02) 北匈奴の外交、袁安の卓見
袁安が三公として、執政します
章和二年,和帝即位,竇太后臨朝.
章和二年(88年)章帝が死に、和帝が即位した。
皇太后の竇氏が執政した。
外戚の竇憲と、袁安が戦う
后兄車騎將軍憲,為得功専擅,北擊匈奴.司徒安,上書諫曰「以為匈奴不犯邊塞,而無故勞師遠涉,損費國用」
書連上輒寢.
皇太后の兄で、車騎将軍の竇憲は、手柄をつくって政治を専断するため、北に匈奴を攻撃した。
竇憲は、自分でわざわざ問題を作り、これ見よがしに自分で解決し、「手柄」にするつもりだ。竇憲がチョッカイを出した相手が、匈奴だった。
司徒の袁安は、上書して、皇太后を諌めた。
「匈奴は、国境を侵しておりません。匈奴に遠征する理由がありません。竇憲将軍は、国費をムダにしています」
袁安は何度も上書したが、皇太后にスルーされた。
だから、袁術さまの本紀に、載せています。笑
又憲弟等,各専威權,安乃劾之.竇氏大恨安,而安素行高,正色自若.
竇憲の弟たちも、好き勝手をした。袁安は、竇憲の弟たちを弾劾した。竇氏の兄弟は、袁安を大いに恨んだ。だが袁安は後ろ暗いことがないので、まるで平気な顔をしていた。
『後漢書』は、袁氏をほめるバイアスがかかっていないはず。それなのに、袁安はカッコいい。よほどの偉人だったんだろう。
永元元年,憲破北單于,塞北地空.憲日矜己功,欲結恩北虜.乃上立降者為北單于.安懼憲計遂行,乃上封事曰「憲計,違三世之規.不可聴.」不納.
永元元年(89年)竇憲は北単于を破った。北単于は逃亡し、跡地に住む人がいなくなった。竇憲は日に日に、おのれの功績を誇った。竇憲は匈奴に、恩を押し売りしようと考えた。
竇憲は、皇太后に申請した。
「オレに降伏してきた人を、新しい北単于に立てたい」と。
袁安は、竇憲の計画が、実現するのを懼れた。袁安は、皇太后に封書を送って、反対した。
「竇憲の計画は、光武帝、明帝、章帝の3代の外交方針から、ズレています。お認めになっては、いけません」
竇憲を採用したら、どうなるか。ふたたび匈奴が団結する。後漢vs匈奴の構図が明確になり、軍事費がたっぷり必要になる。
ところが皇太后は、袁安を却下した。
憲竟立匈奴降者為單于.後遂反叛,卒如安策.
ついに竇憲は、匈奴の降伏者を、北単于にした。のちに匈奴は、余計に叛乱した。異民族統治は、袁安が心配したとおり失敗した。
なぜか。簒奪を狙ったからかも知れない。劉氏と違うことをやり、成功すれば、竇氏の王朝を始められる。劉氏と同じことをやり、成功しても、王朝を乗っ取れない。
ともあれ、後漢の失政は、仲王朝の肥やしとなる。めでたし。笑
袁安が可愛がったのは、周瑜の祖先
是時,具草安舉奏者、周栄也.周栄字平孫,廬江舒人也.挙明経,辟司徒袁安府.
このとき、袁安が皇太后に提出した文面をつくったのは、周栄である。周栄は、あざなを平孫という。廬江郡の舒県の人だ。明経の科目で推挙され、袁安の司徒府に雇われた。
この周栄さん、誰の祖先でしょう? ヒントは、出身地。
竇氏客深惡栄,脅榮曰:「子為袁公腹心之謀,排奏竇氏,竇氏悍士刺客滿城中,謹備之矣!」
外戚・竇憲の食客は、周栄をひどく悪んだ。
食客は、周栄を脅した。
「周栄さん。あなたは袁公の、腹心之謀だ。袁公のため、竇氏を排斥する上奏をつくった。竇氏の刺客は、洛陽城中にあふれている。周栄さんは、せいぜい暗殺されぬよう、気をつけなさい」
栄曰:「栄江淮孤生,今得備宰士.縱為竇氏所害,誠所甘心.到五世孫,袁公之僕.」
周栄は言った。
「私は長江や淮水の田舎で、生まれた。だが現在、袁安さまのおかげで、三公の役人になれた。もし竇氏に殺害されても、本望である。5代先の孫に到るまで、わが周氏は、袁安さまの下僕なのだ」
栄謂如之,瑜五世祖.
こんな発言をした周栄は、周瑜から5世の祖父である。
袁安の死と、曽祖父の袁京
四年春,安薨,朝廷痛惜焉.
後數月,竇氏敗,帝始親萬機,乃除安子京賞為郎.
永元四年(92年)春、袁安は薨じた。朝廷は、袁安の死を、痛ましく惜しんだ。
袁安が死んでから数ヶ月、外戚の竇氏は敗北した。和帝は親政を始めた。袁安の功績を賞して、袁安の子・袁京を郎に任命した。
京字仲譽,太祖曽祖.習孟氏易,作難記三十萬言.初拜郎中,稍遷侍中,出為蜀郡太守.
袁京は、あざなを仲誉という。袁術の曽祖父だ。
袁京は、家学である『孟氏易』を習い、『難記』という30万言の本を書いた。はじめ郎中となり、侍中に遷った。洛陽から出て、蜀郡太守となった。
次回、袁術の祖父の代まできます。