01) 王莽の漢王朝簒奪
鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』講談社より。
自分で史料を読む基礎をつくるため、通史をまとめ。
漢を守ろうとした王政君
居延漢簡は、庶民の女性の名を記す。1字も2字もある。
細君と王昭君にならぶ「君」の女性が、王政君だ。
4姉妹で、君侠、政君、君力、君弟。君の字を共有した。
おいで26歳下の王莽は、あざなを巨君という。君がおなじ。
王政君は、18歳で後宮に入る。元帝、成帝、哀帝、平帝に仕えた。
84歳まで、60年以上。王政君は漢を守り、王莽と対立。
孺子の時代は、70歳を過ぎても「朕」と自称して詔勅した。
外戚が、大司馬・大将軍となり、尚書を兼ねて独裁。霍光より。
王政君は、平帝が死んだ後5年、四時月令を発布。
四時月令は、敦煌の泥壁から発見された。天候不順への対応。
「仮皇帝」へ王莽の策略
前1年、哀帝が25歳で死に、王莽が復帰。大司馬・領尚書事。
王莽は、漢室を安んじる「安漢公」。平帝の元始元年は、西暦1年。
王莽は、伊尹と周公にたとえた。伊尹は料理の味で、殷湯王を説得。
宰衡として、摂行した。摂行は、3年や7年が期限。
王莽は「為皇帝」という緯書をつかった。王政君は反発。
「皇帝になれ」でなく「皇帝のためにせよ」と読み、王莽は仮皇帝に。
臣下には、摂皇帝と呼ばせた。後6年を、居摂元年と改元。
皇帝がいないので、王政君が皇帝に代わって詔書した。
前漢から新へ禅譲という茶番劇
『周礼』とシン緯で理論武装した。後9年、孺子嬰は北面した。
王莽は、はじめて禅譲の形式で、王朝を交替させた。
「仮」「真」は、皇帝につける形容詞でない。
前漢初、蕭何は(右真)丞相で、曹参は仮左丞相だった。
秦代は左が上位で、漢代は右が上位。蕭何が執政し、曹参は名ばかり。
王莽が仮皇帝のとき、孺子が真皇帝。禅譲は、仮から真への昇進。
平帝が死んだあと、真皇帝の孺子と、仮皇帝の王莽が、主官と副官みたいにならんだ。相対化とは、うまいなあ。
後6年に安衆侯の劉崇が、南陽の宛城で、百余人を殺した。
後7年に東郡太守の翟義が、劉信を天子に立て、10万規模で叛乱。
翟義は、王莽が平帝を毒殺したとした。
伝国の璽、正統な後継者の証
劉邦は秦王嬰から、始皇帝の璽印を受けた。
璽印は、孺子嬰が即位していなから、長安の長楽宮にある。
皇帝は7つの璽。官吏は印や章、皇帝や皇后は璽という。
皇帝行璽は政務、皇帝之璽は諸侯、皇帝信璽は軍事につかい、
天子行璽は外交、天子之璽は祭祀、天子信璽は軍事につかう。
王政君は、伝国の璽を投げつけた。王莽が得た。
王莽は、王政君を漢から切り離したい。新室分母太皇太后と送る。
元帝の陵墓と、王政君の陵墓のあいだに、ミゾを掘った。
始皇帝・武帝と王莽の接点_316
2001年に長安城に西北から、王莽が封禅を予定した文書を発掘。
劉秀が封禅した文書と、王莽の封禅する文書は、共通点がおおい。
光武帝が封禅したあと、唐代まで、封禅は行われなかった。
つぎ、新室の政治・経済・外交につづきます。