全章
開閉
- 二世皇帝二年(前208年)
冬10月・11月
冬,十月,泗川監平將兵圍沛公於豐,沛公出與戰,破之,令雍齒守豐。十一月,沛公引兵之薛。泗川守壯兵敗於薛,走至戚,沛公左司馬得殺之。
周章出關,止屯曹陽,二月餘,章邯追敗之。復走澠池,十餘日,章邯擊,大破之。周文自刎,軍遂不戰。冬10月、泗川監(官名)の平(人名)が、兵をひきいて沛公を豊で囲む。沛公は出て戦い、これを破る。雍歯に豊を守らせる。
11月、沛公が兵を引いて薛にゆく。泗川守(官名)の壯(人名)の兵は薛で敗れ、逃げて戚に至る。沛公の左司馬(官名)の得(人名)がこれを殺した。
「得」が人名でないことは、佐竹靖彦『劉邦』で読んだばかり。周章は関を出て、止まり曹陽(曹陽亭は弘農の東13里)に屯する。2月餘、章邯は追ってこれを破る。復た澠池に走げ、10餘日、章邯が撃って大いに破る。周文は自刎し、ついに軍は戦わず。
吳叔圍滎陽,李由為三川守,守滎陽,叔弗能下。楚將軍田臧等相與謀曰:「周章軍已破矣,秦兵旦暮至。我圍滎陽城弗能下,秦兵至,必大敗,不如少遺兵守滎陽,悉精兵迎秦軍。今假王驕,不知兵權,不足與計事,恐敗。」因相與矯王令以誅吳叔,獻其首於陳王。陳王使使賜田臧楚令尹印,使為上將。吳叔は滎陽を囲むが、李由は三川守として滎陽を守り、呉叔は下せない。
秦は周を滅して三川郡をおき、治所は洛陽とすべきである。李由はけだし(軍事上のニーズで)栄陽で楚を不正だのだろう。宋伯によると、郡治を洛陽から栄陽に移した。楚の將軍の田臧らが(呉叔と)ともに謀る。「周章の軍はすでに破れ、秦兵は旦暮に(すぐに)至る。われらが栄陽城を下せなければ、秦兵が至って大敗するはず。少しの兵で栄陽を守り、精兵すべてで秦軍を迎えつべき。もし假王(呉叔のこと;陳勝が呉叔を王に假した)が驕り、兵権を知らねば、ともに事を計るに足らず。敗れんことを恐る」と。田臧は、王令(陳勝の命令)に託して呉叔を誅し、その首を陳王に献じた。陳王は使者をやり、田臧に楚令尹の印をわたし、上將にした。
田臧乃使諸將李歸等守滎陽,自以精兵西迎秦軍於敖倉,與戰。田臧死,軍破。章邯進兵擊李歸等滎陽下,破之,李歸等死。陽城人鄧說將兵居郯,章邯別將擊破之。銍人伍逢將兵居許,章邯擊破之。兩軍皆散,走陳,陳王誅鄧說。田臧は諸将の李帰らに栄陽を守らせ(栄陽の包囲を任せて)、自ら精兵を西に動かして敖倉で秦軍を迎えて戦う。田臧は(敖倉で)死し、軍は敗れた。章邯は兵を進めて栄陽のもとで李帰らを撃ち、破って李帰らを殺す。陽城のひと鄧説は兵をひきいて郯(東海郡の郯県ではなく河南の「郟」)におり、章邯の別将が撃破した。銍のひと伍逢は兵をひきいて許におり、章邯が撃破する。両軍とも散り、陳王のところに逃げた。陳王は鄧説を誅した。
二世數誚讓李斯:「居三公位,如何令盜如此!」李斯恐懼,重爵祿,不知所出,乃阿二世意,以書對曰:「夫賢主者,必能行督責之術者也。故申子曰『有天下而不恣睢,命之曰以天下為桎梏』者,無他焉,不能督責,而顧以其身勞於天下之民,若堯、禹然,故謂之桎梏也。夫不能修申、韓之明術,行督責之道,專以天下自適也;而徒務苦形勞神,以身徇百姓,則是黔首之役,非畜天下者也,何足貴哉!故明主能行督責之術以獨斷於上,則權不在臣下,然後能滅仁義之塗,絕諫說之辯,犖然行恣睢之心,而莫之敢逆。如此,群臣、百姓救過不給,何變之敢圖!」二世說,於是行督責益嚴,稅民深者為明吏,殺人眾者為忠臣,刑者相半於道,而死人日成積於市,秦民益駭懼思亂。二世はしばしば李斯を誚讓し、「三公の位に居るのに、どうして盗賊(反乱勢力)をのさばらせるか」という。李斯は恐懼し、爵祿を重ね、やりようがなくて二世の意におもねった。文書で答え、
「賢主は、必ず能く督責の術(罪に適切な罰を与える)を行ふ。ゆえに申子は『天下を有ちて恣睢(ほしいままに)せざるは、これに命じて曰く天下を以て桎梏(手かせ足かせ)と為す』という。罪に罰を与えられないのは、その身を顧みて天下の民をねぎらうからです。尭舜も同じであって、ゆえに桎梏と言うのです(罪人を憐れむことがシガラミとなり罰を与えられない)。そもそも申・韓の明術を修められず(罪人を憐れむというコツを知らず)、督責の道を行えば、専ら天下を自分勝手にしているだけ。いたずらに百姓を苦しめては、天下を養えない。ゆえに明主で能く督責の術を行うものは、……」
当初の申不害を、李斯がどのように曲げているのか(曲げてないのか)よく分からなかった。二世は悦び、督責を行うことが益々厳しく、民への課税が深いものを明吏とし、人を殺すのが多いものを忠臣とした。刑は道に相い半ばし(ろくに取り調べずに)死刑にしたから死体が市に積まれ、秦民は駭懼して反乱勢力に期待した。
趙李良已定常山,還報趙王。趙王復使良略太原。至石邑,秦兵塞井陘,未能前。秦將詐為二世書以招良。良得書未信,還之邯鄲,益請兵。未至,道逢趙王姊出飲,從百餘騎,良望見,以為王,伏謁道旁。王姊醉,不知其將,使騎謝李良。李良素貴,起,慚其從官。從官有一人曰:「天下畔秦,能者先立。且趙王素出將軍下,今女兒乃不為將軍下車,請追殺之!」李良已得秦書,固欲反趙,未決,因此怒,遣人追殺王姊,因將其兵襲邯鄲。邯鄲不知,竟殺趙王、邵騷。趙人多為張耳、陳餘耳目者,以故二人獨得脫。趙の李良はすでに常山を定め(昨年、趙王は李良に常山の攻略を命じた)還って趙王に報告した。趙王は復た李良をつかわし太原を略させる。石邑(常山郡)に至り、秦兵が井陘を塞ぎ、進めない。秦將は詐って二世の書を作り、李良を招く。李良は書を得ても信ぜず、書を邯鄲に送って、増兵を請う。増兵が至る前に、道で趙王の姉が出でて酒を飲むのに遭遇した。百餘騎を従え、李良が望見して(趙王の姉でなく)趙王がきたと思い、道旁に伏謁した。趙王の姉は酔い、李良のことを知らず、騎兵をやって李良に謝させた。李良はもとより貴く(出身階層が高く)起って、その従官(趙王の姉がやった騎兵)に慚じた。從官のひとりが、
「天下が秦に反し、能力があるものは先に立つ。趙王は将軍よりも(出身階層が)下なのに、いま女児(趙王の姉)が将軍のために下車しない。女児を追って殺したい」
李良はすでに秦から(勧誘の)書を受けており、趙に反したいが、まだ決められなかった。趙王の姉の件で怒り、人をやって趙王の姉を殺し、もと趙軍の兵をつかって邯鄲を襲った。邯鄲は知らず、ついに趙王・邵騷を殺した。趙ひとは多くが張耳・陳餘の耳目になっており、ゆえに2人だけは脱出できた。
陳人秦嘉、符離人硃雞石等起兵,圍東海守於郯。陳王聞之,使武平君畔為將軍,監郯下軍。秦嘉不受命,自立為大司馬,惡屬武平君,告軍吏曰:「武平君年少,不知兵事,勿聽!」因矯以王命殺武平君畔。
二世益遣長史司馬欣、董翳佐章邯擊盜。章邯已破伍逢,擊陳柱國房君,殺之。又進擊陳西張賀軍。陳王出監戰。張賀死。陳のひと秦嘉・符離のひと硃雞石らは起兵し、東海守を郯で囲む。陳王はこれを聞き、武平君の畔將軍を将軍として、郯のもとの下軍を監させた(秦嘉を陳勝の軍に取り込もうとした)。秦嘉は命を受けず、自ら立ちて大司馬となり、武平君に属することを悪み、軍吏に告げた。「武平君は年が少く、兵事を知らない。聽くなかれ」と。王命を矯めて、武平君の畔を殺した。
二世は長史の司馬欣・董翳をつかわし、章邯をたすけて盗賊を撃たせる。章邯はすでに伍逢を破り、陳の柱國である房君を殺した。また陳の西に進撃して、張賀の軍を撃つ。陳王は出でて戰を監するが、張賀は死んだ。
12月、陳王の死
臘月,陳王之汝陰,還,至下城父,其御莊賈殺陳王以降。初,陳涉既為王,其故人皆往依之。妻之父亦往焉,陳王以眾賓待之,長揖不拜。妻之父怒曰:「怙亂僭號,而傲長者,不能久矣!」不辭而去。陳王跪謝,遂不為顧。客出入愈益發舒,言陳王故情。或說陳王曰:「客愚無知,顓妄言,輕威。」陳王斬之。諸故人皆自引去,由是無親陳王者。陳王以硃防為中正,胡武為司過,主司群臣。諸將徇地至,令之不是,輒系而罪之。以苛察為忠,其所不善者,弗下吏,輒自治之。諸將以其故不親附,此其所以敗也。臘月(12月)、陳王が汝陰にゆき、還って下城父(沛郡)に至る。下城父の御である荘賈は陳王を殺して降った。
はじめ陳勝が王となったとき、旧知のひとは皆が頼った。妻の父もまた頼りにゆく。陳王は衆賓(たくさんの客のひとり)として待遇し、長揖して拜せず。妻の父が怒った。「乱をたのみに僭号して、長者を傲る。長続きしないぞ」と。辞せずに去る。陳王が跪謝するが、ついに顧みず。客の出入はますます盛んになり、陳王の昔のことを話した。あるひとが陳王にいう。
「客は愚かで無知で、みだりに妄言する。(過去を暴露されたら)陳王の威が軽くなる」
陳王はこれを斬った。旧知の人々は、みな自ら去った。これにより陳王に親しい者がいなくなった。陳王は、硃防を中正に、胡武を司過として、群臣を司らせた。諸將が地を徇って至ると、これを是とせず(戦果が充分でないと見なして)つないで罪とした。苛察を以て忠となし、その(陳王から見て)善しとせざる所の者は、吏に下さず、輒ち自ら之を治む。諸將は親附しなくなり、ゆえに陳王は敗れた。
陳王故涓人將軍呂臣為蒼頭軍,起新陽,攻陳,下之,殺莊賈,復以陳為楚。葬陳王於碭,謚曰隱王。
初,陳王令銍人宋留將兵定南陽,入武關。留已徇南陽,聞陳王死,南陽復為秦,宋留以軍降,二世車裂留以徇。陳王のもと涓人將軍の呂臣は蒼頭軍をつくり、新陽で起って陳を攻めて下す。
魏には蒼頭20万がいた。けだし、魏国の呼称を引きずってる。軍の士卒は、青い頭巾をかぶったから、こう呼ぶ。赤眉が赤いマユで、敵味方を区別したのと同じ。莊賈を殺し、復た陳を「楚」に改めた。陳王を碭に葬り、『隠王』と諡した。
はじめは銍人のひと宋留に兵をひきいて南陽を定めさせ、武關から入る。宋留はすでに南陽を徇へるが、陳王の死を聞き、南陽は秦にもどり、宋留は軍ごと降る。二世は宋留を車裂にして徇(したが)へた。
ぼくは思う。南陽は、あとで劉邦が遠回りして関中を突くとき、経過ポイントとして活用する。
春正月
魏周市將兵略地豐、沛,使人招雍齒。雍齒雅不欲屬沛公,即以豐降魏。沛公攻之,不克。
趙張耳、陳餘收其散兵,得數萬人,擊李良。良敗,走歸章邯。客有說耳、餘曰:「兩君羈旅,而欲附趙,難可獨立。立趙後,輔以誼,可就功。」乃求得趙歇。春,正月,耳、餘立歇為趙王,居信都。魏の周市は、豊・沛を攻略する。人をやって雍歯を招く。雍歯は、雅(もとより)沛公に属したくないので、豊城ごと魏に降った。沛公が攻めたが、克たず。
豊・沛という本拠地を失った劉邦。大切な事件です。趙の張耳・陳餘は、散兵をおさめ、數萬人を得て、李良を撃つ。李良は敗れ、走げて章邯に帰す。客が張耳・陳余に説くには、「両君は羈旅し、趙に付せんと欲するも、独りで立つの難しい。趙王の子孫を立てて、彼を輔佐すれば功は成るだろう」と。探し求めて、趙歇を得た。春正月、張耳・陳余は、趙歇を立てて趙王とし、信都に居する。
項羽は信都を改めて襄国とした。漢は信都県にもどし、信都国の属させた。
東陽寧君、秦嘉聞陳王軍敗,乃立景駒為楚王,引兵之方與,欲擊秦軍定陶下;使公孫慶使齊,欲與之並力俱進。齊王曰:「陳王戰敗,不知其死生,楚安得不請而立王!」公孫慶曰:「齊不請楚而立王,楚何故請齊而立王!且楚首事,當令於天下。」田儋殺公孫慶。
秦左、右校復攻陳,下之。呂將軍走,徼兵復聚,與番盜黥布相遇,攻擊秦左、右校,破之青波,復以陳為楚。
黥布者,六人也,姓英氏,坐法黥,以刑徒論輸驪山。驪山之徒數十萬人,布皆與其徒長豪傑交通,乃率其曹耦,亡之江中為群盜。番陽令吳芮,甚得江湖間心,號曰番君。布往見之,其眾已數千人。番君乃以女妻之,使將其兵擊秦。東陽寧君・秦嘉は、
秦嘉の出身地は、東陽ではなく淩のひとである。東陽寧君と、秦嘉とは別のひとである。陳王の軍が敗れたと聞き、景駒を立てて楚王とし、兵を引いて方與にゆき、秦軍を定陶のもとで撃ちたい。公孫慶を斉への使者にたて、力をあわせて倶に進みたい。
斉王「陳王は敗れ、生死がわからない。楚はどうして請わずに(斉に断りもなく)王を立てたか」
公孫慶「斉は、楚に請わず王を立てた。楚も同じことをしただけ。しかも楚は、真っ先に(秦との戦いを)始めた。天下に令する資格がある」と。斉王の田儋は、公孫慶を殺した。
秦の左・右の校は、復た陳を攻めて下した。呂將軍はにげて、また兵をあつめた。番(豫章の鄱陽)の盗賊である黥布と相ひ遇し、秦の左・右の校を攻め、青波で破った。陳を「楚」に復した。
呂将軍ってだれ? 佐竹氏なら、劉邦の妻の一族に結びつけるだろう。呂不韋と呂雉をつなぐぐらいだから。
英布は江中で盗賊をしており、番陽令の呉芮は、娘を英布にめとらす。だから英布は、番の盗賊といわれる。
黥布は、六のひと。姓は英氏だが、法に坐して黥され、刑徒として驪山に論輸された。驪山の徒は数十萬人おり、英布はここで徒長・豪傑と交通し、彼らをひきいた。江中で群盜となる。番陽令の吳芮は、甚だ江湖の間の心を得て、「番君」と号す。鯨布は呉芮にあうとき、数千人をひきいる。呉芮は娘をめとらせ、鯨布の兵をつかって秦を撃つのである。
2月・3月
楚王景駒在留,沛公往從之。張良亦聚少年百餘人,欲往從景駒,道遇沛公,遂屬焉。沛公拜良為廄將。良數以太公兵法說沛公,沛公善之,常用其策。良為他人言,皆不省。良曰:「沛公殆天授!」故遂從不去。沛公與良俱見景駒,欲請兵以攻豐。時章邯司馬屍二將兵北定楚地,屠相,至碭。東陽寧君、沛公引兵西,戰蕭西,不利,還,收兵聚留。二月,攻碭,三日,拔之。收碭兵得六千人,與故合九千人。三月,攻下邑,拔之。還擊豐,不下。楚王の景駒は留(楚国)にいて、沛公はいって楚王に従う。張良もまた少年百餘人をあつめ、景駒のもとに行って従おうとする。道で遇に沛公にあい、張良は、景駒でなく劉邦に属した。
沛公は張良を廄將とする。張良は、太公の兵法を説き、劉邦は常に用いた。張良が他人のために発言しても、だれも顧みなかった。張良「沛公は天の授くるに殆し」と。ゆえについに去らず。
故についに沛公のもとを去らない。沛公と張良は、ともに景駒に会い、「豊を攻めるから兵をくれ」という。ときに章邯の司馬である仁(人名)が北して楚地を定め、相県(沛郡の治所)を屠って、碭に至る。東陽寧君・沛公は西にゆき、蕭県(沛郡)の西で戦うが、利あらず還る。兵を留県に集める。
2月(東陽寧君・沛公は)碭を攻め、3日で抜く。碭の兵を収めて6千人を得て、あわせて9千となる。3月、下邑(梁国)を攻めて抜く。還りて豐を撃つも下さず。
廣陵人召平為陳王徇廣陵,未下。聞陳王敗走,章邯且至,乃渡江,矯陳王令,拜項梁為楚上柱國,曰:「江東已定,急引兵西擊秦!」梁乃以八千人渡江而西。聞陳嬰已下東陽,使使欲與連和俱西。陳嬰者,故東陽令史,居縣中,素信謹,稱為長者。東陽少年殺其令,相聚得二萬人,欲立嬰為王。嬰母謂嬰曰:「自我為汝家婦,未嘗聞汝先世之有貴者。今暴得大名,不祥;不如有所屬。事成,猶得封侯;事敗,易以亡,非世所指名也。」嬰乃不敢為王,謂其軍吏曰:「項氏世世將家,有名於楚,今欲舉大事,將非其人不可。我倚名族,亡秦必矣!」其眾從之,乃以兵屬梁。廣陵のひと召平は、陳王のために廣陵を徇へるも、未だ下さず。陳王が敗走して、章邯が且に至らんとすると聞き、乃ち渡江して、陳王の令を矯め、項梁に楚の上柱国を拝せしめ、「江東は已に定まれり。急ぎ兵を引き西して秦を撃て」という。項梁は8千人で渡江して西にゆく。陳嬰が已に東陽を下したと聞き、使者をやり連和して倶に西したい。
陳嬰とは、もと東陽の令史で、県中に居り、もとより信謹、長者たりと称せらる。東陽の少年が県令を殺し、2万人を集め、陳嬰を王に立てたい。陳嬰の母が陳嬰にいう。
「私はあなたの家(陳氏)にとつぎ、かつてあなたの祖先に貴いものがあると聞いたことがない。にわかに名声を得ても、不祥です。誰かに所属するのがいい。事が成れば(属した主君が勝てば)封侯も得られる。事が敗れれば(自分が主君ではないから)逃亡しやすく、世からも名指しされない」と。陳嬰は敢えて王とならず、軍吏にいう。「項氏は世世の將家(将軍の家柄)である。楚で名がある。いま大事を挙げるなら、項氏でなければダメである。私は名族を頼る。きっと秦を亡ぼしてくれる」と。少年たちは従い、兵をつれて項梁に属した。
英布既破秦軍,引兵而東;聞項梁西渡淮,布與蒲將軍皆以其兵屬焉。項梁眾凡六七萬人,軍下邳。景駒、秦嘉軍彭城東,欲以距梁。梁謂軍吏曰:「陳王先首事,戰不利,未聞所在。今秦嘉倍陳王而立景駒,逆無道!」乃進兵擊秦嘉,秦嘉軍敗走。追之,至胡陵,嘉還戰。一日,嘉死,軍降;景駒走死梁地。英布はすでに秦軍を破り、兵をひき東す。項梁が西して淮水を渡ると聞き、英布は蒲將軍とともに、兵をひきいて項梁に属す。項梁の衆は、6-7万人で下邳(泗水県)に軍す。景駒・秦嘉は、彭城の東に軍して、項梁を距がんとす。項梁は郡吏にいう。「陳王はさきに事業を始めたが、戦っても利あらず、所在を聞かない。いま秦嘉は陳王に背いて、景駒を立てた。大逆・無道である」 項梁は兵を進めて秦嘉を撃破し、秦嘉の軍は敗走す。これを追うと、胡陵(湖陸;山陽郡に至り、秦嘉が還りて戦う。一日にして秦嘉は死し軍は降る。景駒はにげて梁地で死す。
梁已並秦嘉軍,軍胡陵,將引軍而西。章邯軍至栗,項梁使別將硃雞石、餘樊君與戰。餘樊君死,硃雞石軍敗,亡走胡陵。梁乃引兵入薛,誅朱雞石。
沛公從騎百餘往見梁,梁與沛公卒五千人,五大夫將十人。沛公還,引兵攻豐,拔之。雍齒奔魏。
項梁使項羽別攻襄城,襄城堅守不下;已拔,皆坑之,還報。項梁はすでに秦嘉の軍をあわせ、胡陵に軍し、西しようとす。章邯の軍が栗(沛郡)に至り、項梁は別將の硃雞石・餘樊君をつかわし、章邯と戦わせる。餘樊君は死し、硃雞石の軍は敗れ、胡陵に亡走す。項梁は兵を引き薛に入り、朱雞石を誅す。
沛公は騎百餘を従え、項梁に会いにゆく。項梁は沛公に卒5千人・五大夫の將10人を与える。沛公は還り、豊を攻めて抜く。(豊を守る)雍歯が魏に奔る。
項梁は項羽に、別に襄城(頴川郡)を攻めさせ、襄城は堅守して下らず。抜くと、みな坑し、還って(項羽が項梁に戦果を)報じた。
6月
梁聞陳王定死,召諸別將會薛計事,沛公亦往焉。居鄛人范增,年七十,素居家,好奇計,往說項梁曰:「陳勝敗,固當。夫秦滅六國,楚最無罪。自懷王入秦不反,楚人憐之至今。故楚南公曰:『楚雖三戶,亡秦必楚。』今陳勝首事,不立楚後而自立,其勢不長。今君起江東,楚蜂起之將皆爭附君者,以君世世楚將,為能復立楚之後也。」於是項梁然其言,乃求得楚懷王孫心於民間,為人牧羊。
夏,六月,立以為楚懷王,從民望也。陳嬰為上柱國,封五縣,與懷王都盱眙。項梁自號為武信君。項梁は陳王が確かに死んだことを聞き、諸々の別將を召して薛に会して計事する(戦略を話しあう)。沛公もまたゆく。居鄛のひと范増は、年70、素より家に居り、奇計を好む。いきて項梁に説く。
「陳勝が敗れたのは確かだ。秦が6国を滅ぼしたとき、楚が最も罪がなかった。みずから懷王が秦に入って反せず、楚人は憐れんで今に至る。ゆえに楚南公(南方に住む道士)は、『楚 三戸なると雖も(3戸まで人口が減っても)秦を亡ぼすは必ず楚なり』といった。いま陳勝がことを始め、楚王の子孫を立てずに自立した。その勢力は長ぜず。いま項梁は江東に起ち、楚で蜂起する將は、みな争って項梁に付く。君が世世の楚將であり、楚王の子孫を復た立てられるからだ」と。ここにおいて項梁は范増に同意して、楚懐王の孫である心を民間から見出した。心は牧羊である。
夏6月、心を立てて楚懷王として、民望に従う(懐王という祖父の諡号をつかうのが民の望みである)。陳嬰を上柱國として5県に封じ、楚懐王とともに盱眙(臨淮郡)に都する。項梁は自ら「武信君」と号した。
張良說項梁曰:「君已立楚後,而韓諸公子橫陽君成最賢,可立為王,益樹黨。」項梁使良求韓成,立以為韓王,以良為司徒,與韓王將千餘人西略韓地,得數城,秦輒復取之;往來為遊兵穎川。
章邯已破陳王,乃進兵擊魏王於臨濟。魏王使周市出,請救於齊、楚。齊王儋及楚將項它皆將兵隨市救魏。章邯夜銜枚擊,大破齊、楚軍於臨濟下,殺齊王及周市。魏王咎為其民約降,約定,自燒殺。其弟豹亡走楚,楚懷王予魏豹數千人,復徇魏地。齊田榮收其兄儋餘兵,東走東阿,章邯追圍之。齊人聞齊王儋死,乃立故齊王建之弟假為王,田角為相,角弟間為將,以距諸侯。張良が項梁に説く。「君はすでに楚王の子孫を立てたが、韓の諸公子である横陽君の成が、最も賢である。王に立てて、樹党を益せ」と。項梁は張良に韓成を求めさせ、立てて韓王にした。張良を司徒とし、韓王とともに1千余人で西して韓地を略し、数城を得たが、秦がすぐに奪い返す。往來して穎川で遊兵となる。
頴川は韓の故地であり、秦が頴川郡を置いた。
ぼくは思う。張良は韓の復興に血道を上げたが、項梁の立てた楚王のもとで実現した。よかったね。章邯はすでに陳王を破り、兵を進めて魏王を臨濟で撃つ。魏王は周市に出でしめ、斉・楚に救援を請はしむ。齊王の田儋および楚將の項它は、どちらも周市に随って魏を救う。章邯は夜に枚を銜えて撃ち、大いに斉・楚の軍を臨濟のもとで破り、斉王の田儋および周市を殺す。魏王の咎は、その民のために約して降り、約が定まると、自ら焼殺した。その弟の魏豹は楚に亡走した。楚懷王は魏豹に數千人を与え、魏地を取り戻す。齊の田榮は、兄の田儋の餘兵を収め、東して東阿に走り、章邯に追われ囲まれる。齊人は齊王の田儋が死んだと聞き、もと齊王の田建の弟である田假を斉王にしたい。田角は相となり、田角の弟の田間が將となり、諸侯を距つ。
7月
秋,七月,大霖雨。武信君引兵攻亢父,聞田榮之急,乃引兵擊破章邯軍東阿下,章邯走而西。田榮引兵東歸齊。武信君獨追北,使項羽、沛公別攻城陽,屠之。楚軍軍濮陽東,復與章邯戰,又破之。章邯復振,守濮陽,環水。沛公、項羽去,攻定陶。秋7月、大いに霖雨あり。武信君(項梁)は兵をひき亢父を攻め、田榮の危機を聞き、章邯の軍を東阿のもとで撃つ。章邯は走りて西す。田榮は齊に東歸す。武信君だけが北に追い、項羽・沛公に別れて城陽を攻めて屠らせる。楚軍は濮陽の東に軍し、また章邯と戦い、また破る。章邯は散卒を整えなおし、濮陽を守って、水を決壊させて城の守りとする。沛公・項羽が去ると、章邯は定陶を攻める。
8月
八月,田榮擊逐齊王假,假亡走楚,田角亡走趙。田間前救趙,因留不敢歸。田榮乃立儋子市為齊王,榮相之,田橫為將,平齊地。章邯兵益盛,項梁數使使告齊、趙發兵共擊章邯。田榮曰:「楚殺田假,趙殺角、間,乃出兵。」楚、趙不許。田榮怒,終不肯出兵。8月、田榮が撃って齊王の假を逐い、田假は楚に亡走す。田角は趙に亡走す。田間は前に趙を救い、因って留りて敢て歸らず。田榮は田儋の子である田市を立てて齊王として、田榮がこれを相ける。田橫は將となり、齊地を平らぐ。章邯の兵は益々盛んで、項梁はしばしば斉・趙に兵を出せと告げた。
田榮「楚は田假を殺し、趙は田角・田間を殺した。乃ち兵を出せ」と。楚・趙は許さず。田榮は怒り、ついに兵を出すことに肯ぜず。
田氏が多すぎるせいで、こじれてきた。秦の章邯に対して、団結して戦うべきときであるのに、恩讐が入り乱れてしまった。
趙高が李斯を殺す
郎中令趙高恃恩專恣,以私怨誅殺人眾多,恐大臣入朝奏事言之,乃說二世曰:「天子之所以貴者,但以聞聲,群臣莫得見其面故也。且陛下富於春秋,未必盡通諸事。今坐朝廷,譴舉有不當者,則見短於大臣,非所以示神明於天下也。陛下不如深拱禁中,與臣及侍中習法者待事,事來有以揆之。如此,則大臣不敢奏疑事,天下稱聖主矣。」二世用其計,乃不坐朝廷見大臣,常居禁中。趙高侍中用事,事皆決於趙高。郎中令(漢の光禄勲)の趙高は、恩を恃んで専恣し、私怨によって誅殺した人々が多い。大臣が入朝して奏事し(私怨による誅殺を)チクられるのを恐れ、二世に説く。
「天子が貴いゆえんは、但だ声が聞こえるだけで、郡臣が顔を見られないからです。禁中の奥深くにいて、郡臣と会わなければ、聖主と称えられましょう」と。
二世は朝廷で大臣に会わなくなり、つねに禁中にいた。趙高が侍中として全てを決裁した。
高聞李斯以為言,乃見丞相曰:「關東群盜多,今上急,益發繇,治阿房宮,聚狗馬無用之物。臣欲諫,為位賤,此真君侯之事。君何不諫?」李斯曰:「固也,吾欲言之久矣。今時上不坐朝廷,常居深宮。吾所言者,不可傳也。欲見,無閒。」趙高曰:「君誠能諫,請為君侯上閒,語君。」於是趙高待二世方燕樂,婦女居前,使人告丞相:「上方閒,可奏事。」丞相至宮門上謁。如此者三。二世怒曰:「吾常多閒日,丞相不來;吾方燕私,丞相輒來請事!丞相豈少我哉,且固我哉?」趙高因曰:「夫沙丘之謀,丞相與焉。今陛下已立為帝,而丞貴不益,此其意亦望裂地而王矣。且陛下不問臣,臣不敢言。丞相長男李由為三川守,楚盜陳勝等皆丞相傍縣之子,以故楚盜公行,過三川城,守不肯擊。高聞其文書相往來,未得其審,故未敢以聞。且丞相居外,權重於陛下。」二世以為然,欲案丞相,恐其不審,乃先使人按驗三川守與盜通狀。趙高は李斯が発言しようとするから、李斯にいう。
趙高「関東は群盗が多いが、陛下は阿房宮の建設で浪費する。なぜ李斯は(丞相なのに)諌めないか。私は位が低いから、諌められない」
李斯「諌めたいのだが、陛下が朝廷に出てこない」
張億「陛下に会いにいって言えばいいじゃん」
趙高は、二世が燕樂して婦女が前にいるタイミングを選んで、李斯に声をかけた。「いまなら話を聞いてくれるぞ。上奏しなさい」と。
丞相が宮門に至って上謁した。こんなことが3たびある。
二世は怒った。「私が待っているとき、丞相の李斯は来ない。私がプライベートで遊んでいると、丞相はやってくる。私は幼少で固陋であるから、軽侮しているのか」
これを受けて趙高はいう。「沙丘の謀は、丞相も関与しました。陛下が帝となったが、丞相の官職は上がらなかった(もともと最高位だから)。丞相は、秦の領地を裂いて王になりたい。陛下が私に問わないから、敢えて言わずにいましたが……、丞相の長男の李由は三川守です。楚盜の陳勝らは、みな丞相の出身県のそばの人物です。だから楚盜が堂々と三川城を過ぎても、攻撃をさせなかった。私は(陳勝と李斯が内通する)文書が往来すると聞きますが、詳しく知らないので報告しませんでした。丞相は外では、陛下よりも権力が重いですよ」
二世はなるほどと重い、先にひとをやって三川守(李斯の子の李由)が盗賊(楚の陳勝)と通じたという文書を調査させた。
李斯聞之,因上書言趙高之短曰:「高擅利擅害,與陛下無異。昔田常相齊簡公,竊其恩威,下得百姓,上得群臣,卒弒齊簡公而取齊國,此天下所明知也。今高有邪佚之志,危反之行,私家之富,若田氏之於齊矣,而又貪慾無厭,求利不止,列勢次主,其欲無窮,劫陛下之威信,其志若韓□為韓安相也。陛下不圖,臣恐其必為變也。」二世曰:「何哉!夫高,故宦人也,然不為安肆志,不以危易心,潔行修善,自使至此,以忠得進,以信守位,朕實賢之。而君疑之,何也?且朕非屬趙君,當誰任哉!且趙君為人,精廉強力,下知人情,上能適朕,君其勿疑!」二世雅愛信高,恐李斯殺之,乃私告趙高。高曰:「丞相所患者獨高,高已死,丞相即欲為田常所為。」李斯はこれを聞き、「趙高の陰謀だ。むかし田常は斉簡公の国相となったが、ひそかに斉簡公を殺して国を奪おうとした。これは天下で有名なこと。趙高は田常になろうとしてる」と訴えた。しかし二世は聞かず。二世は趙高を親愛しており、李斯が趙高を殺すのを恐れて、李斯の訴えがあったことを趙高に教えた。
趙高は二世にいう。「もし私が死ねば、丞相の李斯は田常のように、陛下から国を奪うでしょう」
是時,盜賊益多,而關中捽髮東擊盜者無已。右丞相馮去疾、左丞相李斯、將軍馮劫進諫曰:「關東群盜並起,秦發兵追擊,所殺亡甚眾,然猶不止。盜多,皆以戍、漕、轉、作事苦,稅賦大也。請且止阿房宮作者,減省四邊戍、轉。」二世曰:「凡所為貴有天下者,得肆意極欲,主重明法,下不敢為非,以制御海內矣。夫虞、夏之主,貴為天子,親處窮苦之實以徇百姓,尚何於法!且先帝起諸侯,兼天下,天下已定,外攘四夷以安邊境,作宮室以章得意,而君觀先帝功業有緒。今朕即位,二年之間,群盜並起,君不能禁,又欲罷先帝之所為,是上無以報先帝,次不為朕盡忠力,何以在位!」下去疾、斯、劫吏,案責他罪。去疾、劫自殺,獨李斯就獄。二世以屬趙高治之,責斯與子由謀反狀,皆收捕宗族、賓客。趙高治斯,榜掠千餘,不勝痛,自誣服。このとき盗賊が益々増え、関中の卒は東に出払った。右丞相の馮去疾・左丞相の李斯・將軍の馮劫が諌めた。「盗賊が起きるのは、軍役・水運・陸雲・役作に苦しんで、租税が重いから。阿房宮をやめろ」と。「皇帝が天下で貴いのは、好きなようにできるから。始皇が天下統一したのに、朕が即位して2年目で群盗が増えるのは、きみらのせいだ」
馮去疾・馮劫は自殺して、李斯は獄に繋がれた。趙高は、李斯の子の李由が反したとして、謀反の罪を着せた。李斯は拷問の痛みに耐えられず、罪に復した。
斯所以不死者,自負其辯,有功,實無反心,欲上書自陳,幸二世寤而赦之。乃從獄中上書曰:「臣為丞相治民,三十餘年矣。逮秦地之狹隘,不過千里,兵數十萬。臣盡薄材,陰行謀臣,資之金玉,使遊說諸侯;陰修甲兵,飭政教,官鬥士,尊功臣;故終以脅韓,弱魏,破燕、趙,夷齊、楚,卒兼六國,虜其王,立秦為天子。又北逐胡、貉,南定北越,以見秦之強。更克畫,平斗斛、度量,文章布之天下,以樹秦之名。此皆臣之罪也,臣當死久矣!上幸盡其能力,乃得至今。願陛下察之!」書上,趙高使吏棄去不奏,曰:「囚安得上書!」李斯が死刑にならないのは、弁舌・功績があり、実は謀反の心がないから。二世は李斯を赦した。李斯は獄中から上書した。「私は丞相として30年。ここまで秦を大国にして、制度を整えたのは私の罪です。死罪にして下さい」と。趙高は上書を見て、破棄した。「囚人には上書の権利などないよ」
趙高使其客十餘輩詐為御史、謁者、侍中,更往覆訊斯,斯更以其實對,輒使人復榜之。後二世使人驗斯,斯以為如前,終不更言。辭服,奏當上。二世喜曰:「微趙君,幾為丞相所賣!」及二世所使案三川守由者至,則楚兵已擊殺之。使者來,會職責相下吏,高皆妄為反辭以相傅會,遂具斯五刑,論腰斬咸陽市。斯出獄,與其中子俱執。顧謂其中子曰:「吾欲與若復牽黃犬,俱出上蔡東門逐狡兔,豈可得乎!」遂父子相哭,而夷三族。二世乃以趙高為丞相,事無大小皆決焉。趙高は李斯の罪を説明した。二世が(謀反を)心配していた李斯の子である三川守の李由は、楚兵に殺された。李斯は夷三族となり、趙高が丞相となって全てを決裁した。
秋
項梁已破章邯於東阿,引兵西,北至定陶,再破秦軍。項羽、沛公又與秦軍戰於雍丘,大破之,斬李由。項梁益輕秦,有驕色。宋義諫曰:「戰勝而將驕卒惰者,敗。今卒少惰矣,秦兵日益,臣為君畏之。」項梁弗聽。餘乃使宋義使於齊,道遇齊使者高陵君顯,曰:「公將見武信君乎?」曰:「然。」曰:「臣論武信君軍必敗。公徐行即免死,疾行則及禍。」二世悉起兵益章邯擊楚軍,大破之定陶,項梁死。項梁はすでに東阿で章邯を破り、兵を引いて西し、北して定陶に至り、再び秦軍を破る。項羽・沛公もまた秦軍と雍丘で戦い、破って(李斯の子)李由を斬る。項梁はますます秦を軽んじ、驕る色あり。
宋義が諌めた。「勝って将軍が驕れば、士卒は惰れて敗れる敗。うちの兵卒はやや惰れるが、秦兵は日に増える。きみのために畏れる」。項梁は聴かない。
項梁は宋義を斉に使わし、宋義は道で齊の使者である高陵君の顕とある。宋義「あんたは武信君(項梁)に会いにいくの?」。高陵君「そう」。宋義「武信君の軍は必ず敗れると思う。ゆっくり行けば死を免れ、はやく行けば禍いが及ぶ」と。
うまい!二世は兵を全て調発して、章邯につけた。章邯が定陶で楚軍をやぶり、項梁は戦死した。
時連雨,自七月至九月。項羽、沛公攻外黃未下,去,攻陳留。聞武信君死,士卒恐,乃與將軍呂臣引兵而東,徙懷王自盱眙都彭城。呂臣軍彭城東,項羽軍彭城西,沛公軍碭。
魏豹下魏二十餘城,楚懷王立豹為魏王。
ときに連ねて雨ふること、七月から九月まで。項羽・沛公は外黄(陳留郡)を攻めるが下さず、去って陳留を攻めた。武信君の死を聞き、士卒は恐れ、將軍の呂臣とともに兵をひき東す。楚懐王を盱眙から彭城に移して都とす。呂臣は彭城の東に軍し、項羽は彭城の西に軍し、沛公は碭に軍す。
孟光はいう。留(という城)は、鄭の邑であったが、のちに陳に併合された。だから陳留という。魏豹は魏の20餘城を下し、楚懷王は義豹を魏王にする。
閏九月
後九月,楚懷王並呂臣、項羽軍,自將之;以沛公為碭郡長,封武安侯,將碭郡兵;封項羽為長安侯,號為魯公;呂臣為司徒,其父呂青為令尹。
章邯已破項梁,以為楚地兵不足憂,乃渡河,北擊趙,大破之。引兵至邯鄲,皆徙其民河內,夷其城郭。張耳與趙王歇走入巨鹿城,王離圍之。陳餘北收常山兵,得數萬人,軍巨鹿北。章邯軍巨鹿南棘原。趙數請救於楚。閏九月、楚懐王は、呂臣・項羽の軍をあわせ、自らひきいる。
秦は10月を正月とするので、閏九月を「後九月」という。281頁。
楚懐王が、わりと権力があり、謀略をつかうのは佐竹靖彦『劉邦』にある。
沛公を碭郡長として、武安侯に封じ、碭郡の兵をひきいる。項羽を長安侯とし、魯公と号す。呂臣を司徒として、父の呂青を令尹とする。
章邯はすでに項梁を破り、楚地の兵は心配ないと思い、渡河して趙を撃ち、大いに破る。兵をひいて邯鄲に至り、その民を全て河内に移す。城郭を完全に破壊した。
張耳と趙王歇は、にげて巨鹿城に入るが、秦将の王離が囲む。陳餘は北して常山の兵を収め、数万人を得て、巨鹿の北に軍す。章邯は巨鹿の南である棘原に軍す。趙はしばしば楚に救援を請う。
高陵君顯在楚,見楚王曰:「宋義論武信君之軍必敗,居數日,軍果敗。兵未戰而先見敗征,此可謂知兵矣。」王召宋義與計事而大說之,因置以為上將軍。項羽為次將,范增為末將,以救趙。諸別將皆屬宋義,號為「卿子冠軍」。斉の高陵君の顕は楚にいて、楚懐王にまみゆ。
高陵君の顕「宋義は武信君(項梁)の軍が必ず敗れるといい、数日後、ほんとうに敗れた。戦う前に敗北を予知するとは、『宋義は兵を知る』というべき」
王は宋義を召して兵略の話をして、おおいに悦んで上将軍とした。項羽を次將、范增を末將として、趙を救いにいく。諸々の別將は、みな宋義に属して「卿子冠軍」と号す。
如淳はいう。「卿」とは、大夫の号である。「子」とは爵位である(子爵)。「冠軍」とは、第一位ということである。文頴はいう……とか、諸説あり。
初,楚懷王與諸將約:「先入定關中者王之。」當是時,秦兵強,常乘勝逐北,諸將莫利先入關。獨項羽怨秦之殺項梁,奮勢願與沛公西入關。懷王諸老將皆曰:「項羽為人,慓悍猾賊,嘗攻襄城,襄城無遺類,皆坑之,諸所過無不殘滅。且楚數進取,前陳王、項梁皆敗,不如更遣長者,扶義而西,告諭秦父兄。秦父兄苦其主久矣,今誠得長者往,無侵暴,宜可下。項羽不可遣,獨沛公素寬大長者,可遣。」懷王乃不許項羽,而遣沛公西略地,收陳王、項梁散卒以伐秦。
沛公道碭,至陽城與槓里,攻秦壁,破其二軍。はじめ楚懐王は諸将と『約』した。
「さきに関中に入り定めたものを、関中の王とする」
このとき秦兵は強く、つねに勝ちに乗じて北に逐ひ、諸将は先に入関する利がない。
関中に入ったあと、関内の秦軍と、河北にいる章邯軍に挟み撃ちにされたら、死ぬしかない。諸将は秦を畏れて、関に入らない。ひとり項羽だけが、秦が項梁を殺したことを怨み、勢を奮って沛公とともに西して入関した。
懐王のもとの諸々の老將は、みないう。「項羽の人となりは、慓悍(疾勇)で猾賊(狡くて残害)である。かつて襄城を攻め、遺類なく(一人残らず)坑した。項羽が通過したところで、残滅しないことがない。かつ楚軍はしばしば進んで領地を広げたが、陳王(陳勝)・項梁はどちらも敗れた。長者を(関内の攻撃に)派遣すべきで、義(正しさ)を保って西にゆき、秦の父兄に告諭させよ。秦の父兄は、秦の支配に苦しんで久しい。いま真の長者を(支配者に)得れば、侵暴しなくとも下せるはず。項羽を派遣するな。寛大・長者なる沛公だけを派遣せよ」
漢代の創作という匂いが、きつく漂って鼻がもげそうである。懷王は項羽(の関中攻めを)許さず、沛公に西して地を略させた。陳王・項梁の散卒を収め、秦を伐つ。
沛公は碭に道をとって(西ゆき)陽城と槓里に至り、秦の壁を攻め、その2軍を破る。150801閉じる
- 二世皇帝二年(前207年)
冬10月
冬,十月,齊將田都畔田榮,助楚救趙。
沛公攻破東郡尉於成武。冬10月、齊將の田都が田榮にそむき、楚を助けて趙を救ふ。
沛公は攻めて東郡尉(東郡は秦が衛を破って設置)を成武で破る。
宋義行至安陽,留四十六日不進。項羽曰:「秦圍趙急,宜疾引兵渡河;楚擊其外,趙應其內,破秦軍必矣。」宋義曰:「不然。夫搏牛之虻,不可以破蟣虱。今秦攻趙,戰勝則兵疲,我承其敝;不勝,則我引兵鼓行而西,必舉秦矣。故不如先斗秦、趙。夫被堅執銳,義不如公;坐運籌策,公不如義。」因下令軍中曰:「有猛如虎,狠如羊,貪如狼,強不可使者,皆斬之!」乃遣其子宋襄相齊,身送之至無鹽,飲酒高會。天寒,大雨,士卒凍饑。項羽曰:「將戮力而攻秦,久留不行。今歲饑民貧,士卒食半菽,軍無見糧,乃飲酒高會;不引兵渡河,因趙食,與趙並力攻秦,乃曰『承其敝』。夫以秦之強,攻新造之趙,其勢必舉。趙舉秦強,何敝之承!且國兵新破,王坐不安席,掃境內而專屬於將軍,國家安危,在此一舉。今不恤士卒而徇其私,非社稷之臣也!」宋義は安陽に至り、46日留まって進まず(趙を助けず)
項羽「秦は趙を囲むこと急なり。はやく渡河しろ。楚が(秦の包囲軍の)外を撃ち、趙が内応すれば、必ず秦軍を敗れる」と。
宋義「ちがう。牛の背にいるアブを叩き殺しても、(牛に付いている)シラミの卵を破ることができない。「搏牛之虻,不可以破蟣虱」は、胡三省がひく注釈者たちも、いろいろ解説してる。秦軍(アブ)と力尽くで戦っても、章邯(シラミ)をつぶして、趙を救えるとは限らない。秦軍と戦うよりも、章邯を捕らえるなどの別の方法を考えるべきである。
いま秦は趙を攻め、秦が勝っても兵が疲れるから、われらが勝てる。秦が負けたら、われらが陣を組んで攻めたら勝てる。ゆえに、秦と趙を(秦が疲労・敗北するまで)戦わせておくのがよい。力攻めなら、私は項羽に及ばない。しかし計略ならば、項羽は私に及ばない」
宋義は軍中に令を下した。「猛きこと虎のごとく、狠きこと羊の如く、貪ること狼の如くあれ。逆らえば(敢えて趙の救援に向かえば)斬る」と。
宋義は、子の宋襄を齊にゆかせた(同盟の交渉をする)。宋義が無鹽(東平国)に至り、飲酒・高會す。天は寒く、大いに雨ふり、士卒は凍饑す。
項羽「力を尽くして秦を攻めるときに(宋義)は留まって動かない。今年は、飢えて民が貧しい。士卒は半菽を食べ、軍には糧がない。それなのに飲酒・高會して、渡河しない。趙は建国したばかりであり、秦は強い。秦が疲れるのを待つとか、マジ自分勝手。サボるんじゃないよ。士卒をあわれまず、わが子を斉に行かせる(私的な交渉をする)とか、社稷の臣のやることじゃない」
11月
十一月,項羽晨朝將軍宋義,即其帳中斬宋義頭。出令軍中曰:「宋義與齊謀反楚,楚王陰令籍誅之!」當是時,諸將皆懾服,莫敢枝梧,皆曰:「首立楚者,將軍家也,今將軍誅亂。」乃相與共立羽為假上將軍。使人追宋義子,及之齊,殺之。使桓楚報命於懷王。懷王因使羽為上將軍。11月、項羽は早朝に、上将軍の宋義に朝し(面会し)帳中で宋義の頭を斬る。令を軍中に出した。「宋義と斉は、共謀して楚に背く。楚王はひそかに私に、宋義の誅殺を令したのだ」と。
このとき諸将は項羽に懾服し、だれも逆らわない。みな「初めに楚を立てたのは、項羽将軍の家である。いま将軍が乱を誅した」という。
ともに項羽を立てて上將軍を假せしむ。人をやって宋義の子を追い、斉で追いついて殺した。桓楚から楚懐王に(上将軍の異動を)命を報じさせた。楚懐王は項羽を上将軍とした。
12月
十二月,沛公引兵至栗,遇剛武侯,奪其軍四千餘人,並之;與魏將皇欣、武滿軍合攻秦軍,破之。
故齊王建孫安下濟北,從項羽救趙。12月、沛公は栗に至る。たまたま剛武侯とあい、
だれなのか分からず、胡三省が284頁で注釈す。その軍4千餘人を奪って合わせる。魏將の皇欣・武滿の軍とあわさり、秦軍を破る。
もと齊王の田建の孫である田安が、済水の北(聊城・博陽など)を下す。項羽に従って趙を救ふ。
章邯築甬道屬河,餉王離。王離兵食多,急攻巨鹿。巨鹿城中食盡、兵少,張耳數使人召前陳餘。陳餘度兵少,不敵秦,不敢前。
數月,張耳大怒,怨陳餘,使張黶、陳澤往讓陳餘曰:「始吾與公為刎頸交,今王與耳旦暮且死,而公擁兵數萬,不肯相救,安在其相為死!苟必信,胡不赴秦軍俱死,且有十一二相全。」陳餘曰:「吾度前終不能救趙,徒盡亡軍。且餘所以不俱死,欲為趙王、張君報秦。今必俱死,如以肉委餓虎,何益!」張黶、陳澤要以俱死,乃使黶、澤將五千人先嘗秦軍,至,皆沒。當是時,齊師、燕師皆來救趙,張敖亦北收代兵,得萬餘人,來,皆壁餘旁,未敢擊秦。章邯は甬道を築いて河につなぎ、王離軍に乾飯を食わせる。
敵に軍糧を盗まれるのをおそれて、道を土で囲んだのである。王離の兵はたくさん食べ、巨鹿(張耳が守る)に急攻した。巨鹿の城中は、食料がつきて兵が少なく、張耳はしばしば人をやって陳余に「鉅鹿に進んできて救え」と求める。陳余は、兵が少なくて秦に敵わないから、敢えて進まない。
数ヶ月して、張耳は大怒し、陳餘を怨み、張黶・陳澤をやって陳余を責めた。「あなたと刎頸の交をなした。いま趙王と私が旦夕にも死にそうなのに、あんたは数万を擁するのに救ってくれない。秦軍と戦っても、1割か2割は勝てそうじゃないか」
陳余「私は前に趙を救えず、むだに軍を失った。私が、趙王とあなた(張耳)を見殺しにするのは、あとで秦に仇を伐つためだ。いま、趙王と張耳が死にそうな戦局に、私まで突っこんで一緒に死んだら、仕方ないでしょう」
(張耳の使者である)張黶・陳澤は(陳余が張耳と)ともに死ぬことを強要した。陳余は2人に5千をつけ、秦軍に突っこませたが、どちらも死んだ。このとき、齊師・燕師がきて趙を救い、(張耳の子の)張敖もまた北にゆき代兵を収めて、萬餘人を得た。みな陳余の傍らで壁となるが、まだ秦への攻撃を始めない。
項羽已殺卿子冠軍,威震楚國,乃遣當陽君、薄將軍將卒二萬渡河救巨鹿。戰少利,絕章邯甬道,王離軍乏食。陳餘復請兵。項羽乃悉引兵渡河,皆沈船,破釜、甑,燒廬舍,持三日糧,以示士卒必死,無一還心。
於是至則圍王離,與秦軍遇,九戰,大破之,章邯引兵卻。諸侯兵乃敢進擊秦軍,遂殺蘇角,虜王離;涉間不降,自燒殺。
當是時,楚兵冠諸侯軍。救巨鹿者十餘壁,莫敢縱兵。及楚擊秦,諸侯將皆從壁上觀。楚戰士無不一當十,呼聲動天地,諸侯軍無不人人惴恐。於是已破秦軍,項羽召見諸侯將。諸侯將入轅門,無不膝行而前,莫敢仰視。項羽由是始為諸侯上將軍。諸侯皆屬焉。項羽は、すでに卿子冠軍(宋義)を殺し、威は楚國を震はす。當陽君・薄將軍は、2万をひきいて渡河し、鉅鹿を救う。利が少ないが、章邯の甬道を絶ち、王離の軍が食料に欠いた。陳余はまた兵を請う。項羽は、すべての兵に渡河させた。みな船を沈め、釜や甑を破し、廬舍を燒き、3日分の糧だけを持つ。士卒を追いこんだ。
項羽軍は王離を圍み、秦軍と遇って9たび戦い、大いに破る。章邯は兵を引き退却する。諸侯の兵が追い、蘇角を殺して、王離を虜とした。涉間は降らず、自ら燒殺した。
このとき楚兵の働きは、諸侯軍のなかで最上である。巨鹿を救ったのは、10餘の壁であり、秦兵がほしいままにできず。楚が秦を撃つと、諸将はみな壁の上から観た。楚の戦死は、1人で10人と戦い、呼聲は天地を動かし、諸侯の軍は惴恐した。秦軍を破ると、項羽は諸侯の將を召して会う。諸侯は轅門から入るとき、膝行して進み、敢て(項羽を)仰視しない。項羽は初めて諸侯の上將軍となる。諸侯はみな項羽に属した。
於是趙王歇及張耳乃得出巨鹿城謝諸侯。張耳與陳餘相見,責讓陳餘以不肯救趙;及問張黶、陳澤所在,疑陳餘殺之,數以問餘。餘怒曰:「不意君之望臣深也!豈以臣為重去將印哉?」乃脫解印綬,推予張耳,張耳亦愕不受。陳餘起如廁。客有說張耳曰:「臣聞『天與不取,反受其咎。』今陳將軍與君印,君不受,反天不祥,急取之!」張耳乃佩其印,收其麾下。而陳餘還,亦望張耳不讓,遂趨出,獨與麾下所善數百人之河上澤中漁獵。趙王歇還信都。趙王の歇および張耳は、鉅鹿城から出ることができ、諸侯に謝した。張耳と陳餘が相い見え、「陳余は、趙を救うのを肯じなかった」と責めた。張黶・陳澤の所在を聞き、陳余が殺したと疑った(本当は陳余に兵をもらい、秦軍に殺された)。
陳余は怒った。「張耳が私をそんなに怨んでるとは思わなかった。将軍の印綬を置いて、出て行ってもいいのよ」と。印綬をはずし、張耳に押し付けた。張耳は驚いて受けず。陳余は厠所にゆくといって立った。
客が張耳に説く。「天が与えるものを取らねば、かえって咎を受けるといいます。陳余は将軍の印綬を与えたのに、張耳が受けねば、天にとって不祥です。急いで取りなさい」
陳余が将軍に印綬をもって逃げたら、張耳と戦うために将軍の職権を使うだろう。すると張耳は、陳余に殺されるかも知れない。陳余がトイレに行っているあいだに、印綬を張耳が得ておけ。張耳は陳余の印をはき、麾下を収めた。陳余が(厠所から)還ると、数百人だけをつれて立ち去った。陳余は、河上の澤中で漁獵した。趙王の歇は、信都に還った。
春2月
春,二月,沛公北擊昌邑,遇彭越,彭越以其兵從沛公。越,昌邑人,常漁巨野澤中,為群盜。陳勝、項梁之起,澤間少年相聚百餘人,往從彭越曰:「請仲為長。」越謝曰:「臣不願也。」少年強請,乃許,與期旦日日出會,後期者斬。旦日日出,十餘人後,後者至日中。於是越謝曰:「臣老,諸君強以為長。今期而多後,不可盡誅,誅最後者一人。」令校長斬之。皆笑曰:「何至於是!請後不敢。」於是越引一人斬之,設壇祭,令徒屬,徒屬皆大驚,莫敢仰視。乃略地,收諸侯散卒,得千餘人,遂助沛公攻昌邑。春2月、沛公は北して昌邑を撃ち、彭越に遇ふ。彭越は兵ごと沛公に従う。
彭越とは昌邑のひと(大彭の子孫)。つねに巨野(山陽郡の鉅野に大野沢がある)の澤中で漁り、群盜となる。
ぼくは思う。楚漢戦争の彭越は大野沢で漁猟をやり、アウトロー100人から首領に担がれ、劉邦に投じて官軍となり、『漢書』における朝敵(秦とか項羽とか)を倒す。大野沢とは、『水滸伝』の梁山湖と同じ。アウトロー100人に担がれ、官軍となり、朝敵を倒す。【楚漢×水滸】は最高の組み合わせだがマイナー。陳勝・項梁が起つと、澤間の少年が100余人あつまり、彭越にしたがい、「仲(彭越のあざな)に首長になってほしい」という。彭越は謝す。「願わず」と。少年が強いて請ひ、乃ち許す。明朝の日の出に出発する約束をして、「遅れた者を斬る」と約束した。日の出に10余人がきたが、残りは日中にきた。
彭越「私は老いた。諸君に強いられ首長となった。いま遅れたら斬ると約束したが、多くが遅れたから、全員を誅せない。最後の1人だけ誅す」と。校長(1校の長)に斬らせる。みな笑った。「そこまでしなくても。もう遅れないから」と。彭越は1人を斬り、壇を設けて祭り、徒属に令す。徒属はみな大驚し、敢て仰ぎ視ず。
さっきの項羽が、章邯と勇敢に戦い、諸侯を心服させたときと同じ表現。佐竹氏曰く、ここで彭越が軍紀を引き締めねば、彭越集団はどこかで滅びて、歴史に残らなかった。地を略し、諸侯の散卒を收め、千餘人を得る。遂に沛公を助けて昌邑を攻む。
昌邑未下,沛公引兵西過高陽。高陽人酈食其,家貧落魄,為里監門,沛公麾下騎士適食其里中人,食其見,謂曰:「諸侯將過高陽者數十人,吾問其將皆握齪,好苛禮,自用,不能聽大度之言。吾聞沛公慢而易人,多大略,此真吾所願從游,莫為我先。若見沛公,謂曰:『臣里中有酈生,六十餘,長八尺,人皆謂之狂生。生自謂「我非狂生」。』」騎士曰:「沛公不好儒,諸客冠儒冠來者,沛公輒解其冠,溲溺其中,與人言,常大罵,未可以儒生說也。」酈生曰:「第言之。」騎士從容言,如酈生所誡者。昌邑は未だ下らざるに、沛公は兵を引き西して高陽(陳留郡のコウ県の亭)を過ぐ。高陽のひと酈食其、家は貧しく落魄し、里の監門となる。沛公の麾下の騎士が、高陽の里中のひとの所にゆくと、酈食其はいう。「諸侯の將で高陽を過ぎた者は數十人いる。吾はその將の全てに問うが、みなセカセカして細か礼を好み、大度の言を聴く余裕がない。聞くに、沛公は慢にして人に易く、大略を多くすると。これは私が從游したい人であるが、まだ誰も私を(沛公に)紹介してくれない。もし沛公にあったら、言ってくれ。『この里中には酈生がおり、歳は60余、身長は8尺。他人からは狂生と呼ばれるが、自分では狂生ではないと言っている』と。
騎士「沛公は儒を好まない。儒冠を冠ってきた諸客がいると、沛公はすぐに冠を脱がせ、その中に小便をする。人と話すときは、つねに大罵する。儒生の言説を評価したことがない」と。酈生「それでも沛公に(私という人材がいることを)言ってくれ」と。騎士は酈食其の言うとおり、沛公の耳に入れた。
沛公至高陽傳舍,使人召酈生。酈生至,入謁。沛公方倨床使兩女子洗足,而見酈生。酈生入,則長揖不拜,曰:「足下欲助秦攻諸侯乎?且欲率諸侯破秦也?」沛公罵曰:「豎儒!天下同苦秦久矣,故諸侯相率而攻秦,何謂助秦攻諸侯乎!」酈生曰:「必聚徒合義兵誅無道秦,不宜倨見長者!」於是沛公輟洗,起,攝衣,延酈生上坐,謝之。酈生因言六國從橫時。沛公喜,賜酈生食,問曰:「計將安出?」酈生曰:「足下起糾合之眾,收散亂之兵,不滿萬人;欲以徑入強秦,此所謂探虎口者也。夫陳留,天下之沖,四通五達之郊也,今其城中又多積粟。臣善其令,請得使之令下足下。即不聽,足下引兵攻之,臣為內應。」於是遣酈生行,沛公引兵隨之,遂下陳留。號酈食其為廣野君。酈生言其弟商。時商聚少年得四千人,來屬沛公,沛公以為將,將陳留兵以從,酈生常為說客,使諸侯。沛公は高陽の傳舍(駅伝でひとが休むところ)にきた。酈生を召した。酈生がが至り、入りて謁す。沛公は床に踞き、2女子に足を洗わせながら、酈生に会う。酈生が入り、長揖して拝せず(対等に無礼な態度をとった)。「あなたは秦を助けて諸侯を攻めたいか。諸侯をひきいて秦を破りたいか」。沛公は罵る。「豎儒め。天下はともに秦に苦しむこと久し。秦を助けるなんて言うな」
酈生「徒をあつめ義兵を合せ、無道な秦を誅するときに、そんな態度で年長者に面会するやつがいるか」
そういや、60歳だと年齢を伝えておいたしね。沛公は、立って衣をつけた。酈生に上坐をゆずって謝し、食べ物を出した。「計略を聞きたい」と。酈食其「陳留は天下の沖であり、四通五達の郊(険阻でなく四方から交通できる地)である。いま陳留の城中には、粟の備蓄もおおい。陳留の令(長官)と親しいから、私を説得にゆかせろ。もし令が拒否ったら、あなたは陳留を攻めろ。私は内応する」と。
酈食其が陳留にむかい、沛公が随う。ついに陳留を下して、陳留に留まる。酈食其を「廣野君」と号する。
酈食其は弟の酈商のことをいう。ときに酈商は少年4千人を集め、沛公に属した。沛公は酈商を将として、陳留の兵をひきいた。酈食其はつねに食客となり、諸侯のあいだを説いて回る。
3月
三月,沛公攻開封,未拔。西與秦將楊熊會戰白馬,又戰曲遇東,大破之。楊熊走之滎陽,二世使使者斬之以徇。3月、沛公は開封(河南郡)を攻め、未だ拔かず。西して秦將の楊熊と白馬で会戦する。また曲遇(河南郡の中牟県)の東で戦う。大いに破る。楊熊は滎陽ににげた。二世は楊熊を斬った。
秦将は、敗れたら斬られる。だから連戦をしている章邯は、勝ち続けるしか生存の方法がない。むちゃな環境に身を置いているから、降伏させる余地もあると、『香乱記』に書いてあった。
4月
夏,四月,沛公南攻穎川,屠之。因張良,遂略韓地。時趙別將司馬卬方欲渡河入關。沛公乃北攻平陰,絕河津南,戰洛陽東。軍不利,南出轘轅。張良引兵從沛公。沛公令韓王成留守陽翟,與良俱南。夏4月、沛公が南して穎川を攻め、屠る。これにより張良は、ついに韓地を略した。
ときに趙の別將である司馬卬は、渡河して入関しそう。沛公は北して平陰を攻め、黄河の南側の渡し場を破壊して(司馬卬の入関を妨げ)洛陽の東で戦う。利あらず、南して轘轅(河南郡)に出づ。張良は兵をひき沛公に従ふ。沛公は、韓王成に陽翟を留守させ(張良を韓国から剥がし)張良とともに南する。
6月
六月,與南陽守齮戰犨東,破之,略南陽郡;南陽守走保城,守宛。沛公引兵過宛,西。張良諫曰:「沛公雖欲急入關,秦兵尚眾,距險。今不下宛,宛從後擊,強秦在前,此危道也。」於是沛公乃夜引軍從他道還,偃旗幟,遲明,圍宛城三匝。南陽守欲自剄,共舍人陳恢曰:「死未晚也。」乃逾城見沛公曰:「臣聞足下約先入咸陽者王之。今足下留守宛,宛郡縣連城數十,其吏民自以為降必死,故皆堅守乘城。今足下盡日上攻,士死傷者必多。引兵去宛,宛必隨足下後。足下前則失咸陽之約,後有強宛之患。為足下計,莫若約降,封其守;因使止守,引其甲卒與之西。諸城未下者,聞聲爭開門而待足下,足下通行無所累。」沛公曰:「善!」6月、沛公は、南陽守の齮と、犨の東で戦って破り、南陽郡を略す。南陽守は走げて、宛を守る。沛公は宛を素通りして西す。張良が諌めた。「沛公は急ぎ入関しても、なお秦兵が多く、險を距ぐ。宛城を放置したら、後ろから攻撃される」と。沛公は拠るに他道から還り、旗幟を偃し、遲明に宛城を囲む(日が明けたときは包囲が完了していた)。南陽守は自剄しようとしたが、舍人の陳恢が、「死ぬのは早い」と言われた。城を逾えて沛公に会い、南陽守がいう。「あなたは、先に咸陽に入った者が王になる(というルールのもとで、沛公が進軍する)と聞きました。宛の郡県は、数十を連ねる。吏民は降れば殺されると思い、堅守する。あながた宛の郡県の制圧に時間をかけたら、咸陽に遅れる。宛の郡県を放置すれば、背後を脅かされる。私が降ってあなたと約束し、南陽の諸城に『沛公がきたら開城せよ。ただし沛公は吏民に危害を加えない』と伝えたら、西のかた咸陽に直行できるよ」と。沛公「よし」。
7月
秋,七月,南陽守齮降,封為殷侯,封陳恢千戶。引兵西,無不下者。至丹水,高武侯鰓、襄侯王陵降。還攻胡陽,遇番君別將梅鋗,與偕攻析、酈,皆降。所過亡得鹵掠,秦民皆喜。秋7月、南陽守の齮が降り、殷侯に封じる。陳恢を千戸に封ず。兵を引き西せば、沛公に下らない城がない。丹水(弘農郡)に至り、高武侯の鰓(姓は不明)、襄侯の王陵が降った。
鰓は諦めるとして、王陵については、韋昭・師古・索隠がもめてる。290頁。還って胡陽を攻め、番君の別將である梅鋗にあい、ともに析(南陽の湖陽県)・酈(南陽郡)を攻めて、どちらも降す。通過したところで鹵掠を得ないから(物資を現地調達しないから)秦民は喜ぶ。
これも漢帝国が成立してから生まれた神話だろう。
王離軍既沒,章邯軍棘原,項羽軍漳南,相持未戰。秦軍數卻,二世使人讓章邯。章邯恐,使長史欣請事。至咸陽,留司馬門三日,趙高不見,有不信之心。長史欣恐,還走其軍,不敢出故道。趙高果使人追之,不及。欣至軍,報曰:「趙高用事於中,下無可為者。今戰能勝,高必疾妒吾功,不能勝,不免於死。願將軍孰計之!」王離の軍は既に沒し、章邯は棘原に軍す。項羽軍は漳水の南に軍す。相ひ持して未だ戰はず。秦軍はしばしば退却し、二世は章邯を譴責した。
章邯は恐れ、長史の欣を咸陽まで弁明にゆかせる。欣は司馬門に留まること3日、趙高が会ってくれず、不信の心が生じた。長史の欣は恐れ、還って章邯の軍のもとに逃げた。あえて故道(主要幹線)を通らない。趙高は果たして人に欣を追わせるが、及ばず。
欣は軍に至って報ず。「趙高が権力を独占し、勝っても趙高に嫉妬され、負けたら死を免れない。将軍はよく考えて(秦を裏切ることも検討してほしい)」
陳餘亦遺章邯書曰:「白起為秦將,南征鄢郢,北坑馬服,攻城略地,不可勝計,而竟賜死。蒙恬為秦將,北逐戎人,開榆中地數千里,竟斬陽周。何者?功多,秦不能盡封,因以法誅之。今將軍為秦將三歲矣,所亡失以十萬數,而諸侯並起滋益多。彼趙高素諛日久,今事急,亦恐二世誅之,故欲以法誅將軍以塞責,使人更代將軍以脫其禍。夫將軍居外久,多內郤,有功亦誅,無功亦誅。且天之亡秦,無愚智皆知之。今將軍內不能直諫,外為亡國將,孤特獨立而欲常存,豈不哀哉!將軍何不還兵與諸侯為從,約共攻秦,分王其地,南面稱孤!此孰與身伏鈇質、妻子為戮乎?」陳餘は章邯に文書をおくる。「白起は秦將として、南のかた鄢郢を征し、北のかた馬服を坑め、攻城・略地、勝げて計ふべからず。而るに竟に死を賜ふ。蒙恬は秦將として、北のかた戎人を逐ひ、榆中の地を開くこと数千里、竟に陽周に斬らる。なぜか。功が多いと、秦は尽く封ぜないで(ちゃんと報奨できずに)、法を以て誅するからだ。いま将軍は秦將として3年、亡失する所は10萬を以て數え、(秦に敵対する)諸侯は並起して増えている。秦の趙高は、二世にへつらうものの(もしも秦に不利な情勢が知れたら)二世に誅されるから、(趙高が助かるために)法によって責任を章邯に帰属させるだろう。ともに秦を攻めないか。むざむざと秦に腰斬されたいか」
章邯狐疑,陰使候始成使項羽,欲約。約未成,項羽使蒲將日夜引兵度三戶,軍漳南,與秦軍戰,再破之。項羽悉引兵擊秦軍汙水上,大破之。章邯使人見項羽,欲約。項羽召軍吏謀曰:「糧少,欲聽其約。」軍吏皆曰:「善。」項羽乃與期洹水殷虛上。已盟,章邯見項羽而流涕,為言趙高。項羽乃立章邯為雍王,置楚軍中,使長史欣為上將軍,將秦軍為前行。
瑕丘申陽下河南,引兵從項羽。章邯は狐疑し、ひそかに始成(姓と名)を項羽への使者にして、『約」を欲する。約が成る前に、項羽は蒲將に日夜 兵を引いて三戸(漳水の渡し場)にゆかせ、漳水の南に軍して、秦軍を再び破る。項羽は悉く兵を引き、秦軍を水上で大いに破った。
章邯の使者が項羽に会い、『約』を欲した。項羽は軍吏を召して謀る。「糧は少なるとも、其の約を聽さんことを欲す」と。
章邯の降伏を受けたら、章邯軍を食わせないといけない。だから項羽は、郡吏に謀ったんだろうな。軍吏は皆が「善し」という。項羽は、洹水の殷虛の上で章邯と会うことにした。已に盟ひ、章邯は項羽に会って流涕して、趙高のことを言う(グチった)。項羽は章邯を雍王に立て、楚の軍中に置く。(咸陽に使いして逃げてきた)長史の欣を上將軍として、秦軍をひきいて前鋒とする。
瑕丘(山陽郡)の申陽は、河南を下し、兵を引いて項羽に従う。
初,中丞相趙高欲專秦權,恐群臣不聽,乃先設驗,持鹿獻於二世曰:「馬也。」二世笑曰:「丞相誤邪,謂鹿為馬!」問左右,左右或默,或言馬以阿順趙高,或言鹿者。高因陰中諸言鹿者以法。後群臣皆畏高,莫敢言其過。
はじめ中丞相(宦官の丞相だから禁中に入れる)の趙高は、秦の権力を専らにしたいが、郡臣の抵抗を恐れて、先に試験した。鹿を二世に献じて「馬です」という。二世は笑い、「丞相は謝った。なぜ鹿を馬というのか」と。二世が左右に問うと、左右は黙ったり、「馬です」と趙高にへつらったり、「鹿です」と本当のことを言ったりした。趙高はひそかに「鹿だ」と言ったひとを法で罰した。のちに郡臣は趙高を恐れて、彼の過失について言わなくなった。
趙高はしばしば「関東の盗賊は、何もできやしない」という。項羽が王離らを捕らえ、章邯らが敗れると、章邯は増援をもとめた。函谷関より東は、おおくが秦吏にそむいて、諸侯に応じた。諸侯はみな、西郷の兵をひきいた。
8月
高前數言「關東盜無能為也」,及項羽虜王離等,而章邯等軍數敗,上書請益助。自關以東,大抵盡畔秦吏,應諸侯,諸侯鹹率其眾西鄉。八月,沛公將數萬人攻武關,屠之。高恐二世怒,誅及其身,乃謝病,不朝見。8月、沛公が数万で武関を攻めて屠った。趙高は二世の怒りを恐れ、誅されると考え、仮病で朝見せず。
郡臣から二世にチクられたり、二世が自ら真実を知ったり。自由な発言・情報交換によって、おのれの所行の実態がバレることを極度に嫌う、せこい人物として描かれています、趙高は。宦官だからかなw
二世夢白虎嚙其左驂馬,殺之,心不樂,怪問占夢。卜曰:「涇水為祟。」二世乃齋於望夷宮,欲祠涇水,沈四白馬。使使責讓高以盜賊事。高懼,乃陰與其婿咸陽令閻樂及弟趙成謀曰:「上不聽諫。今事急,欲歸禍於吾。吾欲易置上,更立子嬰。子嬰仁儉,百姓皆載其言。」乃使郎中令為內應,詐為有大賊,令樂召吏發兵追,劫樂母置高舍。遣樂將吏卒千餘人至望夷宮殿門,縛衛令僕射,曰:「賊入此,何不止?」衛令曰:「周廬設卒甚謹,安得賊敢入宮!」樂遂斬衛令,直將吏入,行射郎、宦者。郎、宦者大驚,或走,或格。格者輒死,死者數十人。郎中令與樂俱入,射上幄坐幃。二世怒,召左右,左右皆惶擾不鬥。二世は夢で、馬車の左側の馬を、白虎に噛まれた。占うと「涇水が祟りをなす」という。二世は望夷宮にゆき、白馬を鎮めて涇水をまつる。趙高に「関東の盗賊をどうにかしろ」と叱る。趙高はひそかに、婿で咸陽令である閻樂および弟の趙成にいう。「二世はイラついて、盗賊を私のせいにする。皇帝を子嬰に変えたい」
郎中令に内応させ、二世を攻撃した。宦官が混乱した。
旁有宦者一人侍,不敢去。二世入內,謂曰:「公何不早告我,乃至於此!」宦者曰:「臣不敢言,故得全。使臣早言,皆已誅,安得至今!」閻樂前即二世,數曰:「足下驕恣,誅殺無道,天下共畔足下。足下其自為計!」二世曰:「丞相可得見否?」樂曰:「不可!」二世曰:「吾願得一郡為王。」弗許。又曰:「願為萬戶侯。」弗許。曰:「願與妻子為黔首,比諸公子。」閻樂曰:「臣受命於丞相,為天下誅足下。足下雖多言,臣不敢報!」麾其兵進。二世自殺。閻樂歸報趙高。趙高乃悉召諸大臣、公子,告以誅二世之狀,曰:「秦故王國,始皇君天下,故稱帝。今六國復自立,秦地益小,乃以空名為帝,不可。宜為王如故,便。」乃立子嬰為秦王。以黔首葬二世社南宜春苑中。二世は自殺させられ、閻楽は(妻の父の)趙高に報告した。趙高は二世の罪状を示した。趙高は、子嬰を立てた。
抄訳しまくってますが、原文は見てます。閉じた出来事なので、これで分かる。
9月
九月,趙高令子嬰齋戒,當廟見,受玉璽。齋五日。子嬰與其子二人謀曰:「丞相高殺二世望夷宮,恐群臣誅之,乃佯以義立我。我聞趙高乃與楚約,滅秦宗室而分王關中。今使我齋、見廟,此欲因廟中殺我。我稱病不行,丞相必自來,來則殺之。」高使人請子嬰數輩,子嬰不行。高果自往,曰:「宗廟重事,王奈何不行?」子嬰遂刺殺高於齋宮,三族高家以徇。9月、趙高は子嬰に齋戒させ、廟で見えて玉璽を受ける。齋すること五日。子嬰は子2人と謀った。「丞相の趙高は、二世を望夷宮で殺した。(二世の仇として)郡臣に誅されることを恐れ、いつわって義を以て私を立てた。私は趙高が楚と『約』して、秦の宗室を滅して分けて関中で王になろうとしたと聞く。いま私に齋させ廟で見えるのは、廟中で私を殺すためだ。病といって行かねば、必ず丞相の趙高が自ら来るはず。殺そう」
趙高は人をやって、何度も子嬰を呼ぶが、子嬰が行かない。果たして趙高は自ら来て、「宗廟は重事である。王はなぜ行かない」と。子嬰はついに齋宮で趙高を刺殺した。趙高の三族を殺した。
遣將兵距嶢關,沛公欲擊之。張良曰:「秦兵尚強,未可輕。願先遣人益張旗幟於山上為疑兵,使酈食其、陸賈往說秦將,啖以利。」秦將果欲連和,沛公欲許之。張良曰:「此獨其將欲叛,恐其士卒不從;不如因其懈怠擊之。」沛公引兵繞嶢關,逾蕢山,擊秦軍,大破之藍田南。遂至藍田,又戰其北,秦兵大敗。將兵をつかわし、嶢関で防ぐ。沛公が撃とうとする。
張良「秦兵は尚ほ強し。未だ軽ろんず可からず。さきに人をやって旗幟を張り、山上に増やして疑兵とせよ。酈食其・陸賈が秦将に説き、利で誘いこめ」と。秦將は果たして(沛公と)連和したがり、沛公は許した。張良「これは秦将だけが反して(沛公に味方した)だけでであり、配下の士卒は随わない。秦将が油断したところを撃て」と。
張良もこのように人をだますのだ。沛公は嶢関を囲み、蕢山を越えて秦軍を撃つ。おおいに藍田の南で破る。ついに藍田に至り、その北と戦って秦兵は大いに敗る。
閉じる