魏朗、夏馥、宗慈、巴肅、范滂、尹勲、蔡衍、羊陟
吉川版で、党錮伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
兄の仇敵を切り殺し、竇武を追って自殺した魏朗
魏朗は、あざなを少英。會稽の上虞の人だ。縣吏となる。兄が郷人に殺されたので、仇討して陳国ににげた。博士のゲキ仲信に、『春秋圖緯』をまなぶ。太学で『五經』をまなぶ。京師にいる長者・李膺らが、争って魏朗にしたがう。
朗性矜嚴,閉門整法度,家人不見墯容。後竇武等誅,朗以黨被急征,行至牛渚,自殺。著書數篇,號《魏子》雲。
司徒府に辟された。彭城令。ときに宦官の子弟は、國相となる。魏朗は、子弟を取り締まる。たまたま九真の賊が起った。魏朗は九真都尉となり、平定した。議郎となる。尚書となる。
河内太守となる。尚書令の陳蕃は、魏朗が公忠亮直だから、機密をあずからせたい。尚書となる。党錮がおきると、免じられて帰家した。
魏朗は法度にきびしく、家人はだらけない。のちに竇武が誅された。魏朗は党人だから、すぐに召された。牛渚で、自殺した。『魏子』を書いた。
炭を焼いて変装し、山中ににげた夏馥
馥雖不交時宦,然以聲名為中官所憚,遂與范滂、張儉等俱被誣陷,詔下州郡,捕為黨魁。
夏馥は、あざなを子治。陳留の圉の人だ。同縣にいる高氏、蔡氏は、富商だ。夏馥だけは、富商と交通せず。ゆえに豪姓から、にくまれた。桓帝の初め、直言にあがる。就かず。
夏馥は、宦官に交わらない。名声があり、宦官に憚られた。范滂、張儉らとともに、陥れられた。州郡を動かし、党人のリーダーとして捕われた。
張倹が亡命した。張倹がにげた場所は、すべて罰せられた。夏馥は言った。「1人がにげて、1万家に迷惑をかけてはいけない」と。変装して、山中にひそむ。弟の夏静に、ばったり会った。夏馥は、すぐに弟と別れた。党錮が解ける前に、夏馥は死んだ。
権豪の太守をきらい、去官して死ぬ宗慈
宗慈は、あざなを孝初。南陽の安眾の人だ。孝廉にあがり、9たび三公府に辟された。有道の科目でめされた。就かず。のちに脩武の県令となる。太守は、權豪の出自だ。賄賂をとる。宗慈は、去官した。議郎となる。就く前に、道中で死んだ。南陽の郡士は、みな宗慈の義行を重んじた。
陳蕃に連座し、曹節に殺された巴肅
巴肅は、あざなを恭祖という。勃海の高城の人だ。孝廉にあがり、慎令、貝丘長となる。太守が悪人なので、辞去した。公府に辟された。議郎となる。竇武と陳蕃は、宦官に殺された。巴肅も、党錮に連座した。
中常侍の曹節は、のちに巴肅が、陳蕃に参加したことを聞いて、とらえた。曹節は、巴肅を護送する。道中、県令は巴肅を見て、印綬を解いた。巴肅は言った。「謀略があれば、隠さない。罪があれば、刑を逃れない。すでに謀略は、バレた。刑を逃れられない」と。巴肅は殺された。刺史の賈琮は、碑文を立てた。
同郡の袁忠とともに、ムチ打たれた范滂
遷光祿勳主事。時,陳蕃為光祿勳,滂執公儀詣蕃,蕃不止之,滂懷恨,投版棄官而去。郭林宗聞而讓蕃曰:「若范孟博者,豈宜以公禮格之?今成其去就之名,得無自取不優之議也?」蕃乃謝焉。
范滂は、あざなを孟博。汝南の征羌の人だ。孝廉,光祿四行(敦厚、質朴、謙譲、節倹)にあげらる。ときに冀州は飢えた。范滂は馬車にのり、賄賂する県令、県長を解任した。
光祿勳の主事(属官、事務長)となる。ときに光禄勲は、陳蕃だ。范滂が正式なあいさつをしたが、陳蕃は応じず。范滂は、辞職した。郭泰は陳蕃に言った。「陳蕃は、范滂を軽んじるな。部下を優遇しないと、言われてしまう」陳蕃は、范滂にあやまった。
太尉の黄瓊に辟された。刺史、太守のうち、権豪な20余人を摘発した。尚書は范滂をとがめた。「私情をまじえて、摘発したのでないか」と。范滂は、立派に言い返した。范滂は、思うとおり職務できない。みずから劾める文書をつくり、辞職した。
汝南太守の宗資は、范滂の名声を聞いて、功曹にした。政治をゆだねた。
范滂の外甥は、西平の李頌だ。三公の子孫である。中常侍の唐衡は、宗資に口利きした。「李頌を用いてくれ」と。范滂がブロックした。汝南の人は、みな范滂を怨んだ。范滂に用いられた人を「范党」と呼んだ。
のちに、黄門北寺獄につながれた。病の人に代わり、范滂がムチを受けた。同郡の袁忠とともに、楚毒(苦痛)を受けた。桓帝は、中常侍の王甫に、范滂を取り調べさせた。王甫は、范滂の言い分に感じ、カセを解いた。
初,滂等系獄,尚書霍諝理之。及得免,到京師,往候諝而不為謝。或有讓滂者。對曰:「昔叔向嬰罪,祁奚救之,未聞羊舌有謝恩之辭,祁老有自伐之色。」竟無所言。
范滂がゆるされたあと、汝南、南陽の士大夫は、数千の車で迎えた。おなじく捕われた同郷の殷陶、黃穆が、近づいてきた。范滂はことわった。「君たちと交際したら、また捕まる」と。故郷に逃げかえった。
尚書の霍諝は、范滂を弁護した。范滂は、霍諝に礼を言わなかった。
建寧二年(169)、おおいに党人を誅した。督郵の吳導は、泣いた。范滂は「私を捕らえるのだ」と悟った。范滂は、県令と家族に気をついかい、死んだ。33歳だった。
2人の三公の家、竇武とともに獄死した尹勲
尹勳は、あざなを伯元という。河南の鞏の人だ。伯父の尹睦は司徒。兄の尹頌は太尉。孝廉、邯鄲令。
『後漢書』列伝47・劉陶、李雲、劉瑜、謝弼伝を抄訳
高第。尚書令となる。桓帝は梁冀を誅し、尹勲を都郷侯とする。汝南太守。尹勲は上書して、范滂、袁忠らを釈放した。將作大匠、大司農。竇武に連座して、下獄され自殺した。
南陽太守の成瑨を、劉瑜とともに弁護した、蔡衍
舉孝廉,稍遷冀州刺史。中堂侍具瑗托其弟恭舉茂才,衍不受,乃收齎書者案之。又劾奏河間相曹鼎臧罪千萬。鼎者,中堂侍騰之弟也。騰使大將軍梁冀為書請之,衍不答,鼎竟坐輸作左校。乃征衍拜議郎、符節令。梁冀聞衍賢,請欲相見,衍辭疾不往,冀恨之。時南陽太守成瑨等以收糾宦官考廷尉,衍與議郎劉瑜表救之,言甚切厲,坐免官還家,杜門不出。靈帝即位,複拜議郎,會病卒。
蔡衍は、あざなを孟喜。汝南の項の人だ。郷里を教化し、裁きに文句なし。
孝廉、冀州刺史。中堂侍の具瑗の弟を、茂才にあげない。河間相の曹鼎が賄賂するのを弾劾した。曹鼎は、中常侍の曹騰の弟だ。曹騰は、梁冀にせっつく。蔡衍は、左校に輸作した。議郎、符節令。梁冀に会いたいと言われたが、ゆかず。恨まれた。
ときに南陽太守の成瑨らは、宦官を捕らえたので、逆襲されて廷尉にわたされた。蔡衍は、議郎の劉瑜とともに、成瑨を弁護した。きつく言うので、免官された。霊帝が即位し、議郎となる。病没した。
太尉した李固の故吏・泰山の羊陟
羊陟は、あざなを嗣祖。太山の梁父の人だ。家は、世よ冠族だ。
羊陟は孝廉にあがり、太尉の李固に辟された。高第、侍御史。李固が誅された。李固の故吏だから、数年、禁固された。また高第。冀州刺史、虎賁中郎將、城門校尉,尚書令。ときに太尉の張顥、司徒の樊陵、大鴻臚の郭防、太僕の曹陵、大司農の馮方は、宦官の婚姻する。あらわに賄賂する。羊陟は、宦官の姻戚を罷免したいが、できない。さきの太尉の劉寵、司隸校尉の許冰、幽州刺史の楊熙、涼州刺史の劉恭、益州刺史の龐艾は、清亮である。羊陟は、清亮な人を推薦した。桓帝は嘉した。羊陟は、河南尹となる。粗食した。党錮により、家で死んだ。
次回、最終回。つづきます。