表紙 > 漢文和訳 > 袁術の王朝の歴史書を、偽作する(その1-袁術の祖先)

04) 袁成、袁逢、袁隗の3兄弟

袁術と袁紹が登場。2人の血縁関係が、誰にも分かりません。

袁紹の父親か、袁成

湯長子成,成字文開,太祖伯父.壯健有部分,貴戚權豪,自大將軍梁冀以下皆與結好,言無不從.故京師為作諺曰:「事不諧,問文開.」
袁湯の長男は、袁成である。

『後漢書』は、何も記さない。『三国志』袁紹伝がひく『英雄記』から、あざなとエピソードを持ってきました。

あざなは文開。袁成は、袁術の伯父だ。
袁成は壮健で、分限があった。外戚や権門は、大将軍の梁冀をはじめ、みな袁成と仲がよかった。

袁逢と梁冀の密着を、さらに裏づけてくれました。

袁成が言ったことは、すべて叶えられた。ゆえに洛陽では、ことわざがあった。「困ったら、袁成さんにお伺いを立てろ」と。

為左中郎將,早卒.弟逢之庶子紹,出後成為子。
袁成は左中郎将になったが、早くに死んだ。

ヤクザと喧嘩して、死んだんじゃないかなあ。
いままで袁術のために、袁氏をヨイショしてきました。でも袁成は、おだてなくていい。なぜなら、袁術のライバルの家だからです。

袁逢の庶子である袁紹は、家を出て、袁成を継いだ。

袁紹の血筋は、裴松之がサジを投げている。いまは王沈『魏書』に従います。『英雄記』によると袁紹は、この無頼漢・袁成の実子である。


袁術の父、袁逢

湯次子逢、字周陽,太祖之父。兄成早卒,無子,湯嗣。以累世三公子,寬厚篤信,著稱于時。
袁湯の次子は、袁湯である。あざなは周陽。袁術の父である。
兄の袁成が早くに死に、子がいなかったから、袁湯が継いだ。三公を重ねた家柄の子だから、寬厚で篤信なキャラだった。世間で時めいた。

靈帝立,逢乙太僕豫議,增封三百戶。
霊帝が即位するとき、袁逢は太僕として、皇帝の人選に参加した。功績により、霊帝から300戸を増やされた。

范曄の『後漢書』より。
父の袁湯と同じく、皇帝の即位に関わった。霊帝を選んだのは、宦官である。中常侍の袁赦とのつながりが、きな臭い。


太尉時,見匈奴中郎将臧旻。逢問其西域諸國土地、風俗、人物、種數。旻具答言西域本三十六國,後分為五十五,稍散至百餘國;其國大小,道裏近遠,人數多少,風俗燥濕,山川、草木、鳥獸、異物名種,不與中國同者,悉口陳其狀,手畫地形。逢奇其才,歎息言:「雖班固作西域傳,何以加此?」
袁逢が太尉のとき、匈奴中郎将の臧旻と会った。

呂布伝の裴注、謝承『後漢書』より。

袁逢は、西域について質問した。臧旻は詳しく答えた。
「西域はもとは36国でした。分裂して、55国となり、いま100以上に分裂しました。面積や距離、人口、風俗などは、みな中国とは違います」
臧旻は手で地図を描いた。袁逢は、臧旻に感心して言った。
「班固は『西域伝』を書いたが、臧旻の報告で充分だ」

班固は『漢書』の著者。
この話は、臧旻を褒めただけ、、じゃありません。笑
5代前の袁安は、西北の異民族対策で、正しい意見を述べて、三公になった。袁逢が、西方に目配りができるのは、袁氏ならでは。
後漢は、西北の異民族の対策が、国の運命を左右する王朝だ。


後為司空,卒于執金吾。朝廷以逢嘗為三老,特優禮之,賜以珠畫特詔秘器,飯含珠玉二十六品,使五官中郎將持節奉策,贈以車騎將軍印綬,加號特進,諡曰宣文侯。子基嗣,位至太僕。
のちに袁逢は、司空になった。執金吾のとき、死んだ。朝廷は、袁逢が三公経験者だから、特別の礼物を賜った。
車騎将軍の印綬を贈り、「宣文侯」と贈り名した。

袁氏で初の、将軍号です。臧覇への質問といい、袁逢は異民族平定に関心をもった、武人肌だったかも知れない。
国内では「相」で、国外では『将』となる。
後漢で理想とされた生き方。曹操も憧れたらしい。袁逢の列伝を膨らますため、橋玄の列伝から、表現を借りてきてもいいかも知れない。笑

子の袁基が嗣ぎ、太僕になった。

袁基は、袁術の兄です。


董卓に殺された叔父、袁隗

逢弟隗,字次陽。少曆顯官,先逢為三公。時中党侍袁赦,隗之宗也,用事於中。以逢、隗世宰相家,惟崇以為外援。故袁氏貴寵于世,富奢甚,不與它公族同。獻帝初,隗為太傅。
袁逢の弟は袁隗で、あざなは次陽という。若くして高官を経験した。兄の袁逢より先に、三公になった。

いまウィキペディアを覗いたら、こうあった。
政治家としての資質は、弟の袁隗のほうが高かったようだ。袁逢よりも先に三公となった。袁隗は、あくまで袁逢が袁氏の長と考えていたようで、多くの気を配っていた。
…うーん、、政治家としての資質は、保留です。

ときの中常侍の袁赦は、袁隗の宗(同じ祖先から出た一族)である。袁赦は禁中で羽振りを利かせた。
袁逢と袁隗は、世々宰相の家だから、尊崇して宮中の外から、後ろ盾とした。ゆえに袁氏は、貴く寵愛を受けた家で、富み奢ることが甚だしく、他の三公の家よりも、更にハデだった。
献帝の初め(189年)袁隗は太傅となった。

いちど、中断します

袁隗まできた時点で、袁紹と袁術の時代と重なります。主役登場!
袁氏の先祖語りが終わりましたので、ちょっと中断。

まとめますと、、
王莽に『孟子易』の学識を見出された袁良は、
孫の袁安に学問を継承した。
袁安は、西北の政策に優れ、外戚の竇憲と対抗した。

ここで袁氏は、2つに分かれた。
 1.清流を堅持して、外戚を批判し、党錮へ。(今回は省略)
 2.外戚の梁氏や宦官と結びつき、三公を連発。(袁湯の系統)
袁術は後者の出身だ。

袁術を褒めるなら、袁湯たちの「濁流」を褒めなければいけない。
前にも書きましたが、『漢書』霍光伝がお手本になると思ってます。


袁術本人について史料を集めてから、また出直します。
明日から、GWの7連休です。やっと、この企みが本番。100427