表紙 > 読書録 > 鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』より、王莽と光武帝を抜粋

02) 新の政治・経済・外交

鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』講談社より。
自分で史料を読む基礎をつくるため、通史をまとめ。

周の政治制度への復古を求めて

王莽は、秦漢を否定した。265年前に滅びた周にもどす。 『周官』『礼記』を理想にした。五等爵、四等級の封地、周の官制。
禹貢の九州、周文王の千八百諸侯、二都。地名の変更。
ただし王莽の故郷・魏郡元城県は、魏城元城だ。ほぼ変更なし

火徳にかわる土徳。祖先・黄帝の色。数字は5を尊重。
官吏の印は「之」を入れて、ムリに5文字に。

優しさと残忍さ_319

王莽の改革は、敦煌まで正確に通知された。木簡にある。
『易経』をもじり、団結すれば劉氏を断ち切るというナゾを発行。

王莽は、子を容赦なく切る残忍さがある。
王宇は、平帝の母・衛姫を長安に入れろといい、毒死した。
周公でも叛かれたら、兄の管叔鮮と、弟の蔡叔度を誅殺したと説明。
始皇帝、高祖劉邦、前漢武帝とは、ちがうタイプの皇帝。

理想主義的な経済政策

平均主義を求めた。哀帝の限田制をつぎ、大土地所有を制限。
『詩経』の王土を根拠に、王田=皇帝の土地をひろげた。
『孟子』の井田制に拠る。国家主導の経済政策は、前漢の延長。
六カンで国家統制。塩酒鉄、山川の資源、貨幣の鋳造、市場の売買。
武帝の塩鉄酒専売、均輸平準法をふまえ、『周礼』に拠る。

王莽のアナクロニズムは、批判にあたらないかも。
鶴間氏の評価では、前漢からさらに進んで、王莽は経済を統制しようとした。むき出しの統制だと、反発が面倒。だから、古典で補強したとか。
以下、雑談。
ケイタイの料金は、わざと複雑に書く。ろくに読まない(読めない)消費者が、損をする仕組みだ。王莽の政策も、おなじではないか?
吉本佳生『スタバではグランデを買え!』はいう。高くても買う人には、高く売る。安くないと買わない人には、安く売る。これを価格差別という。名作DVDが、短期間で値下がりするのは、買わせる相手が違うからだと。
複雑なケイタイの料金説明を読まない人は、高くても買う人である。
王莽もおなじ。政策に複雑な根拠をつける。ろくに典拠を検証できない人は、土地所有を制限されてしまう仕組みである
ケイタイの料金表が分かりにくくても「ケイタイ屋は、国語力がない」と批判できない。王莽も同じで、理想主義を批判するのは、的はずれだ。王莽が失敗した真因は、中央集権のやり過ぎである。アナクロニズムでない。


権威の確認・象徴としての貨幣改革

王莽は7年間に、4回の貨幣改革をした。
戦国の刀銭、布銭を復刻。実価値のない高額なものを発行。
地位をあげるたび、権威を確認するかのように、新貨幣を発行。
前漢の貨幣・五チュウ銭を取りこみつつ、反発。政権奪取に似てる。

民間には流通せず、大小の2種類が使われただけ。
後14年、貨布と貨泉にしぼった。北九州、岡山、近畿で発掘。
中国王朝の権威を、政治的に象徴するツールとして伝来。

儒教主義的、華夷秩序の始まり_323

方格規矩鏡の銘文で分かる。中華思想の色彩が強かった。
四夷の王を、侯にした。漢の印綬を回収した。単于の旧印を破壊!

王莽の新王朝の評価

揚雄は、周を滅ぼした秦をけなし、周を理想とした新をほめる。
『漢書』の王莽伝は、本紀のような体裁で、三巻にわたる。
班固はいう。秦と新は道がちがうが、帰するところは同じ。亡国者。
始皇帝は儒書を焼いた。王莽は、儒書で、悪行を飾ったと。紫色。

『後漢書』は王莽に厳しいが、儒教国家を急速に実現。後漢に影響。
周辺民族との国際関係を、厳格に秩序づけたのは、後世の規範。

王莽より前は、華夷思想を実現した王朝はなかったのかも。

前漢の中期以降、儒教官学化を、はじめて試みた王朝。特異でない。

莽新は、奇異で浮きまくった王朝ではない。前漢の延長であり、後漢の前身である鶴間氏の意見を、ぼくは支持します。
皇帝の姓が、途中で王莽だけ違うから、浮いて見られる。正史のラインナップが、王莽に対して厳しいから、浮いて見られる。だが、浮いてない!


黄河決壊、墳墓を守るために民衆を犠牲に

後11年、黄河が魏郡で決壊。春秋から600年ぶりに、河道が変更。
以後1000年、黄河は濮陽の東を流れることになる。
王莽は、魏郡にある祖先の墳墓を守るため、東郡と平原を見殺した。

1000年に一回の洪水ならば、対応が難しいのは、仕方ない。王莽が滅びたのは、これこそ「天のしわざ」かも知れません。
ぼくは思う。文筆家が治水という大きな問題を、ただの墳墓の議論に、矮小化&象徴化した。なんてどうでしょう?
このときの議論の内容が、327ページにある。あとで見るべし。


周辺諸民族の離反、叛乱と政権崩壊

「新室に苦しみ、劉氏を待望。王莽は残虐、豪族が立つ」は常套句。
秦末に例えて表現しただけで、新末の実態ではない

なるほど。王莽の史料を読むたび、この指摘を思い出そう。

実態は、急激な経済政策と、屈辱的な外交政策である。
北辺で戦争するため、五原郡に屯田したが、并州と平州の民は逃げた。
後14年、辺境で大飢饉。辺境の兵20万を圧迫。代郡で盗賊。

後17年、臨淮の瓜田儀、琅邪の呂母、新市の王匡と王鳳がたつ。
敦煌の木簡に、後17年の冊書がある。命令に遅れたら、処罰せよと。

次回、王朝の興亡を伝える史書。漢室について。