表紙 > 読書録 > 鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』より、王莽と光武帝を抜粋

05) 光武帝劉秀の治世

鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』講談社より。
自分で史料を読む基礎をつくるため、通史をまとめ。

漢王室の中興

光武帝の治世は33年(25-57年)、統一は36年。
離反した周辺諸国が和親したのは、54年。戦乱のなかの皇帝だ。

安定した56年、はじめて東方に巡狩。始皇帝と武帝にならう。
封禅して、中元と改元。天下統一は、56年と考えるべき
正月。東海、沛国、楚国、済南、淮陽、趙国の諸王が来朝。
6月。長安で劉邦に参る。洛陽の南北に礼制を。図讖を宣布。

30年、田租を軽減して、30分の1税にもどす。
31年、郡兵を廃止。
34年、黄河の堤防を修復。
39年、全国の耕田面積と、人口を調査。地図を作成。
40年、前漢の五チュウ銭を復活。

奴婢の解放、行財政の大改革

光武帝は、奴婢を頻繁に解放した。
莽新末、略奪されて奴隷になった人を、救済するため。 莽新のときは、奴隷の市が立って、売買されていた。

30年、莽新のときの奴婢を解放。旧王朝の法律を取り消した。
31年に青州と徐州で、奴隷を解放。

赤眉の母体となった地域。王莽は、青州と徐州の統治に失敗して、王朝を終わらしてしまった。光武帝は、気をつけた。

35年、奴婢を殺しても、良民を殺したのと同じ罪にした。
奴婢が良民を傷つけても、すぐに死刑になるのをやめた。

36年、隴蜀の奴婢を解放。
37年と38年、益州と涼州で、奴婢を解放。

辺境、被征服地、対抗勢力が拠点とした地域。
鶴間氏の概説だけじゃ分からないが、複雑な意味がありそう。
どう誤っても、西欧近代的な「人権解放」じゃなかろうし。笑


前漢は、帝室と国家の財政を分けていた。光武帝は、財政を統合。
帝室と宮廷の財政をつかさどる少府を、雑用に降格。

霊帝のフトコロと、後漢のフトコロは、イコールなのか?


30年、複雑な官僚機構をカンタンにした。人数を削減。前漢には、
内外の文武官僚は7567人、支える属吏は145419人いた。
10の郡国と、478の県(30%)を廃止。
廃止された県とは、中央権力が支えきれない都市。
北方に、戦国以後おかれた県が減る木村正雄『中国古代帝国の形成』
郡都尉(太守を牽制)を廃止。30年、郡の兵士を解散。
内地を軍縮し、辺境を強化した。関都尉(内地の関所)も廃止。

後漢王朝の都、洛陽遷都

25年10月、洛陽に都した。190年2月まで、首都。
杜篤『論都』で長安の防衛をいい、洛陽に反対。
班固『両都賦』で、洛陽に賛成。内外にカベがない王者の都。

長安の上林宛で、異民族に軍事力を示すため、訓練をした。
洛陽は、車輪のスポークである。云々。

金印を賜う、光武帝側の事情

漢代の金印は、官位と爵位の最上位。王朝への功労をほめる。
丞相、太尉、大司空、将軍のクラスは、金印紫綬。
官印は任期のみ。爵と印は個人の功労なので、返還しない。

諸侯王は、金璽緑綬。列侯と関内侯は、金印紫綬。
諸侯王や列侯はカメ。外国の王は、ラクダ、羊、ヘビ。

奴国は、漢に服属した国王ではない外臣だ。
数年に一回、参列すればいい。漢の国王は、匈奴や倭だけ。

光武帝は、なかなか統一ができなかった。
劉氏以外の王を封じた、呂后の位牌を除いた。
遠方の倭に「漢」の印をくばるのは、光武帝自身の正統化でもある。

光武帝の死と、明帝の即位

光武帝が死ぬと、その日のうちに劉荘が皇帝になった。
前漢は、つぎの皇帝が立つまで、数日の空白があった。
だが中興した王朝では、1日の空白も許さない。中断は許さない。

鶴間氏の本をまとめ終わって

光武帝は再興したのでなく、中興した。
漢室にとって、たとえば前漢の宣帝と、同じ役割である。
前漢が滅びていないとは、詭弁や強弁のたぐいだと思うが、
不自然なところに、本質を見つけるヒントがあるはず。

「中興」をカギにして、新末後漢初を見ていきたい。
更始帝を擁護した、劉知幾『史通』も読まねばね。100810