表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝57・党錮列伝を抄訳

劉淑、李膺、杜密、劉祐

吉川版で、党錮伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。


桓帝に尊重され、竇武との交通をそしられた劉淑

劉淑字仲承,河間樂成人也。祖父稱,司隸校尉。淑少學明《五經》,遂隱居,立精舍講授,諸生常數百人。州郡禮請,五府連辟,並不就。永興二年,司徒種暠舉淑賢良方正,辭以疾。恒帝聞淑高名,切責州郡,使輿病詣京師。淑不得已而赴洛陽,對策為天下第一,拜議郎。又陳時政得失,災異之占,事皆效驗。再遷尚書,納忠建議,多所補益。又再遷侍中、虎賁中郎將。上疏以為宜罷宦官,辭甚切直,帝雖不能用,亦不罪焉。以淑宗室之賢,特加敬異,每有疑事,常密諮問之。靈帝即位,宦官譖淑與竇武等通謀,下獄自殺。

劉淑は、あざなを仲承。河間の樂成の人だ。祖父の劉稱は、司隸校尉。劉淑は『五經』にくわしい。隠居して私塾をひらき、数百人をあつめる。州郡、五府に辟されたが、就かず。永興二年(154)、司徒の种暠が、賢良方正にあげる。桓帝は、病気という劉淑を、輿にのせて京師にはこぶ。議郎となる。
尚書、侍中、虎賁中郎將。「宦官をやめよ」と言った。桓帝は用いない。だが劉淑は、罰せられない。宗室の賢者だから、とくに敬われた。霊帝が即位した。竇武らと通謀するとそしられ、下獄された。自殺した。

「三君」のひとり。党人の評価と、桓帝からの評価が一致する。かんたんな二元論で、派閥を割り切れないから、おもしろい。わかりにくいが。


陳蕃が用い、張倹に連座した李膺

李膺字元禮,潁川襄城人也。祖父脩,安帝時為太尉。父益,趙國相。膺性簡亢,無所交接,唯以同郡荀淑、陳■為師友。
初舉孝廉,為司徒胡廣所辟,舉高第,再遷青州刺史。守令畏威明,多望風棄官。複征,再遷漁陽太守。尋轉蜀郡太守,以母老乞不之官。轉護烏桓校尉。鮮卑數犯塞,膺常蒙矢石,每破走之,虜甚憚懾。以公事免官,還居綸氏,教授常千人。南陽樊陵求為門徒,膺謝不受。陵後以阿附宦官,致位太尉,為節志者所羞。荀爽嘗就謁膺,因為其禦,既還,喜曰:「今日乃得禦李君矣。」其見慕如此。

李膺は、あざなを元禮という。潁川の襄城の人だ。祖父の李脩は、安帝のとき太尉だ。父の李益は、趙國相。李膺は、同郡の荀淑、陳寔を師友とした。
孝廉にあがり、司徒の胡廣に辟された。高第、青州刺史、漁陽太守、蜀郡太守。母が置いたので、蜀郡にゆかない。護烏桓校尉となる。戦闘した。鮮卑に憚られた。公事により免官。南陽の樊陵は、李膺の門徒になりたい。のちに樊陵は、宦官にへつらい、司徒となる。恥とされた。荀爽は、かつて李膺の御者となり、喜んだ。「今日、私・荀爽は、李膺の御者になれた」と。このように李膺は慕われた。

永壽二年,鮮卑寇雲中,桓帝聞膺能,乃複征為度遼將軍。先是,羌虜及疏勒、龜茲數出攻抄張掖、酒泉、雲中諸郡,百姓屢被其害。自膺到邊,皆望風懼服,先所掠男女,悉送還塞下。自是之後,聲振遠域。
延熹二年征,再遷河南尹。時宛陵大姓羊元群罷北海郡,臧罪狼籍,郡舍B364軒有奇巧,乃載之以歸。膺表欲按其罪,元群行賂宦豎,膺反坐輸作左校。

永壽二年(156)、鮮卑が雲中を寇した。桓帝は、李膺を度遼將軍とする。遠域まで、李膺の威服はとどく。 延熹二年(159)、河南尹。宛陵の大姓・羊元群は、北海太守をやめた。賄賂と狼藉で、財産がたっぷり。李膺は取り締まった。宦官により、ぎゃくに李膺が輸作左校された。

宦官を取り締まりたい人は、みな司隷校尉や河南尹になりますね。


初,膺與廷尉馮緄、大司農劉祐等共同心志,糾罰奸幸,緄、祐時亦得罪輸作。司隸校尉應奉上疏理膺等曰:
昔秦人觀寶于楚,昭奚恤蒞以群賢;梁惠王瑋其照乘之珠,齊威王答以四臣。夫忠賢武將,國之心膂。竊見左校B12D刑徒前廷尉馮緄、大司農劉祐、河南尹李膺等,執法不撓,誅舉邪臣,肆之以法,眾庶稱宜。昔季孫行父親逆君命,逐出莒僕,於舜之功二十之一。今膺等投身強禦,畢力致罪,陛下既不聽察,而猥受譖訴,遂令忠臣同愆元惡。自春迄冬,不蒙降恕,遐邇觀聽,為之歎息。夫立政之要,記功忘失,是以武帝舍安國於徒中,宣帝征張敞於亡命。緄前討蠻荊,均吉甫之功。祐數臨督司,有不吐菇之節。膺著威幽、並,遺愛度遼。今三垂蠢動,王旅未振。《易》稱「雷雨作解,君子以赦過宥罪」。乞原膺等,以備不虞。 書奏,乃悉免其刑。

はじめ李膺と、廷尉の馮緄(列伝28)、大司農の劉祐らは、宦官を罰した。輸作させられた。司隷校尉の応奉(列伝38)は、李膺らを弁護した。応奉のおかげで、李膺らは、刑を免じられた。

馮緄と、応奉の列伝を読んでおきたい。


再遷,複拜司隸校尉。時,張讓弟朔為野王令,貧殘無道,至乃殺孕婦,聞膺厲威嚴,懼罪逃還京師,因匿兄讓弟舍,藏於合柱中。膺知其狀,率將吏卒破柱取朔,付洛陽獄。受辭畢,即殺之。讓訴冤於帝,詔膺八殿,禦親臨軒,詰以不先請便加誅辟之意。膺對曰:「昔晉文公執衛成公歸於京師,《春秋》是焉。《禮》雲公族有罪,雖曰宥之,有司執憲不從。昔仲尼為魯司寇,七日而誅少正卯。今臣到官已積一旬,私懼以稽留為愆,不意獲速疾之罪。誠自知釁責,死不旋踵,特乞留五日,克殄元惡,退就鼎鑊,始生之意也。」帝無複言,顧謂讓曰:「此汝弟之罪,司隸何愆?」乃遣出之。自此諸黃門常侍皆鞠躬屏氣,休沐不敢複出宮省。帝怪問其故,並叩頭泣曰:「畏李校尉。」

李膺は、司隷校尉となる。張譲の弟・張朔を、柱をやぶって殺した。宦官は、休暇も外出しない。桓帝が宦官に、理由を聞いた。「司隷校尉の李膺を畏れます」と。

是時,朝廷日亂,綱紀穨阤,膺獨持風裁,以聲名自高。士有被其容接者,名為登龍門。及遭黨事,當考實膺等。案經三府,太尉陳蕃卻之。曰:「今所考案,皆海內人譽,憂國忠公之臣。此等猶將十世宥也,豈有罪名不章而致收掠者乎?」不肯平署。帝愈怒,遂下膺等於黃門北寺獄。膺等頗引宦官子弟,宦官多懼,請帝以天時宜赦,於是大赦天下。膺免歸鄉里,居陽城山中,天下士大夫皆高尚其道,而污穢朝廷。

朝廷はゆるむが、李膺だけ名声がある。李膺と会うことを「登竜門」とする。党錮のとき、太尉の陳蕃は言った。 「海内の名士を、取り締まってるな」と。桓帝は怒り、李膺を黄門北寺獄にいれた。李膺は、宦官の子弟を取り締まったから、懼れられた。大赦があり、郷里に帰る。山中にいる。

及陳蕃免太尉,朝野屬意于膺,荀爽恐其名高致禍,欲令屈節以全亂世,為書貽曰:「久廢過庭,不聞善誘,陟岵瞻望,惟日為歲。知以直道不容于時,悅山樂水,家于陽城。道近路夷,當即聘問,天狀嬰疾,闕於所仰。頃聞上帝震怒,貶黜鼎臣,人鬼同謀,以為天子當貞觀二五,利見大人,不謂夷之初旦,明而未融,虹蜺揚輝,棄和取同。方今天地氣閉,大人休否,智者見險,投以遠害。雖匱人望,內合私願。想甚欣然,不為恨也。願怡神無事,偃息衡門,任其飛沈,與時抑揚。」頃之,帝崩。陳蕃為太傅,與大將軍竇武共秉朝政,連謀誅諸宦官,故引用天下名士,乃以膺為長樂少府。及陳、竇之敗,膺等複廢。

陳蕃が太尉を免じられると、朝野の意思は、李膺に属した。

陳蕃が太尉をやめたのは、166年7月。周景に代わる。

荀爽は、李膺を心配した。「桓帝は、人材を見る目がない。李膺は名声がたかい。気をつけろ」と。このころ’167年末)、桓帝が死んだ。陳蕃は太傅となる。竇武とともに朝政をにぎる。李膺は、長楽少府となる。陳蕃が敗れると、李膺は廃された。

後張儉事起,收捕鉤黨,鄉人謂膺曰:「可去矣」。對曰:「事不辭難,罪不逃刑,臣之節也。吾年已六十,死生有命,去將安之?」乃詣詔獄。考死,妻子徙邊,門生、故吏及其父兄,並被禁錮。
時,侍御史蜀郡景毅子顧為膺門徒,而未有錄牒,故不及於譴。毅乃慨然曰:「本謂膺賢,遣子師之,豈可以漏奪名籍,苟安而已!」遂自表免歸,時人義之。

のちに張倹の事件により、党人が捕われた。郷人は李膺に言う。「にげろ」と。李膺は言った。「罪があれば、刑を逃れない。私は60歳だ。生死は、天命だ。にげない」と。李膺は獄死した。故吏や父兄は、禁固された。

にげれば、よかったのに。陳蕃の敗死168年と、いま李膺の獄死で、第二次・党錮の禁。張倹の事件とは、なんだっけ。覚えてたら、リンクを貼り足そう。

」後張儉事起,收捕鉤黨,鄉人謂膺曰:「可去矣」。對曰:「事不辭難,罪不逃刑,臣之節也。吾年已六十,死生有命,去將安之?」乃詣ときに侍御史する蜀郡の景毅は、子を景顧という。景顧は、ブラックリストにのらないので、禁固されない。景顧は言った。「私も李膺に師事した。禁固してくれ」と。みずから免官した。

膺子瓚,位至東平相。初,曹操微時,瓚異其才,將沒,謂子宣等曰:「時將亂矣,天下英雄無過曹操。張孟卓與吾善,袁本初汝外親,雖爾勿依,必歸曹氏。」諸子從之,並免於亂世。

李膺の子は、李瓚だ。東平相となる。曹操が無名のとき、李瓚は曹操の才能をみとめた。死にぎわ、李瓚は言った。「天下の英雄は、曹操がいちばん。張邈は私と仲がよく、袁紹は私の外親(母方の親戚)だ。しかし曹操をたよれ」と。

李膺と袁紹って、どういう血縁だっけ?李瓚と、袁氏が婚姻してた?

李瓚の子らは、曹操をたより、乱世をまぬがれた。

李固と杜密に匹敵する、李膺の同志・杜密

杜密字周甫,潁川陽城人也。為人沈質,少有厲俗志。為司徒胡廣所辟,稍遷代郡太守。征,三遷太山太守、北海相。其宦官子弟為令長有奸惡者,輒捕案之。行春到高密縣,見鄭玄為鄉佐,知其異器,即召署郡職,遂遣就學。

杜密は、あざなを周甫。潁川の陽城の人だ。司徒の胡廣に辟され、代郡太守となる。泰山太守、北海相。宦官の子弟のうち、県令、県長する人を取り締まった。高密縣で、鄭玄と会った。鄭玄を北海国でもちいた。

後密去官還家,每謁守令,多所陳托。同郡劉勝,亦自蜀郡告歸鄉里,閉門埽軌,無所幹及。太守王昱謂密曰:「劉季陵清高士,公卿多舉之者。」密知昱激己,對曰:「劉勝位為大夫,見禮上賓,而知善不薦,聞惡無言,隱情惜己,自同寒蟬,此罪人也。今志義力行之賢而密達之,違道失節之士而密糾之,使明府賞刑得中,令問休揚,不亦萬分之一乎?」昱慚服,待之彌厚。

のちに去官、帰家した。同郡の劉勝も、蜀郡から郷里にもどる。潁川太守の王昱は、杜密に言った。「劉勝は、公卿から挙げられている」と。杜密は、王昱が自分を励まし、焦らせにきたと知った。うまく言い返した。王昱は、杜密の返答に感心した。

後桓帝征拜尚書令,遷河南尹,轉太僕。黨事既起,免歸本郡,與李膺俱坐,而名行相次,故時人亦稱「李杜」焉。後太傅陳蕃輔政,複為太僕。明年,會黨事被征,自殺。

桓帝にめされ、尚書令、河南尹、太僕となる。党錮のとき、本郡にもどる。李膺に連座した。ときに人は「李膺と杜密は、李固と杜喬の再来だ」と言った。のちに陳蕃が輔政すると、太僕となる。翌年、党錮にて自殺した。

宦官の子弟を罰し、党錮の前年に死去・劉祐

劉祐字伯祖,中山安國人也。安國後別屬博陵。祐初察孝廉,補尚書侍郎,閑練故事,文劄強辨,每有奏議,應對無滯,為僚類所歸。
除任城令,兗州舉為尤異,遷揚州刺史。是時會稽太守梁旻,大將軍冀之從弟也。祐舉奏其罪,旻坐征。複遷祐河東太守。時屬縣令長率多中官子弟,百姓患之。祐到,黜其權強,平理冤結,政為三河表。

劉祐は、あざなを伯祖。中山の安國の人だ。安國は、のちに博陵に属す。劉祐は、孝廉、尚書侍郎。故事にくわしく、同僚にたよられた。
任城令となる。兗州から、尤異に挙げられる。揚州刺史。ときに會稽太守の梁旻は、梁冀の従弟だ。梁旻の罪を奏した。
河東太守となる。県令、県長は、宦官の子弟だ。宦官の子弟をしりぞけた。劉祐の政治は、三河(河東、河内、河南)の標準となる。

再遷,延熹四年,拜尚書令,又出為河南尹,轉司隸校尉。時權貴子弟罷州郡還入京師者,每至界首,輒改易輿服,隱匿財寶。威行朝廷。拜宗正,三轉大司農。時中常侍蘇康、管霸用事於內,遂固天下良田美業,山林湖澤,民庶窮困,州郡累氣。祐移書所在,依科品沒入之。桓帝大怒,論祐輸左校。

延熹四年(161)、尚書令となる。河南尹、司隸校尉。權貴の子弟は、劉祐が管轄する京師に入るとき、服装をあらため、財産をかくした。宗正、大司農。ときに中常侍の蘇康、管霸は、良田や山林から収入をとる。劉祐は、蘇康、管霸から財産を没収した。桓帝は大怒し、劉瑜を輸左校とした。

後得赦出,複曆三卿,輒以疾辭,乞骸骨歸田裏。詔拜中散大夫,遂杜門絕跡。每三公缺,朝廷皆屬意於祐,以譖毀不用。延篤貽之書曰:「昔太伯三讓,人無德而稱焉。延陵高揖,華夏仰風。吾子懷蘧氏之可卷,休甯子之如愚,微妙玄通,沖而不盈,蔑三光之明,未暇以天下為事,何其劭與!」
靈帝初,陳蕃輔政,以祐為河南尹。及蕃敗,祐黜歸,卒於家。明年,大誅黨人,幸不及禍。

赦され、三卿を歴任した。病気で、面会を断つ。三公に欠員するたび、朝廷は劉祐を三公にしたい。讒言があり、劉祐は三公とならず。延篤(列伝54)は、劉祐に文書をおくる。「高位に登らないことが、美徳である」と。
霊帝のはじめ、陳蕃が輔政した。劉祐を、河南尹とする。陳蕃が敗れると、劉祐は家で死んだ。劉祐が死んだ翌年、おおいに党人が誅された。幸いにも劉祐は、誅殺の禍いをうけず。
、、つづきます。