01) 6世祖の袁良は、王莽に協力
仲書,袁術本紀,第一.
袁術の王朝の歴史書の、注釈と翻訳です。
こんな歴史書は、ありません。ぼくの偽作です。
ぼくは袁術が好きなので、書きました。
好きな理由は、袁術が『後漢書』と『三国志』で、いずれもバカを見ているから。袁術は後漢に逆らい、未来の三国の君主と敵対した。どちらの正史でも、良く書いてもらえませんでした。
袁術は、「春秋の筆法」のサジ加減で、評価が180度変わる。これを面白く思い、袁術に興味を持ちました。好きになりました。
ここに、袁術が立ち上げた「仲」王朝の歴史書を、始めます。
「この歴史書は、『春秋』のように本文が少ないのだなあ」とか、
「どこかに原書があり、それを日本人向けに翻訳したものだ」
みたいにイメージして頂ければ、幸せです。
太祖真皇帝,汝南汝陽人也.
仲王朝の太祖、真皇帝は、汝南郡の汝陽県の人である。
皇帝を名乗って、廟号と諡号がないのは、王莽。理由は『漢書』に間借りしているから。いま袁術に専用の歴史書を作るのだから、冗談で贈ってみた。
「太祖」は、初代皇帝を表す廟号。
「真」は、『逸周書』謚法解によると「肇敏行成曰真」。はやく始めて、ことが達成することを「真」という。袁術は、後漢の衰退を感じとり、いち早く即位に成功した。この業績を称えて、「真」を贈ります。
姓袁,諱術,字公路.
真皇帝は、姓を袁、諱を術といい、あざなを公路という。
『字典』がいう。
「術」には5つの意味がある。わざ、仕事につかう方法。すべ、長年で培ったやり方。みち、村のなかの通路、物事の道筋。述べる、伝えられたとおり説明する。学ぶ、ならう。
あざなと比べると「みち」の意味だと分かる。
『字典』がいう。「術」と類義する文字は「策」だ。物事を進めるため、考え出すはかりごと。
袁術と孫策との麗しい交流は、今回の「袁術本紀」執筆動機のひとつ。孫策は、袁術を裏切りません。詳しくは、後ほど書きます。
『集解』がひく胡三省がいう。「術」の音は「遂」だ。
これに従えば「エンジュツ」でなく、「エンスイ」さんである。
袁姓,出陳氏.陳氏者,虞舜之後.虞舜土徳,漢氏火徳.以土承火,得應運之次.
袁術が属した袁氏は、陳氏から生じた。陳氏というのは、古代の聖王、帝舜の後裔である。舜は土徳で、劉氏の漢は、火徳である。土徳は火徳をつぐものだ。ゆえに袁術は、天運に応じて、漢室をついだのだ。
袁氏の出自は、裴松之がひく『典略』に基づく。
漢の劉氏は、火徳の堯の子孫を唱える。五行の相生説に則り、袁術がつぎの王朝を立てることは、正しいのだ。
袁術は、相克説でなく、相生説を採用した。放伐でなく、禅譲という形式で、袁術が即位したことが分かる。
曹丕は、袁術をマネて後漢から禅譲を受けた。曹丕に都合が悪いから、袁術の踏んだ手続きが、史書から抹殺されただけだ。形勢を無視して、袁術がいきなりムチャな即位をしたように、書かれてしまった。
今回の偽作では、袁術の禅譲プロセスを復元したい。
6世の祖父、袁良が、禅譲の発明に知恵を貸す
六世祖良、習孟氏易.漢平帝時,舉明經,為太子舍人.
袁術から6代前の祖父を、袁良という。袁良は『孟子易』を学んだ。
前漢の末期、袁氏は『易経』の研究により、世に出た。
前漢の平帝のとき、袁良は「明経」の科目で優れていたため、推挙され、太子舎人となった。
續漢志がいう。太子舎人は、秩が比200石で定員なし。
与議定,策立王莽.拠易論符命,奏新代漢旨,莽嘉之.
袁良は、王莽の禅譲プロジェクトに参加した。袁良は、専攻した『易経』を根拠に予言書を論じ、王莽の新が、漢に代わるべきだと奏上した。王莽は、袁良の論文を、ほめた。
平帝の朝廷は、王莽の独裁。平帝に仕えた袁良は、王莽に評価されていたはずだ。王莽が即位するとき、袁良の学識が役立ったはず。
『後漢書』は、王莽を敵視する。王莽に協力した経歴は、抹殺したい黒歴史になる。だから袁良と王莽の交流が、省かれているのではないか。
莽破,従光武.建武初,至成武令.
王莽がコケると、袁良は光武帝に従った。袁良は、建武のはじめ、成武県令となった。
4世の祖父、袁安が三公になる
良孫安,太祖之高祖也.安少傳良學.
袁良の孫は、袁安である。袁安は、袁術の高祖父である。
袁安は幼いときから、家に伝わる学問を学んだ。
父の名は不詳。袁安は、祖父の袁良から学んだんでしょう。
永平十三年,楚王英謀為逆.英辞所連及繫者数千人,明帝怒甚.明年,三府挙安能理劇,拜楚郡太守.安到郡,不入府,先往案獄,理其無明験者,條上出之.帝感悟,即報許,得出者四百餘家.
西暦70年、楚王の劉英が謀反した。劉英の口から名前の出た、数千人が連座した。明帝の怒りは、ひどかった。
楚国は徐州。東南は、独立勢力が生まれやすい土地柄。前漢で、呉楚七国の乱。いま後漢初に、楚王の劉英が謀反。のちに袁術が建国。孫権が建国。
翌71年、三公府は、袁安を楚郡太守に任命した。袁安なら、真相を明らかにしてくれると期待されたのだ。袁安は楚郡に赴任すると、役所には入らず、先に監獄に行った。
袁安は監獄で取り調べ、謀反の証拠がない人を釈放するよう、明帝に申請した。明帝は感心し、袁安の申請を認めた。袁安のおかげで、400余家が冤罪から逃れた。
而後,楚郡慕袁氏.後年援太祖,悦食仲粟.
この事件の結果、楚郡の人は、袁氏を慕った。この地域の人は、のちに袁術の即位を支援した。悦んで袁術の仲王朝の国民となった。
「食仲粟」は、『史記』伯夷列伝より。「義不食周粟」を参考にしました。「周の穀物を食べてたまるか」と餓死したのが、伯夷。でも旧楚郡の民たちは、勧んで袁術に食わしてもらいました、と。
元和二年,章帝詔百官,議還北単于生口邪.独安曰「還之足示中國優貸,而使邊人得安,誠便.」帝竟従安議.
85年、章帝は百官を集めて、検討した。テーマは、匈奴の北単于に、捕虜を返すべきか。
袁安だけが、返すべきだと言った。袁安がいう。「捕虜を返し、中華のふところの深さを示しましょう。そうすれば、辺境の異民族は、帰順するでしょう」
章帝は、袁安の意見を認めた。
明年,為司空.章和元年,為司徒.
86年、袁安は司空になった。87年、司徒になった。
次回、周瑜の祖先が登場します。袁安と、接点があるのです。