表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝15,16,17,18,19,20を抄訳して、光武をしらべる

01) 卓茂、魯恭、魯丕

『後漢書』列伝15・卓茂、魯恭、魯丕伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

卓茂:前漢末期、儒教する密令として教化する

卓茂字子康,南陽宛人也。父祖皆至郡守。茂,元帝時學于長安,事博士江生,習《詩》、《禮》及曆算。究極師法,稱為通儒。性寬仁恭愛。鄉黨故舊,雖行能與茂不同,而皆愛慕欣欣焉。

卓茂は、あざなを子康。南陽の宛人。父祖は、みな郡守。卓茂は、元帝のとき長安でまなぶ。博士の江生に、『詩』『禮』と曆算をならう。師法を究極し、通儒といわる。

渡邉注はいう。元帝の在位は、前049-前033。おさなくして儒教をこのむ。儒者をもちいる。優柔不断で、王莽を台頭させた。 渡邉注はいう。博士は、太常にぞくす。後漢にある学官は『後漢書』百官志2。
李賢はいう。江生は、魯人の江翁のこと。昭帝のとき、博士。魯詩の宗家といわれた。『漢書』儒林伝・王式伝にある。

卓茂の性質は、寬仁・恭愛。鄉黨・故舊は、卓茂とならべないが、みた卓茂を、愛慕・欣欣した。

初辟丞相府史,事孔光,光稱為長者。時嘗出行,有人認其馬。茂問曰:「子亡馬幾何時?」對曰:「月餘日矣。」茂有馬數年,心知其謬,嘿解與之,挽車而去,顧曰:「若非公馬,幸至丞相府歸我。」他日,馬主別得亡者,乃諸府送馬,叩頭謝之。茂性不好爭如此。

はじめ丞相府の史に辟された。孔光につかえ、孔光は卓茂を長者とする。

渡邉注はいう。史は、丞相府の令史。官秩は不明。『後漢書』百官志1。ぼくは思う。百官志を見たとき、官秩がわからないので、ぼくの読解力がたりないと思ったが。渡邉注でも、わからないのだな。令史として、ズラッと、ならぶだけ。
渡邉注はいう。孔光は、交趾の14世の子孫。『漢書』孔光伝。哀帝のとき、三公となる。外戚の傅氏、馮氏や董賢とぶつかる。王莽と、政治の立場がちかい。へえ!

ある人が、卓茂の馬を「1ヶ月余前になくした、自分の馬だ」という。卓茂は誤りを知るが、馬をあたえた。卓茂「もし、ご自分の馬でないと知ったら、丞相府に返しにこい」と。卓茂が争いを好まない性質は、このようだ。

ぼくは思う。豚とか馬とか、家畜のとりあいは、おおいなあ。貴重な財産なんだ。


後以儒術舉為侍郎,給事黃門,遷密令。勞心諄諄,視人如子,舉善而教,口無惡言,吏人親愛而不忍欺之。人嘗有言部享長受其米肉遺者,茂辟左右問之曰:「亭長為從汝求乎?為汝有事囑之而受乎?將平居自以恩意遺之乎?」人曰:「往遺之耳。」茂曰:「遺之而受,何故言邪?」人曰:「竊聞賢明之君,使人不畏吏,吏不取人。今我畏吏,是以遺之,吏既卒受,故來言耳。」茂曰:「汝為敝人矣。凡人所以貴於禽獸者,以有仁愛,知相敬事也。今鄰里長老尚致饋遺,此乃人道所以相親,況吏與民乎?吏顧不當乘威力強請求耳。凡人之生,群居雜處,故有經紀禮義以相交接。汝濁不欲修之,甯能高飛遠走,不在人間邪?亭長素善吏,歲時遺之,禮也。」人曰:「苟如此,律何故禁之?」茂笑曰:「律設大法,禮順人情。今我以禮教汝,汝必無怨惡;以律治汝,何所措其手足乎?一門之內,小者可論,大者可殺也。且歸念之!」於是人納其訓,吏懷其恩。

卓茂は、儒術によりあげられ、侍郎、給事黃門。密令にうつる。

渡邉注はいう。給事黃門は、給事黄門侍郎。6百石。定員なし。皇帝の左右に侍従して、外朝と内朝を通じさせる。

吏人に慕われた。管轄する享長が、米肉を受けとった。亭長が訴えられた。贈った人は「自発的に贈った」という。卓茂「自発的に亭長に贈ったなら、亭長に贈賄の罪はない」。贈った人は「亭長に脅され、贈らねばいけない空気だったので、贈った」と訴えた。卓茂「きみは敝人(腐ったやつ)だ。亭長が強制したのでなければ、亭長はわるくない。人が禽獣でないのは、仁愛があるからだ。儒教は、交際の作法をきめる。自発的に贈るのは、作法だ」と。
贈った人は「ではなぜ法律は、賄賂を禁じるのか」ときく。卓茂「法律は、国家のこと。作法は、人情のこと。すべてに法律を適用すれば、身のおきどころが、なくなる」と。卓茂の指導は、ゆきとどく。

ぼくは思う。渡邉注に、現代語訳がついているから、語意はわかる。しかし、内容がむずかしい。そういう考え方を、するんだなーと。

はじめ卓茂が密県にきたとき、属吏を人事異動させた。「うまくいかぬ」と笑われた。上司の河南郡は、べつに密県に守令をおく。卓茂の政治は、うまくいく。数年で、教化は大行され、道不拾遺。
平帝の時、大蝗が河南の20余県をおそうが、密県は、おそわれず。これを督郵がつげ、河南太守がみずから検分した。

卓茂:王莽をこばみ、70余歳で、光武の太傅になる

是時,王莽秉政,置大司農六部丞,勸課農桑。遷茂為京部丞,密人老少皆涕泣隨送。及莽居攝,以病免歸郡,常為門下掾祭酒,不肯作職吏。 更始立,以茂為侍中祭酒,從至長安,知更始政亂,以年老乞骸骨歸。

このとき王莽は、大司農に六部丞をおく。農桑を勸課させる。卓茂は、京部丞にうつる。密県の老少は、泣いて見送る。王莽が居攝すると、病免されて歸郡する。つねに門下掾祭酒となり、職吏をやらず。

渡邉注はいう。大司農は、秦官の治粟内史にあたる。前漢の景帝が、大農令、武帝が大司農とする。九卿。財政を総括する。
李賢はいう。王莽は、大司農の部丞13人をおく。1人で1州をみる。農業を、督励させた。いま『後漢書』卓茂伝と、『東観漢記』は13部でなく6部とする。ぼくは思う。ともあれ卓茂は、京兆の州レベルで、農業を督励する職務についた。王莽のおかげで、出世した人なんだ。
渡邉注はいう。門下掾祭酒は、官名。門下掾は、郡の属吏。祭酒は『史記集解』応邵注などにある。年長者の敬称。郡の属吏のうち、長老ランクの人物のことか。本文に照らすと、実務をともなわないようだ。

更始がたつと、卓茂を侍中祭酒とする。更始にしたがい、長安にゆく。更始が政亂すると、年老だから辞職したい。

『続漢書』百官志3はいう。侍中は、定員なし。皇帝の左右にはべり、顧問応対する。もとは僕射(次官)が1人いた。光武のとき、名称をかえて、祭酒とした。


時,光武初即位,先訪求茂,茂詣河陽謁見。乃下詔曰「前密令卓茂,束身自修,執節淳固,誠能為人所不能為。夫名冠天下,當受天下重賞,故武王誅紂,封比干之墓,表商容之閭。今以茂為太傅,封褒德侯,食邑二千戶,賜幾杖、車馬,衣一襲,絮五百斤。」複以茂長子戎為太中大夫,次子崇為中郎,給事黃門。建武四年,薨,賜棺槨塚地,車駕素服親臨送葬。
子崇嗣,徙封汎鄉侯,官至大司農。崇卒,子棽嗣。棽卒,子嗣。,子隆嗣。永元十五年,隆卒,無子,國除。

光武が即位したばかり。卓茂に会いにゆく。卓茂は、河陽で謁見した。光武はいう。「さきの密令・卓茂は、名声がある。周武王は、殷紂王をころしたが、かしこい王子・比干の墓をふうじた。殷の賢臣・商容の里をほめた」

渡邉注はいう。比干は、殷末の王子。紂王をいさめたが、殺された。『史記』殷本紀。商容は、万民から愛されたが、紂王に罷免された。『史記』殷本紀。『韓詩外伝』によると、周武王が商容を、三公にしようとしたが、ことわられた。


光武はいう。「卓茂を太傅、褒德侯とする。幾(脇息)、杖、車馬,衣一襲、まわた5百斤をたまえ」と。卓茂の長子・卓戎を、太中大夫とした。次子・卓崇を中郎とした。給事黃門。建武四年(031)、卓茂は薨じた。棺槨・塚地をたまう。光武は、喪服で葬送した。卓崇が、爵位をつぐ。

『東観漢記』はいう。卓茂は、70余歳だった。
李賢はいう。衣一襲について。一重、あわせの着物がそろっているものを、襲という。


初,茂與同縣孔休、陳留蔡勳、安眾劉宣、楚國龔勝、上党鮑宣六人同志,不仕王莽時,並名重當時。休字子泉,哀帝初,守新都令。後王莽秉權,休去官歸家。及莽篡位,遣使齎玄纁、束帛,請為國師,遂歐血託病,杜門自絕。光武即位,求休、勳子孫,賜穀以旌顯之。劉宣字子高,安眾侯崇之從弟,知王莽當篡,乃變名姓,抱經書隱避林藪。建武初乃出,光武以宣襲封安眾侯。擢龔勝子賜為上谷太守。勝、鮑宣事在《前書》。勳事在玄孫邕傳。

卓茂に、5人の同志がいた。同県の孔休、陳留の蔡勳、安眾の劉宣、楚國の龔勝、上党の鮑宣である。

渡邉注はいう。孔休は、『漢書』王莽伝上。王莽が南陽に下野したとき、南陽太守に命じられて、謁見した。王莽が孔休とまじわりたいが、孔休は、こばんだ。
蔡勳は、『後漢書』蔡邕伝下。平帝のとき、郿令。黄老をこのむ。王莽が政権をとると、隴西太守。2姓につかえたくないので、家属をひきいて隠棲した。
劉宣は、ほかに記述なし。
龔勝は、『漢書』龔勝伝。楚国の人。哀帝のとき、光禄大夫。王莽が上卿にむかえたいが、拒絶して餓死した。 鮑宣は、『漢書』鮑宣伝。勃海の人。豫州牧。哀帝の司隷校尉。王莽にやぶれ、自殺した。

王莽につかえず。孔休は、あざなを子泉。哀帝初、新都令。王莽が國師にまねくと、こばむ。光武が即位すると、孔休と蔡勳の子孫をさがし、穀物をおくり、ほめた。
劉宣は、あざなを子高。安眾侯・劉崇の從弟。王莽が簒奪すると、名姓をかえ、經書をかかえて、林藪に隱避した。建武初、光武は劉宣に、安眾侯をつがせた。龔勝の子・龔賜を上谷太守とする。龔勝と鮑宣は『漢書』に列伝あり。蔡勳は、玄孫の『後漢書』蔡邕伝にある。

ぼくは思う。王莽のせいで、官吏の人材が、断絶するのですね。1つの王朝が断絶をまぬがれ、臣下たちに「1姓につかえる」を可能にすることは、それだけで、プラスの功績のようです。後漢初と、後漢末で、どんなふうに意識が変わるのか、気になるなあ。


論曰:建武之初,雄豪方擾,虓呼者連響,嬰城者相望,斯固倥傯不暇給之日。卓茂斷斷小宰,無它庸能,時已七十餘矣,而首加聘命,優辭重禮,其與周、燕之君表閭立館何異哉?於是蘊憤歸道之賓,越關阻,捐宗族,以排金門者眾矣。夫厚性寬中近於仁,犯而不校鄰於恕,率斯道也,怨悔曷其至乎!

范曄の論はいう。卓茂は、小邑の県令にすぎず、ほかに能力もなく、70歳余だ。だが光武は、大夫にまねいた。だから光武は、支持をえたのだ。

魯恭:白虎観に出席した、戦国魯の末裔

魯恭字仲康,扶風平陵人也。其先出於魯頃公,為楚所滅,遷於下邑,因氏焉。世吏二千石,哀、平間,自魯而徙。祖父匡,王莽時,為羲和,有權數,號曰「智囊」。父某。建武初,為武陵太守,卒官。時恭年十二,弟丕七歲,晝夜號踴不絕聲,郡中賻贈無所受,乃歸服喪,禮過成人,鄉里奇之。十五,與母及丕俱居太學,習《魯詩》,閉戶講誦,絕人間事,兄弟俱為諸儒所稱,學士爭歸之。

魯恭は、あざなを仲康。扶風の平陵の人。祖先は、魯の頃公。魯が楚にほろぼされ、下邑にうつる。ゆえに魯姓。世吏二千石。哀帝と平帝のころ、魯からうつる。

魯恭は、戦国時代の群雄「魯」の末裔。祖先は、徐州に住む。徐州出身の魯粛さんは、戦国「魯」と、どんな関係があるのだろう。前漢の官吏が、三輔あたりに移住するのは、ふつうに、よくあること。「世吏2千石」ではない傍流が、現地にずっと残留することも、ふつうに、よくあるだろう。

魯恭の祖父は、魯匡。王莽のとき、羲和(大司農)となる。權數があり「智囊」といわれる。

渡邉注はいう。魯匡は、王莽の羲和になり、六カンの法をさだめた。それ以外の事跡は、わからない。『漢書』食貨志下にあ、酒の専売と、重要物産の物価統制をとく、魯匡の建言がある。
渡邉注はいう。六カンの法は、羲和の魯匡が立案して、王莽がつよく支持した、専売制度。従来、国家が、物価・生産を統制していた、塩、鉄、銭、麻、帛にくわえ、酒も専売とした。大商人に、監督させた。結果、地方官吏や商人の利権をふやすだけで、庶民の生活を窮迫させた。王莽がたおれる遠因となる。
影山剛「王莽の酒の専売制と六カン制」1990にある。

魯恭の父は、わからない。建武初、武陵太守となり、卒官した。
魯恭が12歳のとき、弟の魯丕は7歲。昼夜、父の死を號踴(号泣)して、声がたえない。郡中が弔意のプレゼントをするが、うけない。帰郷して、喪に服した。
魯恭が15歳のとき、母と魯丕と、太學で『魯詩』をまなぶ。

渡邉注はいう。魯詩は、三家詩の1つ。前漢のとき、魯の申公培がつたえた『詩経』を解釈する一派。『漢書』楚元王伝にある。後漢になると、毛詩がさかえたので、衰えた。西晋に、ほろびた。

閉戶して、講誦した。世間と交際せず。兄弟は、諸儒にたたえられた。學士は、あらそって、魯恭と魯丕の兄弟に、帰服した。

太尉趙憙慕其志,每歲時遣子問以酒糧,皆辭不受。恭憐丕小,欲先就其名,托疾不仕。郡數以禮請,謝不肯應,母強遣之,恭不得已而西,因留新豐教授。建初初,丕舉方正,恭始為郡吏。太傅趙憙聞而辟之。肅宗集諸儒于白虎觀,恭特以經明得召,與其議。

太尉の趙憙は、魯氏の志をしたい、年ごとに子をやり、酒糧をおくる。魯氏は、うけず。魯恭は、魯丕がちいさいので、先に名声がほしくない。郡にめされたが、うけず。

ぼくは思う。趙憙が太尉となるのは、051年だ。光武の天下統一のあとである。

母に強いられ、やむなく魯恭は、新豐で教授した。建初(076-084)初、魯丕は方正にあげられ、魯恭は郡吏となる。太傅の趙憙が、辟した。

渡邉注はいう。太尉は、建武二十七年(051)、大司馬から改称された。
方正とは、臨時の察挙である、制挙の名称。日食など、天変地異があると、皇帝は臨時に、中央や地方に命令して、資格にあたる人物を推挙させた。しかるべき官職につけた。福井重雅『漢代官吏登用制度の研究』

章帝は、諸儒を白虎觀にあつめた。魯恭が、とくに儒教にあかるいので、召された。

渡邉注はいう。白虎観は、北宮にあった宮殿。会議は、『左氏伝』を中心とする古文学が勃興したことに対し、『公羊伝』を中心とする今文学が、古文学の要素をとりこみ、正統教学としての地位を、確認したもの。


(中略) 以兩子為郎。長子謙,為隴西太守,有名績。謙子旭,官至太僕,從獻帝西入關,與司徒王允同謀共誅董卓。及李B23F入長安,旭與允俱遇害。

魯恭の子・魯謙は、隴西太守。魯謙の子は、魯旭。太僕となり、王允とともに董卓をころす。李傕にころされた。

ぼくは思う。魯恭は、光武のときの人でない。はぶく。いまの関心は、光武にあるので。魯恭は、光武のとき子供で、つぎの明帝や章帝のときから、活躍がはじまる。
おもしろい話が、この列伝にあった。082年、河南尹の袁安(袁術の祖先)の部下が、中牟県令の魯匡となる。袁安は、魯匡の政治がうまいと聞き、ウソだと思って、調査させた。袁安は、魯匡におそれいって、魯匡のすばらしさを、章帝に報告した。のちに魯粛は、袁術を拒絶するが、やんわり、つながりがあって、おもしろい。
魯恭の孫・魯旭が、王允と共謀する。世代が、意外とちかいな。


魯恭の弟・魯丕:士友と、交際せず

丕字叔陵,性沉深好學,孳孳不倦,遂杜絕交遊,不答候問之禮。士友常以此短之,而丕欣然自得。遂兼通《五經》,以《魯詩》、《尚書》教授,為當世名儒。後歸郡,為督郵功曹,所事之將,無不師友待之。
建初元年,肅宗詔舉賢良方正,大司農劉寬舉丕。(中略)五年,年七十五,卒於官。

魯恭の弟は、魯丕だ。あざなは叔陵。性格は、沉深・好學。交際せず。士友がとがめたが、魯丕は無視。『五經』にくわしく、『魯詩』  『尚書』を教授した。
建初元年(076)、章帝は賢良方正にあげさす。大司農の劉寬は、魯丕をあげた。五年(111)、75歳で在官にて卒す。

つぎ、魏霸伝は、明帝のとき孝廉にあがる。つぎ劉寬伝は、父が順帝のとき、司徒となる。光武の関心から、それるので、はぶく。范曄によると「寛」の政治家だった。

贊曰:卓、魯款款,情愨德滿。仁感昆蟲,愛及胎卵。寬、霸臨政,亦稱優緩。

卓茂と魯恭は、款款として、誠実だ。情は愨にして(つつしみぶかく)、德は滿ちた。仁により、イナゴを、領内にいれなかった。次巻につづく。