表紙 > 漢文和訳 > 袁術の王朝の歴史書を、偽作する(その1-袁術の祖先)

03) 極悪の外戚と癒着し、出世

三公の乱立っぷりを、お楽しみください。

2人目の三公、袁敞

京弟敞,字叔平,太祖之叔曽祖.少傳易經教授,以父任為太子舍人. 和帝時,歷位將軍、大夫、侍中,出為東郡太守,徵拜太僕、光祿勳.元初三年,為司空.
袁京の弟は、袁敞である。あざなは叔平といい、袁術の叔曽祖父(曽祖父の弟)である。
若くして『易経』を学び、父の官位のおかげで太子舎人となった。
和帝のとき袁敞は、将軍、大夫、侍中を歴任した。東郡太守となった。

東郡の郡治は、濮陽。のちの曹操の根拠地。
袁術が陳宮を誘い、東郡を手に入れようとします。あとで書きます。

袁敞は中央に召されて、太僕、光禄勲を拝した。
安帝の元初三年(116年)司空となった。

袁敞の業績の記録は乏しい。だが「一族から、コンスタントに三公が出た」を記すことが重要なのです。だから載せました。


明年,坐子盱漏洩省中語,策免.敞廉勁不阿權貴,失鄧氏旨,遂自殺.
翌年に袁敞は、子の袁盱に連座して、司空を罷免された。子の袁盱が、禁中の言葉を外部に漏らした疑いがあったからだ。
袁敞は剛直で、権貴におもねらなかった。袁敞は、鄧太后(和帝の外戚)の不興を買って自殺した。

これで終わったら、袁氏に傷がつきます。終わらせない。


是先,鄧太后詔馳騎以廃免,而不得時.甚哀敞死.朝廷赦敞罪,以三公禮葬之,復其官.
袁敞が死ぬ前、鄧太后は、袁敞の罷免を取り消すため、騎馬を飛ばさせた。しかし間に合わず、袁敞の自殺を、止めることができなかった。鄧太后は、袁敞の死をひどく哀しんだ。

タッチの差で袁敞が死ぬくだり、ぼくの創作。死ぬという結末を、いじらなければ、許容範囲かと。笑
また『後漢書』では、鄧太后が、袁敞を悼んだと記さない。しかし個人の感情なんて、だれも知らんさ。鄧太后は名君だと言われている。反省くらいしたと、ぼくは思う。笑
馬を飛ばした文章は、袁盱の共犯者が、死刑を救われるシーンから拝借。

朝廷は、袁敞の罪を赦した。袁敞を三公の礼で葬り、官位を戻した。

『後漢書』で袁敞は、罪を「薄」くされた。「赦」されていない。ニュアンスがちょっと違うけど、ウソではないはず。
三公の礼で葬られたとは、『後漢書』にあること。


大伯父の袁彭は、南陽太守

京子彭,字伯楚,太祖大伯父.少傳父業,歴廣漢、南陽太守.
袁京の子は、袁彭である。

記す順序が分かりにくいが、、袁彭は、前段の袁敞のおいです。

袁彭は、あざなを伯楚といい、袁術の大伯父である。袁彭は幼くして、父の袁京から、学問をついだ。
袁彭は、広漢太守、南陽太守を歴任した。

南陽郡は、袁術がのちに本拠地とします!
南陽郡での逸話がほしいなあ。『後漢書』にない。よし、創ろう。笑


南陽地肥饒,人吏富實,掾史家貲多至千萬,皆鮮車怒馬,以財貨自達.彭悉簡其豐贍者遣還之,更選孤貧志行之人以處曹任.於是爭賕抑絕,文職修理.所舉吏多至九卿,二千石,時以為知人.
南陽は肥沃な土地で、役人が富貴だった。

税収が多いから、だけじゃない。後漢で流行した、賄賂である。

役人の家には銭が千万とあり、みな派手な馬車を乗り回した。財産を元手に、出世をたくらんだ。
袁彭は、富貴な役人を、家に帰した。袁彭は、貧しいが志と行動に優れた人を、配下に任用した。
袁彭のおかげで、役人の金儲けは已み、職務は整った。袁彭が推挙した人は、多くが九卿や郡太守となった。袁彭は、人物を見る目があった。

さあて、ウソをつきました。『後漢書』第五倫伝のパクりです。第五倫が蜀郡でやったことを、スライドさせました。
偽作にあたり、地名と人名を変えた。蜀郡も南陽郡も、土地が肥えているのは共通です。問題なくハマる。
なぜ第五倫伝からパクッたか。下の段落で分かります。


順帝初,為光禒勳.行至清,為吏麤袍糲食,終於議郎.尚書胡廣等追表其有清絜之美,比貢禹、第五倫.議追贈司空.
順帝のはじめ(127年)袁彭は光禄勲になった。

これは、偽作ではありません。袁彭伝に戻っています。

行いはとても清く、官吏となってからは粗末な上着で、玄米を食べた。袁彭は、議郎を務めているとき、死んだ。
尚書の胡広らは上表して、袁彭の清潔の美徳を述べた。「袁彭は、貢禹と第五倫に似ている」と上表された。

貢禹は、前漢で清貧だった人。第五輪は、後漢の人。
上で、第五倫の列伝を借りたのは、この文章に拠ります。

袁彭に、司空を贈ることが議論された。

『後漢書』では「未蒙顯贈,當時皆嗟歎之.」と続く。つまり袁彭は、高い官位をもらえなかった。でもぼくは、差し替えました。
司空になったのは、前出の第五倫です。第五倫にならい、袁彭を司空にしようか「議」したと記すだけなら、ウソにはならんだろう。笑


桓帝を即位させた三公、袁術の祖父、袁湯

彭弟湯,字仲河,太祖祖父.少傳家學,諸儒稱其節,多曆顯位。
袁彭の弟の袁湯は、あざなを仲河という。袁術の祖父である。
若くして家学を身に着けた。儒者たちは、袁湯の節度を称えた。袁湯は、高位の職を歴任した。

順帝世,大將軍梁商,自以戚屬居大位,毎存謙柔,虚己進賢.湯為尚書令,帝委重焉.
順帝のとき、大将軍の梁商は、外戚だから高位についた。だが梁商はいつも謙虚で、賢者を推挙した。袁湯は尚書令となり、順帝から重要な仕事を任された。

梁商伝をパクっています。梁商は外戚だが、『後漢書』の評価が高い。袁湯は梁商の派閥です。
梁商が袁湯を推薦したとは、直接は書いていない。だが、袁湯がこのとき尚書令だったのは、『後漢書』から読めること。じゃあ梁商も、少なからず、袁湯を認めたはず。ウソにならん。


或譖商及湯,中常侍曹騰云,欲徵諸王子,圖議廢立,請收商等案罪.帝以親商等,不用.
ある人が、梁商や袁湯と、中常侍の曹騰らを誹った。

梁商伝より。原文では、袁湯は誹られていない。袁湯でなく、孟賁がそしられた。ちなみに曹騰は、曹操の祖父である宦官。
いま袁湯を、そしらせた目的は2つ。まず袁湯を、政権の主催者だと脚色するため。つぎに、袁術と曹操の祖父同士を出会わせるため。

ある人が、誹ることには、
「梁商たちは王子を集め、皇帝を交代させようとしています。梁商たちを、罰してください」と。
順帝は、梁商たちに親しんでおり、耳を貸さなかった。

この時期の記録は、他にもある。
『後漢書』王堂伝がいう。袁湯が尚書令のとき、大将軍の梁商とともに、汝南太守の王堂を招いた。王堂は断った。袁湯は王堂をにくんだ。
恰好悪いから、本文には書けないけど、、
袁湯が梁商の一派だと見なされていた証拠でしょう。


桓帝初為司空,以豫議定策封安國亭侯,食邑五百戶。累遷司徒、太尉,以災異策免。卒,諡曰康侯。
桓帝の初め(150年)袁湯は、司空となった。
桓帝を即位させる謀議に加わったから、安国亭侯に封じられた。

桓帝を選んだのは、梁冀だ。袁湯が、梁冀と結んだ証拠だ。
外戚として皇帝を廃立したという意味で、霍光と梁冀の仕事は、同じである。『漢書』霍光伝の表現を使いまわし、梁冀を美化したい。自動的に、梁冀に属した袁湯や袁逢を美化できる。宿題です。

食邑は500戸。司徒、大尉を経験した。

この時期の記録は、他にもある。
『後漢書』崔駰がいう。袁湯は太尉府に、崔駰の孫・崔寔を招いた。崔寔は、袁湯の誘いを断った。大将軍の梁冀も、崔寔を招いた。同じく、崔駰は断った。あとで力ずくで、梁冀は崔寔を従えた。
崔寔から見れば、袁湯も梁冀も、同じ濁流だ。恰好悪くて、「袁術本紀」の本文に書けないよ!

災異があり、袁湯は罷免された。死に、康侯とおくり名された。

『風俗通』によれば、袁湯の享年は86歳、子は12人いた。
袁術と袁紹を産んだのは、濁流の血筋だ。濁流だから、出世した。
もちろん袁氏にも、清流を保った人がいる。袁彭の子孫である。党錮で虐げられた。今回は『後漢書』から引きません。


次から、袁術の父親の世代に移ります。次回、最終回。