃建號稱仲氏。
范曄の袁術伝。建安2年、袁術は張ケイの符命により、僭号し「仲家」と号した。章懐太子は注釈する。「仲」は、ある本では「沖」とする。
銭大昕がいう。「沖家」とは「沖人」「沖子」と同じだ。
「沖人」は『書経』にある言葉で、幼いもの、子供。天子が自分のことを謙遜していう言葉。
ぼくは思う。「沖」は袁術の国号でなく、単なる「不肖たる私の国」という一般的な呼び名? じゃあ国号はなんだろう。
沈涛がいう。「仲」は袁術の国号である。「家」がついているのは、漢室を「漢家」というのと同じである。「家」は、国号の一部ではない。公孫述が「成家」と号したと『後漢書』にあるが、袁術のケースと同じで、国号は「成」である。
『魏志』袁術伝がひく『典略』は、「仲氏」とする。「沖」とするのは、誤りである。
盧弼が考える。『後漢書』袁術伝で、袁術は、孫堅が「伝国璽」を得たと聞き、孫堅の妻を拘束して奪った。孫策は、僭号する袁術に絶縁状を送った。
『呉志』孫策伝がひく『呉録』と似ているが、すこし違う。
淮南尹について
以九江太守為淮南尹。
後漢の九江郡は、ふたたび魏で淮南郡と呼ばれた。
『魏志』楚王・曹彪伝がいう。楚国を除き、淮南郡とした。
陳寿は、九江、淮南、楚国の記述が、ゴチャ混ぜである。
もと九江郡は、漢初に淮南国となり、のちに九江郡に戻った。だから魏は、楚国を除いたときに、淮南郡とした。
班固によれば、九江郡は、秦がおいた。高帝4年、淮南国に改められた。前漢の武帝の元狩元年、九江郡に戻った。
袁術伝では、興平元年に皇帝を名乗り、九江太守を淮南尹とした。
『魏略』楊沛伝では、楊沛は九江太守になった。建安年間のことだ。
袁術は、九江を改めて、淮南とした。
ともかく、九江、楚国、淮南というのは、みな当時の呼び名だ。
置公卿,
周瑜を居巣長に、魯粛を東城長にした。逃げられた。
『呉志』の、周瑜伝と魯粛伝にあることだ。
祠南北郊。荒侈滋甚,後宮數百皆服綺縠,餘粱肉,
范曄の楊彪伝にひく、華キョウの書がいう。後漢の袁氏と楊氏は、三公の家だ。袁氏は贅沢だった。
袁術の妻について
九州春秋曰:司隸馮方女,國色也,
銭大昭がいう。馮方とは、馮芳のことだろう。中平5年、西園八校尉が置かれたとき、馮芳は「助軍右校尉」になった。霊帝紀と、袁紹伝の注に見える。
盧弼がみる。霊帝紀がひく『山陽公載記』は、馮方と書いてある。どちらが正しいとも言えない。
袁術の死と、子孫について
發病道死。
范曄の献帝紀であ、建安4年夏6月、袁術は死んだ。
妻子依術故吏廬江太守劉勳,孫策破勳,複見收視。術女入孫權宮,子燿拜郎中,燿女又配於權子奮。
『呉志』孫策伝の注、『江表伝』がいう。袁術が死んだ。従弟の袁胤、むすめ婿の黄キは、曹操を恐れて、皖城の劉勲を頼った。
『通鑑考異』と『呉志』孫策伝がいう。袁術が死んだ。長史の楊弘と、大将の張勲らは、廬江太守の劉勲を頼った。
袁術の遺族が頼った先は、諸書で同じではない。
孫策破勲,
武帝紀の建安4年に記事がある。
複見收視。術女入孫權宮,
『呉志』妃姫伝がひく『呉録』がいう。袁夫人は、袁術の娘である。子がいない。歩夫人が死んだとき、孫堅は皇后に立てようとしたが、袁夫人は固辞した。
けっこう省略しましたが、『集解』ここまで。100502