04) 王莽政権の滅亡
鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』講談社より。
自分で史料を読む基礎をつくるため、通史をまとめ。
女性の叛乱指導者、呂母の乱
琅邪郡の呂母と樊崇。泰山郡の劉盆子。西の長安を目指した。
南陽劉氏の豪族叛乱勢力と拮抗しながら、山東の農民が新を壊す。
城陽景王への信仰がある。斉王・劉肥の子。耕田の歌をつくった。
「苗(劉氏)が育てば、雑草(外戚の呂氏)を抜け」
外戚の王莽に反感をもった人が、歌を連想し、城陽景王を祭った。
赤眉の乱の勃発
更始帝への服属をやめて、25年に長安入城。
樊崇は、劉盆子を皇帝にした。リーダーシップの取れない皇帝。
23年、莽新が滅亡。25年、建世を年号とする。
劉玄の更始、劉盆子の建世という年号は、漢室を中興するのでなく、再興・復興する心意気が伺える。すでに漢室は、いちど滅びたという認識だ。
(っていうか、実際にそうなんだけど。状況を素直に見れば)
対する光武帝は、漢室が滅びていないと「強弁」したのだと思う。建武という年号は「とにかく頑張ります」という意味でしかなく、前漢を再興するか、中興するか、意見を表明していない。
統一後に決めた号ですが、「光武帝」の「光」は、中興の意味。「漢」は一度も滅びていないとする。これが鶴間氏の示す認識。
さて、
袁術・袁紹・曹操・劉備・孫権の態度のちがいを知るとき、参考になりそう。曹操が、風前の灯・献帝を拾ったのは、光武帝に似てる?
誰が見ても、献帝はボロボロなのに、曹操は「献帝は正統!漢室は健在!」と押し切った。後漢の人には、けっきょくこれがウケた。
26年に赤眉は、長安城を焼いた。
呂后の死体を陵辱したのは、城陽景王の思いを晴らしたから。
単なる性欲ゆえの行動ならば、あえて老年で死んだ、いちばん経年している呂后の死体でなくていい。保存状態が、たまたま良かったって、微妙、、
上将軍・隗囂の反王莽叛乱
隴蜀とは、天水地方。河西回廊と蜀の桟道に接する。
不安定な長安を避け、交通を遮断できる。秦帝国が興った土地。
隗囂は、後漢への入朝をこばんだ。公孫述と手を結んだ。
16姓31将が、隗囂に集まった。復漢と改元。
『後漢書』は漢復とするが、居延漢簡に「復漢」ある。後者が正解。
光武帝の中興という発想は、他にない。新末に独創的だったのか。もしくは、統一後に、あとづけで説明されたフィクションなのか。ぼくは後者だと思う。「先祖の祭祀を絶やさない」という儒教の教義があるし。
戦争の途中で、「建武」という、あまり内容のない年号を使っておいて、良かったですね。ツブシが利きました。
蜀王・公孫述の自立
公孫述は、漢中で莽新に挙兵した、宗成を成都にむかえた。
宗成が略奪したので、真の君主がくるまで、防衛を宣言。
しかし24年に蜀王となり、25年に皇帝を称す。国号は成家。
成都の家の意。西晋末の成漢は漢を回顧するが、成家は漢と別の国。
仲は次男だ。唯一絶対であるべき皇帝が、なぜ2番手に甘んじる?
漢の末っ子が季漢。もとは漢の次男として仲漢だった? 違うな。笑
公孫述のように、地名の頭文字でもなさそうだし。
北は褒谷を遮断し、東は巴郡の関を閉ざせば、独立できる。
劉邦は漢中にいて、蜀には見向きもせず。
前316年に戦国秦が蜀王を滅ぼしてから、三百数十年ぶりの割拠。
博覧の文人揚雄の『蜀王本紀』
成都の王邑は、成帝、哀帝、平帝、王莽に仕えた。
同郷の司馬相如にならって賦をつくった。
蜀王の歴史を書き、漢の本紀に対抗。動物に託して伝説を紹介。
地理的に離れており、劉邦すら欲しがらず。
この地で、劉備が漢室の復興を叫ぶ。「ぎゃく」な感じがする。
公孫述は12年間続いた。隗囂の11年にならぶ。
後漢帝国の領域に接する、地域政権だった。
曹操が赤壁のあと、天下統一は完了したと宣言。これは負け惜しみでなく、光武帝に照らしても、いちおう成り立つ表現だったのでは?
33年、隗囂が死んだ。子の隗純がくだる。
36年、呉漢が成都を攻撃し、公孫述が戦死した。
南陽の劉氏の挙兵
南陽盆地の南端から、後漢の功臣の大半がでた。28将のうち13人。
「南郷は帝郷、近親おおし」劉秀は南陽によって天下を制した。
皇族は、諸侯王として地方に散り、列侯として県に分散。
南陽には、秦末に罪人が流された。大量の強制移民。前漢に開発。
宛城の孔氏は、秦が魏を滅ぼしたとき南陽に移住。製鉄して富豪。
漢墓にある南陽画像石は、荒々しいタッチで、豊かさと躍動を伝える。
光武帝の即位、告天の儀礼
劉秀の本家の劉玄が天子となった。ひ弱だった。
民衆のエネルギーが強い。強い指導力より、血筋の権威でまとまった。
劉玄は、孺子嬰を殺した。血筋の権威だけなら、孺子嬰が勝つのに。
鶴間氏は『後漢書』に沿って説明したが、『後漢書』のトリックだと思う。舂陵の劉氏を高めるため、あたかも血筋だけでまとめたと描くトリック。劉玄だって、それなりの指導力を発揮したはずだ。劉縯を殺したり!
更始帝をささえた将軍は、山東人。宛城に都した。
洛陽に移る。王莽の首を、宛城にかけた。
長安への「遷都」は、賛否両論があっただろうなあ。
王莽から光武帝へ、直接に政権が移行しない。
もし光武帝が王莽を殺していたら、「前漢を滅ぼした王莽を、私が殺した」と宣言したはず。前漢の滅亡を、容認したはず。後漢が天下統一したあとなら、前漢が滅びてようが滅びてまいが、どちらに解釈したところで、実社会に影響はない。
だが王莽は、更始帝が倒した。光武帝は、更始帝を裏切った。後ろめたい。更始帝の手柄を宣伝するのは、後漢にとって、都合が悪い。だから「前漢は滅びていない。王莽?誰だっけそれ? 王莽を倒した更始帝?ますます誰だかワカラナーイ!」ととぼけた。とか?
おなじことが、後漢末に起きる。実質的に後漢を滅ぼしたのは、董卓。その「逆賊」董卓を殺したのは呂布であり、関東諸侯の誰でもない。関東諸侯は、後漢が滅びたといえず(呂布の手柄を強調するだけ)後漢が滅びてないというアヤフヤな態度だった。だから190年代は、混乱した?
呂布が、誇りたっぷりに、袁術と袁紹を訪問した。ムゲに扱われた。第三者から見れば、呂布は正義の味方だ。董卓を倒したのだから。呂布の自己認識は、間違っていない。しかし袁術と袁紹は、自分の政治的立場を保つため、呂布を退けた。打倒董卓というフラッグを、呂布に奪われてから「皇帝は誰か」という問題が迷走する。
「受天之命、皇帝寿昌」と記す伝国の璽は、
元后、王莽、更始帝、劉盆子、劉秀にわたる。
更始帝のとき、すでに南陽劉氏の政権は誕生した。劉盆子が妨げた。
光武帝が即位したとき、告天の儀礼をした。天に告げた。
第一の敵は王莽。第二の敵は農民反乱。銅馬、赤眉、青トクだ。
次回、最終回。光武帝劉秀の治世へつづく。