表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝57・党錮列伝を抄訳

張倹、岑晊、陳翔、孔昱、苑康、檀敷、劉儒、賈彪

吉川版で、党錮伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。


侯覧を弾劾し、宿を借りた10家が滅亡した張倹

張儉字元節,山陽高平人,趙王張耳之後也。父成,江夏太守,儉初舉茂才,以刺史非其人,謝病不起。
延熹八年,太守翟超請為東部督郵。時中常侍侯覽家在防東,殘暴百姓,所為不軌。儉舉劾覽及其母罪惡,請誅之。覽遏絕章表,並不得通,由是結仇。

張儉は、あざなを元節。山陽の高平の人だ。趙王・張耳の後裔だ。父の張成は、江夏太守。茂才にあがるが、刺史が人でなしなので、起たず。
延熹八年(165)、山陽太守の翟超に請われ、東部の督郵となる。中常侍の侯覽の家があり、百姓を殘暴する。張倹は、侯覧とその母を弾劾し、誅したい。侯覧にうらまれた。

鄉人朱並,素性佞邪,為儉所棄,並懷怨恚,遂上書告儉與同郡二十四人為黨,於是刊章討捕。儉得亡命,困迫遁走,望門投止,莫不重其名行,破家相容。後流轉東萊,止李篤家。外黃令毛欽操兵到門,篤引欽謂曰:「張儉知名天下,而亡非其罪。縱儉可得,寧忍執之乎?」欽因起撫篤曰:「蘧伯玉恥獨為君子,足下如何自專仁義?」篤曰:「篤雖好義,明廷今日載其半矣。」欽歎息而去。篤因緣送儉出塞,以故得免。其所經歷,伏重誅者以十數,宗親並皆殄滅,郡縣為之殘破。

郷人の朱並は、佞邪だから、張倹から相手にされない。朱並は「張倹は、同郡24人と徒党をくむ」と言った。張倹は遁走した。誰もかくまわない。東萊の李篤に入れてもらった。張倹がウロウロしたので、10家が誅された。宗族や郡県は、滅びてしまった。

中平元年,党事解,乃還鄉里。大將軍、三公並辟,又舉敦樸,公車特徵,起家拜少府,皆不就。獻帝初,百姓饑荒,而儉資計差溫,乃傾竭財產,與邑裏共之,賴其存者以百數。
建安初,征為衛尉,不得已而起。儉見曹氏世德已萌,乃闔門縣車,不豫政事。歲余卒于許下。年八十四。

中平元年(184)、党錮が解けた。郷里にかえる。大將軍、三公府に辟された。敦樸の科目にあがる。少府にめされた。みな就かず。献帝の初め、財産をかたむけて、山陽の邑里をすくう。 建安初(196)、衛尉となる。やむを得ず、起つ。張倹は、曹氏の世德が始まると思った。政事にかかわらず。84歳で死んだ。

めずらしく、生き延びたパタンでした。さんざん、宿を借りた家に、災難をバラまいたくせに。


上司・南陽太守の成瑨を殺した功曹、岑晊

岑晊字公孝,南陽棘陽人也。父豫,為南郡太守,以貪叨誅死。晊年少未知名,往侯同郡宗慈,慈方以有道見征,賓客滿門,以晊非良家子,不肯見。晊留門下數日,晚乃引入。慈與語,大奇之,遂將俱至洛陽,因詣太學受業。

岑晊は、あざなを公孝。南陽の棘陽の人だ。父の岑豫は、南郡太守となる。岑豫は貪欲なので、誅された。岑晊は、同郡の宗慈をたずねた。宗慈は、有道の科目で、めされるところ。岑晊は良家でないから、宗慈に会えない。宗慈に評価され、ともに洛陽へゆく。岑晊は、太学でまなぶ。

汝南の人脈。潁川や汝南が、さっきから多い。この土地は、党錮の人材がおおいのか。党錮は、ひらたく言えば、後漢後期の政治的な敗者である。
なぜ汝南の敗者は、史料がおおいか。「汝南の人材が新興し、腐敗した後漢を正した。あげく、後漢を倒した」というのが、『後漢書』が提示する歴史観か。しかし、偏っていそうだ。ほかの土地でも敗者が多いが、汝南の敗者のみ、悲劇の英雄として強調されたとか。もっと、いろんな場合分けを、考える必要がありそう。


晊有高才,郭林宗、朱公叔等皆為友,李膺、王暢稱其有幹國器,雖在閭裏,慨然有董正天下之志。
太守弘農成瑨下車,欲振威嚴,聞晊高名,請為功曹,又以張牧為中賊曹吏。瑨委心晊、牧,褒善糾違,肅清朝府。宛有富賈張汎者,桓帝美人之外親,善巧雕鏤玩好之物,頗以賂遺中官,以此並得顯位,恃其伎巧,用勢縱橫。晊與牧勸B449收捕汎等,既而同赦,晊竟誅之,並收其宗族賓客,殺二百餘人,後乃奏聞。於是中常侍侯覽使汎妻上書訟其兔。帝大震怒,征B449,下獄死。晊與牧亡匿齊魯之間。會赦出。後州郡察舉,三府交辟,並不就。及李、杜之誅,因複逃竄,終於江夏山中雲。

郭泰、朱穆(列伝33)は、岑晊の友となる。李膺、王暢は、岑晊の才幹をたたえた。岑晊は村里にいても、天下の志があった。
南陽太守の成瑨が着任した。成瑨は、岑晊を功曹として、政治をゆだねた。桓帝の美人の外親は、富商の張汎だ。岑晊は、富商の張汎をとらえ、宗族や賓客200余人を殺した。

すごい。やっちゃった。南陽太守の成瑨と、汝南太守の宗資は、功曹に有能な人がいた。功曹は、頼りになるけれど、党錮への弾圧をつれてくる。こわいことです。

中常侍の侯覧は、妻をつかって上書した。桓帝は震怒し、成瑨を獄死させた。岑晊は、斉魯の間にかくれる。李膺と杜密が誅されたので、江夏の山中にかくれた。江夏で、死んだという。

梁冀の不敬、徐璜の弟・徐参をとがめた陳翔

陳翔字子麟,汝南邵陵人也。祖父珍,司隸校尉。翔少知名,善交結。察孝廉,太尉周景辟舉高第,拜侍御史。時正旦朝賀,大將軍梁冀威儀不整。翔奏冀恃貴不敬,請收案罪,時人奇之。遷定襄太守,征拜議郎,遷揚州刺史。舉奏豫章太守王永奏事中官,吳郡太守徐參在職貪穢,並征詣廷尉。參,中常侍璜之弟也。由此威名大振。又征拜議郎,補禦史中丞。坐党事考黃門北寺獄,以無驗見原,卒於家。

陳翔は、あざなを子麟。汝南の邵陵の人だ。祖父の陳珍は、司隸校尉。孝廉、太尉の周景に辟され、高第、侍御史。元日の朝賀で、梁冀は威儀が整わない。陳翔は、梁冀が不敬だから、罪だとした。定襄太守、議郎。
揚州刺史となる。豫章太守の王永と、吳郡太守の徐參は、宦官とむすびついて貪汚。廷尉にひきわたす。徐参は、中常侍・徐璜の弟。議郎、禦史中丞となる。党錮により、黃門北寺獄にくだる。証拠がなく、ゆるされた。家で死んだ。

汝南出身。梁冀や徐璜を攻撃したのに、助かった。不思議。


孔子の子孫、孔昱

孔昱字元世,魯國魯人也。七世祖霸,成親時曆九卿,封褒成侯。自霸至昱,爵位相系,其卿相牧守五十三人,列侯七人。昱少習家學,大將軍梁冀辟,不應。太尉舉方正,對策不合,乃辭病去。後遭黨事禁錮。靈帝即位,公車征拜議郎,補洛陽令,以師喪棄官,卒於家。

孔昱は、あざなを元世。魯國の魯の人だ。七世の祖父・孔霸は、成帝のとき九卿、褒成侯。孔霸から孔昱まで、爵位をつぎ、卿相牧守53人、列侯7人をだした。
孔昱は、大将軍の梁冀に辟された。応じず。太尉は方正の科目であげたが、こたえず。党事にあい、禁固された。霊帝が即位し、議郎、洛陽令。師が死んだので、棄官した。家で死んだ。

孔融との関係が、よくわからん。家学は『尚書』。


張倹の侯覧弾圧に協力した、泰山太守の苑康

苑康字仲真,勃海重合人也。少受業太學,與郭林宗親善。舉孝廉,再遷潁陰令,有能跡。遷太山太守。郡內豪姓多不法,康至,奮威怒,施嚴令,莫有干犯者。先所請奪人田宅,皆遽還之。

苑康は、あざなを仲真。勃海の重合の人だ。太学で、郭泰と親善した。孝廉、潁陰令、太山太守。郡内の豪姓を取り締まった。豪姓は、うばった田宅を返した。

よく登場する「豪姓」は、どういう人か。泰山にいる「豪姓」だから、強そう。


是時,山陽張儉殺常侍侯覽母,案其宗黨賓客,或有迸匿太山界者,康既常疾閹官,因此皆窮相收掩,無得遺脫。覽大怨之,誣康與兗州刺史第五種及都尉壺嘉詐上賊降,征康詣廷尉獄,減死罪一等,徙日南。潁陰人及太山羊陟等詣闕為訟,乃原還本郡,卒於家。

このとき、山陽の張儉は、中常侍・侯覧の母を殺した。宗党や賓客を取り締まった。山陽から、泰山に逃げこむ人がいた。苑康は、すべて捕まえた。侯覧は、苑康を怨む。侯覧は誣告した。「苑康と、兗州刺史の第五種(列伝31)と、都尉の壺嘉は、投降した賊の人数をいつわって報告した」と。苑康は廷尉にわたされ、日南に徙さる。潁陰の人と、太山の羊陟は、苑康のために訴えた。苑康は本郡にもどり、家で死んだ。

子や孫と、1枚の服を着まわした檀敷

檀敷字文有,山陽瑕丘人也。少為諸生,家貧而志清,不受鄉里施惠。舉孝廉,連辟公府,皆不就。立精舍教授,遠方至者常數百人。桓帝時,博士征,不就。靈帝即位,太尉黃瓊舉方正,對策合時宜,再遷議郎,補蒙令。以郡守非其人,棄官去。家無產業,子孫同衣而出。年八十,卒於家。

檀敷は、あざなを文有。山陽の瑕丘の人だ。霊帝が即位し、太尉の黃瓊から、方正に挙げられた。議郎、蒙令。上司にあたる郡守が、人でなし。棄官して去った。家に産業がない。子や孫は、おなじ服を着まわした。80歳で、家で死んだ。

あまり「党錮」でない。ただ太守が気に食わなかっただけ。


桓帝に直言し、竇武とともに死んだ劉儒

劉儒字叔林,東郡陽平人也。郭林宗常謂儒口訥心辯,有珪璋之質。察孝廉,舉高第,三遷侍中。桓帝時,數有災異,下策博求直言,儒上封事十條,極言得失,辭甚忠切。帝不能納,出為任城相。頃之,征拜議郎。會竇武事,下獄自殺。

劉儒は、あざなを叔林。東郡の陽平の人だ。郭泰は言った。「劉儒は口下手だが、性質がよい」と。桓帝のとき、災異の理由を直言した。桓帝は納れず。任城相、議郎。竇武に連座して、獄中で自殺した。

第一次・党錮の禁を解除した、潁川の賈彪

賈彪字偉節,潁川定陵人也。少游京師,志節慷慨,與同郡荀爽齊名。
初仕州郡,舉孝廉,補新息長。小民困貧,多不養子,彪嚴為其制,與殺人同罪。城南有盜劫害人者,北有婦人殺子者,彪出案發,而掾吏欲引南。彪怒曰:「賊冠害人,此則常理,母子相殘,逆天違道。」遂驅車北行,案驗其罪。城南賊聞之,亦面縛自首。數年間,人養子者千數,僉曰:「賈父所長」,生男名為「賈子」,生女名為「賈女」。

賈彪は、あざなを偉節。潁川の定陵の人だ。同郡の荀爽と、名声がひとしい。
はじめ州郡につかえ、孝廉、新息長。子供を間引けば、殺人と同罪とした数年のうち、間引かれなかった子供が、1千人を数える。みな言った。「賈彪がやしなった子だ」と。男子は「賈子」、女子は「賈女」とよぶ。

延熹九年,黨事起,太尉陳蕃爭之不能得,朝廷寒心,莫敢複言。彪謂同志曰:「吾不西行,大禍不解。」乃入洛陽,說城門校尉竇武、尚書霍諝,武等訟之,桓帝以此大赦黨人。李膺出,曰:「吾得免此,賈生之謀也。」

延熹九年(166)、党事が起こる。太尉の陳蕃は、やぶれた。賈彪は同志に言った。「私が、潁川から西の洛陽にゆかねば、大きな禍いは解けない」と。洛陽にゆく。城門校尉の竇武、尚書の霍諝に説いた。竇武、霍諝とともに、党人を赦せと訴えた。李膺は釈放された。李膺は言った。「私が免れたのは、賈彪のはかりごとだ」と。

先是,岑晊以黨事逃亡,親友多匿焉,彪獨閉門不納,時人望之。彪曰:「《傳》言'相時而動,無累後人'。公孝以要君致釁,自遺其咎,吾以不能奮戈相待,反可容隱之乎?」於是鹹服其裁正。
以党禁錮,卒於家。初,彪兄弟三人,並有高名,而彪最優,故天下稱曰「賈氏三虎,偉節最怒」。

これより先、岑晊は党事のため逃亡した。賈彪だけは、岑晊をかくまわない。賈彪は言った。「他人をわずらわせ、上司に罪を負わせてはいけないのだ」と。みな、賈彪の言い分に納得した。

ぼくも納得した。党人の活動は、ひとりでやってくれ。

党人が禁固された。賈彪は、家で死んだ。賈彪は、3人兄弟だ。3人のうち、賈彪の偉節が、もっとも怒(たけ)り、すぐれていた。

竇武と陳蕃とちかく、168年に汝南に隠れた何顒

何顒字伯求,南陽襄鄉人也。少遊學洛陽。顒雖後進,而郭林宗、賈偉節等與之相好,顯名太學。友人虞偉高有父仇未報,而篤病將終,顒往候之,偉高泣而訴。顒感其義,為復仇,以頭DD3C其墓。
及陳蕃、李膺之敗,顒以與蕃、膺善,遂為宦官所陷,乃變姓名,亡匿汝南間。所至皆親其豪桀,有聲荊豫之域。袁紹慕之,私與往來,結為奔走之友。

何顒は、あざなを伯求という。南陽の襄郷の人だ。洛陽に遊学した。何顒は後進だが、郭泰と賈彪は、何顒と親しくつきあう。太學で知られた。友人の虞偉高に代わり、父の仇討をした。墓前に、仇敵の頭をそなえた。

郭泰と賈彪より下。だけど、名声。ポジションをチェック。

陳蕃と李膺が敗れた。何顒は、陳蕃と李膺と、仲がよい。何顒は、宦官に陥れられた。姓名をかえ、汝南の間にかくれた。

何顒が「通史」に登場するなら、ここである。168年。

豪傑と親しく、荊州、豫州で名声がある。袁紹に慕われた。奔走の友となる。

ここまでつくり、以前に何顒伝をやったことを思い出した。以下、略す。
『後漢書』何顒伝:何顒グループの母体は、袁氏と荀氏か


ああ、疲れた。明日から2011GWが始まります。110428