01) 卓茂、魯恭、魯丕
『後漢書』列伝15・卓茂、魯恭、魯丕伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
卓茂:前漢末期、儒教する密令として教化する
卓茂は、あざなを子康。南陽の宛人。父祖は、みな郡守。卓茂は、元帝のとき長安でまなぶ。博士の江生に、『詩』『禮』と曆算をならう。師法を究極し、通儒といわる。
李賢はいう。江生は、魯人の江翁のこと。昭帝のとき、博士。魯詩の宗家といわれた。『漢書』儒林伝・王式伝にある。
卓茂の性質は、寬仁・恭愛。鄉黨・故舊は、卓茂とならべないが、みた卓茂を、愛慕・欣欣した。
はじめ丞相府の史に辟された。孔光につかえ、孔光は卓茂を長者とする。
渡邉注はいう。孔光は、交趾の14世の子孫。『漢書』孔光伝。哀帝のとき、三公となる。外戚の傅氏、馮氏や董賢とぶつかる。王莽と、政治の立場がちかい。へえ!
ある人が、卓茂の馬を「1ヶ月余前になくした、自分の馬だ」という。卓茂は誤りを知るが、馬をあたえた。卓茂「もし、ご自分の馬でないと知ったら、丞相府に返しにこい」と。卓茂が争いを好まない性質は、このようだ。
卓茂は、儒術によりあげられ、侍郎、給事黃門。密令にうつる。
吏人に慕われた。管轄する享長が、米肉を受けとった。亭長が訴えられた。贈った人は「自発的に贈った」という。卓茂「自発的に亭長に贈ったなら、亭長に贈賄の罪はない」。贈った人は「亭長に脅され、贈らねばいけない空気だったので、贈った」と訴えた。卓茂「きみは敝人(腐ったやつ)だ。亭長が強制したのでなければ、亭長はわるくない。人が禽獣でないのは、仁愛があるからだ。儒教は、交際の作法をきめる。自発的に贈るのは、作法だ」と。
贈った人は「ではなぜ法律は、賄賂を禁じるのか」ときく。卓茂「法律は、国家のこと。作法は、人情のこと。すべてに法律を適用すれば、身のおきどころが、なくなる」と。卓茂の指導は、ゆきとどく。
はじめ卓茂が密県にきたとき、属吏を人事異動させた。「うまくいかぬ」と笑われた。上司の河南郡は、べつに密県に守令をおく。卓茂の政治は、うまくいく。数年で、教化は大行され、道不拾遺。
平帝の時、大蝗が河南の20余県をおそうが、密県は、おそわれず。これを督郵がつげ、河南太守がみずから検分した。
卓茂:王莽をこばみ、70余歳で、光武の太傅になる
このとき王莽は、大司農に六部丞をおく。農桑を勸課させる。卓茂は、京部丞にうつる。密県の老少は、泣いて見送る。王莽が居攝すると、病免されて歸郡する。つねに門下掾祭酒となり、職吏をやらず。
李賢はいう。王莽は、大司農の部丞13人をおく。1人で1州をみる。農業を、督励させた。いま『後漢書』卓茂伝と、『東観漢記』は13部でなく6部とする。ぼくは思う。ともあれ卓茂は、京兆の州レベルで、農業を督励する職務についた。王莽のおかげで、出世した人なんだ。
渡邉注はいう。門下掾祭酒は、官名。門下掾は、郡の属吏。祭酒は『史記集解』応邵注などにある。年長者の敬称。郡の属吏のうち、長老ランクの人物のことか。本文に照らすと、実務をともなわないようだ。
更始がたつと、卓茂を侍中祭酒とする。更始にしたがい、長安にゆく。更始が政亂すると、年老だから辞職したい。
子崇嗣,徙封汎鄉侯,官至大司農。崇卒,子棽嗣。棽卒,子嗣。,子隆嗣。永元十五年,隆卒,無子,國除。
光武が即位したばかり。卓茂に会いにゆく。卓茂は、河陽で謁見した。光武はいう。「さきの密令・卓茂は、名声がある。周武王は、殷紂王をころしたが、かしこい王子・比干の墓をふうじた。殷の賢臣・商容の里をほめた」
光武はいう。「卓茂を太傅、褒德侯とする。幾(脇息)、杖、車馬,衣一襲、まわた5百斤をたまえ」と。卓茂の長子・卓戎を、太中大夫とした。次子・卓崇を中郎とした。給事黃門。建武四年(031)、卓茂は薨じた。棺槨・塚地をたまう。光武は、喪服で葬送した。卓崇が、爵位をつぐ。
李賢はいう。衣一襲について。一重、あわせの着物がそろっているものを、襲という。
卓茂に、5人の同志がいた。同県の孔休、陳留の蔡勳、安眾の劉宣、楚國の龔勝、上党の鮑宣である。
蔡勳は、『後漢書』蔡邕伝下。平帝のとき、郿令。黄老をこのむ。王莽が政権をとると、隴西太守。2姓につかえたくないので、家属をひきいて隠棲した。
劉宣は、ほかに記述なし。
龔勝は、『漢書』龔勝伝。楚国の人。哀帝のとき、光禄大夫。王莽が上卿にむかえたいが、拒絶して餓死した。 鮑宣は、『漢書』鮑宣伝。勃海の人。豫州牧。哀帝の司隷校尉。王莽にやぶれ、自殺した。
王莽につかえず。孔休は、あざなを子泉。哀帝初、新都令。王莽が國師にまねくと、こばむ。光武が即位すると、孔休と蔡勳の子孫をさがし、穀物をおくり、ほめた。
劉宣は、あざなを子高。安眾侯・劉崇の從弟。王莽が簒奪すると、名姓をかえ、經書をかかえて、林藪に隱避した。建武初、光武は劉宣に、安眾侯をつがせた。龔勝の子・龔賜を上谷太守とする。龔勝と鮑宣は『漢書』に列伝あり。蔡勳は、玄孫の『後漢書』蔡邕伝にある。
范曄の論はいう。卓茂は、小邑の県令にすぎず、ほかに能力もなく、70歳余だ。だが光武は、大夫にまねいた。だから光武は、支持をえたのだ。
魯恭:白虎観に出席した、戦国魯の末裔
魯恭は、あざなを仲康。扶風の平陵の人。祖先は、魯の頃公。魯が楚にほろぼされ、下邑にうつる。ゆえに魯姓。世吏二千石。哀帝と平帝のころ、魯からうつる。
魯恭の祖父は、魯匡。王莽のとき、羲和(大司農)となる。權數があり「智囊」といわれる。
渡邉注はいう。六カンの法は、羲和の魯匡が立案して、王莽がつよく支持した、専売制度。従来、国家が、物価・生産を統制していた、塩、鉄、銭、麻、帛にくわえ、酒も専売とした。大商人に、監督させた。結果、地方官吏や商人の利権をふやすだけで、庶民の生活を窮迫させた。王莽がたおれる遠因となる。
影山剛「王莽の酒の専売制と六カン制」1990にある。
魯恭の父は、わからない。建武初、武陵太守となり、卒官した。
魯恭が12歳のとき、弟の魯丕は7歲。昼夜、父の死を號踴(号泣)して、声がたえない。郡中が弔意のプレゼントをするが、うけない。帰郷して、喪に服した。
魯恭が15歳のとき、母と魯丕と、太學で『魯詩』をまなぶ。
閉戶して、講誦した。世間と交際せず。兄弟は、諸儒にたたえられた。學士は、あらそって、魯恭と魯丕の兄弟に、帰服した。
太尉の趙憙は、魯氏の志をしたい、年ごとに子をやり、酒糧をおくる。魯氏は、うけず。魯恭は、魯丕がちいさいので、先に名声がほしくない。郡にめされたが、うけず。
母に強いられ、やむなく魯恭は、新豐で教授した。建初(076-084)初、魯丕は方正にあげられ、魯恭は郡吏となる。太傅の趙憙が、辟した。
方正とは、臨時の察挙である、制挙の名称。日食など、天変地異があると、皇帝は臨時に、中央や地方に命令して、資格にあたる人物を推挙させた。しかるべき官職につけた。福井重雅『漢代官吏登用制度の研究』
章帝は、諸儒を白虎觀にあつめた。魯恭が、とくに儒教にあかるいので、召された。
魯恭の子・魯謙は、隴西太守。魯謙の子は、魯旭。太僕となり、王允とともに董卓をころす。李傕にころされた。
おもしろい話が、この列伝にあった。082年、河南尹の袁安(袁術の祖先)の部下が、中牟県令の魯匡となる。袁安は、魯匡の政治がうまいと聞き、ウソだと思って、調査させた。袁安は、魯匡におそれいって、魯匡のすばらしさを、章帝に報告した。のちに魯粛は、袁術を拒絶するが、やんわり、つながりがあって、おもしろい。
魯恭の孫・魯旭が、王允と共謀する。世代が、意外とちかいな。
魯恭の弟・魯丕:士友と、交際せず
建初元年,肅宗詔舉賢良方正,大司農劉寬舉丕。(中略)五年,年七十五,卒於官。
魯恭の弟は、魯丕だ。あざなは叔陵。性格は、沉深・好學。交際せず。士友がとがめたが、魯丕は無視。『五經』にくわしく、『魯詩』
『尚書』を教授した。
建初元年(076)、章帝は賢良方正にあげさす。大司農の劉寬は、魯丕をあげた。五年(111)、75歳で在官にて卒す。
つぎ、魏霸伝は、明帝のとき孝廉にあがる。つぎ劉寬伝は、父が順帝のとき、司徒となる。光武の関心から、それるので、はぶく。范曄によると「寛」の政治家だった。
卓茂と魯恭は、款款として、誠実だ。情は愨にして(つつしみぶかく)、德は滿ちた。仁により、イナゴを、領内にいれなかった。次巻につづく。