張倹、岑晊、陳翔、孔昱、苑康、檀敷、劉儒、賈彪
吉川版で、党錮伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
侯覧を弾劾し、宿を借りた10家が滅亡した張倹
延熹八年,太守翟超請為東部督郵。時中常侍侯覽家在防東,殘暴百姓,所為不軌。儉舉劾覽及其母罪惡,請誅之。覽遏絕章表,並不得通,由是結仇。
張儉は、あざなを元節。山陽の高平の人だ。趙王・張耳の後裔だ。父の張成は、江夏太守。茂才にあがるが、刺史が人でなしなので、起たず。
延熹八年(165)、山陽太守の翟超に請われ、東部の督郵となる。中常侍の侯覽の家があり、百姓を殘暴する。張倹は、侯覧とその母を弾劾し、誅したい。侯覧にうらまれた。
郷人の朱並は、佞邪だから、張倹から相手にされない。朱並は「張倹は、同郡24人と徒党をくむ」と言った。張倹は遁走した。誰もかくまわない。東萊の李篤に入れてもらった。張倹がウロウロしたので、10家が誅された。宗族や郡県は、滅びてしまった。
建安初,征為衛尉,不得已而起。儉見曹氏世德已萌,乃闔門縣車,不豫政事。歲余卒于許下。年八十四。
中平元年(184)、党錮が解けた。郷里にかえる。大將軍、三公府に辟された。敦樸の科目にあがる。少府にめされた。みな就かず。献帝の初め、財産をかたむけて、山陽の邑里をすくう。
建安初(196)、衛尉となる。やむを得ず、起つ。張倹は、曹氏の世德が始まると思った。政事にかかわらず。84歳で死んだ。
上司・南陽太守の成瑨を殺した功曹、岑晊
岑晊は、あざなを公孝。南陽の棘陽の人だ。父の岑豫は、南郡太守となる。岑豫は貪欲なので、誅された。岑晊は、同郡の宗慈をたずねた。宗慈は、有道の科目で、めされるところ。岑晊は良家でないから、宗慈に会えない。宗慈に評価され、ともに洛陽へゆく。岑晊は、太学でまなぶ。
なぜ汝南の敗者は、史料がおおいか。「汝南の人材が新興し、腐敗した後漢を正した。あげく、後漢を倒した」というのが、『後漢書』が提示する歴史観か。しかし、偏っていそうだ。ほかの土地でも敗者が多いが、汝南の敗者のみ、悲劇の英雄として強調されたとか。もっと、いろんな場合分けを、考える必要がありそう。
太守弘農成瑨下車,欲振威嚴,聞晊高名,請為功曹,又以張牧為中賊曹吏。瑨委心晊、牧,褒善糾違,肅清朝府。宛有富賈張汎者,桓帝美人之外親,善巧雕鏤玩好之物,頗以賂遺中官,以此並得顯位,恃其伎巧,用勢縱橫。晊與牧勸B449收捕汎等,既而同赦,晊竟誅之,並收其宗族賓客,殺二百餘人,後乃奏聞。於是中常侍侯覽使汎妻上書訟其兔。帝大震怒,征B449,下獄死。晊與牧亡匿齊魯之間。會赦出。後州郡察舉,三府交辟,並不就。及李、杜之誅,因複逃竄,終於江夏山中雲。
郭泰、朱穆(列伝33)は、岑晊の友となる。李膺、王暢は、岑晊の才幹をたたえた。岑晊は村里にいても、天下の志があった。
南陽太守の成瑨が着任した。成瑨は、岑晊を功曹として、政治をゆだねた。桓帝の美人の外親は、富商の張汎だ。岑晊は、富商の張汎をとらえ、宗族や賓客200余人を殺した。
中常侍の侯覧は、妻をつかって上書した。桓帝は震怒し、成瑨を獄死させた。岑晊は、斉魯の間にかくれる。李膺と杜密が誅されたので、江夏の山中にかくれた。江夏で、死んだという。
梁冀の不敬、徐璜の弟・徐参をとがめた陳翔
陳翔は、あざなを子麟。汝南の邵陵の人だ。祖父の陳珍は、司隸校尉。孝廉、太尉の周景に辟され、高第、侍御史。元日の朝賀で、梁冀は威儀が整わない。陳翔は、梁冀が不敬だから、罪だとした。定襄太守、議郎。
揚州刺史となる。豫章太守の王永と、吳郡太守の徐參は、宦官とむすびついて貪汚。廷尉にひきわたす。徐参は、中常侍・徐璜の弟。議郎、禦史中丞となる。党錮により、黃門北寺獄にくだる。証拠がなく、ゆるされた。家で死んだ。
孔子の子孫、孔昱
孔昱は、あざなを元世。魯國の魯の人だ。七世の祖父・孔霸は、成帝のとき九卿、褒成侯。孔霸から孔昱まで、爵位をつぎ、卿相牧守53人、列侯7人をだした。
孔昱は、大将軍の梁冀に辟された。応じず。太尉は方正の科目であげたが、こたえず。党事にあい、禁固された。霊帝が即位し、議郎、洛陽令。師が死んだので、棄官した。家で死んだ。
張倹の侯覧弾圧に協力した、泰山太守の苑康
苑康は、あざなを仲真。勃海の重合の人だ。太学で、郭泰と親善した。孝廉、潁陰令、太山太守。郡内の豪姓を取り締まった。豪姓は、うばった田宅を返した。
このとき、山陽の張儉は、中常侍・侯覧の母を殺した。宗党や賓客を取り締まった。山陽から、泰山に逃げこむ人がいた。苑康は、すべて捕まえた。侯覧は、苑康を怨む。侯覧は誣告した。「苑康と、兗州刺史の第五種(列伝31)と、都尉の壺嘉は、投降した賊の人数をいつわって報告した」と。苑康は廷尉にわたされ、日南に徙さる。潁陰の人と、太山の羊陟は、苑康のために訴えた。苑康は本郡にもどり、家で死んだ。
子や孫と、1枚の服を着まわした檀敷
檀敷は、あざなを文有。山陽の瑕丘の人だ。霊帝が即位し、太尉の黃瓊から、方正に挙げられた。議郎、蒙令。上司にあたる郡守が、人でなし。棄官して去った。家に産業がない。子や孫は、おなじ服を着まわした。80歳で、家で死んだ。
桓帝に直言し、竇武とともに死んだ劉儒
劉儒は、あざなを叔林。東郡の陽平の人だ。郭泰は言った。「劉儒は口下手だが、性質がよい」と。桓帝のとき、災異の理由を直言した。桓帝は納れず。任城相、議郎。竇武に連座して、獄中で自殺した。
第一次・党錮の禁を解除した、潁川の賈彪
初仕州郡,舉孝廉,補新息長。小民困貧,多不養子,彪嚴為其制,與殺人同罪。城南有盜劫害人者,北有婦人殺子者,彪出案發,而掾吏欲引南。彪怒曰:「賊冠害人,此則常理,母子相殘,逆天違道。」遂驅車北行,案驗其罪。城南賊聞之,亦面縛自首。數年間,人養子者千數,僉曰:「賈父所長」,生男名為「賈子」,生女名為「賈女」。
賈彪は、あざなを偉節。潁川の定陵の人だ。同郡の荀爽と、名声がひとしい。
はじめ州郡につかえ、孝廉、新息長。子供を間引けば、殺人と同罪とした数年のうち、間引かれなかった子供が、1千人を数える。みな言った。「賈彪がやしなった子だ」と。男子は「賈子」、女子は「賈女」とよぶ。
延熹九年(166)、党事が起こる。太尉の陳蕃は、やぶれた。賈彪は同志に言った。「私が、潁川から西の洛陽にゆかねば、大きな禍いは解けない」と。洛陽にゆく。城門校尉の竇武、尚書の霍諝に説いた。竇武、霍諝とともに、党人を赦せと訴えた。李膺は釈放された。李膺は言った。「私が免れたのは、賈彪のはかりごとだ」と。
以党禁錮,卒於家。初,彪兄弟三人,並有高名,而彪最優,故天下稱曰「賈氏三虎,偉節最怒」。
これより先、岑晊は党事のため逃亡した。賈彪だけは、岑晊をかくまわない。賈彪は言った。「他人をわずらわせ、上司に罪を負わせてはいけないのだ」と。みな、賈彪の言い分に納得した。
党人が禁固された。賈彪は、家で死んだ。賈彪は、3人兄弟だ。3人のうち、賈彪の偉節が、もっとも怒(たけ)り、すぐれていた。
竇武と陳蕃とちかく、168年に汝南に隠れた何顒
及陳蕃、李膺之敗,顒以與蕃、膺善,遂為宦官所陷,乃變姓名,亡匿汝南間。所至皆親其豪桀,有聲荊豫之域。袁紹慕之,私與往來,結為奔走之友。
何顒は、あざなを伯求という。南陽の襄郷の人だ。洛陽に遊学した。何顒は後進だが、郭泰と賈彪は、何顒と親しくつきあう。太學で知られた。友人の虞偉高に代わり、父の仇討をした。墓前に、仇敵の頭をそなえた。
陳蕃と李膺が敗れた。何顒は、陳蕃と李膺と、仲がよい。何顒は、宦官に陥れられた。姓名をかえ、汝南の間にかくれた。
豪傑と親しく、荊州、豫州で名声がある。袁紹に慕われた。奔走の友となる。
『後漢書』何顒伝:何顒グループの母体は、袁氏と荀氏か
ああ、疲れた。明日から2011GWが始まります。110428