劉淑、李膺、杜密、劉祐
吉川版で、党錮伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
桓帝に尊重され、竇武との交通をそしられた劉淑
劉淑は、あざなを仲承。河間の樂成の人だ。祖父の劉稱は、司隸校尉。劉淑は『五經』にくわしい。隠居して私塾をひらき、数百人をあつめる。州郡、五府に辟されたが、就かず。永興二年(154)、司徒の种暠が、賢良方正にあげる。桓帝は、病気という劉淑を、輿にのせて京師にはこぶ。議郎となる。
尚書、侍中、虎賁中郎將。「宦官をやめよ」と言った。桓帝は用いない。だが劉淑は、罰せられない。宗室の賢者だから、とくに敬われた。霊帝が即位した。竇武らと通謀するとそしられ、下獄された。自殺した。
陳蕃が用い、張倹に連座した李膺
初舉孝廉,為司徒胡廣所辟,舉高第,再遷青州刺史。守令畏威明,多望風棄官。複征,再遷漁陽太守。尋轉蜀郡太守,以母老乞不之官。轉護烏桓校尉。鮮卑數犯塞,膺常蒙矢石,每破走之,虜甚憚懾。以公事免官,還居綸氏,教授常千人。南陽樊陵求為門徒,膺謝不受。陵後以阿附宦官,致位太尉,為節志者所羞。荀爽嘗就謁膺,因為其禦,既還,喜曰:「今日乃得禦李君矣。」其見慕如此。
李膺は、あざなを元禮という。潁川の襄城の人だ。祖父の李脩は、安帝のとき太尉だ。父の李益は、趙國相。李膺は、同郡の荀淑、陳寔を師友とした。
孝廉にあがり、司徒の胡廣に辟された。高第、青州刺史、漁陽太守、蜀郡太守。母が置いたので、蜀郡にゆかない。護烏桓校尉となる。戦闘した。鮮卑に憚られた。公事により免官。南陽の樊陵は、李膺の門徒になりたい。のちに樊陵は、宦官にへつらい、司徒となる。恥とされた。荀爽は、かつて李膺の御者となり、喜んだ。「今日、私・荀爽は、李膺の御者になれた」と。このように李膺は慕われた。
延熹二年征,再遷河南尹。時宛陵大姓羊元群罷北海郡,臧罪狼籍,郡舍B364軒有奇巧,乃載之以歸。膺表欲按其罪,元群行賂宦豎,膺反坐輸作左校。
永壽二年(156)、鮮卑が雲中を寇した。桓帝は、李膺を度遼將軍とする。遠域まで、李膺の威服はとどく。
延熹二年(159)、河南尹。宛陵の大姓・羊元群は、北海太守をやめた。賄賂と狼藉で、財産がたっぷり。李膺は取り締まった。宦官により、ぎゃくに李膺が輸作左校された。
昔秦人觀寶于楚,昭奚恤蒞以群賢;梁惠王瑋其照乘之珠,齊威王答以四臣。夫忠賢武將,國之心膂。竊見左校B12D刑徒前廷尉馮緄、大司農劉祐、河南尹李膺等,執法不撓,誅舉邪臣,肆之以法,眾庶稱宜。昔季孫行父親逆君命,逐出莒僕,於舜之功二十之一。今膺等投身強禦,畢力致罪,陛下既不聽察,而猥受譖訴,遂令忠臣同愆元惡。自春迄冬,不蒙降恕,遐邇觀聽,為之歎息。夫立政之要,記功忘失,是以武帝舍安國於徒中,宣帝征張敞於亡命。緄前討蠻荊,均吉甫之功。祐數臨督司,有不吐菇之節。膺著威幽、並,遺愛度遼。今三垂蠢動,王旅未振。《易》稱「雷雨作解,君子以赦過宥罪」。乞原膺等,以備不虞。 書奏,乃悉免其刑。
はじめ李膺と、廷尉の馮緄(列伝28)、大司農の劉祐らは、宦官を罰した。輸作させられた。司隷校尉の応奉(列伝38)は、李膺らを弁護した。応奉のおかげで、李膺らは、刑を免じられた。
李膺は、司隷校尉となる。張譲の弟・張朔を、柱をやぶって殺した。宦官は、休暇も外出しない。桓帝が宦官に、理由を聞いた。「司隷校尉の李膺を畏れます」と。
朝廷はゆるむが、李膺だけ名声がある。李膺と会うことを「登竜門」とする。党錮のとき、太尉の陳蕃は言った。
「海内の名士を、取り締まってるな」と。桓帝は怒り、李膺を黄門北寺獄にいれた。李膺は、宦官の子弟を取り締まったから、懼れられた。大赦があり、郷里に帰る。山中にいる。
陳蕃が太尉を免じられると、朝野の意思は、李膺に属した。
荀爽は、李膺を心配した。「桓帝は、人材を見る目がない。李膺は名声がたかい。気をつけろ」と。このころ’167年末)、桓帝が死んだ。陳蕃は太傅となる。竇武とともに朝政をにぎる。李膺は、長楽少府となる。陳蕃が敗れると、李膺は廃された。
時,侍御史蜀郡景毅子顧為膺門徒,而未有錄牒,故不及於譴。毅乃慨然曰:「本謂膺賢,遣子師之,豈可以漏奪名籍,苟安而已!」遂自表免歸,時人義之。
のちに張倹の事件により、党人が捕われた。郷人は李膺に言う。「にげろ」と。李膺は言った。「罪があれば、刑を逃れない。私は60歳だ。生死は、天命だ。にげない」と。李膺は獄死した。故吏や父兄は、禁固された。
」後張儉事起,收捕鉤黨,鄉人謂膺曰:「可去矣」。對曰:「事不辭難,罪不逃刑,臣之節也。吾年已六十,死生有命,去將安之?」乃詣ときに侍御史する蜀郡の景毅は、子を景顧という。景顧は、ブラックリストにのらないので、禁固されない。景顧は言った。「私も李膺に師事した。禁固してくれ」と。みずから免官した。
李膺の子は、李瓚だ。東平相となる。曹操が無名のとき、李瓚は曹操の才能をみとめた。死にぎわ、李瓚は言った。「天下の英雄は、曹操がいちばん。張邈は私と仲がよく、袁紹は私の外親(母方の親戚)だ。しかし曹操をたよれ」と。
李瓚の子らは、曹操をたより、乱世をまぬがれた。
李固と杜密に匹敵する、李膺の同志・杜密
杜密は、あざなを周甫。潁川の陽城の人だ。司徒の胡廣に辟され、代郡太守となる。泰山太守、北海相。宦官の子弟のうち、県令、県長する人を取り締まった。高密縣で、鄭玄と会った。鄭玄を北海国でもちいた。
のちに去官、帰家した。同郡の劉勝も、蜀郡から郷里にもどる。潁川太守の王昱は、杜密に言った。「劉勝は、公卿から挙げられている」と。杜密は、王昱が自分を励まし、焦らせにきたと知った。うまく言い返した。王昱は、杜密の返答に感心した。
桓帝にめされ、尚書令、河南尹、太僕となる。党錮のとき、本郡にもどる。李膺に連座した。ときに人は「李膺と杜密は、李固と杜喬の再来だ」と言った。のちに陳蕃が輔政すると、太僕となる。翌年、党錮にて自殺した。
宦官の子弟を罰し、党錮の前年に死去・劉祐
除任城令,兗州舉為尤異,遷揚州刺史。是時會稽太守梁旻,大將軍冀之從弟也。祐舉奏其罪,旻坐征。複遷祐河東太守。時屬縣令長率多中官子弟,百姓患之。祐到,黜其權強,平理冤結,政為三河表。
劉祐は、あざなを伯祖。中山の安國の人だ。安國は、のちに博陵に属す。劉祐は、孝廉、尚書侍郎。故事にくわしく、同僚にたよられた。
任城令となる。兗州から、尤異に挙げられる。揚州刺史。ときに會稽太守の梁旻は、梁冀の従弟だ。梁旻の罪を奏した。
河東太守となる。県令、県長は、宦官の子弟だ。宦官の子弟をしりぞけた。劉祐の政治は、三河(河東、河内、河南)の標準となる。
延熹四年(161)、尚書令となる。河南尹、司隸校尉。權貴の子弟は、劉祐が管轄する京師に入るとき、服装をあらため、財産をかくした。宗正、大司農。ときに中常侍の蘇康、管霸は、良田や山林から収入をとる。劉祐は、蘇康、管霸から財産を没収した。桓帝は大怒し、劉瑜を輸左校とした。
靈帝初,陳蕃輔政,以祐為河南尹。及蕃敗,祐黜歸,卒於家。明年,大誅黨人,幸不及禍。
赦され、三卿を歴任した。病気で、面会を断つ。三公に欠員するたび、朝廷は劉祐を三公にしたい。讒言があり、劉祐は三公とならず。延篤(列伝54)は、劉祐に文書をおくる。「高位に登らないことが、美徳である」と。
霊帝のはじめ、陳蕃が輔政した。劉祐を、河南尹とする。陳蕃が敗れると、劉祐は家で死んだ。劉祐が死んだ翌年、おおいに党人が誅された。幸いにも劉祐は、誅殺の禍いをうけず。
、、つづきます。