范曄による党錮伝の前書き
吉川版で、党錮伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
『後漢書』のうち、党錮伝は、特殊な位置にある。循吏、酷吏、宦者など、「その他」の人たちをまとめた列伝は、巻末にあつまる。党錮伝だけ、前のほうにある。竇武、皇甫嵩、董卓、袁紹よりも前にある。まるで党錮が時代の主役で、つぎの時代を開いたかのような優遇だ。
また、党錮伝にある「尹勲伝」は、ちがう内容で2回載る。同姓同名でなく、同一人物だ。おそらく范曄が、原書を整理しているときに、「党錮だけは、強調しなくちゃね」と意気ごみ、ダブルで項目を設けてしまったのだ。
そういうわけで、党錮伝を読むと、『後漢書』がどちらの方向に偏っているか、わかる。わかれば、自分なりに、補整をかけることができる。「『後漢書』には、こう書いてあります」という話から、もう1つ進んで、『三国志』を描けると思う。
長くてつらいが、2011GW前、2時間早く退社できたので、党錮伝やります。
党錮は李膺がキッカケ
初,桓帝為蠡吾侯,受學于甘陵周福,及即帝位,擢福為尚書。時同郡河南尹房植有名當朝,鄉人為之謠曰:「天下規矩房伯武,因師獲印周仲進。」二家賓客,互相譏揣,遂各樹朋徒,漸成尤隙,由是甘陵有南北部,黨人之議,自此始矣。
まがったものを直し過ぎると、わざわいがある。范滂、張倹の事例だ。
桓帝が蠡吾侯のとき、甘陵の周福に学問を習う。桓帝が即位し、周福は尚書となる。同郡の河南尹する房植は、名声がある。郷人は謠言した。「天下の規矩たる、房植。桓帝の師ゆえに印綬を得た、周福」と。房植と周福の賓客は、そしりあった。党派をつくる。ゆえに甘陵の南北は、対立した。党人の議は、ここに始まった。
のちに汝南太守の宗資は、功曹の範滂を任じた。南陽太守の成瑨もまた、功曹の岑シツを任じた。2郡は謠言した。「汝南太守は范滂みたいなもの。南陽の宗資は、押印して書類に同意するだけ。南陽太守は岑公孝みたいなもの。弘農の成瑨は、すわってうそぶくだけ」と。
この流言は、太学にとどく。諸生は3万余人。郭林宗、賈偉節がトップ。李膺、陳蕃、王暢も、重んじられた。太学の中で語られた。「天下の模楷は、李元禮。不畏強禦は、陳仲舉。天下の俊秀、王叔茂」と。
また渤海の公族進階、扶風の魏齊卿は、直言して、豪強から隠れない。公卿より以下は、けなされることを畏れた。名声ある人を、そそくさ訪問した。
ときに河內の張成は、よく風角を説く。張成は、恩赦があると占った。子に殺人させた。李膺は河南尹となり、張成を收捕したが、赦免された。李膺は怒り、張成を殺した。
はじめ張成は宦官と交通した。桓帝も、張成の占いを信じた。張成の弟子・牢修は、桓帝にむけて、李膺を誣告した。「李膺は、太学の遊士をやしなう。諸郡の生徒と交結し、部黨をつくる。朝廷を誹訕する」と。桓帝は震怒し、郡國に黨人を逮捕させた。李膺を收執した。陳寔ら200余人が、連座した。党人を逃がすまいと、金をバラまいた。四方の道で、党人を見張った。
翌年、尚書の霍諝、城門校尉の竇武は、桓帝にねがい、党人を赦してもらう。田里にかえり、禁固は終身。黨人の名は、王府のブラックリストに記されたまま。
曹節が殺害を開始
これより、正しいものが廃された。邪悪なものが、盛んとなる。天下の名士に、称号をつくる。序列は、三君、八俊、八顧、八及、八廚である。古代にあった、八元、八凱みたいなもの。
竇武、劉淑、陳蕃を、三君とする。君とは、一世之所宗をいう。
李膺、荀翌、杜密、王暢、劉祐、魏朗、趙典、朱ウを、八俊とする。俊とは、人之英をいう。郭林宗、宗慈、巴肅、夏馥、范滂、尹勳、蔡衍、羊陟を、八顧という。顧とは、能以德行引人者をいう。
張儉、岑晊、劉表、陳翔、孔昱、苑康、檀敷、翟超を、八及という。及とは、能導人追宗者をいう。度尚、張邈、王考、劉儒、胡母班、秦周、蕃向、王章を、八廚という。廚者とは、能以財救人者をいう。
また張倹の郷人・朱並は、中常侍の侯覽に迎合した。「同郷の24人が、部党をつくり、社稷を危うくする」と、上書してチクった。張倹、檀彬、褚鳳、張肅、薛蘭、馮禧、魏玄、徐乾を、八俊という。田林、張隱、劉表、薛郁、王訪、劉詆、宣靖、公緒恭を、八顧という。朱楷、田槃、B363耽、薛敦、宋布、唐龍、嬴咨、宣褒を、八及という。名声のリストを石碑にきざむ。張倹をトップに、部党をくむと。
張倹に見捨てられた朱並が、張倹を陥れるためにつくったリスト。スケールが小さく、とくに意味はない。同郷から、知り合いを見繕っただけ。おそらく朱並も、もとは仲間。25人目。
霊帝は石碑をけずり、張倹を捕らえた。大長秋の曹節は、諷して上奏した。「もと党人、もと司空の虞放、太僕の杜密、長樂少府の李膺、司隸校尉の朱ウ、潁川太守の巴肅、沛相の荀昱、河內太守の魏朗、山陽太守の翟超、任城相の劉儒、太尉掾の范滂ら100余人を、獄死させた。
州郡は、霊帝の意思をうけ、関係がない人も党人にふくめた。死罪、徙罪、禁固は、6、7百人。
180年代は、党錮がゆるむ
光和二年,上祿長和海上言:「禮,從祖兄弟別居異財,恩義已輕,服屬疏末。而今黨人錮及五族,既乖典訓之文,有謬經常之法。」帝覽而悟之,黨錮自從祖以下,皆得解釋。
熹平五年(167)、永昌太守の曹鸞は、上書した。きつく「党人をゆるせ」と言った。霊帝は怒り、曹鸞を殺した。党人の五属まで、免官、禁固された。
光和二年(179)、上祿長の和海が上言した。「五族は、党錮の範囲をひろげすぎだ」と。霊帝は、党錮の範囲をせばめた。
中平元年、黄巾。中常侍の呂強が霊帝に言った。「黨錮久積,人情多怨。若久不赦宥,輕與張角合謀,為變滋大,悔之無救。」と。党人を大赦した。誅徙された人の家族は、みな故郡に帰る。黄巾により、朝野は崩離した。
党錮の事件は、甘陵、汝南から始まり、李膺、張儉の事件で成立した。海內の塗炭は、20余年だ。三君、八俊ら35人の行状を、記録しよう。陳蕃、竇武、王暢、劉表、度尚、郭林宗は、べつに列伝がある。荀昱は、荀淑伝につく。張邈は、呂布伝につく。胡母班は、袁紹伝につく。
王考は、あざなを文祖という。東平の壽張の人だ。冀州刺史となる。秦周は、あざなを平王。陳留の平丘の人だ。北海相となる。蕃向は、あざなを嘉景という。魯國の人だ。郎中となる。王璋は、あざなを伯儀という。東萊の曲城の人だ。少府卿となる。官位と行状は、明らかでない。
翟超は、山陽太守となる。陳蕃伝につく。あざなと出身は未詳。朱ウは、沛の人。杜密らとともに獄死した。趙典は、名が見えるだけで、ほかは不明。
次回から、列伝が始まります。前置き、長かった。つづく。