05) 王良、杜林、郭丹
『後漢書』列伝17・宣秉、張湛、王丹、王良、杜林、郭丹伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
王良
建武二年,大司馬吳漢辟,不應。三年,征拜諫議太夫,數有忠言,以禮進止,朝廷敬之。遷沛郡太守。至蘄縣,稱病不之府,官屬皆隨就之,良遂上疾篤,乞骸骨,征拜太中大夫。
王良は、あざなを仲子。東海の蘭陵の人也。『小夏侯尚書』をならう。
渡邉注はいう。夏侯建は、夏侯勝の学問に、歐陽氏の直系・歐陽高の学問をあわせて、『小夏侯尚書』をつくった。『漢書』儒林伝にある。
王莽のとき、つかえず。諸生1餘人に、教授した。
建武二年、大司馬の吳漢が辟した。おうじず。三年、諫議太夫。忠言して、うやまわる。沛郡太守。蘄縣にきて、病で郡府にゆかない。王良は、重篤だから、辞職した。官属は、みな王良につく。太中大夫。
後以病歸,一歲複征,至滎陽,疾篤不任進道,乃過其友人。友人不肯見,曰:「不有忠言奇謀而取大位,何其往來屑屑不憚煩也?」遂拒之。良慚,自後連征,輒稱病。詔以玄纁聘之,遂不應。後光武幸蘭陵,遣使者問良所苦疾,不能言對。詔複其子孫邑中徭役,卒於家。
六年、宣秉にかわり、大司徒司直となる。恭儉で、妻子は官舍に入らず。布被・瓦器。ときに司徒史の鮑恢が、東海にきた。王良の家にきたが、妻がボロいので、本人と気づかず。妻「掾(鮑恢)に運んでもらう文書は、ありません」と。
病歸した。1年後、また徴されて滎陽にくるが、疾篤で進めず。友人の家によるが、会ってくれない。友人「王良は、忠言・奇謀がないのに、大位にいる。セコセコ、わずらわしくないか」と。王良は、はじた。連徴されるが、稱病する。光武は蘭陵にきて、王良をよぶが、あわず。光武は、王良の子孫に、邑中の徭役を免ず。卒於家。
范曄の論にいう。宣秉と王良は、光武の高位につくが、まずしくした。いきすぎた倹約だが、真心を信じられた。なぜか。言葉より前に、信頼があるからだ(子思子)。張湛も「偽善」と言われて、気にしない。王丹は、まことの交友を知るから、交友の敷居をあげた。
光武から見て、清貧&孤立をこのむ人たちは、どう映ったか。楽しくない。官位をあげて、ほんのり遠ざけた。前漢の高官を「敬遠」した。これが光武の態度か。
杜林
杜林は、あざなを伯山。扶風の茂陵の人。父の杜鄴は、成哀のとき、涼州刺史。杜林は、多読した。外祖父の張竦の父子は、文采(著述)をこのむ。杜林は、張竦にまなび「通儒」とよばる。
杜鄴は、祖父の代で、みな太守となる。杜鄴の母は、張敞の女。杜鄴は、張敞の子・張吉にまなぶ。張家の書物をえた。張竦は、張吉の子。
『風俗通儀』はいう。儒とは「区」のこと。古今を区別すること。先人にまなび、時宜にかなう政事をする。これが「通儒」だ。先人にまなぶだけで、行動しないのは「俗儒」だ。
はじめ郡吏。王莽がやぶれると、杜林と弟の杜成、同郡の范逡、孟冀らは、細弱をひきい、河西へゆく。
盗賊に衣服をはがれ、殺されそう。孟冀は「1つ言ってから殺せ。将軍は、天に神があると知るか。将軍は盗賊をやり、赤眉をくりかえすか。天の神を、おそれないか」と。盗賊は、杜林らをにがす。
建武六年,弟成物故,囂乃聽林持喪東歸。既遣而悔,追令刺客楊賢于隴坻遮殺之。賢見林身推鹿車,載致弟喪,乃歎曰:「當今之世,誰能行義?我雖小人,何忍殺義士!」因亡去。
隗囂は、杜林をうやまい、治書とする。杜林はことわる。隗囂は、杜林に就官を強いた。隗囂はいう。「杜林は、天子が臣とできず、諸侯が友とできない(礼記)。伯夷と叔斉とおなじだ」と。杜林は隗囂に拘束されたが、くっさず。
建武六年(030)、弟の杜成が死んだので、隗囂は杜林に、東へ棺をはこばせた。隗囂は悔いて、刺客の楊賢に、隴坻で杜林を殺させたい。刺客は、弟の棺をひく姿をみて「小人の私が、義人の杜林を殺せない」とあきらめた。
河南鄭興、東海衛宏等,皆長於古學。興嘗師事劉歆,林既遇之,欣然言曰:「林得興等固諧矣,使宏得林,且有以益之。」及宏見林,B240然而服。濟南徐巡,始師事宏,後皆更受林學。林前於西州得漆書《古文尚書》一卷,常寶愛之,雖遭難困,握持不離身。出以示宏等曰:「林流離兵亂,常恐斯經將絕。何意東海衛子、濟南徐生複能傳之,是道竟不墜於地也。古文雖不合時務,然願諸生無悔所學。」宏、巡益重之,於是古文遂行。
光武は、杜林が三輔にもどると聞き、徴して侍御史とする。光武は、經書・故舊と、西州のことを聞いた。車馬・衣被をたまう。群寮は、杜林をうやまう。京師の士大夫は、杜林の博識をほめた。
ぼくは思う。馬援の人脈は、公孫述、隗囂につながり、杜林もふくまれる。光武が天下を統一するとき、かなり重要。なんで、限られた人脈が、おおきな影響をもったのか。さぐりたい。出身ないしは移住した土地か。前漢のときの官位か。ほかの何かか。馬援の人脈は、光武すら無視して完結し、たがいに交際をあたためているように見える。
河南の鄭興、東海の衛宏らは、古學に長じる。鄭興は、かつて劉歆に師事した。杜林は鄭興にあうと、よろこび「私は鄭興に会えてうれしい。衛宏が私にあえば、よろこぶ」と。衛宏は杜林にあい、杜林にふくした。
濟南の徐巡は、はじめ衛宏にまなび、のちに杜林にまなぶ。杜林は、西州で漆書した『古文尚書』1巻をえた。遭難してもはなさず。杜林は「東海の衛宏、済南の徐巡も、古文学をやっており、うれしい。時流にあわないが、古文学をやろう」という。古文学をおこした。
後代王良為大司徒司直。林薦同郡范逡、趙秉、申屠剛及隴西牛邯等,皆被擢用,士多歸之。十一年,司直官罷,以林代郭憲為光祿勳。內奉宿衛,外總三署,周密敬慎,選舉稱平。郎有好學者,輒見誘進,朝夕滿堂。
明年、郊祀の制度を議論した。みな「後漢は堯をまつれ」という。杜林は「漢室は堯のおかげで、興ったのでない。前漢とおなじく、堯をまつるな」という。光武は、杜林にしたがう。
のちに王良にかわり、大司徒司直。杜林は、同郡の范逡、趙秉、申屠剛と、隴西の牛邯をおした。擢用された。
牛邯は、『後漢書』隗囂伝。隗囂の将軍。王遵にすすめられ、光武の太中大夫。のち護羌校尉。
十一年(035)、司直のポストをなくす。杜林は、郭憲にかわり光祿勳。郎官のうち好學な人は、杜林の堂にあつまる。
十四年(038)、群臣は上言した。「いま肉刑がかるいので、邪悪がはびこる」と。杜林は上奏した。「人情として、侮辱されれば、節義をそこなう。法律をおもくすれば、人民を侮辱することになる。法の抜け道をさがす。前漢とおなじく、肉刑をかるいままに」と。光武は、したがう。
明年,代丁恭為少府。二十二年,複為光祿勳。頃之,代朱浮為大司空。博雅多通,稱為任職相。明年薨,帝親自臨喪送葬,除子喬為郎。詔曰:「公侯子孫,必複其始,賢者之後,宜宰城邑。其以喬為丹水長。」
のちに皇太子の劉彊は、東海王に身をひく。劉彊は、杜林を東海王の傅とした。
杜林だけは、光武の呼びだしに、慎重にこたえた。
孫権の二宮ノ変を、理解するヒントになるか。後漢の初代・光武帝は、晩年に皇太子をかえた。もとの皇太子にあわせ、高官たちが、自発や連坐などで失職。高官は、前代(前漢や王莽)を知る儒教官僚で、光武帝が持てあました人々。皇太子をかえ、前代からの重臣を整理した点で、孫権の二宮に似てるかも。
列伝を読んでいると、のきなみ、皇太子の交代劇に、まきこまれる。儒教でつっぱている高官だから、皇太子の交換に、わかりやすく反発する。もしや、光武がしかけた、儒教官僚たちへのワナじゃないかろうか。学術論文にあるような「儒教信仰」さもなくば「儒教弾圧」という、大文字の政策でない。もっと個別で具体的な、光武から儒教官僚への攻撃。
明年、丁恭(列伝69・儒林伝)にかわり少府。二十二年、光祿勳。このころ、朱浮にかわり大司空。明年(047)、薨じた。子の杜喬を郎とする。「公爵や侯爵の子は、爵位をつぐ。賢者の子も、城邑をつぐ」として、杜喬を丹水長とした。
范曄の論にいる。力んで自衛すれば、力がぬければ殺される。杜林は、義によって自衛したので、盗賊に殺されなかった。
郭丹
郭丹は、あざなを少卿。南陽の穰県の人。父の郭稚は、成帝の廬江太守。7歳で父をうしなう。母が衣服をうり、田地を買いあたえた。
のちに学師にしたがい、長安にゆく。(薄絹でできた)割符を買い、函谷關に入る。
『東観漢記』はいう。郭丹は、宛県の陳ヨウから、入関の割符を買った。すでに関所をとおると、割符を封じて、別人にあたえた。
郭丹は、慨然として郭丹は歎じた。「(高貴な)使者の車に乗らねば、函谷関をでない」と。長安で、都講(学師の師範代)となる。諸儒にうやまわる。
大司馬の嚴尤に請われたが、つかず。
王莽に徴されたが、書生とともに、北地へにげる。更始二年(024)、三公は郭丹を「賢能」にあげた。諫議大夫。持節して、南陽にかえり、安集・受降した。家をでて12年、使者の高貴な車で、函谷関をでた。志どおり。
更始がやぶれ、諸将は光武から封爵をもらう。郭丹はくだらず、更始に發喪した。衰絰(3年喪)して、盡哀する。建武二年、ボロで間道をゆき、更始の妻子に、節と傳(割符)をかえす。郷里にかえる。
太守の杜詩は功曹にしたいが、郭丹は鄉人の長者を、代わりとする。杜詩は「周文王は、卿士は位をゆずった。いま郭丹が功曹を蹴ったのは、光武の教化が、周文王のように、ゆきとどくからだ」と。郭丹のことを黃堂(郡府)に記させ、方針とした。
十三年(037)、大司馬の吳漢に辟され、高第にあがる。並州牧。使匈奴中郎將(南単于をまもる)。左馮翊。永平三年(060)、李訢にかわり、司徒。侯霸、杜林、張湛、郭伋と、名をならべる。以下略。
つぎ、列伝18。ビッグネーム・桓譚と馮衍。2人で1巻だ。つづく。