-後漢 > 『漢書』巻四 文帝紀を抄訳して、魏文帝の曹丕を知る

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代王が長安に移り、三譲して天子に即位する

魏文帝の曹丕は、何かと漢文帝を意識していたみたいなので。曹丕になったつもりで、『漢書』文帝紀を読んでみます。
このページだけの架空キャラクター「子恒」くんを設定します。曹丕のあざなは「子桓」だけど、ちょっと漢字をいじって「子恒」としました。「恒」は、漢文帝の諱です。子恒くんは、「漢文帝の前例に処世を学んでいる、曹丕」という設定です。時期としては、禅譲を受けることを、しぶっている時期。延康元(二二〇)年の秋です。
「子恒はいう」として、子恒くんに意見を言わせますが、ぼくが勝手に書いているので、読み飛ばしてください。

漢書卷四 文帝紀第四。孝文皇帝,
荀悅曰:「諱恒之字曰常。」應劭曰:「諡法『慈惠愛民曰文』。」

孝文皇帝は、

ぼくは思う。文帝は劉邦の子で、2世代目なのに、もはや巻4になってる。巻2は恵帝、巻3は呂后である。
荀悅はいう。諱の「恒」は、「常」という字である。応劭はいう。『諡法』によると、惠を慈しみ、民を愛するを「文」といふ。
子恒はいう。父・曹操に「武」を諡したからには、私は「文」と諡されたいものだ。『諡法』によると、内政をがんばれば良いらしい。しかし呉蜀という外敵がいるなかで、どこまで内政に力を注げるか。あー、それよりも受禅するのは、絶対にイヤだ。「魏文王」として死んでやるからね。ねばってやる。


高帝の中子として誕生する

高祖中子也,母曰薄姬。
[二]如淳曰:「姬音怡,眾妾之總稱。漢官儀曰姬妾數百,外戚傳亦曰幸姬戚夫人。」臣瓚曰:「漢秩祿令及茂陵書姬並內官也,秩比二千石,位次婕妤下,在八子上。」師古曰:「姬者,本周之姓,貴於眾國之女,所以婦人美號皆稱姬焉。故左氏傳曰:『雖有姬、姜,無棄蕉萃。』姜亦大國女也。後因總謂眾妾為姬。史記云『高祖居山東時好美姬』是也。若姬是官號,不應云幸姬戚夫人,且外戚傳備列后妃諸官,無姬職也。如云眾妾總稱,則近之。不當音怡,宜依字讀耳。瓚說謬也。」

高祖の中子である。母は薄姬という。

如淳はいう。姬とは衆妾の総称である。『漢官儀』は、姬妾は数百人いて、外戚傳にも「幸姬戚夫人」というタイトルがある。……『史記』に「高祖 山東に居る時、美姬を好む』とあるが、これである。「姫」は官職の名でない。若し「姫」が官号なら、「幸姬戚夫人」という外戚伝のタイトルと合わない。外戚伝には、后妃の諸官(官職の名)をならべるが、「姫」という官職はない。
「衆妾の総称」という説明が実態に近い。
『漢書補注』はいう。銭大昭によると、、はぶく。
ぼくは補う。『三国志』の后妃伝にも、女官のピラミッドが説明されてた。


呂氏の死後、長安に迎えられる

高祖十一年,誅陳豨,定代地,立為代王,都中都。

高祖十一年、陳豨を誅し、代地を定め、立てて代王と為し、中都に都す。

版本によって、「子の恒を立てて」と記すが、皇帝の諱を記さないのが規則なので、「恒」とあるのはおかしい。
ぼくは思う。孝陳豨って誰だっけ。前漢初の群雄を、ほとんど何も知らない。
『漢書補注』はいう。王先謙はいう。中都とは、太原県である。さきに晋陽に都したことが、高帝紀にあるので、中都には移ってきたのである。


十七年秋,高后崩,
[三]張晏曰:「代王之十七年也。」
諸呂謀為亂,欲危劉氏。丞相陳平、太尉周勃、朱虛侯劉章等共誅之,謀立代王。語在高后紀、高五王傳。

代王の十七年秋、呂后が崩じた。
諸呂 謀りて亂を為し,劉氏を危ふくせんと欲す。丞相の陳平、太尉の周勃、朱虛侯の劉章ら 共に之を誅し、謀りて代王を立てり。語 高后紀、高五王傳に在り。

高后紀と高五王伝も読まねば、つながらないのかー。


大臣遂使人迎代王。郎中令張武等議,皆曰:「漢大臣皆故高帝時將,習兵事,多謀詐,其屬意非止此也,
[一]師古曰:「言常有異志也。屬意,猶言注意也。屬音之欲反。」
特畏高帝、呂太后威耳。今已誅諸呂,新喋血京師,
[二]服虔曰:「喋音蹀屣履之蹀。」如淳曰:「殺人流血滂沱為喋血。」師古曰:「喋音大頰反,本字當作蹀。蹀謂履涉之耳。」
以迎大王為名,實不可信。願稱疾無往,以觀其變。」

大臣 遂に人をして代王を迎へしむ。郎中令の張武ら議し、

『漢書補注』はいう。先謙はいう。漢初、諸王国の群卿・大夫は、漢朝のごとし(長安の官制と同じ)。これは、代国の郎中令である。下の文で、「張武が郎中令となった」とあるが、これは漢朝の郎中令になったのだ。ゆえに百官公卿表では、孝文帝の元年に、「郎中令の張武」と書いてあるのである。

皆な曰く、「漢の大臣 皆 故の高帝の時の將なりて、兵事に習ひ、謀詐多く、其の屬意 此を止むるに非ず〈彼らの関心は漢の大臣に収まることでない〉。

師古はいう。つねに(漢の大臣に、漢を転覆させる)異志があることをいう。屬意とは「注意」にちかい。
ぼくは思う。ちくま訳は「将にとどまらない」とあるが、もう彼らは「将」でなく「大臣」に化けているのだから、ちくま訳はちょっと違うだろう。

特に高帝、呂太后の威を畏るるのみ。今 已に諸呂を誅し、新らたに京師に血を喋(ふ)む。

服虔はいう。「屣履」という熟語の「蹀」である。如淳はいう。殺人して流血すること滂沱なるを「喋血」という。師古はいう。本字は「蹀」であり、履み涉ることをいう。
ぼくは思う。まだまだ漢家が安定するなんて、誰も思っていない。むしろ、呂氏によって転覆しそうになったばかりだから、何が起こるか分からない。漢家の永続については、反例しかない。漢文帝は、あたかも新たに建国するように、代国の官僚群が長安を占領するかのように、乗り込んできたのだ。
子恒はいう。わが魏国の官僚群をもって、許都の官僚に入れ代わり、さらに洛陽に遷都するだろう。あまりに、やることが多くて、吐き気がするのだ。しかし前漢が呂氏を討伐した直後に比べれば、許都はおだやかなものじゃないか。
『漢書補注』の157頁に用例についてコメントあり。

大王を迎ふを名〈名目〉と為すを以て、實に信ず可からず(大臣が文帝を殺すかも知れない)。願はくは(劉恒は)疾を稱して往くこと無く、以て其の變を觀ぜよ〈仮病をつかって静観しろ〉」と。

ぼくは思う。藩国から見れば、長安というのは、ピラミッドの頂点ではない。物騒な外国である。たしかに長安の君主は、父や兄だったかも知れないが。劉邦の取り巻きが牛耳っている長安は、すでに敵地なんだろう。ドラマチックだなあ、文帝。


中尉の宋昌が勧め、亀がに割れ、禹を想起する

中尉宋昌進曰:「羣臣之議皆非也。夫秦失其政,豪傑並起,人人自以為得之者以萬數,然卒踐天子位者,劉氏也,
[三]師古曰:「卒,終也。」
天下絕望,一矣。高帝王子弟,地犬牙相制,所謂盤石之宗也,
[四]師古曰:「犬牙,言地形如犬之牙交相入也。」
天下服其彊,二矣。漢興,除秦煩苛,約法令,施德惠,
[五]師古曰:「約,省也。」 人人自安,難動搖,三矣。

中尉の宋昌が進みて曰く、

『史記索隠』は『東観漢記』宋楊伝をひき「宋義の子孫には宋昌がいる」とする。『会稽典録』は「宋昌は宋義の孫である」とする。

「羣臣の議 皆な非なり。夫れ秦 其の政を失ひ、豪傑 並び起ち,人人 自ら以為らく之を得んとする者 萬を以て數へ〈秦の政治権力と皇帝の地位をねらった者は1万を数えるが〉、然るに卒ひに天子の位を踐むは、劉氏なり。天下 望を絕つ(皇帝になれないと諦めた)。(劉恒が長安に行ける理由の)一なり。
高帝の王の子弟、地は犬牙 相ひ制し〈領地が犬の噛みあうように入り組んでおり〉いわゆる「盤石の宗」なり,天下 其の彊きに服す、二なり。

『漢書補注』はいう。先謙はいう。『史記索隠』によると、国が盤石(岩盤の石)のようであることをいう。『太公六韜』に用例がある。

漢の興こるや、秦の煩苛を除き、法令を約(はぶ)し、德惠を施し,人人 自ら安じ、動搖し難し。三なり。

夫以呂太后之嚴,立諸呂為三王,擅權專制,然而太尉以一節入北軍,一呼、
[六]師古曰:「呼,叫也,音火故反。他皆類此。」
士皆袒左,為劉氏,畔諸呂,卒以滅之。此乃天授,非人力也。今大臣雖欲為變,百姓弗為使,[七]師古曰:「為音于偽反。」 其黨寧能專一邪?內有朱虛、東牟之親,外畏吳、楚、淮南、琅邪、齊、代之彊。方今高帝子獨淮南王與大王,大王又長,賢聖仁孝,聞於天下,故大臣因天下之心而欲迎立大王,大王勿疑也。」代王報太后,計猶豫未定。

夫れ呂太后の嚴なるを以て、諸呂を立て三王と為し、權を擅ままにし制を專らにす。然而ども太尉 一節を以て北軍に入り、一呼〈ひと叫び〉せば、士 皆な袒左し、劉氏の為に、諸呂に畔(そむ)き、卒ひに以て之を滅す。此れ乃ち天の授け、人力に非ず。

ぼくは思う。曹操は、「遂に天下を蕩平し、主命を辱めざるは、天の漢室を助くと謂ふ可し。人力に非ざるなり」という。曹丕は、『献帝伝』で「斯れ誠に先王の至德 神明に通ぜり、固よりに人力に非ず」という。
人力を否定するのは、『漢書』にも他に例があり、わりに流行っている。つまり、漢代の人々の思考が、このあたりを流れていたのだ。

今 大臣 變を為さんと欲すと雖も、百姓 為に使はるる弗く〈大臣の反乱のために動員される者はおらず〉、其の黨 寧んぞ能く專一〈権力を集中〉せんや。内(長安の朝廷の内部)に朱虛・東牟の親有り。

ちくまの注釈によると、斉王の劉肥の子・興居のこと。

外に吳、楚、淮南、琅邪、齊、代の彊を畏る。方今 高帝の子 獨り淮南王と大王のみ、大王 又た長たり。賢聖・仁孝、天下に聞こゆ。故に大臣 天下之心に因りて大王を迎え立てんと欲す。大王 疑ふ勿かれ」と。

前漢の系図の拡大の断面図について、また見ねば。

代王 太后(代太后の薄姫)に報せども、計 猶ほ豫(ためら)ひ未だ定らず。

卜之,兆得大橫。
[八]應劭曰:「龜曰兆,筮曰卦。卜以荊灼龜,文正橫也。」
占曰:「大橫庚庚,余為天王,夏啟以光。」
[九]服虔曰:「庚庚,橫貌也。」李奇曰:「庚庚,其繇文也。占謂其繇也。」張晏曰:「先是五帝官天下,老則嬗賢,至夏啟始傳嗣,能光先君之業。文帝亦襲父迹,言似啟也。」師古曰:「繇音丈救反,本作榴。榴,書也,謂讀卜詞。」

之(長安に行くか)を卜するに、兆 大橫を得。

應劭ははいう。「龜を兆といい、筮を卦という。卜は龜を荊灼するを以てし、文は(甲羅を焼いてできた割れ目)正に橫なり。」

占に曰く、「大橫は庚庚なり。余 天王と為らん。夏啟 以て光る」

服虔は「庚庚,橫貌也。」という。李奇は「庚庚,其繇文也。占謂其繇也。」という。
張晏曰く、「是より先、五帝 天下を官べ,老ひて則ち賢に嬗り、夏啟に至り始めて傳嗣し、能く先君の業を光らす。文帝 亦た父迹を襲ひ、啟に似ると言ふ」と。
ぼくは思う。秦は世襲に失敗した。諸侯王の国なら世襲はできるが(戦国期の各国なみ)天子を世襲にすべきか否か、じつはまだ揺れていた。むしろ、堯舜のほうが現実味があり(秦漢の移り変わりに近く)、禹から始まる夏王朝の世襲のほうが、空理空論だった。だから、劉邦の死後に呂氏が牛耳ったのは、決して簒奪ではなく、むしろ堯舜なみだった。
今から漢文帝が代国から長安に乗り込むことは、いわば「新たに世襲することになったけど、良いかな」と、前例のない政治の変更を宣言するようなもの。そりゃ、迷っても当然だよね。前漢を安定したものとして捉える後世の視点を廃するのって、むずかしい。
ツイッター用にリライト。
ぼくは思う。劉氏が漢帝を世襲するのは「常識」ではない。前漢初期、文帝は即位前に亀を焼き、禹になぞらえる占いが出て、自分を禹になぞらえ、世襲しよう!と決意した。五帝や堯舜禹が世襲でないように、天子の地位が世襲という諒解はない(諸侯は世襲だが)。文帝が生きた断面の事実でも、秦・劉邦・呂氏と、天子権力が移動してた。
前漢の中期以降のように、天子の世襲が前提なら「堯舜禹のように禅譲を」という発言が革新的に映る。袁術や曹丕は暴挙になる。だが世襲が前提でなければ、前漢の文帝の即位前のように「禹から始まる夏王朝を前例にして、、良いのか?」と悩む。というか文帝は世襲を受けないつもりだった。前漢前期の史料って新鮮だなあ!
『漢書補注』はいう。宋祁は、江南本の注釈で、張晏の言葉をより多く引用する。「諸侯を去り帝位に即く」とか、より具体的である。


代王曰:「寡人固已為王,又何王乎?」卜人曰:「所謂天王者,乃天子也。」於是代王乃遣太后弟薄昭見太尉勃,勃等具言所以迎立王者。
[一〇]師古曰:「說所以迎代王之意也。」
昭還報曰:「信矣,無可疑者。」代王笑謂宋昌曰:「果如公言。」乃令宋昌驂乘,
[一一]師古曰:「乘車之法,尊者居左,御者居中,又有一人處車之右,以備傾側。是以戎事則稱車右,其餘則曰驂乘。驂者,三也,蓋取三人為名義耳。」
張武等六人乘六乘傳
[一二]張晏曰:「傳車六乘也。」師古曰:「傳音張戀反。」
詣長安。至高陵止,而使宋昌先之長安觀變。

代王曰く、「寡人 固より已に王為(た)り、又た何ぞ王たらんか」と。卜人曰く、「天王と謂ふ所は、乃ち天子なり」と。

ぼくは思う。天子という概念がいつからあるか分からないが。始皇帝が即位したところの君位は、まだ概念が成立してから、数十年しか経過していない。占いの文に含まれるはずがない。莽新の緯書と同じように、当世風に曲解したのだろう。

是に於て、代王 乃ち太后の弟たる薄昭をして、太尉の周勃に見えしむ。周勃ら具さに王を迎へ立つる所以〈代王を迎える意図〉を言ふ。

ぼくは思う。周勃伝、読まなくちゃ。

薄昭 還り報せて曰く、「信なり。疑ふ可きこと無し」と。代王 笑ひて宋昌に謂ひて曰く、「果して公の言へるが如し」と。乃ち宋昌をして驂乘せしめ、 張武ら六人 六乘傳に乘せしむ。

[一一]師古曰:「乘車之法,尊者居左,御者居中,又有一人處車之右,以備傾側。是以戎事則稱車右,其餘則曰驂乘。驂者,三也,蓋取三人為名義耳。」3人で馬車にのった。
[一二]張晏曰:「傳車六乘也。」師古曰:「傳音張戀反。」

長安に詣づ。高陵(馮翊県)に至りて止まり,宋昌をして先に長安に之(ゆ)かしめ、變を觀る。

宋昌は、文帝の側近だなあ。ウィキペディアを見たら、参考資料が、『史記』巻10孝文本紀、『漢書』巻4文帝紀、巻16高恵高后文功臣表、巻19下百官公卿表下だった。専伝はないらしい。祖父を項羽に殺されたらしい。


長安に到達し、宋昌が太尉の周勃を圧倒する

昌至渭橋,
[一]蘇林曰:「在長安北三里。」
丞相已下皆迎。昌還報,代王乃進至渭橋。羣臣拜謁稱臣,代王下拜。太尉勃進曰:「願請間。」
[二]師古曰:「間,容也,猶今言中間也。請容暇之頃,當有所陳,不欲於眾顯論也。他皆類此。」
宋昌曰:「所言公,公言之;所言私,王者無私。」太尉勃乃跪上天子璽。代王謝曰:「至邸而議之。」
[三]師古曰:「郡國朝宿之舍,在京師者率名邸。邸,至也,言所歸至也,音丁禮反。他皆類此。」

宋昌 渭橋(長安の北三里)に至り、丞相より已下 皆な迎ふ。

渭橋について、『漢書補注』がある。『関中記』によると、石柱の北は扶風に属し、南は京兆に属する。

宋昌 還りて報せ、代王 乃ち渭橋に進み至る。羣臣 拜謁して臣を稱せども、代王 下拜す。太尉の周勃 進みて曰く、「願はくは間(い)れんことを請ふ〈天子として臣下の拝謁に応答してほしい〉」と。

[二]師古はいう。間は、容である。猶ほ今ま言ふ「中て間る(あている)」なり。請容暇之頃,當有所陳,不欲於眾顯論也。他皆類此。」

宋昌曰く、「言う所 公たれば、公に之を言ふ〈発言の内容が公的なことなら、発言の仕方も公的にするものだ〉。言ふ所 私たれば、王者に私無し〈発言の内容が私的なことなら、王者に私的なことはない〉」と。

ぼくは思う。文帝は王者であり、公的な存在であるから、私的な内容は関知しない。だから文帝に私的な内容を言ってはならない。公的な内容を、公的な仕方で発言するときだけ、受けつけてあげる。という意味で、宋昌はこれを言ったのだろう。つまり、周勃が「応答してよ」と要請したことを、宋昌は「そもそも受け付けないよ」と突っぱねたのだ。
ぼくは思う。長安の権力者である周勃を、代国からきた宋昌が圧倒する場面である。発言の内容の主導権ではなく、発言の仕方の主導権を、宋昌が持った。つまり、ゲームのプレイ内容(意見の優劣など)で圧倒するのではなくて、ゲームのルールそのものを決める権限があるとアピールすることで(アピールして本当にその権限を得てしまうことで)宋昌が、ひいては文帝が優位に立った。
ぼくは思う。曹丕もモメる、「公」「私」の概念。儒教が整備される以前に、どういう意味で使われているのか、分析すると面白そう。

太尉の周勃 乃ち跪き天子璽を上(たてまつ)る。

『漢書補注』はいう。先謙はいう。『史記』では「璽」でなく「璽符」とある。『資治通鑑』も同じ。下の文でも「璽符」とする。璽符が正しいのだろう。

代王 謝して曰く、「邸に至りて之を議さん」と。

師古はいう。郡國が朝宿する舍は、京師にあるものは、名をつけて「〇〇邸あ」とよぶ。邸は至るもの。邸とは、歸至するところをいう。
ぼくは思う。邸(藩邸)は公的な空間?私的な空間?


天子の位を三譲する

閏月己酉,入代邸。羣臣從至,上議曰:「丞相臣平、太尉臣勃、大將軍臣武、[一]服虔曰:「柴武。」 御史大夫臣蒼、[二]文穎曰:「張蒼。」 宗正臣郢、[三]文穎曰:「劉郢。」 朱虛侯臣章、東牟侯臣興居、典客臣揭[四]蘇林曰:「劉揭也。」師古曰:「揭音竭。」 再拜言大王足下:子弘等皆非孝惠皇帝子,[五]師古曰:「不詳其有爵位,故總謂之子。」 不當奉宗廟。

閏月己酉、代邸(代王の藩邸)に入る。

『漢書補注』はいう。己酉は、呂氏を誅してから37日目である。

羣臣 從ひ至る。上議して曰く、「丞相の臣 陳平、太尉の臣 周勃、大將軍の臣 柴武、

ちくま訳はいう。『史記』は陳武とするが、灌嬰の誤りであるらしいと。ぼくは思う。服虔は「柴武」というが、『漢書補注』によると誤りらしい。
『漢書補注』159頁にたくさん考察がある。もっとこの時代に対する理解の精度が高まってきたら、また参照します。

御史大夫の臣 張蒼、宗正の臣 劉郢(正しくは劉郢客)、朱虛侯の臣 劉章、東牟侯の臣 劉興居

ぼくは思う。この2人の劉氏が、長安の内部にいて頼れるとカウントされてた。

典客の臣 劉揭、再拜して大王 足下に言ふ。
子の弘ら 皆な孝惠皇帝の子に非ず。宗廟に奉るに當らず。

師古はいう。どの爵位にあるのか詳らかでないため、「子」と記したのだ。『漢書補注』はいう。「詳らかでない」のでなく、宗廟に置くことを「許さない」のだ。高后元年、すでに3人の王爵、2人の侯錫に封じられている。劉弘は皇帝であったから、「詳らかでない」ことはない。
ぼくは思う。これが呂氏の皇帝なんだなあ。「少帝」とか、ごまかされているけど。明らかに、前漢が既定路線になる前の、呂氏による皇帝なんだ。だから排除された。
ぼくは思う。王朝が連続か不連続か。『日本書紀』はいろんな読み方があり、おもしろいが(大学生のとき興味ぶかく漁った)、前漢の前期も良い題材っぽい。というか、こちらが元祖だけど。政権の連続性で言えば、劉邦、呂氏、文帝は、それぞれ堯舜禹の程度には、血縁や婚姻の関係があり、かつ世襲によらず政権が遷移してる。周勃政権に漢文帝が乗り込み、景帝、武帝の3代で「簒奪」した感じ。
ぼくは思う。後世の結果から遡及的に、男系の血筋でつないで政権の永続性・正統性を主張するのが、史書の常道。その手法においては、『漢書』が発端だろうか。呂氏を「逸脱した禍い」と退ける時点で、かなり強烈な編集が働いている。あれは「禅譲」レベル。呂氏から文帝の長安入城も「禅譲」レベル。劉邦と文帝は別王朝に思える。
ぼくは思う。袁術や曹丕が格闘しなければならなかったのは、『漢書』が形成した歴史観だなあ。ナマの歴史は、劉邦はただの暴力的闘争の勝者、呂氏は政治的闘争の勝者、文帝はまぐれ勝ちの途中参加者。しかし、それを「いかにも必然であるかのように」つないだ『漢書』が、漢の終焉を拒否する。前漢の前期のナマの歴史が、漢の永続性を保障しなければ保障しないほど、思想としては強固であり、打倒が難しくなる。そういう逆説って、たのしい。


臣謹請陰安侯、[六]蘇林曰:「高帝兄伯妻,羹頡侯母,丘嫂也。」晉灼曰:「若蕭何夫人封為酇侯也。」 頃王后、[七]蘇林曰:「高帝兄仲妻也。仲名喜,為代王,後廢為郃陽侯。子濞為吳王,故追諡為頃王。」如淳曰:「王子侯表曰合陽侯喜以子濞為王,追諡為頃王。頃王后封陰安侯,時呂嬃為林光侯,蕭何夫人亦為酇侯。又宗室侯表此時無陰安侯,知其為頃王后也。案漢祠令,陰安侯高帝嫂也。」師古曰:「諸諡為傾者,漢書例作頃字,讀皆曰傾。」 琅邪王、[八]文穎曰:「劉澤也。」 列侯、吏二千石議,大王高皇帝子,宜為嗣。願大王即天子位。」代王曰:「奉高帝宗廟,重事也。寡人不佞,[九]師古曰:「不佞,不材也。」 不足以稱。[一0]師古曰:「稱,副也,音尺孕反。其下皆同。」願請楚王計宜者,[一一]蘇林曰:「楚王名交,高帝弟也。」 寡人弗敢當。」

臣 謹みて陰安侯、

蘇林はいう。高帝の兄・劉伯の妻である。羹頡侯の母で、丘の嫂であると。晉灼はいう。蕭何の夫人を酇侯に封じたのと同じである。
『漢書補注』はいう。先謙はいう。陰安は、魏郡の県である。

頃王后、

蘇林はいう。高帝の兄・劉仲の妻である。仲の名は喜で、代王となる。のちに廃され郃陽侯となる。子の濞は吳王となり、ゆえに頃王と追諡されたと。
如淳曰:「王子侯表曰合陽侯喜以子濞為王,追諡為頃王。頃王后封陰安侯,時呂嬃為林光侯,蕭何夫人亦為酇侯。又宗室侯表此時無陰安侯,知其為頃王后也。案漢祠令,陰安侯高帝嫂也。」師古曰:「諸諡為傾者,漢書例作頃字,讀皆曰傾。」
『漢書補注』160頁を見る。理解の精度が上がったら帰ってくる。

琅邪王(劉澤)、列侯、吏二千石に請ひて議すらく、大王は高皇帝の子なれば、宜しく嗣と為り、願はくは大王 天子の位に即け」と。
代王曰く、「高帝の宗廟を奉ずるは、重き事なり。寡人 佞ならず〈適任な人材でない〉、以て稱(そ)へるに足らず。

ぼくは思う。曹丕って、「寡人不佞、不足以稱」って言わない!

楚王(劉交、高帝の弟)に宜しきを計ることを願ひ請はん。寡人 敢へて當らず」と。

羣臣皆伏,固請。代王西鄉讓者三,南鄉讓者再。[一二]如淳曰:「讓羣臣也。或曰賓主位東西面,君臣位南北面,故西鄉坐三讓不受,羣臣猶稱宜,乃更南鄉坐,示變即君位之漸也。」師古曰:「鄉讀曰嚮。」 丞相平等皆曰:「臣伏計之,大王奉高祖宗廟最宜稱,雖天下諸侯萬民皆以為宜。臣等為宗廟社稷計,不敢忽。[一三]師古曰:「忽,怠忘也。」 願大王幸聽臣等。臣謹奉天子璽符再拜上。」

羣臣 皆な伏し、固く請ふ。代王の西郷して〈賓客の礼で郡臣と西に向き合い〉辞譲すること三たび。南鄉して〈郡臣が南に移動したので釣られて南に向き〉辞譲すること三たび。

[一二]如淳曰:「讓羣臣也。或曰賓主位東西面,君臣位南北面,故西鄉坐三讓不受,羣臣猶稱宜,乃更南鄉坐,示變即君位之漸也。」師古曰:「鄉讀曰嚮。」
『漢書補注』は、先謙が胡三省をひいいて、このときの動きを解説する。いちおうこれを踏まえて、上の抄訳に言葉を補いました。

丞相の陳平ら 皆曰く、「臣 伏して之を計るに、大王 高祖の宗廟を奉ずること最も宜しく稱(そ)ふべし。天下の諸侯・萬民と雖も、皆な以為らく宜しとせん。臣ら 宗廟・社稷の計のため、不敢へて忽らず〈軽く意見を変えない〉。

師古は「忽」を「忘れ怠る」とするが、『漢書補注』は「軽く易ふ」とし、先謙は後者を支持する。ぼくの抄訳もこれに合わせた。

願はくは大王 幸ひに臣らを聽せ。臣 謹みて天子の璽符を奉り再び拜上せん」と。

天子の位を受けてしまう

代王曰:「宗室將相王列侯以為(其)〔莫〕宜寡人,宗室將相王列侯以為(其)〔莫〕宜寡人, 王念孫說「其」字文義不順,當依史記作「莫」。楊樹達說王校是。 寡人不敢辭。」遂即天子位。

代王曰く、「宗室 將相・王・列侯 以為らく、宜しく寡人とすべしとする莫し〈私を皇帝にすべきと考える者はいない〉。

王念孫說「其」字文義不順,當依史記作「莫」。楊樹達說王校是。 など校勘でモメてる。「其」だと文章が通らないが、「莫」にすると意味が反転するので、何もいらない。たしかに、そのとおり。
『漢書補注』はいう。上の文で、丞相の陳平らが、「天下の諸侯や万民であっても、あなたが良いというよ」といい、だから文帝(劉恒)は受けて、「喪失・将相・王・列侯に、私(劉恒)が適任だとするなら仕方ない」と認めたのである。
ぼくは思う。『漢書』を伝える人たち(恐らく結構なインテリ)でも、肯定と否定が錯綜して、意味が分からなくなったのね。いわんや、、いや止めておきます。

寡人 敢へて辭せず」と。遂ひに天子の位に即く。

子恒はいう。すごくあっさりと、漢文帝は天子の地位を受けてしまった。拍子抜けである。私たちのように、思想的な抗争があったのでないことが分かる。文書を経由せず、剥きだしの暴力を動員して、勝算を積み増したのだろう。


宋昌を中央官につけ、民爵を配る

羣臣以次侍。[一四]師古曰:「各依職位。」 使太僕嬰、東牟侯興居先清宮,[一五]應劭曰:「舊典,天子行幸所至,必遣靜室令先案行清淨殿中,以虞非常。」 奉天子法駕迎代邸。[一六]如淳曰:「法駕者,侍中驂乘,奉車郎御,屬車三十六乘。」 皇帝即日夕入未央宮。夜拜宋昌為衞將軍,領南北軍,張武為郎中令,行殿中。[一七]師古曰:「行謂案行也,音下更反。」

羣臣 次を以て侍る〈官職の席次に並んだ〉。太僕の夏侯嬰、東牟侯の劉興居をして先に宮を清めしめ、

應劭はいう。舊典では、天子が行幸して至る所は、必ず靜室令を先に行かせて、案行して殿中を清淨させる。非常事態を虞れるのであると。
『漢書補注』はいう。東牟侯が自ら請い、太僕とともに宮に入って清めたのは、高五王伝にある。
胡三省はいう。ときに郡臣は文帝を奉じて即位させたが、少帝がまだ禁中にいる。少帝は、屏除された。おもろい!さすが王朝の交代劇。

天子の法駕を奉じ、代邸に迎ふ。

如淳曰:「法駕者,侍中驂乘,奉車郎御,屬車三十六乘。」

皇帝 即日の夕に未央宮に入る。夜 宋昌を拜せしめ衞將軍と為し,南北の軍を領せしめ、

先謙はいう。『史記』では、「南北の軍を鎮撫す」である。
ぼくは思う。『史記』のほうが、文帝とその側近である宋昌の「のっとり」が強調される。「鎮撫」しなければならないほど、騒いでいたのだ。おそらく、周勃にも論戦を挑んでやりこめる宋昌だから、軍の指揮権を握るために、強引なことをしただろう。

張武 郎中令と為り、殿中に行(案行)す。

還坐前殿,下詔曰:「制詔丞相、太尉、御史大夫:間者諸呂用事擅權,[一八]師古曰:「間者,猶言中間之時也。他皆倣此。」 謀為大逆,欲危劉氏宗廟,賴將相列侯宗室大臣誅之,皆伏其辜。朕初即位,其赦天下,賜民爵一級,女子百戶牛酒,[一九]蘇林曰:「男賜爵,女子賜牛酒。」師古曰:「賜爵者,謂一家之長得之也。女子謂賜爵者之妻也。率百戶共得牛若干頭,酒若干石,無定數也。」

還りて前殿に坐し、詔を下して曰く、「丞相、太尉、御史大夫に制詔す。間者(さきごろ)諸呂 用事・擅權せり。

師古曰:「間者,猶言中間之時也。他皆倣此。」
訓読では、「さきごろ」とやるみたいです。

謀りて大逆を為し、劉氏の宗廟を危ふくせんと欲す。將相・列侯・宗室・大臣を賴り、之を誅し、皆 其の辜(つみ)に伏す。朕 初めて即位し、其れ天下を赦し、民爵一級、女子・百戶に牛酒を賜ひ、

蘇林は「男は爵を賜ひ、女子は牛酒を賜ふ」とする。師古は「賜爵は、一家の長 之を得るを謂ふ。女子の爵を賜はる者の妻なり。率百戶共得牛若干頭,酒の若干石、定數なし」と。
『漢書補注』162頁に、賜るものについて詳細あり。長い!けど重要!


酺五日。」[二0]服虔曰:「酺音蒲。」文穎曰:「音步。漢律,三人以上無故羣飲酒,罰金四兩,今詔橫賜得令會聚飲食五日也。」師古曰:「酺之為言布也,王德布於天下而合聚飲食為酺。服音是也。字或作脯,音義同。」

酺 五日(を賜ふ)。140104

文穎はいう。漢律では、三人以上で、ゆえなく羣れて飲酒したら、罰金が四兩である。いま詔にて(漢律を曲げて)5日だけ群れて飲めることにした。
師古はいう。酺(群れて飲む)をさせるのは、言説を流布するため。王德を天下にひろめるため、あつまって飲ませた。
ぼくは思う。曹丕の政策も、ここから来ている。「酺」を検索すると、前漢の本紀がヒットしまくる。みんな皇帝たちは、人気取り、じゃなくて徳を流布させるため、飲み会を許可したのだ。後漢は明帝がやるくらいか。『三国志』では、曹丕の文帝紀しかヒットしない。前漢のとき頻繁だったものを、曹丕が特例的に復活させたことが分かる。いまの日本で、一時的に帯刀を許すような。復古の珍しさしかない。
『漢書補注』162頁に、さらにコメントがある。曹丕を読むなら、ここの『漢書補注』も抑えねば。

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元年、立太子を渋り、竇皇后を立てる

漢文帝期の『資治通鑑』を読み終えたので、『漢書』文帝紀の読解を再開。どの列伝を読もうか、あたりを付けながら読みます。

即位の功労者を賞する

元年冬十月辛亥,皇帝見于高廟。遣車騎將軍薄昭迎皇太后于代。詔曰:「前呂產自置為相國,呂祿為上將軍,擅遣將軍灌嬰將兵擊齊,欲代劉氏。嬰留滎陽,與諸侯合謀以誅呂氏。呂產欲為不善,丞相平與太尉勃等謀奪產等軍。朱虛侯章首先捕斬產。太尉勃身率襄平侯通持節承詔入北軍。典客揭奪呂祿印。其益封太尉勃邑萬戶,賜金五千斤。丞相平、將軍嬰邑各三千戶,金二千斤。朱虛侯章、襄平侯通邑各二千戶,金千斤。封典客揭為陽信侯,賜金千斤。」

元年冬十月辛亥、皇帝は高廟にまみえる。車騎將軍の薄昭を代国にやって皇太后を迎える。詔した。「さきに呂産は自ら相国をおいて自ら相国となり、呂禄は上将軍となり、将軍の灌嬰に斉国を撃たせ、劉氏に代わろうとした。

ぼくは思う。呂氏は劉氏に代わろうとして、その代わりに「代」国からきた漢文帝が代わった。こういう文字遊びは、潜在意識に働きかけて、歴史に影響する。
灌嬰伝は、列伝11。後日読もう。

灌嬰は栄陽に留まり、諸侯とともに呂氏を誅そうとした。呂産は不善をなそうとした。丞相の陳平、太尉の周勃らは、呂産の軍を奪った。

陳平伝、周勃伝は、ともに列伝10。漢文帝の即位に関わった人。

朱虚侯の劉章は、さきに呂産を捕らえて斬った。

のちの城陽王の劉章は、劉邦の孫、劉肥の子。列伝8の高五王伝かな。
子恒(ぼくの設定した架空のキャラクター、曹丕の分身)はいう。父の曹操は、済南を統治したとき、城陽王の劉章にかんする迷信を取り締まった。漢家の維持・存続に、劉章がいかに役立ち、のちに信仰の対象となったか。関羽のような匹夫への信仰に関する研究を参考にして考えたい。

太尉の周勃は、みづから持節して襄平侯の紀通をひきい、詔を承けて北軍に入れさせた。典客の揭は呂禄の印を奪った。周勃、陳平、劉章、紀通に増封と金を賜る。

王先慎はいう。東牟侯も同時に封賜を受けた。列伝にある。先謙はいう。『史記』には、東牟侯の劉興居も名が連なる。

典客の揭を陽信侯に封じて、金千斤を賜わる」と。

十二月,立趙幽王子遂為趙王,徙琅邪王澤為燕王。呂氏所奪齊楚地皆歸之。盡除收帑相坐律令。

應劭曰:「帑,子也。秦法,一人有罪,并其室家。今除此律。」師古曰:「帑讀與奴同,假借字也。」

12月、趙幽王の子の劉遂を趙王とした。琅邪王の劉沢を移して燕王とした。呂氏に奪われた斉楚の地を、すべて劉氏に戻した。

王啓原はいう。劉沢は瑯邪の王となり、「斉」のを係奪した。呂台が呂王となり、彭城を国として、「楚」より係奪した。いま呂氏が誅され、呂国は廃された。劉沢もまたうつされ、斉楚の地に還れた。
ぼくは思う。斉からは瑯邪、楚からは彭城を切り取っていたが、切り取りをやめた。斉王と楚王は、領土をフルに回復した。

收帑相坐の律令をすべて除いた。
応劭はいう。「帑」とは「子」である。秦法では、1人に罪があれば、室家に罪がおよぶ。いまこれを除いた。師古はいう。「帑」は「奴=ド」と読む。字を仮借した。

先謙はいう。『史記』もこの詔議を載せる。『漢書』刑法志にもある。「のちに新垣平が謀逆して、ふたたび三族の誅が行われた」とある。連坐を廃止してないじゃんと。


太子を建てるのを渋る

正月,有司請蚤建太子, 所以尊宗廟也。詔曰:「朕既不德,上帝神明未歆饗也,天下人民未有□志。 今縱不能博求天下賢聖有德之人而嬗天下焉, 而曰豫建太子,是重吾不德也。 謂天下何? 其安之。」 有司曰:「豫建太子,所以重宗廟社稷,不忘天下也。」

正月、有司は蚤に(早く)太子を建てろと請う。宗廟を尊ぶためである。
詔した。「朕は不德であり、上帝・神明は、いまだ歆饗しない。天下の人民は、いまだに満志(快志)がない。

漢字がでない。「匧」の下に「心」です。応劭によれば「満」と同じ意味、師古によれば「快」と同じ意味の文字。銭大昭によれば、『史記』ではべつの字につくり、『荀子』栄辱篇に出典がある。

いま天下から広く賢聖・有德の人を求めずに、天下をゆずる者として、

晋灼はいう。「嬗」とは、古い「禅」の字。ゆずる。

太子を建てるといえば、私の不徳を重くする。立太子は、なぜ天下の世論に適うものか。あんまり私を追いつめるな。

師古はいう。「天下 何と謂ふや。其れ之を安ぜよ」とは、「猶ほ何を以て天下の望に称ふと言ふか。汲々とすること宜しからず」という意味である。
子恒はいう。私が最期まで太子を建てなかったのは、同じ意図がある。有徳者が出現したら、すぐに譲るべきであり、わが子を次の天子として予約するのは、天下を私物化する行為である。

有司はいう。「あらかじめ太子を建てるのは、宗廟・社稷を重んじるからである。天下を忘れるからではない」と。

子恒はいう。宗廟を安定的に守り、社稷の祭りを絶やさないことは重要である。しかし宗廟を守るのは天子の一族の私的な行為である。宗廟を守るという理由で、天下を私物化することに、私は違和感を覚える。


上曰:「楚王,季父也,春秋高,閱天下之義理多矣, 明於國家之體。吳王於朕,兄也;淮南王,弟也:皆秉德以陪朕, 豈為不豫哉!諸侯王宗室昆弟有功臣,多賢及有德義者,若舉有德以陪朕之不能終,是社稷之靈,天下之福也。今不選舉焉,而曰必子, 人其以朕為忘賢有德者而專於子,非所以憂天下也。朕甚不取。」 有司固請曰:「古者殷周有國,治安皆且千歲, 有天下者莫長焉, 用此道也。 立嗣必子,所從來遠矣。高帝始平天下,建諸侯,為帝者太祖。諸侯王列侯始受國者亦皆為其國祖。子孫繼嗣,世世不絕,天下之大義也。故高帝設之以撫海內。 今釋宜建 而更選於諸侯宗室,非高帝之志也。更議不宜。 子啟最長, 敦厚慈仁,請建以為太子。」上乃許之。因賜天下民當為父後者爵一級。 封將軍薄昭為軹侯。

天子はいう。「楚王は季父である。年齢が高く、天下の義理を閱すこと多し。國家の体に明るし。呉王は、私の兄である。淮南王は、弟である。みな徳をもって私を輔佐する。どうして彼らが太子の候補とならないか。

子恒はいう。私は弟(曹彰・曹植)を排除した。彼らが魏主の地位をおびやかし、天下の秩序を歪めることを恐れたからである。漢文帝は、自分の後継者について、自分の子以外のオプションを考えていたのであり、自らの地位をそっくり投げ出して親族に与えることを考えていたのではない。
子恒はいう。前漢は、皇帝権力が弱いため、長安にいて漢主であることは、絶対的な地位を約束しなかった。漢文帝のように謙譲の精神を口にすることは、天下の安定のために有益だったのであろうか。もし漢文帝のこの言辞を、「恰好をつけるための方便」とするなら、漢文帝の真意を救い損ねるだろう。

諸侯王・宗室・昆弟には、功臣がいる。多賢・德義ある者が、もし有徳な者をあげて私の臨終に立ち会わせたら、これは社稷の霊であり、天下の福である。

劉氏のなかで、天子にふさわしい者が、漢文帝の臨終に立ち会って、その場で皇位を受けとってくれるなら、それでよいと。「漢文帝の子である」というよりも、「有徳である」という資格によって、天子は継承されるべきだと。漢文帝その人が、タナボタで必然性が感じられないかたちで、皇位を受けたばかりである。いきなり「皇位はオレの子孫だけに限定する」と言える状況ではない。
子恒はいう。漢文帝は、「自らの子孫に皇位を限定する」と宣言するのとは別の仕方で、自らの子孫に皇位を限定した。これこそ、徳のなせるわざである。見習いたい。

いま有徳な者を後継者に選ばず、「後継者は必ず、わが子にする」といえば、人は私のことをどう見なすか。賢くて有徳な者を忘れて、もっぱら後継者を子に限定するのは、天下を憂わないからだ、と見なすだろう。私は、わが子を太子にすべきでないと思う」と。
有司はつよく要請した。「殷周は国をたもち、どちらも統治の安定が千年に及び、天下にこれより長い王朝はない。殷周がこの(子を後継者にする)道を用いたからである。後嗣を立てるなら必ず子とするのは、長らく守られてきた方法である。

ぼくは思う。尭舜禹のごとき禅譲ではなく、世襲の故事を持ち出して、漢がこれら世襲の王朝として、新しい歴史を築いていけ、という有司たちの思いが含まれる。漢文帝は、まだ高皇帝の子であり、父子の継承がどちらへ転ぶか分からない。漢文帝を読むときは、漢の歴史の浅さをつねに念頭におかないと、誤りそう。長期的に安定した漢帝国、という見方をしてはならない。

高帝がはじめて天下を平定し、諸侯を立て、高皇帝は太祖となった。諸侯王・列侯のはじめて国を受けた者は、みな(帝室とは異なる)諸国の祖となった。子孫が継嗣して、世々に絶えないのが、天下の大義である。ゆえに高皇帝は諸国を設けて、海内を鎮撫しようとした。いま天子が帝位を捨てて、諸侯・宗室のなかから、つぎの帝位の継承者を改めて選ぶなら、これは高皇帝の志とは異なる。子の劉啓は、もっとも年長で、敦厚・慈仁である。太子に立てろ」と。天子は許した。

先謙はいう。『史記』と『通鑑』では「純厚」とする。『漢紀』は「敦厚」とする。『漢紀』は『史記』でなく『漢書』に基づいている。
子恒はいう。漢文帝は、諸侯王の権勢が強いからこそ、天下を安定させるために太子を建てた。わが魏において、強盛な諸侯王はいないからこそ、まだまだ太子を建てる必要がない。太子を建てずに保留することで、私がいつでも天下の賢者に再び「禅譲」する用意があると、真意を示すことができるのだ。

天下の民のうち、父の後嗣となる者に、爵1級を賜る。

師古はいう。正嫡でなくても、後嗣であれば、爵を賜った。
何焯はいう。師古は誤りである。父の後嗣とは、嫡長子だけを指すのである。
ぼくは思う。天子が後嗣を定めたら、それに連動して、天下の後嗣にあたる人に爵位をあげる。天子と民が連動する。さすが、秩序を形成する漢代の二十等爵制。

將軍の薄昭を軹侯とする。

老人に賜与し、代臣の宋昌を賞す

三月,有司請立皇后。皇太后曰:「立太子母竇氏為皇后。」

3月、有司は皇后を立てろという。皇太后「太子の母の竇氏を皇后とせよ」。

何焯はいう。さきに太子を建てて、あとで皇后を立てたのは、なぜか。天子が代王のときの王后はさきに死に、竇氏は子をもって貴しとされた。『史記』では「太子の母を立てる」の前に「諸侯はみな同姓なので」が入っている。けだし周の天子は、諸侯の媯氏や姜氏から皇后を立てたが、漢では諸侯が同姓で(結婚できないので)諸侯ではなく、太子の母を皇后に選んだと言いたいのだろう。文帝の竇氏、景帝の王氏、武帝の衛氏は、いずれも賎しい。この3代の実績により、皇后は、貴い姓=諸侯ではなく、賎しい姓から立てるという、漢の前例が確立した。このとき異姓の長沙王(呉氏)がいたのに、周の天子のように、ここから皇后を迎えないのだから。


詔曰:「方春和時,草木羣生之物皆有以自樂,而吾百姓鰥寡孤獨窮困之人或阽於死亡, 而莫之省憂。 為民父母將何如?其議所以振貸之。」 又曰:「老者非帛不煖,非肉不飽。 今歲首,不時使人存問長老, 又無布帛酒肉之賜,將何以佐天下子孫孝養其親?今聞吏稟當受鬻者,或以陳粟, 豈稱養老之意哉!具為令。」 有司請令縣道, 年八十已上,賜米人月一石,肉二十斤,酒五斗。其九十已上,又賜帛人二疋,絮三斤。 賜物及當稟鬻米者,長吏閱視,丞若尉致。 不滿九十,嗇夫、令史致。二千石遣都吏循行, 不稱者督之。 刑者及有罪耐以上,不用此令。

詔した。「春になると、草木・群生は、みな自ら楽しむ。だが、わが百姓のうち鰥寡・孤獨・窮困は死亡しそうである。民の父母である天子として、この状況はどうよ。彼らへの振貸を議論せよ」と。
またいう。「老いた者は、暖衣がなく、肉食しない。今年の初め、老人の様子を見に行かせず、布帛・酒肉を賜らなかった。老人を養うための条令をつくれ」と。有司が県・道に命令せよと請う。

県は行政区分。蛮夷のなかにある県は「道」という。

80歳以上、90歳以上などに衣服や食糧を賜った。支給について、長吏・丞が監督した。二千石は都吏を巡行させ、詔どおりに支給しない者を取り締まった。耐(2年以上の刑罰)の者には支給しなかった。

楚元王交薨。
四月,齊楚地震,二十九山同日崩,大水潰出。

楚元王の劉交が薨じた。

列伝6が、楚元王伝。楚元王劉交・劉向・劉歆。

4月、斉楚で地震があり、同じ日に29山が崩れて、大水が涌きだした。

先謙はいう。五行志では、1つの山の29箇所。


六月,令郡國無來獻。施惠天下,諸侯四夷遠近驩洽。乃脩代來功。 詔曰:「方大臣誅諸呂迎朕,朕狐疑,皆止朕, 唯中尉宋昌勸朕,朕(已)〔以〕得保宗廟。 已尊昌為衞將軍, 其封昌為壯武侯。諸從朕六人,官皆至九卿。」又曰:「列侯從高帝入蜀漢者六十八人益邑各三百戶。吏二千石以上從高帝潁川守尊等十人食邑六百戶,淮陽守申屠嘉等十人五百戶,衞尉足等十人四百戶。」封淮南王舅趙兼為周陽侯,齊王舅駟鈞為靖郭侯, 故常山丞相蔡兼為樊侯。

6月、郡國からの来献をやめさせた。天下に恵みを施し、諸侯・四夷は、遠近が驩洽した。代国からきたときに功績がある者を賞した。詔した。「大臣は諸呂を誅して、私を迎えた。私は狐疑して、みな私に『代国に留まれ』と勧めた。中尉の宋昌だけが、『長安にゆけ』と勧めた。おかげで宗廟を保つことができた。宋昌を衞將軍・壯武侯とする。代国から私に従ってきた6人の官職は、九卿まで至る」と。

師古はいう。従ってきたのは、張武である。
先謙はいう。「九卿とする」は詔文にない。詔は「秩を進むること差有り」である。史書を書く人が、ネタバレしただけであり、この時点では九卿まで昇進するとは確定しない。
ぼくは思う。代国からきたスタッフと、長安の大臣たちとのあいだの確執って、どこかで読めないだろうか。宋昌や張武は列伝が立っていないので、陳平や周勃の列伝で探してみよう。

またいう。「列侯のうち高皇帝に従って蜀漢に入った68人を増邑する。吏二千石以上のうち高皇帝に従って頴川を守った者を増邑する。淮陽守の申屠嘉ら10人と、衞尉の足ら10人も増邑する」と。

申屠嘉は、列伝12。張蒼・申屠嘉が同じ列伝に収まる。

淮南王の舅である趙兼を周陽侯にした。斉王の舅である駟鈞を靖郭侯とした。もと常山の丞相であった蔡兼を樊侯とした。

銭大昕は「常山の相」というが、周寿昌は「常山の丞相」でよいとする。つぎの景帝の中5年、諸侯国の丞相を「相」と改めた。百官公卿表よると、「淮南の丞相である張蒼を御史大夫にした」とある。『史記』にも「丞相」とある。
ぼくは思う。後漢をデフォルトとする後漢脳では、いろいろキツい。

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二年、日食に自責し、諫言に聞く耳を持つ

諸侯を封地に行かせ、日食で自責

二年冬十月,丞相陳平薨。詔曰:「朕聞古者諸侯建國千餘,各守其地,以時入貢,民不勞苦,上下驩欣,靡有違德。今列侯多居長安,邑遠,吏卒給輸費苦,而列侯亦無繇教訓其民。 其令列侯之國,為吏及詔所止者,遣太子。」

2年冬10月、丞相の陳平が薨じた。詔した。「私は聞く。古代に諸侯は1千余国が建てられ、それぞれ領地を守った。適切な時期に入貢して、民は労苦せず、上下はよろこび、徳に違わなかった。いま列侯は、おおくが長安にいて、封邑から遠い。

王啓原はいう。三輔には列侯を封じない。列侯の食邑は、近くて長安から数百里、遠ければ千里、数千里もある。ただ関内侯だけが関中に食邑をもつ。関内侯は、周代における圻内諸侯にならったもので、列侯より1等爵おちる。列侯は封邑がとおい。

吏卒は給輸の費用(長安と封邑の間の移動費)に苦しみ、列侯もまた其の民に教訓を与えられない。 列侯を国にゆかせろ。長安の吏(卿大夫)になる者や、天子の恩愛により長安に留まる者は、太子を国につかわせ」と。

周寿昌はいう。漢制では、王や列侯の長子も「太子」という。王の母は「太后」という。天子だけでない。
ぼくは思う。司馬炎のとき、司馬攸を封国にゆかせることで、天下に批判がおきた。漢文帝が諸侯を国にゆかせた意図はなんだろう。呉楚七国の乱は、まだだいぶ先である。高皇帝が理想としたであろう、同姓が親和する封建制をマジで実現しようと思ったのかな。諸侯を長安で飼い殺し、、なんて手が有効なほど、天子権力が強いわけでもない。


十一月癸卯晦,日有食之。詔曰:「朕聞之,天生民,為之置君以養治之。人主不德,布政不均,則天示之災以戒不治。 乃十一月晦,日有食之,適見于天, 災孰大焉! 朕獲保宗廟,以微眇之身託于士民君王之上,天下治亂,在予一人,唯二三執政猶吾股肱也。朕下不能治育羣生,上以累三光之明, 其不德大矣。令至,其悉思朕之過失, 及知見之所不及,匄以啟告朕。 及舉賢良方正能直言極諫者,以匡朕之不逮。 因各敕以職任,務省繇費以便民。 朕既不能遠德,故間然念外人之有非, 是以設備未息。今縱不能罷邊屯戍,又飭兵厚衞,其罷衞將軍軍。太僕見馬遺財足, 餘皆以給傳置。」

11月癸卯みそか、日食あり。詔した。「天は民を生み、民のために君を置いて、民を養い治めさせる。人主が不徳であり、布政が均しくないと、天は人主に災を示して、不治を戒める。日食があり、私は天に責められた。これより大きな災はない。

師古はいう。「適」は「責」のこと。

私は宗廟を獲保し、微眇の身であるが、士民の君王の上であることを託された。天下の治乱は、私1人にある。他には2・3人の股肱が執政するだけである。

漢文帝のいう股肱とは、代国から連れてきたスタッフだろう。この詔の最後で、代国の功臣のトップである宋昌が、漢文帝と痛み分けするため、衛将軍を罷免される。
この文脈なら、漢文帝は「天下の責任は、全て私1人に帰する」と言えば終わるはずだ。しかし、敢えて2・3人の股肱に言及する。股肱も(失政による日食の)責任を共有してるけどね、と余計なことをいう。よほど股肱を頼りに思っており、文字どおり身体の延長として捉えている。代国から乗り込んできた漢文帝の孤独が、この余計な一言から窺われる。

私がうまく群生を治育せねば、日・月・星が重なって、私の不徳を明示する。この令を見たら、私の過失について考え、私に教えてほしい。

後漢の文書なら、当然の内容しか書いてない。しかし、まだ儒学が栄える前、董仲舒が登場する前である。この段階で、いかにも儒者がやりそうな自責の仕方をする漢文帝。後世への影響の大きさが窺われる。

賢良・方正で、能く直言・極諫する者は、私の意の及ばないところを正せ。繇費を減らして、民の便益とせよ。辺境の守備は減らせないから、かわりに衛将軍の宋昌を罷免せよ。太僕は馬を減らして、余った財物を伝駅に配置せよ」と。

このへんは『通鑑』にもれなく収録されていた。


郡臣・民による漢への批判を受け入れる

春正月丁亥,詔曰:「夫農,天下之本也,其開藉田,朕親率耕,以給宗廟粢盛。 民讁作縣官及貸種食未入、入未備者,皆赦之。」

春正月丁亥、詔した。「農は天下の本である。藉田を開いて、天下の先となす。

応劭はいう。古代の天子は、藉田を(十)千畝たがやし、天下の先となる。「藉」とは、帝王の典藉の常である。
遺詔はいう。「藉」とは「借」である。民の力を借りて治め、宗廟を奉る。だから天下に率先して、農業に従事させるのだ。臣瓚はいう。景帝の詔に「朕 親ら耕し」とある。借りるの意味ではない。

私は自ら率先して耕し、穀物を器に盛って宗廟に備えよう。民のうち、罪により県官のために耕す者、穀物のタネを借りたが返済していない者は、みな免除する」と。

三月,有司請立皇子為諸侯王。詔曰:「前趙幽王幽死,朕甚憐之,已立其太子遂為趙王。遂弟辟彊 及齊悼惠王子朱虛侯章、東牟侯興居有功,可王。」乃(遂)立辟彊為河間王, 章為城陽王,興居為濟北王。因立皇子武為代王,參為太原王,揖為梁王。

3月、有司は、天子の皇子を諸侯王に立てろという。詔した。「さきに趙幽王の劉友が幽死して、私はこれを憐れむ。趙王の太子の劉遂を立てて、趙王を嗣がせた。劉遂の弟の劉辟彊と、齊悼惠王の子である朱虛侯の劉章と、東牟侯の劉興居には、功績がある。(私に皇子よりも優先して)彼らを王にすべきだ」と。劉辟彊を河間王、 劉章を城陽王、劉興居を濟北王とした。
皇子の劉武を代王、劉参を太原王、劉揖を梁王とした。

朱一新はいう。諸侯王表によると、代王もまた2月乙卯に立てられた。この文帝紀のほうが1ヶ月おそい。
ぼくは思う。代王が2月に立ってしまうと、漢文帝の「わが子よりも、功績がある皇族を先に封建すべきだ」という謙虚な態度が、ウソになる。転記を誤りそうな諸侯王表よりも、漢文帝の思いが述べられた詔をともなう文帝紀を信じれば良いと思う。


五月,詔曰:「古之治天下,朝有進善之旌, 誹謗之木, 所以通治道而來諫者也。今法有誹謗訞言之罪, 是使眾臣不敢盡情,而上無由聞過失也。將何以來遠方之賢良?其除之。民或祝詛上,以相約而後相謾, 吏以為大逆,其有他言,吏又以為誹謗。此細民之愚,無知抵死, 朕甚不取。自今以來,有犯此者勿聽治。」

5月、詔した。「古代において天下を治めるとき、朝廷には、進善の旌、誹謗の木があった。

応劭はいう。尭は五達の道を設けて、民に善を進めた。如淳はいう。進みたい者(天子に進言したい者)は、旗を立てて発言した。
沈欽韓はいう。『管子』桓公問篇に、「舜は告善の旗があり、主は蔽わず」とある。ぼくは思う。曹丕も、同じことをやってた。
廬碩『尽諌』の自注にある。両漢の故事で、文帝の三年、永明殿に進旗などの五物を設けた。

正しい統治を行い、諫める者を来させるためである。いまの法には、誹謗・妖言の罪がある。この法のせいで、衆臣は心情をつくした発言をできず、遠方から賢良が来られなくなっている。この法を除け。

いま除いた「妖言の令」は、高后元年に定められた。 『通鑑』はこの前半までは採録し、つぎの後半が省かれてる。

民が天子を呪って(漢への批判を)共謀して語り合ったが、(民がべつの民の共謀者を欺いて)ほどほどで(漢への批判を)辞めた場合であっても、漢臣=吏は、この民の行為を大逆・誹謗と考え、報告して(罰して)いる。民たちは愚かで、死罪にあたると知らないから、漢への批判をしてしまう。私は、漢への批判を罪とすることに同意しない。これより、漢を批判した民を捕らえるな」と。

解釈がむずかしいが、『史記集解』がひく『漢書音義』の理解にもとづいて、抄訳をつくりました。けっこう注釈によって、理解が違うみたいです。語り合った共謀者をあざむいて密告して吏に突き出すのか、あざむいて共謀から降りてしまう(ほどよい中道に留まる)のか。ちくま訳は前者に近く、ぼくは後者を採ります。
ぼくは思う。言論に関する考え方は、近代の政治学とかに照らしても、検討に堪えるテーマ。批判を口にすることを罪とすれば、秩序を保ちやすくなる(気がする)が、ぎゃくに政争の道具にされて、混乱をまねく。言った・言わないなんて、どのようにでも事実をねじ曲げられる。 「聖なる漢」の成立は、まだ先のこと、漢文帝がいかに苦心したか、洞察すべきことはたくさんある。後世のバイアスを除くのが大変。


九月,初與郡守為銅虎符、竹使符。
詔曰:「農,天下之大本也,民所恃以生也,而民或不務本而事末,故生不遂。 致有夭喪,故不遂其生。」 朕憂其然,故今茲親率羣臣農以勸之。其賜天下民今年田租之半。」

9月、はじめて郡守に銅虎符・竹使符をあたえた。

応劭はいう。銅虎符には、第一から第五までがある。国家が兵を発するときは、郡の符とあわせて、符合したら郡を動かせた。あとは『漢書補注』174頁。
先謙はいう。「郡守」のところを、『史記』では「郡国の守相」とする。

9月、詔した。「農業は、天下の大本であり、民が生きるための拠り所である。しかし農業に務めず(衣食が足りないせいで)寿命まで生きられない民がいる。私はこれを憂う。みずから郡臣をひきいて、勧農をやろう。天下の民に、今年の田租の半分を与えよ(田租の半分を免ぜよ)」と。140624

『通鑑』に全文が入っている。漢文帝は、やたら農業に執着し、民の寿命の保全につとめる。漢文帝ならずとも、口をすっぱくして勧農せねばならぬほど、秦末・楚漢戦争が激しかったのだろう。

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三~十六年、勧農して民のために祭祀する

三年、匈奴が入寇し、代国に親征する

三年冬十月丁酉晦,日有食之。十一月丁卯晦,日有蝕之。
詔曰:「前日詔遣列侯之國,辭未行。丞相朕之所重,其為(遂)〔朕〕率列侯之國。」 遂免丞相勃,遣就國。十二月,太尉潁陰侯灌嬰為丞相。罷太尉官,屬丞相。
詔した。「さきに列侯は国にゆけと詔したが、ゆかない。丞相の周勃は、私のために(率先して)列侯をひきいて国にゆけ」と。太尉の官をやめて、丞相に属させた。

銭大昕はいう。丞相・三公の除・授は、『漢書』本紀は全てを記さない。王莽の王氏に、書き落としがおおいが、王氏が簒奪したからか。実例は175頁。


夏四月,城陽王章薨。淮南王長殺辟陽侯審食其。
五月,匈奴入居北地、河南為寇。 上幸甘泉, 遣丞相灌嬰擊匈奴,匈奴去。發中尉材官屬衞將軍,軍長安。
上自甘泉之高奴, 因幸太原,見故羣臣,皆賜之。舉功行賞,諸民里賜牛酒。 復晉陽、中都民三歲租。 留游太原十餘日。

夏4月、城陽王の劉章が薨じた。淮南王の劉長が、辟陽侯の審食其を殺した。

師古はいう。家で殺した。列伝14・劉長伝に詳しい。

5月、匈奴が入って北地に居り、黄河の南を寇した。

師古はいう。北地郡の北の、黄河の南にあたる部分である。白羊という匈奴の王が居た。
先謙はいう。『史記』では「北地に入り、河の南に居て寇をなす」とある。『史記』が正しく、『漢書』の語順が誤っている。『通鑑』胡注はいう。この地は、北河の南であり、蒙恬が(匈奴から奪って漢族の領地へと)収めた。衛青が奪うことになる。

天子は甘泉(馮翊)にゆく。

師古はいう。甘泉は、雲陽であり、もとは秦の林光宮があった。

丞相の灌嬰をやり、匈奴を撃たせる。匈奴は去る。

先謙はいう。匈奴伝では、辺吏の車騎8万を発して、高奴にゆかせる。五行志では、車騎の士8万5千を発する。

中尉・材官を発して衛将軍に属させ、長安におく。
天子は甘泉の高奴(上郡)にゆく。太原にゆき、もとの(代王の時代の)郡臣にあい、賜与する。功績を論じ、民里ごとに牛酒を賜う。また晋陽・中都の民に、3年の租を免じる。太原に留まり遊ぶこと、10余日。

先謙はいう。晋陽・中都は、どちらも代王のときの都。


濟北王興居聞帝之代,欲自擊匈奴,乃反,發兵欲襲滎陽。於是詔罷丞相兵,以棘蒲侯柴武為大將軍, 將四將軍十萬眾擊之。祁侯繒賀為將軍,軍滎陽。
秋七月,上自太原至長安。詔曰:「濟北王背德反上,詿誤吏民, 為大逆。濟北吏民兵未至先自定及以軍城邑降者,皆赦之,復官爵。與王興居去來者,亦赦之。」八月,虜濟北王興居,自殺。赦諸與興居反者。

済北王の劉興居は、天子が代国にゆき、匈奴をみずから撃つと聞き、そむいた。兵を発して、栄陽を襲おうとした。天子は丞相の兵を罷め、棘蒲侯の柴武(陳武)を大將軍として、4将軍をひきいて劉興居を撃たせた。

4将軍の名は、『史記』将相名臣表にある。176頁。
済北王の列伝は、列伝14かな。劉長と合わせて読もう。

祁侯の繒賀を將軍として、栄陽に屯させる。
秋7月、天子は太原より長安にもどる。詔「済北王は背徳して、天子にそむいた。民をあざむき誤らせ、大逆した。

「詿」誤の「詿」が、あやまる(あやまらしむ)または、あざむく。

済北の吏民で、漢軍の兵がいたるまでに、自ら定めて(劉興居に従わず)軍や城邑ごと降った者は、みな許して官爵をもどす。いちどは劉興居についたが、劉興居のもとを去った者もゆるす」と。
8月、済北王の劉興居をとらえ、彼は自殺した。ともに反した者をゆるした。

沈欽韓はいう。『西京雑記』には、劉興居が挙兵すると、大風が東から吹いて、旌旗が折れた。天に雲ができ、西の井戸におちた。馬はみな悲鳴をあげて進まず、左右の李廊らが諌めたが、それでも劉興居は挙兵にふみきった。のちに自殺した。


四年、灌嬰が死に、周勃を罪とす

四年冬十二月,丞相灌嬰薨。
夏五月,復諸劉有屬籍,家無所與。 賜諸侯王子邑各二千戶。

12月、丞相の灌嬰が薨じた。
5月、劉氏の(属籍から外れた者を)属籍をもどし、家がない者には家を与えた。

ちくま訳を見たら、租税を免除して、家々がそれに関与しないようにした、とあった。こっちが正しいのか。

諸侯王の子に2千邑を与えた。

五行志はいう。6月(夏なのに)大雪がふった。


秋九月,封齊悼惠王子七人為列侯。絳侯周勃有罪,逮詣廷尉詔獄。作顧成廟。

9月、斉悼恵王の子7人を列侯とした。

王子侯表によると、斉悼恵王の子は10人で、みな5月甲寅に封じられた。『漢紀』も王子侯表に等しい。本紀は誤りである。高五王伝は、本紀と同じ誤りをおかす。

絳侯の周勃に罪があり、廷尉の詔獄に来させた。

兵を持して自衛した罪があると、告発された。『漢書』周勃伝、『史記』周勃伝は、必ず読まねばなるまい。

顧成廟をつくる。

服虔はいう。長安の城南にある。還りて顧みて城を見るから、この名がついた。応劭はいう。周文王の霊台は、みなが自発的に工事に参加したので、1日もかけずに完成した。「振り返ったら、もう完成していた」から、「顧成廟」という。など諸説あります。


五年~十年

五年春二月,地震。夏四月,除盜鑄錢令。 更造四銖錢。

4月、民に鋳銭をゆるした。更めて四銖銭をつくった。

応劭はいう。文帝は、五分銭が軽くて小さすぎるから、四銖銭をつくった。文言は「半両」ときざんだ。いま民間に流通している半両銭のうち、もっとも軽いのが、漢文帝のつくった四銖銭である。
先謙はいう。賈誼と賈山は、四銖銭を諌めた。食貨志と賈山伝にある。


六年冬十月,桃李華。
十一月,淮南王長謀反,廢遷蜀嚴道,死雍。

6年、淮南王の劉長が謀反し、廃されて蜀の厳道にいく途中、雍県(扶風)で死んだ。

劉長の列伝は読もうと、さっきも書きました。


七年冬十月,令列侯太夫人、夫人、諸侯王子及吏二千石無得擅徵捕。 夏四月,赦天下。六月癸酉,未央宮東闕罘罳災。

7年、列侯の太夫人、夫人、諸侯王の子、および吏二千石は、徵捕されないことにした。

如淳はいう。列侯の妻を夫人という。列侯が死んで、その子も列侯になると、夫人は太夫人とよぶ。子が列侯にならないと(列侯の母でないと)夫人とよばない。

6月、未央宮の東闕の罘罳がもえた。

もえた場所について、179頁。


八年夏,封淮南厲王長子四人為列侯。有長星出于東方。 九年春,大旱。十年冬,行幸甘泉。將軍薄昭死。

8年、淮南王の劉長の子4人を列侯にした。

賈誼がこれを諌めた。賈誼伝をよむ。

9年、将軍の薄昭が死んだ。

鄭氏はいう。薄昭は漢の使者を殺したが、文帝は誅するのが忍びない。公卿に、薄昭とともに酒を飲ませ、みずから毒酒を飲むように仕向けた。薄昭はがえんじない。郡臣に喪服をきて(薄昭の死を先取りして)哭礼させ、薄昭を自殺に追いこんだ。罪があるから「死」という。
如淳はいう。一節には、薄昭と文帝は「博」に熱中した。酒を飲みながらゲームして、侍郎が薄昭に酒を酌したとき、薄昭のぶんを文帝よりも少なくした。べつの侍郎がこれを叱った。叱られた侍郎は、沐に下る(休暇だった)が、薄昭は人をやって、酒を少なく酌した侍郎を殺した。だから文帝は、薄昭を自殺させた。
師古はいう。外戚恩沢侯表では、漢の使者を殺したとある。酒を酌する侍郎の話は、正しくない。ぼくは思う。でも、侍郎の話のほうがおもしろい。


十一年~十六年、祭祀や瑞祥にこだわる

十一年冬十一月,行幸代。春正月,上自代還。
夏六月,梁王揖薨。匈奴寇狄道。

11月、匈奴が狄道(隴西)を寇した。

十二年冬十二月,河決東郡。春正月,賜諸侯王女邑各二千戶。二月,出孝惠皇帝後宮美人,令得嫁。三月,除關,無用傳。

12年、黄河が東郡に決壊した。

溝洫志にある。

2月、恵帝の後宮の美人を、嫁いでも良いことにした。3月、関所の通過に、通行証が要らないこととした。

通行証がどんなものか、181頁にある。


詔曰:「道民之路,在於務本。朕親率天下農,十年於今,而野不加辟。歲一不登,民有饑色,是從事焉尚寡,而吏未加務也。吾詔書數下,歲勸民種樹,而功未興,是吏奉吾詔不勤,而勸民不明也。且吾農民甚苦,而吏莫之省,將何以勸焉?其賜農民今年租稅之半。」

「道民の路、本を務むるに在り。朕 親ら天下の農を率ゐ、十年して今に於る。而るに野 辟を加へず、歲一 登らざれば(1年でも収穫がないと)民に饑色有り。是の從事(勧農政策)焉に尚ほ寡くして吏 未だ務を加へず。吾が詔書 數々下し、歲々民に種樹を勸むれども、功 未だ興らず。是れ吏 吾が詔を奉りて勤めずして民に勸むること明ならざるなり。且つ吾が農民 甚だ苦しくして吏 之を省くこと莫し。將に何を以て焉を功とするや。其れ農民に今年の租稅の半を賜へ」と。

『通鑑』と同じ。
数年にわたって勧農の政策を命じてきたが、役人がきちんと政策を実行して、民を善導しないものだから、備蓄が堪らない。とりあえず、1年の半分の租税を免除するから、もっと勧農と備蓄をがんばれと。


又曰:「孝悌,天下之大順也;力田,為生之本也;三老,眾民之師也;廉吏,民之表也。朕甚嘉此二三大夫之行。今萬家之縣,雲無應令,豈實人情?是吏舉賢之道未備也。其遣謁者勞賜三老、孝者帛,人五匹;悌者、力田二匹;廉吏二百石以上率百石者三匹。及問民所不便安,而以戶口率置三老、孝、悌、力田常員,令各率其意以道民焉。」

又 曰く、「孝悌は、天下の大順なり。力田は、生の為の本なり。三老は、衆民の師なり。廉吏は、民の表なり。朕 甚だ此の二三大夫の行いを嘉す。今 万家の県、応令するもの無しと云ふは、豈に人の情に實なるや。

師古はいう。孝悌・力田の人で、察挙の令に応じるべき人がいないこと。ぼくは補う。1万戸もある大きな県で、1人も察挙にあたいする優れた人物が、孝悌・力田のなかにいないという。これって、人材をきちんと把握できてないだけでは、と。
『通鑑』はこちらの詔を省いているので、いま書き下している。

是れ吏の賢を挙ぐるの道 未だ備らず。其れ謁者を遣はして三老を労ひて、孝なる者に帛、人ごとに五匹を賜へ。悌なる者、力田に二匹とせよ。廉吏の二百石以上、百石に率(したが)ひて三匹とせよ。及び民の便安せざる所を問ひ、而して戸口を以て率(したが)ひて三老・孝・悌・力田の常員を置け。各々其の意に率して以て民を道(みちび)け」と。

師古はいう。200石以上であれば、100石ふえるごとに、3匹を増やせと。ぼくは思う。ちくま訳が、本文から読み取れない意味を補っていたが、師古に基づく。
師古はいう。戸数に応じて、人民を教育すべき役人の定員をおけと。


十三年春二月甲寅,詔曰:「朕親率天下農耕以供粢盛,皇后親桑以奉祭服,其具禮儀。」夏,除秘祝,語在《郊祀志》。 五月,除肉刑法,語在《刑法志》。
六月,詔曰:「農,天下之本,務莫大焉。今廑身從事,而有租稅之賦,是謂本末者無以異也,其於勸農之道未備。其除田之租稅。賜天下孤寡布、帛、絮各有數。」

13年2月、桑耕の礼制を立てた。
夏、秘祝を除いた。郊祀志にある。5月、肉刑を除いた。刑法志にある。
6月、詔して曰く。「農は、天下の本なり。務め焉より大なる莫し。今 身に勤めて從事すれども租稅の賦有り。是れ本末(農業と商業)以て異なること無し。其れ勸農の道 未だ備はらず。其れ田の租稅を除け」と。

農業からも商業からも、税収がある。いま農業を勧めたいのだから、商業の課税をそのままに、農業からの課税をなくせば、人々の労働力は商業よりも農業に仕向けられるだろう。このあたりは、『通鑑』に全て収録。


十四年冬,匈奴寇邊,殺北地都尉卯。遣三將軍軍隴西、北地、上郡,中尉周捨為衛將軍,郎中令張武為車騎將軍,軍渭北,車千乘,騎卒十萬人。上親勞軍,勒兵,申教令,賜吏卒。自欲征匈奴,群臣諫,不聽。皇太后固要上,乃止。於是以東陽侯張相如為大將軍,建成侯董赫、內史欒布皆為將軍,擊匈奴,匈奴走。

14年、匈奴をやぶる。

『通鑑』でやったし、あんまり興味がないので、はぶく。184頁。ちょっと登場する将軍の名などを、『漢書補注』が正史類の表などから特定している。


春,詔曰:「朕獲執犧牲、珪幣以事上帝宗廟,十四年於今。歷日彌長,以不敏不明而久撫臨天下,朕甚自愧。其廣增諸祀壇場、珪幣。昔先王遠施不求其報,望祀不祈其福,右賢左戚,先民後己,至明之極也。今吾聞祠官祝釐,皆歸福於朕躬,不為百姓,朕甚愧之。夫以朕之不德,而專鄉獨美其福,百姓不與焉,是重吾不德也。其令祠官致敬,無有所祈。」

春、詔して曰く。「朕 犧牲・珪幣を獲執し、以て上帝の宗廟に事ふること、今まで十四年なり。日を歴ること彌(いよいよ)長く、不敏・不明なるを以て久しく天下を撫臨す。朕 甚だ自ら愧づ。其れ諸々の祀の壇場・珪幣を広増せよ。

土を築いて壇となし、地を除いて場となす。幣は、祭神の帛である。

昔 先王 遠くに施しても其の報を求めず、祀を望みても其の福を祈めず。賢を右とし戚を左とし、

親族よりも賢者に、祭祀に報いた宗廟からの祝福がいたるように願った。

民を先とし己を後とるは、至明の極なり。今 吾 祠官の祝釐(祝福)を聞くに、皆 福を朕が躬に歸し、百姓の為とせず。朕 甚だ之を愧づ。夫れ朕の不德を以て、而るに郷(饗)を専らにして獨り其の福を美とし、百姓に焉を與へず。是れ吾が不德を重くす。其れ祠官をして致敬せしめ、祈る所有る無し」と。

上帝の宗廟(≒天)の祭祀を、文帝は14年にわたって行った。その資格もないのに、ずっと祭祀を担当してきて、申し訳ないなあと。文帝自身が行う祭祀だけでなく、他の者(諸侯か)による祭祀も、祭壇や供物を盛大にして、諸侯による祭祀も立派にすることで、天に対する祭祀の不足を補えと。そう言っているか。のちの郡国廟の廃止とは真逆である。
また、祭祀による御利益が、天子の身にだけありますように、と担当官が祭文を書いている。文帝はこれも不適切として、「私よりは、私でない者に。劉氏よりは、劉氏でない者に。というか民に、御利益がありますように」と書かせている。
この詔は、いくらでも料理できそう。使います。漢文帝は1回の改元をやるが、この改元前に、神秘的・宗教的な思考が高まってくる。改元後、急速に萎えることも含めて、理由を考えたい。


十五年春,黃龍見於成紀。上乃下詔議郊祀。公孫臣明服色,新垣平設五廟,語在《郊祀志》。夏四月,上幸雍,始郊見五帝,赦天下。修名山大川嘗祀而絕者,有司以歲時致禮。
九月,詔諸侯王、公卿、郡守舉賢良能直言極諫者,上親策之,傅納以言,語在《晁錯傳》。

15年、黄龍が成紀(隴西)にあらわれた。天子は詔を下し、郊祀について議させた。(魯人の)公孫秦は服色を明らかにせよといい、(趙人の)新垣平は(渭陽に)五廟を設けろという。郊祀志にある。
夏4月、天子は雍県にゆき、はじめて五帝に郊見した。名山・大川のうち、かつて祭祀があったが、その祭祀が絶えたものは、有司に歳時をもって礼を到させた。
9月、諸侯王・公卿・郡守に詔して賢良にして能く直言・極諫する者を挙げしめ、上 親ら之を策す。ひろく言を納る。晁錯伝にある。

周寿昌はいう。漢の廷策の士のはじめである。漢文帝は即位して2年目に、賢良・法正で直言・極諫できる者を挙げさせたが、だれも登用されなかった。このとき初めて、晁錯が高第となり、太子家令から中大夫に遷った。


十六年夏四月,上郊祀五帝於渭陽。五月,立齊悼惠王子六人、淮南厲王子三人皆為王。
秋九月,得玉杯,刻曰「人主延壽」。令天下大酺,明年改元。

16年、天子は五帝を渭陽で郊祀した。

韋昭は渭城だというが、これは誤りである。

9月(新垣平が詐って献じた)玉杯を得て、「人主延寿」と刻まれていたので、翌年に改元した。140625

早く『漢書』郊祀志を読みたくて仕方がない。
漢文帝が、改元してから急速に、神秘的なことに興味を失い、新垣平らを片づけるのは、なぜか。新垣平は、もっぱら文帝自身への祝福を語ったからでは。もしも文帝だけでなく、天下のための祭祀、みたいな瑞祥を捏造しまくれば、もと文帝は興味を持ったからかも知れない。これが漢文帝の現実志向(農業の重視)であり、君主としての自制心と謙虚さなのかもなあ。

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後元~崩御、匈奴と和親するが入寇される

後元年

後元年冬十月,新垣平詐覺,謀反,夷三族。
春三月,孝惠皇后張氏薨。

後元年、新垣平の詐りが発覚し、謀反により夷三族。

新垣平は、1日に2回の南中があるのを吉祥として、改元させた。漢文帝の寿命が延びるという吉祥だと解釈した。
ぼくは思う。天子=太陽である。太陽が沈んで終わったと思った1日が、夕方から再び真昼になれば、天子の寿命が2倍になることを象徴する。
宗祁はいう。『史記』文帝紀の十七年に「玉杯を得て『人主延寿』とあり、天子は更めて始めて元年と為す」とある。「後元年」と記さない。だが班固は「後元年」とする。当時は「元年」と称しただけで「後元年」とは言わず、「後元年」は史家が区別するために加筆したのだろう。
先謙はいう。『史記索隠』に、秦本紀の恵文王十四年を更めて元年となす、とある。『汲冢竹書』に、魏恵王もまた後元年とある。この2例も同じであろう。当時は「元年」といい、史家が「後」を書き足した。

恵帝の皇后の張氏が薨じた。

張晏はいう。張氏は呂氏の党なので、廃されて北宮にいて「崩」と書かない。
何焯はいう。皇后の礼で葬らないから、「崩」と書かない。ただし「皇后」と書いてあるから、北宮に退いたものの廃されてはいない。
周寿昌はいう。廃された皇后の死は、史書に記さない。景帝の薄后、成帝の許后などである。恵帝の張后は、「廃する」という明らかな詔がないから、この記事を書いてもらえた。


詔曰:「間者數年比不登,又有水旱疾疫之災,朕甚憂之。愚而不明,未達其咎。意者朕之政有所失而行有過與?乃天道有不順,地利或不得,人事多失和,鬼神廢不享與?何以致此?將百官之奉養或費,無用之事或多與?何其民食之寡乏也!夫度田非益寡,而計民未加益,以口量地,其於古猶有餘,而食之甚不足,者其咎安在?無乃百姓之從事於末以害農者蕃,為酒醪以靡谷者多,六畜之食焉者眾與?細大之義,吾未能得其中。其與丞相、列侯、吏二千石、博士議之,有可以佐百姓者,率意遠思,無有所隱也。」

詔に曰く、「間者 數年 登らず(穀物の収穫がなく)又 水旱・疾疫の災有り。朕 甚だ之を憂ふ。愚にして不明なり未だ其の咎に達せず。意は朕の政 失する所有りて行 過有るか。乃ち天道 不順有り、地利 或いは得ず、人事 多く和を失なひ、鬼神 廢れて享けざるか。何を以て此に致るや。將に百官の奉 養はんとし或いは廢れんとす。無用の事 或いは多きか。何ぞ其の民の食らふの寡乏するや。

ひどい自己嫌悪やってます。なにもうまくいってないと。

夫れ田を度るに益寡非ずして、民を計るに未だ加益せず。口を以て地を量り、其の古よりも猶ほ餘有り。

土地の生産高を計測するとき、実態から増やしたり減らしたりしない。人口を数えるとき、多く報告させない。生産高も人口も、前の時代よりも増えており、おおく収穫できるはずなのに、なお飢える人がいる。
漢文帝の時代の認識としては、「前の時代より豊かになれるはずだが、ちっとも豊かにならない」という仕方で、異常が認識される。けっこう特徴的。

而るに食の甚だ足らざるは、其の咎 安(いづこ)にか在る。乃ち百姓の末(商業)に從事して以て農する者を害すこと蕃く、酒醪を為して以て穀を靡からしむる者多く、六畜の焉を食らふ者 衆きか。

原因をいろいろあげるが、どれも仮説。農業よりも商業に励むから、天下の生産の総量が増えないのか。せっかく穀物があっても、酒の原料にしてしまうから、食糧が足りないのか。家畜を食べてしまって、生産に活かせずにいるのか。

細大の義、吾 未だ其の中を得ず。其れ丞相・列侯・吏二千石・博士と与に之を議せよ。以て百姓を佐くる可き者有れば、意に率(したが)ひ遠く思ひ、隠す所有る無かれ」と。

蘇輿はいう。意に率ひ、、とは、前の詔令にいう、「三老らに意に率(したが)ひて以て民を道(みちび)き、また其の意の至る所を極めよ」と言ったことを再徹底する者である。
先謙はいう。「率無極義」とあるが、これは元帝紀・成帝紀にある「多言悉意」と同じで有る。「悉」と「率」は通じる。
『通鑑』で同じものを読んだので引用した。『漢書補注』で補った。


後二年

二年夏,行幸雍棫陽宮。
六月,代王參薨。匈奴和親。詔曰:「朕既不明,不能遠德,使方外之國或不寧息。夫四荒之外不安其生,封圻之內勤勞不處,二者之咎,皆自於朕之德薄而不能達遠也。間者累年,匈奴並暴邊境,多殺吏民,邊臣兵吏又不能諭其內志,以重吾不德。夫久結難連兵,中外之國將何以自寧?今朕夙興夜寐,勤勞天下,憂苦萬民,為之惻怛不安,未嘗一日忘於心,故遣使者冠蓋相望,結徹於道,以諭朕志於單于。今單于反古之道,計社稷之安,便萬民之利,新與朕俱棄細過,偕之大道,結兄弟之義,以全天下元元之民。和親以定,始於今年。」

2年、雍の棫陽宮に行幸した。
6月、代王の劉参が薨じた。匈奴が和親した。

先謙はいう。匈奴伝に「歳ごとに辺に入り、殺略するもの甚だ多し。雲中・遼東、最も甚し。帝 之を患ひ、乃ち使者をやって和親した」とある。

詔して曰く、「朕 既に不明にして、徳を遠くすること能はず、方外の国をして或るものは寧息せしめず。夫れ四荒の外 其の生を安ぜず、

師古はいう。戎狄は荒服なので、四荒という。荒々しく忽ち去来して、常無きことから、こういう。

圻の内に封ぜども勤労は處あらず。

師古はいう。「圻」とは「畿」である。「王畿千里」という。処あらずとは、安居できる場所が得られないこと。

二者の咎、皆 自ら朕の德 薄くして達遠する能はざればなり。

ぼくは思う。国外を匈奴が荒らし、国内で安住できない、という2つの罪を自責する。なんだか、表裏一体で1つの問題のような気もするけど。

間者(さきごろ)年を累ね、匈奴 並びて邊境に暴たり、多く吏民を殺す。邊の臣・兵吏 又 其の内志を諭す能はず、以て吾の不德を重くす。夫れ久しく難を結びて兵を連ね、中外の国 將た何を以て自寧するや。今 朕 夙に夜寐に興き、天下を労ふことに勤め、萬民を憂苦し、之の為に惻怛して不安なり。未だ嘗て一日として心に忘れず、故に使者を遣りて冠蓋して相ひ望み、結びて道に徹(わだち)し、以て朕の志を單于に諭す。

銭大昭はいう。「徹」は「轍」の古字であると。使者の馬車が何度も往復して、道にわだちをつくり、単于と粘り強く交渉した。

今 單于 反古の道、社稷の安を計り、萬民の利を便し、新たに朕と俱に細過を棄て、之を大道に偕し、兄弟の義を結ぶ。以て天下の元元の民を全うせんとす。

師古はいう。元元の民とは、善意の民のこと。

和親 定まるを以て、今年に始まる」と。

後三年~

三年春二月,行幸代。
四年夏四月丙寅晦,日有蝕之。五月,赦天下。免官奴婢為庶人。行幸雍。
五年春正月,行幸隴西。三月,行幸雍。秋七月,行幸代。

3年、代国にゆく。4年、雍県にゆく。5年、隴西にゆき、雍県・代国にゆく。

先謙が五行志に基づき、いくらか災異を記す。
ぼくは思う。『通鑑』でも記事が過疎になる、治世の後半。おそらく、これまでの治世の続きなんだろう。農業を興すためには、時間がかかる。かといって、頻繁に新しい政策が出るわけでない。漢文帝は、ちょいちょい、もとの封国の代にゆく。統治が落ち着いたのだろう。


六年冬,匈奴三萬騎入上郡,三萬騎入雲中。以中大夫令免為車騎將軍,屯飛狐;故楚相蘇意為將軍,屯句注;將軍張武屯北地;河內太守周亞夫為將軍,次細柳;宗正劉禮為將軍,次霸上;祝茲侯徐厲為將軍,次棘門,以備胡。
夏四月,大旱,蝗。令諸侯無人貢,弛山澤,減諸服御,損郎吏員,發倉庾以振民,民得賣爵。

6年冬、匈奴の3万騎が上郡に入り、3万騎は雲中に入った。 中大夫の令免を以て車騎將軍と為し、飛狐に屯せしむ。故の楚相たる蘇意を將軍と為し、句注に屯せしむ。將軍の張武をして北地に屯せしむ。河内太守の周亜夫を將軍として、細柳に次がしむ。宗正の劉禮を將軍と為し、霸上に次がしむ。祝茲侯の徐厲を將軍と為し、棘門に次がしめ、以て胡に備ふ。

『通鑑』では、漢文帝がそれぞれの陣をねぎらい、周亜夫の統制がとれているので、感心する逸話が挿入される。
『漢書補注』は、将軍の人名、駐屯した地名の注釈をする。190頁。

夏4月、大いに旱・蝗あり。諸侯をして入貢を無からしむ。山澤を弛め(立入と資源の取得を許可し)、

師古はいう。立入を解きて禁ぜす、衆庶とともに其の利を同じくす。ぼくは思う。「民と利を争う」は、君主に対する究極の悪口。逆に「民と利を同じくす」は、君主に対する最高の賛辞となる。

諸々の服御を減じ、郎吏の員を損ず。倉庾を發して以て民に振ふ。

応劭はいう。水漕の倉を「庾」という。胡公は「邑に在るを『倉』と曰ひ、野に在るを『庾』と曰ふ」とする。

民 爵を賣ることを得たり。

『史記索隠』にひく崔浩はいう。富める人は爵を欲し、貧しき人は銭を欲す。ゆえに売買を聴(ゆる)すと。


七年夏,六月己亥,帝崩於未央宮。遺詔曰(中略)。
令中尉亞夫為車騎將軍,屬國悍為將屯將軍,郎中令張武為復士將軍,發近縣卒萬六千人,發內史卒萬五千人,臧郭、穿、復土屬將軍武。賜諸侯王以下至孝悌、力田金、錢、帛各有數。乙巳,葬霸陵。

七年夏,六月己亥,帝崩於未央宮。遺詔曰(中略)。
中尉の周亜夫を車騎將軍とした。属国の悍を將屯將軍とした。

師古はいう。將屯將軍は、屯軍を典り、以て非常に備ふ。
『漢書補注』によると「悍」とは、祝茲侯の徐悍のこと。

郎中令の張武を復士將軍とした。

復士將軍とは、土を出して棺を下ろし、埋め戻すのを司る。

近県の卒を1万6千人発して、内史の卒1万5千人を発して、漢文帝を埋葬した。諸侯王より以下、孝悌・力田に至るまで、金・銭・帛をそれぞれ賜った。6月乙巳、霸陵に葬る。

師古はいう。崩じてから葬るまで7日。


漢文帝の遺詔と、班固による賛は、『通鑑』にほぼ全文収録されており、そちらで読んだので、はぶきます。140626
『資治通鑑』巻15 漢文帝の下を抄訳 (前169-155)

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